リツカはカルデアの無機質な廊下を、なるべく息を殺して音を立てぬように進んでいた。早く、なるべく早く、“あれ”から逃げおおせねばならない。さもなくば、自分自身がたちまち“あれ”に取って代わられてしまうだろう。彼女にはその予感があった。
廊下の両側に配置された扉の中から、鍵が掛かっていなさそうな空き部屋を探す。あいにく、この時間はどの部屋も固く扉を閉ざし、彼女を迎え入れまいと沈黙しているようだった。
(あっ。あの部屋……)
やっと一つ、開錠を示す黄緑色のランプが点いている部屋を見つけた。確か、サーヴァント達がよく談話室として使っている小さな部屋だ。リツカは廊下に他の人影が無いことを手早く確認すると、逸る気持ちのままに勢いよく開扉ボタンを押した。
「おや、マスター。どうしました」
部屋の中にいたのは、ガウェイン卿にトリスタン卿、ランスロット卿、それにベディヴィエール卿。まずガウェイン卿がリツカの姿を見とめ、椅子から立ち上がった。
「あ、丸テーブル囲んでる。さすが“円卓”の騎士だね。……じゃなくて。ごめん、ちょっと匿ってくれないかな」
「リツカ、誰かから追われているのですか?」
「まさかカルデアに敵襲……?」
次いでベディヴィエール、ランスロットが表情を硬くして腰を浮かせる。リツカは慌てて二人を押し留めた。
「違うの、違うんだけど、追われてるのは本当で……」
「どういうことです?」
トリスタンの問いかけに、少し声を小さくして答える。
「つまりね、……かくれんぼしてるの」
「……は??」
四名の誉れ高き騎士達は、そうつぶやいたきり、そのままの姿勢で暫し固まってしまった。
「……なるほど。切り裂きジャックやジャンヌ・リリィらと隠れ遊びをしていて、逃げているうちにこの部屋に辿り着いた、と……」
リツカは、ランスロット卿がやけに神妙な様子で状況をまとめてくれたことに若干恐縮しながら頷いた。もちろん、適当に取り組んでいては興醒めなので本気で逃げているんだけれど、それでも所詮は遊びだ。そんなに眉根を寄せて真面目に考えてもらうようなことではない。
「ですが、この部屋に隠れられそうな場所など……」
トリスタン卿が困った様子で室内を見回した。確かにこの小さな部屋には最低限の物しか置かれておらず、物陰に隠れるのは難しそうだ。唯一の家具である丸テーブルの下も、狭くて到底入れそうにない。
「そうですね……。ああ、では、ここはどうでしょうか?」
ガウェイン卿が何か閃いたという風に、にっこりとリツカに笑いかけ、片手を横に広げた。
「……もしかして、マントの中?」
「ええ。体の小さな淑女お一人くらいであれば、何とか隠し通せるでしょう。それに、誰かがこの部屋を探し当てて訪ねて来た時、何処か目の届かない処に隠れていていただくよりも、近くに居ていただいた方が私も安心というものです。さあ、いかがです?」
「いや、それであれば、私のマントの方が丈が少し長い。マスターの隠れ場所になるのであれば、少しでも安全な方が好ましいだろう」
「お二人とも、お待ちください。居心地の良さであれば、私のマントも引けを取りませんよ。肌触りも良く、マスターを優しく包み込むでしょう……」
「卿らは、何の話をしているのですか。こうしている間にも、誰かがこの部屋を訪ってくるかもしれないのですよ」
ベディヴィエールは牽制しながらも、自らの肩に掛かっているひらひらしたマントを明らかに意識していた。
こうなるとリツカは、彼らを交互に見ながらおろおろと四人を落ち着かせるしかなかった。
「えーっと、じゃあ……」
迷った末に、リツカはすすっと“彼”の傍に移動して、マントの端を摘まんだ。
ガウェイン卿
「……じゃあ、ガウェイン、お願いしても良いかな」
「ええ、喜んで。このガウェイン、この光栄な任務を確りと全うしてご覧に入れましょう」
ガウェイン卿は優雅な動作でリツカをマントの中に招き入れた。まるでそうなるのが当然とでも言わんばかりの、実に自然なやりようだった。彼のマントは、リツカを包んでもまだ少し余るくらい大きかった。そのことに感心していると、ガウェイン卿がそっと彼女の肩を自分の方に引き寄せ、笑い含みに囁いた。
「リツカ、もう少し近寄っていただかないと、すぐに見つかってしまいますよ」
それはそうだ。マントを外から見た時に、人が入っていることが分かってしまう。
「こ、こうかな……」
「ええ。大変結構です」
このひとの笑顔は、間近で見ると一層心臓に悪い。リツカは、こんなに近付いたら心音まで伝わってしまうのではないかと今更ながら心配せずにはいられなかった。
「隠れ遊びなど長らく縁がありませんでしたが、偶には良いものですね……」
ガウェイン卿は軽やかに話を続けていたが、その途中で急に言葉を切り、声を低めて言った。
「……来たようです」
え、とリツカが聞き返すより早く、扉の外から微かに子どものサーヴァントの声が聞こえた。
「トナカイさーん! どこですかー?」
扉の外にまで息遣いが聞こえるはずはないのに、リツカは何となく息を詰めてジャンヌ・リリィが通り過ぎるのを待った。やがて、リツカを探す声はだんだん遠ざかって聞こえなくなった。
「助かった……。ガウェイン、ありがとう」
ようやく息をついて、リツカはガウェインを見上げた。
「作戦成功、ですね」
彼は器用に片目だけを瞑り、悪戯っぽくリツカに微笑みかけるのだった。
ランスロット卿
「ランスロット、がいいな」
リツカがひときわ背の高い彼を見上げると、ランスロットは何故か大きな掌で自らの顔を覆ってぷるぷると震え始めた。
「ラ、ランスロット?」
「……否、マスター、案ずるには及びません。私の心臓には少々刺激が強すぎた、それだけのこと……」
「何が……?」
困惑するリツカを、ランスロットはまだ何かしらのダメージを負いながらも素早くマントの中に招き入れた。リツカの頭上で、軽い咳払いが一つ聞こえる。
「良いですか、マスター、お静かに。隠れ鬼役のサーヴァントらの探索をやり過ごすまでは、そこを動いてはなりませんよ」
ランスロットにそう囁かれ、リツカは同じ音量で「うん」と頷きを返した。リツカの体を包むマントは肌触りが良く、適度にひんやりした触感が心地良かった。彼のマントと大きな腕にすっぽり包まってしまうと、たちまちそこがこの世で一番安全な場所にも思えてくるから不思議だ。そう考えているうちに、扉の外から子どもの声が近付いてきて、次いで室の扉が開く音がした。
「お邪魔します! あの、トナカイさんを探していまして」
「おかあさん、ここに来なかったー?」
ジャックとジャンヌ・リリィが室内を見回している気配がする。
「あーっ、ランスロットさんのマントの中、あやしい! 何か隠してる、よね?」
「な、な、何を……。私は断じて……こ、こら、やめなさい、飛びついてくるのは……!」
ランスロットの必死の抵抗も虚しく、ジャックとジャンヌ・リリィに両側からじゃれつかれた拍子に、彼のマントの裾は大きくめくれた。足元に風が巻き起こるのを感じて、リツカは思わず「あ」と声を上げた。
「おかあさん、みーっけ」
大きな瞳で嬉しそうにこっちを覗き込んでくるジャック・ザ・リッパーと視線が合う。見つかっちゃった、と笑うリツカの頭上で、ランスロットは顔の半分を手で覆いながら呻いた。
「申し訳ない、マスター。私のせいで……」
「ううん、全然。楽しかったよ」
ランスロットを振り仰いでそう答えるリツカの顔があんまり嬉しそうだったので、彼はおや、と首を捻った。結果的に隠れ鬼役に見つかってしまったというのに、随分と嬉しそうな……。頭の上に疑問符を浮かばせるランスロットをよそに、リツカはにこにこ顔のまま、身を包む滑らかなマントをもう一度だけ胸に引き寄せた。さっき彼が子どもたちにじゃれつかれた時、うろたえながらも最後までリツカの身体に回した腕だけは解こうとしなかった、その感触を思い出すように。
トリスタン卿
「……トリスタン、お願いできる?」
「もちろんです。さあ、どうぞ」
促されるがまま、金の装飾が施されたマントにくるまれる。先ほど彼が自己申告していた通り、体を包んだマントの布地は非常にすべらかで、肌触りも優しかった。リツカがトリスタン卿を見上げると、彼もまた、満足気な様子でリツカの方に顔を向けていた。彼の肩から髪が一房滑り落ち、リツカの髪に少し触れた。くすぐったかったけれど、それよりも、髪と髪が触れるくらい近くに居るという事実が何だか嬉しかった。
……心地良い。マントの中で守られているというこの状況に安心した途端、あたたかさも相まって、リツカは緩やかな眠気を覚えた。
「ごめん、トリスタン、居心地が良すぎて寝ちゃいそう……」
「構いませんよ。では、一緒に午睡の時間としましょうか」
間近で聞く彼の声は、それこそ夢の中に溶けてしまいそうなくらいに深く穏やかだった。リツカは完全に彼に頭を預け、柔らかいマントと彼の腕に包まれながら眠りに落ちて行った。
「……おや。起きたのですか、トリスタン卿」
「ええ、先ほど。ですが、彼女がまだ寝ていますので、どうぞお静かに」
トリスタン卿は、ガウェイン卿に小声でそう告げて、腕の中で眠るリツカに目を落とした。ガウェイン卿やランスロット卿に聞いたところ、リツカを探す者は結局この部屋には来なかったそうだ。けれど、隠れ遊びとやらにもおそらく時間制限はあるのだろうから、良い頃合いで起こしてやらねばならぬ。……だが、今だけはこのままでもかまわないだろう。そう考えて、トリスタン卿はリツカの穏やかな寝息に静かに耳を傾けた。
「……ふふ。私は、嬉しい」
ベディヴィエール卿
「ベディヴィエール、お願い」
マントの端を軽く引くと、ベディヴィエール卿はひと呼吸置いてから言った。
「……私で、良いのですか」
「うん、ベディがいいの。……ダメかな」
「いいえ……いいえ。よろしければ、こちらへ。レディ・リツカ」
ベディヴィエール卿はリツカを優しく引き寄せ、マントの中に収めた。近くに来ると、彼が思った以上に長身であることがよく分かる。
「狭くて過ごし辛いとは思いますが」
「全然大丈夫だよ」
リツカの肩への手の添え方も、細やかな気遣いも、全く円卓一誠実な騎士たる彼らしい振る舞いだった。二人は共に息を潜めて、この部屋に来るかもしれない、来ないかもしれない訪問者を待った。やがて、暫しの沈黙を押し遣るように、ベディヴィエール卿がぽつりと話し出した。
「……リツカ。聞いてくださいますか?」
リツカは彼の顔を見上げて頷いた。
「私は、貴女と出会ってから初めて知った……いえ、思い出したことがあるのです」
見上げるリツカに、ベディヴィエール卿は優しい目をして語りかける。
「それは、人が人と交わり触れ合うことは、とても幸せなことだということです。そう、ちょうど、こんな風に」
彼はマントの中でリツカの肩を抱き直した。
「それを思い出させてくださった貴女を、私はこれからもこうしてお護りしたい。マイ・マスター」
触れた手のひらの温度から、彼の思いが伝わってくるような気がした。リツカは胸が詰まるような喜びを覚え、感謝と憧憬とを込めてベディヴィエール卿に笑いかけた。
腕時計のタイマーが短く三回鳴って、隠れ遊びの終わりを知らせた。結局この部屋が見つかることは無かったが、リツカは、今日たまたまかくれんぼをしていて、たまたまこの部屋に入って良かったと思った。自分を見つめる彼の優しい色の目が、至近距離で告げられた言葉が、ずっと胸の奥でキラキラと光っていた。