遠くの空でカナリアがないた。チョコレート色の石畳を踏んで、彼女は円形の広場に辿り着いた。幼い子どもたちが駆け回って遊ぶ声が聞こえた。広場の中央では、噴水の水が陽を反射して白く輝いていた。
(……いつもながら、これがバーチャル空間だなんて、言われないと絶対分からないなぁ)
このシミュレーターがどのような仕組みで動いているのかは知らないが、風が頬を撫ぜる感触や木々の匂いさえも含めて、全てが極めて本物らしく作られていた。彼女は辺りを見回して、座るのに丁度良い段差を広場の端に見つけ、そこに腰を下ろした。そして頬杖をついて、特に何をするでもなく、長閑な噴水広場の様子を眺めていた。
やがて、草を踏む音がして、金の髪の人間が彼女の傍まで近付いて来た。正確には二〇一七年現在を生きている生身の人間ではないが、彼は人型をしているので、便宜上そう表現することにする。
「おや、マスター。君がここに来るとは珍しいね」
「たまには気分転換にね。そう言うアマデウスは?」
「僕はね、あれさ」
彼女はアマデウスの視線を追い、広場の向こうの方にグランド・ピアノを見つけた途端に全てを諒解した。ピアノがあるならば、天才音楽家たる彼の目的は一つである。
「早速だが、一曲弾こうか。リクエストは?」
アマデウスはそう言って、何曲分かの古びた楽譜を広げて見せた。楽譜のタイトルや指示は全て外国語で綴られており、彼女にはこれらの楽譜の中にどのような音楽が詰まっているのかをうまく想像することができなかった。いかな聖杯と言えど、あらゆる国の言葉を瞬時に理解するまでの能力を与えてはくれないことを彼女は知った。
そのうちに、楽譜に書かれた文字をなぞる彼女の指が一点で停止した。見慣れた文字列が彼女の目を引いた。彼女はその分厚い楽譜を、途中の頁が抜け落ちないように気を付けて手に取った。
夢の中に居るような調べだった。演奏者の白い指は、魔法を編むかのように鍵盤の上を自在に跳躍した。音の波は時に壮麗に、時に静やかに、この午後の噴水広場を空間ごと包み込んだ。何百年も前の世界に生きていた貴族たちは、めいめい手を取り合い、たっぷりとしたドレスの裾をひらめかせ、この美しい旋律に合わせて踊ったのだろうか。
頬杖をついてアマデウスの演奏を聴きながら、彼女はこの数ヵ月間のことについて考えた。つまりは、あの異空間に飲み込まれ、いくつかの重要な物事を経て帰還し、それからこうしてシミュレーターでひと休み出来るほどに事態が落ち着くまでのことについてである。
気分転換と言ったのは嘘ではなかった。彼女は何となく、あの日の出来事を改めて思い返さねばならないような気がしていた。あの日を境に世界には平穏が訪れ、一度は失われたと思った相棒の少女も、新しい生と未来とを手に入れて自分のもとに戻って来た。彼女らは正しく目的を果たし、物語は美しく幕を閉じたはずだった。だが、何かがまだ彼女の喉元に留まっている気がしていた。彼女自身にも、それが何であるのか正しく認識することは出来なかった。それは、夕日に照らされて長く伸びた自分の影を振り返る時の気持ちに少し似ていた。
もしも、自分がこういうふうに動いていたら、あのとき何らかの言葉を掛けていたら、あるいは掛けていなかったら。そういったことを考えるのは止めにしようと彼女は決めていた。人間であれ英霊であれ、自らの過去の行動を後から捻じ曲げることは出来ないからである。――あの時は、突然の告白に驚かなかったと言えば嘘になるが、彼女もマシュ・キリエライトも、彼女の周囲の人々も、あの人の選択を正しく受け入れたし、最終的には納得もした。それだのに、今になってみると、理解と受容と感謝と、あの静かな別れの挨拶の他に、もう一つパズルのピースが足りていない気がしていた。次の瞬間に進もうとする彼女の魂を、今もあの一瞬に取り残させているものが確かに存在しているのだった。
ピアノの音色は、いつの間にか穏やかな調子に変わっていた。楽章が進んだのだ。より牧歌的な旋律が、この電子空間にひと時の安穏をもたらしていた。ピアノに触れる弾き手の指先から、音の粒がやさしく零れ落ちるのが見えるようだった。
そのとき、にわかに強い風が吹いて、背の高い木々の梢を揺らした。髪が顔に掛かるのを抑えようとした彼女は、トキの翼の色をした花弁が風にあおられて大量に空に舞い上がっていくのを見た。――あれは、初夏に咲く花だったかしら。
それを見た瞬間、彼女は唐突に答えに辿り着いた気がした。意外と言えば意外な答えだった。ごく薄く色付いた花片が次々と蒼穹に吸い込まれていくのを眺めながら、彼女は「そうか」と心の中だけで呟いた。
くちびるを開いて肺の中に空気を取り込む。真夜中に赤い弓兵の目を盗み、二人でアイスクリームで乾杯したことを思い出した。所長室で時々交わす他愛もない会話が楽しかったこと。訓練で怪我を負って落ち込んでいた時に、彼らしいやり方で励ましてくれたこと。碌な睡眠を摂らないのでいつも寝不足な彼を、マシュ・キリエライトと一緒に説得して仮眠室に押し込んだこと。そして、レイシフト用の装置に入る時には、いつも熱のこもった誠実な目でわたしたちを送り出してくれたことを。彼は確かに人間という存在を愛しており、滅びの運命から救いたいと思っていたに違いなかった。今の彼女には、そのことが痛いほど分かった。では、翻って自分の方はどうだったか。
(わたしは……多分、「大好き」って伝えたかったんだな)
彼女は、どうしても埋めることができないでいたひとかけらをついに見つけ出した。彼が人間を愛していたのと同じように、彼もまた人に愛されていることを伝えたかった。そう伝えて、嬉しそうに笑う顔を見たかった。それが叶わないことを彼女は残念に思ったが、胸に燻っていた感情が形になっていく新鮮な驚きも同時に感じていた。不思議なことに、それは彼女に認識された途端、胸の中で小さな音を立てて静かに溶け消えていった。
「――さて、おしまいだ。どうだったかな」
彼女が顔を上げると、ピアノを弾き終えたアマデウスが楽譜を脇に抱えて立っていた。
「いや、君の言いたいことは分かるぜ。いついかなる時でも、僕の奏でる音楽が最高じゃない訳はないからね。それにしても、自作以外の曲は久しぶりに弾いたなぁ」
噴水広場にはいつの間にか夕陽が差し込み、そろそろカルデアに戻らねばならない時間になっていた。アマデウスは楽譜を持っていない方の手を彼女に差し出し、彼女はその手を取って立ち上がった。
「今日はマスターに感謝しないといけないな。一人で演奏するのも楽しいが、こういうのはやっぱり観客がいた方が張り合いがあるものさ」
「ううん、わたしの方こそ、ありがとう」
彼女が答えると、アマデウスは少しだけ不思議がって首を傾げた。
「あ、いや、本当にとっても素敵な音楽だったから。それに……」
そう言いかけて、彼女は「やっぱり、何でもない」と首を振った。
「ふうん。ま、いいか。君、何だかさっきまでより良い顔をしているみたいだしね」
アマデウスは彼女の顔を覗き込んで、満足そうに目を細めた。
シミュレーション装置の電源を切る前に、彼女はアマデウスの腕の中の楽譜にもう一度目を落とした。楽譜の上部に、掠れかけた筆記体でドイツ語が綴られている。
アントン・ブルックナー作曲、交響曲第四番。副題は――『ロマンティック』。