審神者協奏曲

刀剣乱舞 fan fiction

八尋やひろの本丸に、見習い審神者の早智さちがやってきた。二人の間には共通点があって……。
音楽で彩る、審神者×審神者のラブストーリー。

目次
登場人物
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第一楽章

 泊まり込み用の大きな荷物を曳いた早智さちは、御殿のような豪勢な日本家屋の前で立ち止まった。早智さちの動作から一拍分遅れて、淡い翡翠色のスカートが揺れた。 「ここだ。合ってるよね、“本丸”……」  今日からここで三週間の研修が始まるのだ。暦の上では春とはいえ、朝の空気はまだまだ冷たかった。  立派な正門の脇の呼び鈴を横目で見やる。早智さちはしばらく躊躇った後、意を決してそこに指を伸ばした。すると、どこからか「あのー、見習いさん」と声がした。一旦手を止め、屋敷の門前を見回して声の主を探す。「こっちですよ、こっち」と聞こえた声の元を辿って足元に視線を落とすと、いつの間にか小さい狐が前脚をちょこんと揃えて彼女を見上げていた。 「ようこそ、本丸研修へ。わたくし、この本丸配属のこんのすけと申します」 「わ、喋った」  思わず声に出したその時、ちょうど屋敷の正門が音を立てて開いた。門の奥から出て来たのは、臙脂の上着に黒い袴姿の少年だ。 「あれ。お客さん?」 「加州さん、審神者見習いの方ですよ」  早智さちが口を開く前に、人語を喋る狐が少年の方に首を向けて彼女のことを紹介した。彼は目を丸くして、頭の後ろに軽く片手をやった。 「そうだ、今日から研修って言ってたっけ。じゃ、一緒に主のところ行こっか。ついでに本丸案内するよ」  加州と呼ばれた少年に誘導されて、早智さちと狐も屋敷に入った。狐は少年の肩に飛び乗り、短い前脚で一生懸命あちこちを指しながら、加州と一緒に本丸を案内してくれた。 「さて、本丸の主要機能の説明はこれで終わりですね。あとは……」  こんのすけは加州の肩の上で辺りを見回し、屋敷の隅に設えられた幅の狭い階段を示した。その階段の先は薄暗くて見えないけれど、どうやら地下まで続いているようだ。  加州の後をついて、早智さちも階段を一段ずつこわごわ下っていく。すると、その先に現れたのは、分厚い扉の部屋だった。 「ここが防音室ー」  他の本丸にはあんまり無いみたいなんだけどね。そう言いながら加州が扉を開けた途端、中から弦楽器の音が漏れ聞こえてきた。この音は――ヴィオラ? それを認識した時、早智さちは心臓の鼓動が速くなったのを感じた。  白一色の部屋の中には、大きなグランドピアノの他には何もなかった。そのピアノの傍らで、萌黄色のかぎ編みの上着を羽織った青年がヴィオラを弾いている。彼は早智さちたちが部屋に入って来たことにも気付かず、周りの一切の音を遮断してしまったかのように、目の前の楽器と音楽だけに集中していた。  早智さちの意識は、その青年が奏でるヴィオラの音色にたちまち惹き付けられた。これは確か、ブラームスのヴィオラソナタ二番。楽曲の優雅さを引き出しながらも、瑞々しい感性が迸るような表現。聴く者に語りかけるような奏で方。落ち着いた優しい音色はヴィオラならではのものだけれど、早智さちはその中にかすかな引っかかりを感じた。端正な音の中にほんのひとさじ混ざっている、この感情は――“寂しさ”?  早智さちが立ち尽くしたままその青年の演奏に聴き入っているうちに、彼の傍らにいた男性と不意に目が合った。薄紅色の牡丹の花を胸元に飾った刀剣男士だ。  刀剣男士が立ち上がったことで、ヴィオラを弾いていた青年もこちらに気付き、緩やかに弓を下ろして演奏を止めた。その男性と目が合ったので、早智さちは目礼をして、まずはさっきまでの演奏への拍手を送った。  ふたりが部屋の出入口の方に近付いてくるのを見計らって、こんのすけが加州の肩の上から早智さちのことを紹介した。審神者見習いという単語を聞くと、青年は「ああ、そうだった」とでも言いたげに目を丸くした。 「初めまして、八尋やひろです。よろしく」  彼は丁寧な手つきで楽器を脇に置いた後、早智さちに向かってお辞儀をした。色素の薄い肌、癖のない髪、柔和な面差し。そして、刀剣男士とは違う気配。彼がこの本丸の審神者だということが早智さちにはすぐに分かった。 「国本くにもと早智さちです」  宜しくお願いします、と頭を下げると、八尋やひろと並んでいる刀剣男士が「早智さち、か。良い名だね」と声をかけてくれた。次に、「早智さちさん? じゃあ、さっちゃんかな」と加州が口を挟んだ。早智さちはほとんど反射的に「友達にもそう呼ばれてます」と頷いた。 「八尋やひろさんは、そのまま八尋やひろさんでいいよね」 「うん。本名と審神者名を兼ねてて……。って、このくらいは言っても良いんだっけ」  八尋やひろがこんのすけの方を見たので、早智さちは何の事だろうと首を傾げた。こんのすけは「そうですね、その程度の情報開示は構わないでしょう」と答えた後に、改まってコホンと軽い咳払いをした。 「良いですか、お二方。見習い審神者様は、研修先認定を受けた全国の本丸の中から無作為に選定された本丸に派遣されます。審神者研修制度において、研修期間終了後の個人的な接触は基本的に禁止されています。研修期間中の個人情報の詮索や、連絡先の交換などもです。本丸同士の不要な軋轢を生まぬように講じられている措置ですので、どうかご理解を」  早智さちはなるほど、と相槌を打った。そして、自分が歴史修正主義者との戦の指揮官でもある“審神者”養成の訓練を受けに来たことを小一時間ぶりに思い出し、慌てて背筋を伸ばした。  挨拶の後は、八尋やひろと蜂須賀虎徹という刀が早智さちを見習い審神者用の居室まで案内してくれた。道中、早智さちが驚いたのは、廊下で出会った刀剣男士たちが代わる代わる八尋やひろに話しかけていくことだった。 「おーい、主ー。こっちのは、全部三番倉庫でいいのか?」 「玉鋼だけ三番で、あとの資材はそんなに量が無いから一番倉庫だね。えーっと、小判箱はいつものところで……そのお札の束だけ、一旦俺が預かっておくよ」 「主しゃん、先月の家計簿の収支が出たばい。大体良好やけど、特に木炭が多くて、冷却水だけ他に比べてちょっと減って来とるね」 「了解、ありがとう。遠征の行き先、木炭が拾えるところが多かったからなぁ。今月は長篠城か京都か、安土城辺りにしようかな」 「八尋やひろさん、特上の刀装だけあっちに置いておきますね!」 「そんなにたくさん出来たんだ。さすが堀川だね」  なるほど、審神者というのは想像よりもせわしない仕事のようだ。早智さちが目を回しそうになったところで、ちょうど八尋やひろが立ち止まって、きちんと整理された空き部屋を示した。  夕方にまた呼びにくるからゆっくりしておいて、と言い残して執務室の方に帰っていく八尋やひろの後ろ姿を見送りながら、早智さちは何度も瞬きをした。  夕飯に呼ばれて大広間に足を運ぶと、既に多くの刀剣男士が席についていた。審神者見習いの歓迎会をしてくれるようだ。四国辺りの方言が特徴的な刀剣男士が音頭をとり、めいめい掲げた杯同士が触れ合う音が響いた。  しばらくすると、八尋やひろが「何か弾こうかな」と呟いておもむろに立ち上がった。 「お、いいにゃあ。わしも聴きたいぜよ」  乾杯の音頭をとった陸奥守という刀剣男士が杯を掲げて相槌を打った。八尋やひろは指を唇の下に充て、何の曲を弾こうか考えているようだったが、ふと広間の隅の荷物に目を留めてそれを指差した。 「国本くにもとさん、あのケースって、もしかしてヴァイオリンの?」  早智さちは葡萄ジュースに口をつけるのをやめて「そうなんです」と頷いた。持てる量の荷物なら持参して良いとのことだったので、これだけは、と思って御守り代わりに持って来てしまった。衣料が入った一番大きな荷物は先に部屋に置いて来たけれど、他の荷物は後で片付けるつもりで隅の方にまとめてあったのだ。 「え、ちょっと、一緒に弾こう。二重奏の楽譜あるから持ってくるよ」  八尋やひろの目はたちまち輝き、先ほどまでのゆったりとした所作が嘘のように機敏に立ち上がった。  八尋やひろが倉庫から引っ張り出して来たという楽譜は、ヴァイオリンとヴィオラの二重奏だった。ドイツの作曲家・ホフマイスターの作品だ。軽い練習時間を経て、ふたりは目を合わせて合図する。ひとつ息を吸い込み、早智さちのヴァイオリンから演奏が始まった。  第一楽章、レガート。冒頭はヴァイオリンの華やかな旋律。それをヴィオラの落ち着いた音色が追いかける。やがて二つの旋律は高音と低音に分かれたまま調和に至り、互いの弦楽器の弓が同じタイミングで跳ねた。ヴィブラートのかけ方も、強弱の付け方の癖もほぼ同じ。いや、八尋やひろ早智さちの弾き方に合わせてくれているのだと早智さちは直感した。ともかく、とても初めての合奏とは思えないほど二人の息は合っていた。  演奏前に話し合った通り、楽曲の展開が一つの終止を迎える地点で二人は演奏に区切りをつけ、八尋やひろが「こんな感じかな」と緩やかに弓を下げた。演奏を聴いていた刀剣男士たちからの万雷の拍手のなか、八尋やひろ早智さちは互いに目を合わせて微笑んだ。  その後、早智さちはしばらく音楽や楽器について八尋やひろと話し込んだ。昼間に防音室で出会った歌仙兼定という刀剣男士が、柔和な笑みで興味深げに話を聞いている。やがて、八尋やひろ早智さちがそれぞれ他の刀剣男士の輪に誘われたのを潮に、早智さちは一旦席を立って縁側に出た。  広間の外で夜風に吹かれていると、風に乗ってまたヴィオラの音色が聞こえてきた。誰かが八尋やひろに演奏をリクエストしたらしい。その音を楽しみながら縁側を歩いていると、回廊の突き当たりに小さな梯子があることにふと気付いた。本丸案内の時には、特段入ってはいけない部屋があると言われた記憶は無いけれど、ここは上って良いところだろうか……。早智さちが躊躇していると、梯子の先に誰かの装束の房飾りが見えた。この先に誰かいる? 早智さちは先客がいるという安心感と未知の場所に対する好奇心を半分ずつ持って、梯子にそっと足を掛けた。  一段一段おそるおそる上っていくと、その先は屋根裏部屋のような小部屋になっていた。先客が早智さちに気付き、薄闇の中で光る目を早智さちに向けた。早智さちはその刀剣男士に覚えがあった。宴会が始まってすぐ、席を立って広間から出て行くのを見ていたのだ。  相手が何も言わないので、早智さちは何を言おうか迷って、とりあえず挨拶することにした。 「ええと……こんばんは。今日からお世話になります」  それから、この屋根裏部屋の居心地が思いのほか良いように見えたので、「ここ、よく来るんですか」と続けた。じっと早智さちを観察していたその刀剣男士はふと視線を外し、一言だけ答えた。 「……ここだと、あいつの音がよく聞こえるからな」  この本丸に今日初めて来た早智さちにも、「あいつ」というのが誰のことなのかはすぐに分かった。その言葉を発する瞬間だけ、無愛想なその刀剣男士の口の端にわずかに笑みが乗ったのを早智さちは見逃さなかった。  早智さちは彼の答えに満足して、「お邪魔しました」と早々に梯子を下りることにした。審神者のことも刀剣男士のこともまだよく分かっていないけれど、大事なことが何か一つ分かったような、そんな気がした。早智さちはかすかに聞こえてくるヴィオラの音に合わせてヴァイオリンのパートを口遊み、回廊から見える明るい月を眺めながら広間に戻った。

第二楽章

 翌日からは、さっそく審神者業の研修が始まった。一度目の出陣では、八尋やひろの隣で説明を受けながら覚え書きをした。二度目は反対に八尋やひろ早智さちの隣で補佐に付き、戦闘指揮の主導権は早智さちに渡された。早智さちは慣れない指揮に右往左往しながらも、何とか部隊を敵の本陣まで導いた。部隊長の加州清光は、帰還してから「上々だったよ」と早智さちを褒めてくれた。この時、早智さちは戦意が高揚した刀剣男士の周りに桜の花が舞うことを初めて知った。  早智さち八尋やひろの二人は、夕餉の前に審神者業の振り返りをした後に、自然と一緒に楽器の練習をするようになっていた。今日の演目は、有名な映画音楽のアレンジバージョンだ。演奏を終えてヴィオラを一旦ケースの中に置いた八尋やひろは、猫のように満足そうな伸びをした。 「あー、楽しかった。国本くにもとさん、上手いね。二重奏しやすい」 「そんなことないですよ、八尋やひろさんが音色を合わせてくれてるからです」  早智さちが首を振ると、八尋やひろは松脂を塗りながら「でも、演奏歴は多分国本くにもとさんの方が長いんじゃない?」と応えた。何故なのか尋ねてみると、八尋やひろは演奏者だけではなく、学生指揮者も務めていたからだそうだ。 「何歳から習ってたの、ヴァイオリン」 「四歳くらいから、兄と一緒に始めたんです。それで……」  言いかけた早智さちは、ちょっと考えて口許に手をやった。 「……ええと、すみません、なんでもないです。そうだ、そろそろご飯の準備の時間ですよね。私、手伝ってきます」  ヴァイオリンケースの蓋を閉めて矢庭に立ち上がり、八尋やひろに一礼してから厨へ向かう。早足で廊下を歩いている途中、八尋やひろの視線が追いかけてくるのを背中に感じた。  その二日後。早智さちは庭先の時空転移装置の前で行きつ戻りつして第一部隊の帰還を待っていた。  昨日は八尋やひろが外出するとのことだったので、初めて早智さちが一人で指揮にあたった。緊張で指が震えたが、結果としては、練度の高い刀剣男士ばかりが編成されていたお蔭で、昨日の任務は如才なく遂行された。  そして、問題は今日だ。今日も八尋やひろは審神者会議のために本丸を空けており、早智さちだけで戦闘指揮を執っていた。それで……。 「ごめん、遅くなった。何かあったんだって?」  早智さちは顔を上げた。八尋やひろが外套を脱ぎながら正門から駆け寄ってくるところだった。 「それが……」  敵の本陣を撃破したところまでは問題なかった。ところが、本丸への帰陣中に深い森の中で敵の残党に襲われ、六振りの部隊は二手に引き離されてしまった。審神者のモニターでは、部隊長の蜂須賀虎徹の方に残った三振りの状況しか知ることができない。そして、残りの仲間とやっと落ち合えた時には、部隊に配属されていた蛍丸の姿だけが消えていた。 「厚くんと堀川くんが捜索に行ってくれて、蛍丸くん、無事に見つかりました。戦績データでも、軽傷以外の異常は無いそうです。でも……」  視線を彷徨わせて言い淀んだ早智さちに代わって、彼女と一緒に戦況をモニターしていた山姥切国広が後を引き取った。 「鏡の中に見えた様子からの推測だが……蛍丸が深手を負っているように見えた。血が」  そこまで言った時、ちょうどゲートが開く音がして、まばゆい光の中から第一部隊の六振りが現れた。モニターで見えた通り、蛍丸の装束のほとんど全面が赤黒い血に塗れている。見たところ、普通に歩けてはいるようだけれど……。早智さちが彼に駆け寄って「大丈夫? なんともない?」と訊くと、蛍丸は自分の装束を指差し、これはほぼ返り血だと説明した。 「返り血?」 「皆とはぐれちゃった後、偶然出くわした検非違使を斬ったから。なんか、身体が勝手に動いちゃって」  蛍丸の話によると、森を抜けて開けた通りに出たところで、戦線崩壊寸前の刀剣男士たちを見つけたそうだ。どうやら別の本丸の部隊が、予想外に練度の高い検非違使を引き寄せてしまったらしい。とある刀剣男士に向かって検非違使が得物を振り上げたところで蛍丸が助けに入ったものの、蛍丸がその刀剣男士に一言かけると、強制帰還の命令が発動したのか、別本丸の部隊はその時代から消えてしまった。  そう説明を終えた蛍丸は、二人と一振りで手入れ部屋に向かう途中でしょんぼりと俯いた。 「ごめん。他所の部隊に干渉したりして」 「…………」  八尋やひろは答えない。何かを考えているような顔で、ただじっと蛍丸を見つめていた。そして、突然立ち止まったかと思うと、その場で少しかがんで、蛍丸の頭に手を置いた。 「蛍。もしかして、君が助けた他の本丸の刀剣男士って……お祭りが大好きで元気な短刀だったりする?」  蛍丸が真ん丸な目を更にまるくして八尋やひろを見上げた。 「こっちこそ、待たせてごめん。さっきの鍛刀で仲間が増えたよ。蛍がしっかり手入れを終えたら、顔合わせの挨拶をしよう」  早智さち八尋やひろと一緒に蛍丸の満面の笑みを見届けて、手入れ部屋の襖を開けた。  もう一つの手入れ部屋は、傷が一番深かった打刀の二振りが使うことになった。早智さちはやや慣れない手つきで、陸奥守の傷口近くに打粉をはたいていく。 「……こんな感じで大丈夫?」 「バッチリじゃ。手入れ、助かったぜよ」  陸奥守は頷いて、早智さちに向かって親指を立てた。早智さちは彼に笑い返そうとしたが、うまくできなかった。俯いてしまった早智さちの顔を陸奥守が覗き込んだ。 「落ち込んでるがか? なんちゃあない、八尋やひろと出陣する時もしょっちゅう怪我するきに」  早智さちはほっとして「ありがとう」と息をついた。 「情けないです。頭が真っ白になってしまって」  あの時は、予定外の事態に直面して指示が出てこなくなった早智さちの動揺を察してか、部隊長の蜂須賀虎徹が「大丈夫、きっとすぐに見つかるよ」と声を掛け続けてくれたのだった。 「何か理由があるのかな」  手入れを終えて装束を着なおした蜂須賀が、首を傾げて早智さちに訊いた。早智さちは「そういえば、どうしてだろう」と考え込む。 「子どもの頃からそうなんです。ちゃんとしなきゃって思えば思うほど、身動きがとれなくなってしまう」  蜂須賀はそこまで聞くと、穏やかな声で「ああ」と相槌を打った。 「その気持ちは分からなくもないな。俺も、もし虎徹の名に傷をつけるようなことが起こったら、と想像しただけでぞっとするからね」  具体的に何を想像したのか、彼は一瞬だけあからさまに表情を険しくした。そして、次の瞬間にはまるでそれが嘘だったかのように柔和で涼しい表情に戻り、(今のは見間違いかな)と目をしばたたいている早智さちに笑いかけた。 「そういうことについては、俺たちの主と話をしてみると良いかもしれないね。きっと、審神者として親身に相談に乗ってくれる人だよ」  翌日の夕方、早智さちは地下の防音室にやってきた。あとはこの部屋を箒で掃けば屋敷の掃除はおしまいだ。誰もいないと思っていたけれど、扉を開けると八尋やひろがいた。ヴィオラを傍らに置いてピアノ椅子に座り、楽譜に何か書き込んでいる。八尋やひろ早智さちに気付くと、「そっか、内番の掃除当番? お疲れ様」と言って、ヴィオラケースや椅子を端に避けてくれた。  早智さちは箒を動かしながら、ただの雑談の風を装ってそれとなく尋ねてみた。 「……八尋やひろさんは、どうして審神者になったんですか?」  八尋やひろは何もない中空を見つめ、「うーん」と考えてから話し始めた。 「俺の場合は、審神者招集通知が届いたのがきっかけだったかな。それで、説明を受けに行ったは良いけど、どんなものかいまいち掴めなかったから、審神者になるって即答はできなかった。  それで、ある日、ヴィオラの手入れをしててふと気付いたんだ。楽器と刀っていう違いはあれど、丹精込めて手入れをしながらモノを長く使うっていう意味では同じなんじゃないかって。楽器を大切にしつつ一緒に生きていくようなものかなと思ったら、不思議と決心がついた」  八尋やひろは愛の籠もった目でヴィオラを見た。それから、顎に手を宛がって思い返すように言った。 「でも、いざ審神者になってみたら、事前の予想とはちょっと違ったかな。刀剣男士の本体は刀だからモノではあるんだけど、一方的に管理する対象ってわけじゃなくて“仲間”なんだなと思った。学生オケを指揮した時の感覚を思い出したよ」  早智さちがどういうことだろうという目をして八尋やひろを見ると、八尋やひろは人差し指を立てて説明し始めた。 「審神者が全体に目を配る指揮官……“指揮者”で、刀剣男士ひとりひとりが、力を合わせて一つの楽曲を奏でる演奏者。そう考えると、国本くにもとさんは、そうだな……協奏曲の客演ソリストみたいな感じかな」  そう言う八尋やひろに、早智さちは「ソリストだなんて」と恐縮して首を振った。 「だけど、楽器を大切にする感覚に近いっていうのは、私にも分かる気がします。例えば、歴史のあるストラディヴァリウスのヴァイオリンに付喪神が宿ったりとか、そういうこともあるのかも、って」 「それ、分かる。絶対顕現できそうだよね?」  八尋やひろが子どもみたいに目を輝かせたところで、「失礼します」という声とともに一期一振が防音室に入って来た。 「主、もうじき夕餉ですので、きりがつきましたら食堂へ」  それを聞いた途端、八尋やひろのお腹の方から小動物の鳴き声のような高い音がかすかに聞こえた。早智さちと一期は、示し合わせたように同時に吹き出した。 「八尋やひろさん、何か、可愛い動物とかお腹に飼ってます……?」 「もしや、また食事をお忘れに? 私たちの主は、音楽に集中すると寝食を蔑ろにしがちで困りますな」  苦笑する一期に、八尋やひろは譜面台を片付けながら「ごめん、ごめん」と眉を下げていた。

第三楽章

 研修が始まって十日あまりが経った。八尋やひろは多岐にわたる審神者の仕事内容を何日もに分けて早智さちに教えてくれている。八尋やひろは男士たちに対してそうするように、早智さちのことも覚えが早いとよく褒めてくれた。一日の任務が終わると、二人はたびたび二重奏を楽しんだ。彼らが演奏を始めると、男士たちもそれを聴こうと、どこからともなく広間に集まるようになっていた。八尋やひろと音を合わせることも、彼らと一緒にこの本丸で暮らすことも、既に自分にとっての“日常”になり始めていることを早智さちは感じていた。  今日は刀解の研修だ。何でも、余った刀を溶かして資材にするのだと聞いた。屋敷の離れにある炉の前で八尋やひろの隣に並んだ早智さちは、八尋やひろの説明通りに大きな黒い穴の上で刀を捧げ持ち、刀を握る力をできるだけ時間をかけて緩めた。淡い紫の散らし塗りの鞘に海松茶色の紐を結んだその刀は、早智さちの手から離れるなり、切っ先側から滑るように闇へ呑まれていった。刀が炉の底に落ちた音は聞こえなかった。 「うん、そんな感じ。そこの下から資材が出てくるから、炉に近付きすぎないようにね」  八尋やひろは炉の足元のところに取り付けられている小さな木製の扉を指で示してそう説明した。早智さちはそれに返事をしながら、横目でそっと彼の様子を窺ってみた。もちろん、普段と比べて何も変わったところはない。だけど、何だか……。 「…………」  無言で見つめすぎたためか、八尋やひろ早智さちの視線に気付いて「どうしたの」と目を丸くした。早智さちは一歩後じさりして逡巡したが、「気のせいだったらごめんなさい」と前置きをしてから訊いてみることにした。 「えっと、八尋やひろさん、今日は少しだけ元気がないような気がして」  すると、八尋やひろは虚を衝かれたように資材整理の手を止め、それから「そう見えた?」と照れ笑いした。 「実は、この作業だけはちょっと苦手かもしれない」 「この作業……刀解が?」  八尋やひろはいつも通りの柔らかい声で、そう、と相槌を打つ。 「もちろん、このままこの刀を保管してても倉庫を圧迫するだけだし、資材が増えた方が助かるし、政府から指定されてる日課にも含まれてるし、何も後ろめたいことなんてないんだろうけど。付喪神として生まれることもできなかった物体を燃やしてるって考えたらさ」  そう言って炉の中を見つめる八尋やひろの横顔を見た時、早智さちは既視感に気付いた。眼差しじゃなくて、彼の音からこんな雰囲気を感じ取ったことがあった気がする。確か……そうだ、初めて彼のヴィオラの音を聴いた時だ。あの時も、あたたかい音の中に憂いと寂しさが少しだけ混じっているような気がしたのだ。  その正体が何なのか知りたくなったが、迷った挙句に早智さちは結局口を噤んだ。背後の中庭の方に風が吹き抜け、常緑樹の葉が一斉にさざめいた。  次の日、審神者業の後の自由時間。早智さち八尋やひろはそれぞれの楽器を片手に、畳敷きの広間へ集まった。 「さあ、今日は何を弾こうか。ヴァイオリンとヴィオラの二重奏の譜面、他にあったかなぁ」  八尋やひろはそう言って、今まで合奏した譜面が収められているファイルをぱらぱらと捲った。その一言で、早智さちは仕舞い込んだままだった楽譜の存在を今更思い出し、鞄の中を探し始めた。 「そういえば、私も少しだけ楽譜持ってます。ええと、ロビーコンサート用のアンサンブル譜がこの辺りに入ってるはず……」 「いいね。それ、ちょっとやってみよう」  早智さちが楽譜を譜面台に置いた時、開け放していた縁側の方から風が吹いてきて譜面台を揺らした。八尋やひろが咄嗟に楽譜の端を押さえてくれた。その時、二人の肩がぶつかりそうなくらいに距離が近くなったので、早智さちは思わず身を固くした。新緑のような香りが一瞬だけ鼻を掠めた。この香り、シャンプーだろうか。柔軟剤? そう早智さちが考えているうちに、八尋やひろが思い出したように「審神者業務、どうかな。慣れてきた?」と早智さちに話を振った。 「はい、最初よりは慣れてきて、毎日楽しいです。……なんだか、初めて私自身のことを見てもらっている感じがして」  早智さちは思い切ってそう一言付け足してみた。予想通り、八尋やひろ早智さちにどういうことだろうと目で問いかけた。 「……えっと、私の親、私に何か声をかける時はいつも兄の話とセットだったんです。たまたま私が何かうまく出来たら『このくらい出来て当然』、出来なければ『お兄ちゃんは出来たのにあなたは何故出来ないの』って」  ああ、だから私は、何でもソツなくこなさないと怒られると思い込むようになったのか――。早智さちは口を動かしながら、どこか他人事のように頭の片隅で冷静に考えた。隣で黙って話を聞いていた八尋やひろが、「きょうだいがいるのも大変、か」と独り言のように呟くのが聞こえた。 「でも、ヴァイオリンを弾いている時だけは、そういう色んなことを忘れることができたんです。祖父の形見のこの子が、いつも私の傍にいてくれた。一番の友達のようなものかもしれません」  早智さちは自分のヴァイオリンを示して言った。八尋やひろは「それなら、この審神者研修を終えたら、そのヴァイオリンの付喪神も顕現できるようになるかも」と微笑んだ。 「楽器が一番の友達っていう話、分かるよ。俺もそうだった。落ち込んだ時や考えを整理したい時は、何時間も学校の防音室に籠もって弾いてたりしたな」  落ち込んだ時? と早智さちは繰り返した。昨日の刀解任務の時の八尋やひろの横顔が思い出された。 「うん。……刀が融けて鉄へ還っていくのを見てると、時々思い出すんだ。親と一回だけ喧嘩した時のこと。普段は優しい人なんだけど、あの時だけは感情の無い冷たい声で、『あなたのお姉ちゃんは、もっと可愛気があったに違いないのに』って」  早智さちは短く息を呑んだ。八尋やひろはあくまで穏やかに話し続けた。 「つまり……俺の前に一人、生まれる前に亡くなってしまったんだって。まだ性別も分からない頃だったらしいけど、あの子は女の子だったんだろうって母は思ってるみたい」  八尋やひろの話を聞いているうちに、ヴァイオリンの弓を拭く手はいつの間にか止まっていた。早智さちが顔を上げられずにいると、「あ、ごめん、重い話して」と八尋やひろの慌てた声が降ってきた。早智さちはまだ声は出せなかったけれど、何とか八尋やひろを見上げて首を振った。  中庭で鳥が一声鳴いたので、早智さちはつられて雪見障子の向こうに目を遣った。薄暮れ時の空は、桃色からごく淡い桔梗色へと緩やかに移り変わろうとするところだった。しばらく二人で外を眺めているうちに、厨当番の平野藤四郎が彼らを夕餉に呼びに来てくれた。 * 「研修関係の書類? 早智さちを待って、この紙を渡せば分かる言うことか。了解じゃ」  翌日の昼下がり。陸奥守は八尋やひろから言伝を頼まれ、早智さちを探していた。厨の暖簾をくぐると、早智さちがしゃがみこんでいるのを見つけた。 「お。おったおった。……」  彼女に近付こうとした陸奥守は、厨の入口で一旦足を止めた。よくよく見てみると、彼女は料理の手伝いをしてくれる厨の小人と目線を合わせて楽しそうに談笑していた。 「…………」  陸奥守は早智さちのその姿を見て、思わず笑みを漏らした。  早智さち八尋やひろから頼まれた用事を済ませた後、夕方まで空き部屋を使わせてもらってヴァイオリンの練習をすることにした。すると、その音に誘われたのか、陸奥守がどこからか現れて畳に腰を下ろすと、楽しそうに早智さちの練習を聴いていった。 「い音じゃ。特等席で聞かせてもらったぜよ」  朗らかな声と満面の笑顔に、早智さちも笑みを誘われる。 「しかし、おんし、戦の采配のほうもだいぶ慣れてきたのお。蜂須賀や太鼓鐘らも言うとった。時々、八尋やひろとは違う発想の指示が飛んできて新鮮やと」  早智さちがヴァイオリンを片付けている横で、陸奥守は早智さちにそう話しかけた。早智さちが「ほんとですか」と陸奥守を振り向くと、彼は力強く頷いた。 「おんしはきっといい審神者になる。モノの心が分かる――いや、分かろうとする、いうのは、おんしが思う以上に得難い才じゃ」 「…………」  丸い目をして陸奥守を見つめたまま黙り込んでしまった早智さちに、「どうかしたがか」と陸奥守は首を傾げる。早智さちは慌てて首を振った。 「ううん。褒めてもらえる機会なんてあまり無いから、ちょっと驚いただけです。この本丸の皆は優しいね」  自分で口に出してから、早智さちは現場研修の前の座学の研修のことを思い出した。年嵩の講師が言っていた言葉の意味が、今やっと腑に落ちた気がした。それを陸奥守に説明したら、彼は興味深そうにその研修の内容を早智さちに尋ねた。早智さちは陸奥守を見上げて微笑んだ。 「なんて習ったかっていうとね。刀剣男士は物に寄せられた心が形を持って現れる存在だから、今までの主だけでなく、今代の主の心映えの影響を受けるものだ、って」

第四楽章

 三週間はあっという間に過ぎた。早智さちにとっての最後の出陣指揮が終わり、帰還した刀剣男士たちを八尋やひろと一緒に出迎えた。 「きょうは、おわかれかいですよね。なんだかさみしいです」  今剣が早智さちを見上げて残念そうに言った。厨では、燭台切光忠や歌仙兼定が送別会用の料理を作ってくれている。  夕方の送別会の最中、早智さちは今日だけはなるべく明日からのことを考えないようにして、皆と楽しく談笑するように努めた。やがて宴もたけなわに差し掛かった頃、初日の歓迎会の時と同じように、八尋やひろ早智さちの二重奏を望む声がどこからともなく上がった。二人は少しだけはにかむように笑って目を見合わせ、ヴァイオリンとヴィオラの調律を始めた。  今日の演奏曲は、モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラの為の協奏交響曲」の最終楽章だ。二人は楽器を構え、準備はいい? と目で頷き合う。そして、唇にわずかな微笑みを乗せて、同じ速さで弓を引いた。  この三週間、毎日色々な曲を合奏してきただけあって、八尋やひろ早智さちの息はぴったりだった。このフレーズは思いきり華やかに、ここは力強く、ここはすぐ後のフォルテシモのフレーズがより引き立つようにごく軽く、控えめに。動作と呼吸を感じるだけで、早智さちには八尋やひろが次にどう弾こうとしているかが手に取るように分かった。  やがて音楽は終盤に差し掛かる。クレッシェンドの上昇音形で盛り上がりが頂点に達しようとしていたその瞬間、研修初日に聞いたこんのすけの声が早智さちの頭の片隅にふと蘇った。研修期間終了後に双方が私的に連絡を取り合うことは原則禁止。今日が終われば、この宴が終われば、もうこの本丸で過ごすことも、こうして八尋やひろと合奏することもない。それどころか、八尋やひろと会って言葉を交わす機会さえ、もう一生無いかもしれないのだ。  それを認識してしまった瞬間、早智さちの左手は突然動きを止め、ヴァイオリンの弦を押さえられなくなってしまった。楽譜から大きく外れた音を短く一音出したきり、早智さちの演奏は止まった。八尋やひろも驚いて弓を持つ手を止める。一番近いところで演奏を聴いていた陸奥守と蜂須賀が、互いに顔を見合わせる気配がした。 「国本くにもとさ……」  八尋やひろが一歩分距離を詰め、早智さちに話しかけようとする。早智さちは下を向いて「ごめんなさい」と一言だけ謝ると、ヴァイオリンを脇に置き、大広間から逃げ出した。  屋敷の南側の局に渡ってきた早智さちは、廊下の途中でようやく息を切らせて立ち止まった。――どうしよう。しばらく人目につかないところに一人で居たいけれど、よりによって自室と正反対の方向に来てしまった。自室に向かうには、また大広間の前を通らないといけないし……。当てどなく彷徨っているうちに、早智さちはあることをはたと思い出し、本殿の方へと踵を返した。  廊下の突き当たりの小さな梯子を上がった先の屋根裏部屋は、初日の宴の夜の記憶どおりに、何も変わらないまま只そこに在った。早智さちは軋む床を踏んで屋根裏の奥に入り込み、板張りの段差の上の段に腰を下ろしてみた。灯りを点けないのに辺りは完全な暗闇ではなく、どこからかほんのりと青白い光が差している。その光源を探して上を見上げると、斜めになっている屋根の真ん中辺りに小さな明り取りの天窓が設えられていて、そこから美しい星空が見えた。それを見た時、早智さちには大倶利伽羅がここを秘密基地にしている理由のうちのひとつが分かった気がした。  細く長い溜息をついて、冷えきった指先をもう片方の手で握り、この三週間のことを思い返す。自信を持って采配を振れなかった数日間、励ましてくれた八尋やひろや蜂須賀の声、悩みを吹き飛ばしてくれた陸奥守の明るさ、慣れない指示に嫌な顔ひとつせず応えてくれた皆の眼差し、いちばん近くで聴く彼のヴィオラの音色。  思考がそこに至ったちょうどその時、階段の下から足音が近付いてきて、当の八尋やひろがひょっこり顔を出した。 「いたいた。隣に座ってもいい?」  早智さちは頷いて、座る場所を少し奥側にずらし、八尋やひろが座る分の空間を作った。 「……すみません。せっかく開いてもらった会なのに、途中で飛び出したりして」  語尾が尻すぼみに小さくなった。八尋やひろは気にしてないよ、と応え、それから天窓の方に視線を移して感嘆の声を上げた。 「ここ、久しぶりに来た。こんなに星がよく見えるんだ。自分の本丸なのに初めて知ったかも」 「八尋やひろさん……」  呼びかけると、八尋やひろ早智さちに笑いかけた。 「……改めて、お疲れ様。よく頑張ってたよ。初日を考えると見違えるくらいしっかり指示できるようになった。皆も、この三週間楽しかったって。国本くにもとさんなら問題なく本丸を運営していけそうだね」  八尋やひろは、これからもお互い頑張ろう、と最後に付け足した。 「ありがとうございます。三週間、お世話になりました。私……」  声が揺れて言葉が詰まる。八尋やひろは急かすでもなく、黙って言葉の続きを待ってくれている。屋根裏部屋の薄暗さで、互いの顔がはっきりとは見えないことが今の早智さちには救いだった。  見習い審神者として、先輩審神者にもっとちゃんとお礼を伝えて、別れの挨拶をしないといけない。それは分かっているのに、喉から出てこようとしているのは、ともすれば非難にも聞こえるような言葉だった。 「八尋やひろさんは、どうしてそんなに平気なんですか。明日からは、もう――」  そこまで言いかけて、薄闇のなかで八尋やひろと目が合った途端に我に返った。思わず視線を外し、真っ暗な自分の足元を見ながら呟く。 「……いえ、そりゃ平気ですよね。ごめんなさい、変なことを言って」 「……えーっと」  八尋やひろは数秒のあいだ何か考え込んだかと思うと、急に明後日の方を向き、屋根の上に向かって話しかけた。 「こんのすけ、そこに居る? 居るなら、今だけ何も聞いてないふりしてくれないかな」  天井越しなので幾分くぐもってはいるが、こんのすけが「あぶらげ三枚ですよ」と応じたのが聞こえた。八尋やひろはこんのすけに「はいはい」と返事をしてから、早智さちの方に向き直って小声で話しかけた。 「ちょっと、耳貸して」  首を傾げる早智さちを自分の方に手招きして、八尋やひろは彼女の耳元に顔を寄せる。 「実は――」 *  それからひと月後、西暦二〇一六年の四月。大和国第七地区四〇六号本丸の陸奥守吉行ら三振りの現代遠征が許可された。  今回の遠征の目的は決まっている。三振りは目立たないように茂みの陰にひしめきあい、彼らの主の後ろ姿を固唾を飲んで見守っていた。芝生の片隅の簡易椅子に腰掛けた審神者は、待ち人を探すように定期的に首を周囲に巡らせている。 「こら、加州、押すな、押すなて」 「だーッ、陸奥守こそもうちょっとそこ空けてよ。見えないじゃん」 「逢瀬を盗み見るなんて趣味が悪いよ。感心しないな」  蜂須賀が呆れ顔で溜息をつくと、陸奥守が蜂須賀の脇腹を小突いた。 「とか言うて、おんしもついてきたいうことは、あの二人が気になるがやろ?」 「っていうか、逢瀬って言い方のほうがどーかと思……あ、来た」  加州が声を低めてそう呟いたのと同時に、審神者が誰かに気付いて椅子から立ち上がった。審神者の方に歩いてきた人物は、開口一番こう言った。 「……なんで、最後の最後まで黙ってたんですか? 八尋やひろさん」  白いブラウスに淡い翡翠色のスカートを身に着けた早智さちは、未だ拗ねたように頬を膨らませている。八尋やひろは彼女の様子に思わず吹き出しそうになりながら、顔の前で両手を合わせて弁解した。 「ごめん。そんなに名残惜しいと思ってくれてるとは知らなかった。新年度になったら、オーケストラ部の部室に遊びに行って驚かせようかと思ってたんだ」 「もう、人の悪い……」  早智さちは呆れて溜息をつき、八尋やひろを横目で見遣った。それから、気になっていたことを思い出して「そういえば」と八尋やひろに向き直る。 「どうして分かったんですか。私たちの通ってる大学が同じだって」  私、多分、口を滑らせてはいないと思うけれど。早智さちが顎に拳を宛てて研修中の自分の言動をぶつぶつと思い返していると、八尋やひろは簡潔に一言で答えた。 「楽譜」 「え?」 「大学の楽譜庫から借りてきたって、見せてくれたでしょ。あの楽譜の端っこに、大学名の所有者判が捺してあったのが見えちゃったんだ」  早智さちは口を開いて目を白黒させ、それから何だか気が抜けて小さく吹き出した。 「そういうことで、これからもよろしくね」  二人は握手を交わしてお互い照れたように笑い合い、それから並んで歩き出した。その様子を茂みの陰から見守っていた三振りは、満足そうに目を見合わせた。  大和国の天気は快晴。吐息のように緩やかな春風が吹いて、優しい色の青空に桜の花弁がひとひら舞い上がった。
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