良い日和だ。この空間は外界ほど温度変化が激しくないとはいえ、それでも春になれば木の芽が萌え出し花々が咲き乱れるように出来ている。毎日汲み上げる井戸水の冷たさもだいぶゆるんだようで、そろそろ綿入りの上着も必要でなくなるだろう。そんな季節のとある昼下がり、私は近侍と並んで日当たりの良い縁側に腰掛け、先だっての遠征で破れたりほつれたりした衣服を一着ずつ繕っていた。縁側に連なる広大な庭園からは、毬遊びに興じる短刀たちの笑声が時折さざなみのように届く。その情景の長閑さと、縁側に降り注ぐ陽光のあたたかさに誘われて、私はひとつ小さなあくびをした。私の左隣に座って繕い終えた衣を畳んでいた近侍が、控えめに笑む気配がした。
「もう。笑わないで」
「失礼しました」
彼は繕いものに囲まれてさえ損なわれない上品な所作で口許に手をやりながら、まだ少し笑っていた。
「この陽気ですからな。それに、このところあまりゆっくりとお休みになっていなかったのでは?」
今週は事務仕事が立て込んでいて、睡眠時間を削りがちだったのは確かだった。それだからこそ、普段はすぐに手をつける繕いものを今日までため込んでしまったとも言える。
「大丈夫よ。今週はたまたま事務処理が集中したけど、来週からはもう少し楽になるわ」
私は針と糸を一定の速度で動かしながら答え、ふと気になっていたことを思い出して、顔だけを隣に振り向けた。
「そういえば、この間……」
言いかけた声は、庭園の方からにわかに上がった高い歓声によって掻き消された。何事かと二人してそちらを見やると、短刀のうちの何人かがてんてんと転がる毬を追ってこちらに駆けて来るところだった。誰ぞが毬を蹴るのに力を入れすぎてしまったものであるらしい。毬はちょうど私たちの足元で運動をやめ、私が針仕事を中断して腰を上げるより先に、近侍が立ち上がって毬を拾い上げた。少々遅れて、秋田と厚が私たちのもとに到着した。
「ごめんなさい、強く蹴りすぎてしまいました」
「ありがとな」
厚が一期から放られた毬を受け取り、少年らしく少し照れたように笑った。彼の兄も笑みを深めて、二人の頭を順に撫でた。
「気をつけて遊んでおいで」
くすぐったそうに兄に甘えていた秋田が、ふと目をぱちくりさせて私と近侍を見比べるので、どうしたの、の意を込めて軽く首を傾げると、彼はこんなことを言った。
「さっき、五虎退や厚兄さんとも話していたんです。主君といち兄が並んで座って、僕たちを見守ってくれていて――まるで僕たちみんな、本当の家族みたいだ、って」
「まあ」
私は近侍と目を合わせて笑い合い、それから秋田の柔らかい髪を撫でてやった。
秋田と厚が行ってしまってから、近侍と私は「家族か……」とそれぞれ独りごちた。
家族同然の存在だと思っていることに偽りはなかった。一つ屋根の下で、食事も寝所も共にして生活しているのだ。私たちの間には既に、実の家族に対するのと同等の愛情を持つのに十分な時間が流れていた。
そこまで考えて、私ははたと思考を中断した。秋田は、自分たち短刀と、私と一期一振とを指して家族のようだと言ったではないか。短刀はもちろん子どもたちだとして、そうすると、一期と私が――
私は、熱い蜂蜜酒をひと息に飲み干した時のように、急に体温が上がったような気がして頬を押さえた。当然、秋田は特段そういった意味をもって家族という言葉を使ったのではないはずである。それなのに、独りよがりな解釈をして勝手に心を乱すなんて、勘違いもはなはだしい。仮にも彼らを総べる主人として、一瞬でも舞い上がってしまったことを自戒せねば……
私がそう考えて心持ち背筋を伸ばした瞬間、隣でコホンと咳払いが聞こえた。私は横目で咳払いの主を盗み見た。彼は落ち着かない様子で私から顔を逸らしており、それだけでも平時の冷静かつ柔和な佇まいを鑑みればじゅうぶん珍しい事象であることには違いないが、私はここでさらに驚くべき光景を目撃した。
つまり、彼の耳からうなじにかけて――私の角度から見える全ての部分が、明らかに上気して朱く染まっていたのである。
*
何だかいつもと様子が違う。それは私の方の心持ちのせいなのか、それとも先ほどの反応の通り、少しはそういうものとして意識されているのか、いまいち釈然としないまま、私は万屋へ買い出しに行くことを近侍へ告げた。いつも通りに、お供いたします、との返事が返ってきた。短刀たちは、毬遊びに飽いて屋内で独楽遊びを始めていた。
買い物に付いてくる間、彼は表向き、つつがなく振る舞っているように見えた。私の話へ和やかに相槌を打ち、時に顔を見合わせて笑い合いもする。馬や物売りが傍を通れば、さりげなく主人を歩道側に誘ってくれる。いつもながら、まったく模範的な従者と言わざるをえない振舞いだった。私は昼間の件を頭の隅で気にしつつも、彼があんまり完璧に普段通りを貫こうとするものだから、こちらのほうでも意識しすぎるのはやめようという気持ちになり始めていた。
用事を済ませるには、四半刻もあれば足りた。備蓄分が減っていた冷却水と研石を少々買い足すだけのことだ。たったそれだけとは言えども、明日からまた平日が始まれば、その四半刻を捻出することすら難しくなるだろう。何としても、買い物は今日中に済ませておかねばならなかった。
私たちは買い忘れが無いことを互いに確認し合い、さあ帰路につこうかと歩き出した――まさにその時のことだった。曇天に細い稲光が入り、次いで、ひと呼吸も置かないうちに大粒の雨が降り出した。
「わあ、降ってきた」
出かける前から日が陰って雲が出てきたとは思っていたが、ここまでひどい雨は予想していなかった。私たちは何とか雨から逃れようと、買い物袋を抱えながらしばらく小路を駆け――その間、近侍は私の頭の上に外套をかざして、降りつける雨をいくらか防いでくれた――、やっと軒がついた家屋の下に避難すると、そこで雨宿りを決め込んだ。
心の模様が曇っていると、こういった小さな不運を引き寄せるものだ。私は手拭いで体についた水滴を拭きながら、隣の近侍には聞こえぬ音量で溜息をついた。すると、それをどこから感じ取ったか、近侍はわずかに苦笑して、
「弱りましたな。まさかこれほど降るとは……」
彼の視線につられ、休みなく水を零し続ける薄暗い空を仰いだ。あの厚い雲の向こうに、たっぷり水を湛えた巨大な柄杓があって、それを天女が気まぐれに揺らしているみたいだった。近侍は服の水滴を掃いながら、思いついたように買い物袋の中身を検め、濡れて駄目になっている品がないことが分かると、安心したように息をついた。
その時だった。この狭い往来だというのに、積み荷をがたがた言わせながら、車が私たちのすぐ隣をかなりの速さで通りかかろうとしていた。そのことに気付いた時には、既に避けようもないほど近くに車輪があった。私は反射的に目を瞑ろうとした。
危ない、という声が斜め上から降ってきたのと、強い力で腕を引かれたのはほとんど同時だった。体の平衡を失いかけ、柔らかく抱きとめられる。誰に? 私の腕を引いたその人にだ。私は息をするのを忘れ、長い棒を一本まるごと呑んだように、一切の身体活動を停止させた。
車は私たちのことなど気付かなかったとでも言うように、規則的な車輪の音を崩さないまま通りの向こうに駆けていった。近侍はその方向に一瞬だけ目をやり、それから腕の中に納まった私に向かって話しかけた。
「大丈夫ですか?」
私は問題ないという意味の返事を、半分うわの空で返した。私の体を丸ごとくるんでいる彼の衣の感触と、それを介して伝わってくる体温とが、現状を把握するための脳の働きを鈍らせた。ただ、心臓の打つ音がやけに大きく聞こえることだけをぼんやりと認識していた。
身の安全が確認され、主の体を直接守る必要がなくなっても、彼はしばらく離れようとしなかった。私の体に回された腕に、力が入ったのが分かった。痛いほどの力ではなかったが、その触れ方から伝わってきた少しの逡巡と焦燥とが私を驚かせた。今の車の件は確かに危なかったが、命を落とすおそれのある場面というほどではなかったし、何より、彼をこれほど迷わせ動揺させているものの正体が掴めなかった。
「一期……?」
落ちかかっている髪の間から彼の顔を覗き込む。すると、彼は考え事から覚めたように一度瞬きをして、「失礼しました、何でもありません」と微笑みをつくった。どこか寂しい微笑だった。
私は何か言いかけようとしたが、その前に、往来に視線を移した彼が「おや」と声を上げた。
「通り雨だったようですね」
後頭部に弱い光が当たるのを感じて、私も振り返った。気まぐれな天女が柄杓を揺らすのに飽いたと見えて、幾分薄くなった雲の間から日射しが覗いていた。
*
長いこと傍にいて互いの平素の様子を知り尽くしているというのも、そう良い面ばかりではないものだ。いつもよりわずかに言葉が少ない、目が合う時間が少しばかり短い、そういった些細な違いに、たとえ気付きたくなくても気付いてしまう。
夕餉と入浴を終え、執務室で書類と睨み合う合間に、私はそんなことを考えながら、近侍の横顔を時々盗み見た。今日のような麗らかな休日にはおよそ似つかわしくない、どこか寂しげな、思いつめたような表情が幾度となく頭を過ぎる。彼にあんな表情をさせるものは一体何なのだろう。それほどまでに彼の心を占めているものとは――
物思いの間にも、筆を持つ手だけは休みなく動かして淡々と書類を片付けていく。それでも、今週分未処理の書類棚がようやく空になったのは、終了予定時間を半刻ほど過ぎた頃だった。
「ああ、疲れた……」
口をついて出たつぶやきとともに、私は大きく伸びをして、ついでにそのまま畳に寝転がった。近侍は紙束の向きを揃えながら「お疲れ様でした」と穏やかに言った。さらにその後、誠に彼らしい気遣いをもって「そのまま畳の上でお寝みになりませんように」と付け加えるのを忘れなかった。
私はそれを聞いて、昼間に言いかけたことをふと思い出し、やにわに身を起こした。
「ねえ、一期」
文机を立とうとしている近侍に話しかける。
「はい」
「そういえば、平野から聞いたのよ。この間、あなたが珍しく畳で転寝をしていたこと。それと、その時に短刀たちが可愛いいたずらをしていったこともね」
ああ、と一期は応えて、
「あの時は、目が覚めて頭を動かしたら、花が目の前に落ちてきたものですから驚きました。寝ている間に、こっそり頭飾りを置かれていたとは」
転寝から覚めた時の驚きを思い出したのか、少し眉を下げ、しかし決して本気で困っているわけではないのが見て取れる様子で言った。
「とっても似合ってたって、みんな口々に言ってたわ」
「それほど大勢の方に見られていたとは、お恥ずかしい」
話している間に、文机の周辺に散乱していた書類はみるみる片付き、執務室はようやく本来の姿を取り戻しつつあった。私は、最後の書類を揃えて近侍に手渡しながら話を続けた。
「でもね、最近少し心配だったの。確かに今週は私も慌しかったけど、それよりも、いつも仕事に付き合わせてしまっているあなたの方が寝不足なんじゃないかって。夜はちゃんと眠れてるの?」
一期は、私から書類を受け取ろうと伸ばしかけていた手を途中で止めた。今まで淀みなく流れていた会話が途切れて、糸を切ったような間が差し挟まれる。一期は何か言おうとして、でも小魚の骨のように喉の奥に刺さる何かがあるせいで、それが阻害されているように見えた。
だが、その沈黙も長くは続かなかった。一期はきちんと私の正面を向いて、今日一日で何度見たかわからない、あの寂しい微笑みを湛えた唇で、
「貴女は、お優しいかただ」
そう言って、まっすぐに私を見つめた。
「弟たちをはじめ、私達を真に慈しみ、いたわってくださる。傷を負えば、すぐに丁寧に手入れをしてくださる。――主に大切に扱っていただけること、それが『モノ』である私達にとって、どれほどの幸甚であることか……。
我が主よ、あらためて、日々のお心遣いに深く感謝申し上げます」
彼は座っている私と目線の高さを合わせ、深々と臣下の礼をとった。眠りの浅さを気遣ったはずが、逆に謝辞を述べられてしまった。私は「ううん、こちらこそ」と答え、そっと彼の頭を上げさせた。
一期は重ねて言った。
「お気遣いいただき、ありがたく存じます。近侍としての業務が睡眠に差し支えているわけではありませんから、ご心配には及びません」
彼は微笑みを崩さなかったが、言い終えたあとに両の瞳をわずかに伏せた。そのことが、近ごろ彼の眠りを妨げているものが何なのかを私に知らせたような気がした。だが、それはきっと口にするのも辛い話なのだろうから、彼のほうで話す気になるまで無理には聞き出すまい。その代わりに私は書類を置いて腕を差し伸べ、彼の髪を撫でた。
「そう……。それなら、いいんだけど」
柔らかい髪は、軽く触れたそばから指先を通り抜けていく。彼は大人しく、心なしか嬉しそうな様子で、しばらくされるがままになっていた。そうしているうちに、私は訊きたくてたまらなくなり、努めて何気ない問いかけに聞こえるように尋ねた。
「ねえ、一期。今日は、どうしてあんなに思い詰めた顔をしていたの」
口に出してしまうと、その言葉は実にたやすく周りの空気に同化して溶けていった。問われた彼は、私に気取られていたことが意外だったのか、一瞬はっと息を呑み、視線を私からわずかに逸らした。彼はまた逡巡しているようだった。柱時計の秒針がひとつ、またひとつと時を刻んでいく。その音を黙って六つか七つ聞いた頃、ようやく私に向き直って口を開いた。
「――主。私は、恐れているのです」
「恐れている?」
私は思わず訊き返した。彼の口から聞かれたその単語は、正直に言えば、私の想像の範疇外だった。彼と私の関係を考えれば、その真ん中に恐れなどという感情が横たわっているとは到底思いがたかった。
純粋な疑問から首を少し傾げた私に、一期はゆっくりと説明し始めた。
「私にとって貴女は、この魂にひとの体を与えてくださった主人であり、この戦いの中にあって、第一にお守りするべき大切な御方です。そうあるべきだと心得ております。――そうです。貴女と私はずっと、そういった関係であらねばならなかった。それなのに、私は……」
そこで一度言葉を切った。魚の尾が水中で頼りなくたゆたうように、声と瞳がかすかに揺れていた。
「ずっと、貴女に“知られる”ことを恐れておりました。それが知られてしまえば、私はもう御許に置いていただけないのではないかと、そんなことを考えていたのです」
知られるって、何を、と言いかけて、私は今日一日の彼の様子を思い出した。耳まで朱く染めていた横顔、抱きしめられた腕に力が入ったこと、少し寂しげな眼(まなこ)と微笑み……。それらを思い出すたびに、彼の言いたいことが、心の裡へゆっくりと染みわたって来た。いかに恋事に疎い娘であっても、自覚しないわけにいかなかった。
心拍の数と体温が上がったのを認めて、軽く胸のあたりを押さえる。と、不意に先ほどの言葉に引っかかりを覚えて、私はあわてて彼に向き直った。
「ちょっと、待って。あなた今、私の傍に居られない、って言った? 私がそれを知ったからといって、あなたを自分の元から遠ざけるなんて、まさかそんなことを本気で思っているの」
「は……?」
ああ、だめだこの刀(ひと)。自分がどれだけ愛されているか、さっぱり分かっていない。こちらがどれだけ心配したかも知らないで、今日一日、そんな地球がひっくり返っても起こりえないことを恐れて思い悩んでいたなんて――
「じゃあ、私が皆の練度に合わせてあれほど頻繁に配置換えをするのに、第一部隊の隊長だけをずっと変えないのはなぜだと思うの。あなたと――」
一緒に居たいからに、決まってるじゃない。
意図せず尻すぼみになった最後の言葉を聞き終えるなり、それまで呆けたようにただただ私を見つめていた彼の貌の色は、見る間に赤く染まっていった。驚きと気恥ずかしさと、それと恐らく歓びが綯交ぜになったその表情は、室内の空気を伝ってこちらにまで伝染し、ますます私の頬を熱くさせた。
ややあって、一期は頬が赤いのを手の甲で半分隠しながら、やっと喉奥から押し出したというような声で、
「それは、本当ですか」
と呟いた。私はうん、と言って首を縦に上下させる。すると一期は、それでようやく本当の安堵が得られたとでも言うように目の端を和らげ、肩を少し下げて息を吐いた。そうして、一言ひとことを大切に噛みしめるような発音で言った。
「……幸せに存じます」
少しはにかんだような、木々を芽吹かせるやさしい陽光に似た微笑みには、昏い影はもう感じられなかった。私はそのことに心底ほっとして、同時に、彼の繊細でやわらかな魂のありようを愛おしく思った。この魂を包むのには、やはり今日の曇天のような暗い灰色でなく、幸福を表す光の色がふさわしいと思えた。
件の人は、それまでにも礼儀正しく畳に座っていたのに、何かに気付いたようにわざわざきちんと居ずまいを正し、そして、ひと呼吸置いてから言った。
「触れても、よろしいですか?」
こんな時にでも律儀に主の許可を求める彼の性分が好ましかった。控えめにくすっと笑みをこぼし、ひとつ頷いて許可を与える。彼の手がゆっくりと伸びてきて私の髪を触り、それからまったく優しい動作で頬を撫でた。それが、普段弟たちに接するのとは違う触れかただということが分かった。壊れやすいものを掌で包んでこわごわと扱うような、情愛に満ちたやり方だった。
彼がすぐ近くで私の名を呼び、続けて、花を揺らすそよ風よりもかすかな声で、でも私にだけははっきりと聞こえるようにささやいた。
「お慕い申し上げております――我が君」
さながら、柔らかい羽根で心の真中を撫ぜられているような心地がして、歓びと愛おしさと、そして少しのくすぐったさによって、自分のいっさい全部が包まれてしまった気がした。私は返事の代わりに、彼の首筋に腕を回してそっと抱きついた。彼は一瞬だけ驚いたような様子を見せたが、すぐに笑みを深めて、私の髪から肩、背にかけてを慈しむように撫でてくれた。
私は顔を少し上げて、琥珀を思わせる落ち着いた瞳を見つめた。同じ色の瞳を持つ者は他にもあるが、彼の目は他と少し趣が違って、琥珀というには柔和で穏やかな光を宿している。それに初めて気付いたときには、何だか特別な発見をしたような気持ちがして嬉しかったものだ。その恐ろしいほど澄んだ瞳を覗き込んでいると、自分の姿が少し歪んで映っているのが分かった。
彼はさりげなく私に目蓋を閉じることを促した(どこでそんな所作を覚えたのだろう?)。私には、次に何が起きるのかが解るような気がした。衣が畳に触れる音、近付いてくるのが分かる体温と、夜風が若葉を揺らすのに混じって聞こえる息の音。後にはただ、白詰草に似た微かな香りと、互いの唇がふれあう感触だけが残った。
私たちはどちらからともなく目を開いて、主と従者の間柄ではありえない距離のまま、照れ隠しで微笑み合った。
まだ桜の季節には間があるというのに、薄あけ色の花弁が一片、私の視界の端を通ってさらさらと落ちていった。