in the blue moon

Harry Potter fan fiction



 窓ガラスを通して、犬の鳴き声が聞こえた。複数匹でケンカをしているようだ。  動物の鳴き声に起こされることには慣れていた。そも、患者の容態が変化するのに、時間を選べという注文をつける方が無理な話だ。もはや第二の住み処の称号をほしいままにしている仕事場の仮眠室で、私はしぶしぶソファベッドから起き上がった。窓の外はほんのりと青い月光に縁取られ、手元のランプを点ける必要はなかった。 「こら。仲間割れなら他所でやりなさーい」  いきなり窓を開けて怖がらせたのかもしれない。私が顔を出すなり、彼らは先ほどまでの威勢の良さが嘘のようにしんと静まり返り、そそくさと逃げるように森の奥へ駆けていった。七・八匹はいただろうか。この森に住まう野犬達らしかった。  しかし、ケンカというところはどうやら誤解だったらしいことにすぐに気付いた。野犬が立ち退いた後に残されたのは、体を地面に横たえた大きな黒犬だったのだ。月明かりを反射し、今しがた受けたばかりの傷口に赤黒く血が光っている。  私は周囲に人目がないことを確認し、腰ほどの高さの窓枠に足をかけた。スカート姿だがこの際構うまい。 「大丈夫?」  窓から地面に降りて間近に見れば、真っ黒い毛の間から覗く赤い肌はますます痛々しかった。そっと手を延べてやると、それに反応するように、黒犬は震える足を踏ん張って気丈に立ち上がった。まだ動ける、と意思表示をしたつもりだろうか。 「あら……。玄関まで歩けるかしら? じゃあ、付いて来なさい。中で治療してあげるわ」  彼(彼女?)はぴんと耳を立て、瞬きをして頷いたように見えた。棒のように細い足を引きずりながらも、私に従って大人しく歩き始める。  ……何だか変な犬。変な犬だ。見れば見るほど、異様な違和感が拭えなかった。犬は人間の気持ちを理解するとは言うが、この子の場合は明らかにそんな次元を超えている。どう考えても、私の言葉丸ごと理解されているとしか思えないのだった。 * 「はい、終わったわよ。頑張ったね」  治療の間ずっと大人しくしていてくれた黒犬の頭を、私は感謝を込めて撫でてやった。躾のされている飼い犬でも、なかなかこうもスムーズには治療させてくれないものだ。ましてやこれほど体が大きければ、私の腕など振り切って逃げ出すことも容易かっただろうに。何というのか――そう、聞き分けが良すぎる。  シーツを敷いたソファに黒犬を寝かせ、私は痩せこけている彼にエサを与えようと台所へ向かった。  リビングを出るとき、几帳面に電気を消して行ったのが良くなかったのだろうか。せめて明るいままだったら、その衝撃はいくらか和らいでいたろうか。  エサの袋を手にリビングへ戻り、ぱっと電気を点けて最初に目にしたものは、ちょうどソファから起き上がろうとしている、黒い――人間の男の姿だった。  その人間の髪は艶がなくばさばさと広がり、頬はこけて生気がまるで失われていた。そのなかで、眼だけが異常に鋭く冴えて光り、ローブは埃に汚れ擦り切れている。  そして、その人間に関して一番に重要な事実は、私が、彼の素性を知っているということだった。  知り合いではない。だが、つい一年前、この男は新聞記事の写真の中で、やはり鋭い眼光を放っていたはずであった。そう、忘れもしない。  私はドッグフードの袋を足元に落とし、ソファに座り直した男は私の存在に気付いて顔を上げた。私の視線と彼のそれが、不意にぴたりとかち合う。枯れた声で先に呟いたのは私だった。 「――シリウス・ブラック」 「その通りだ」  低い、陰鬱な声。荒廃と悪夢とを纏ったような。ああ、間違いなく、去年アズカバンから脱獄した凶悪犯罪者その人だ。私はほとんど本能で察した。 「あの、黒犬は? どこへやったの」 「どこへも。今、君の目の前にいるのがその犬だ。信じられんだろうが、わたしは動物になることができる」 「……何ですって」  動物に変身する魔法を使う、稀少なる人間―― 「まさか。アニメーガスだというの? あなたが?」 「魔法を知っているのか」  今度は彼が意外そうにソファから立ち上がる。  私は無意識に、入り口の傍にあった小さな医療用ナイフを手に取り彼に向けていた。 「近付かないで」  血を見るためにそれを使うつもりはない。単純に護身を目的とした行動に過ぎなかった。さらに、私にはどうあっても譲れない理由がある。  ブラックはそこから動かない。しばらくして、冷たく無感動な音が落ちた。 「殺すつもりなら、やめておいた方が賢明だ。無益に終わることだろう」 「そう……。そうね。こんな一介のマグルがあなたを殺すことができるなんて、まさか本気で思ってはいないわ。でも、私はあなたと無関係ではないのよ」  父は十三年前の事件で死んだ。爆発事故とされているが、私は魔女であった母から真実を聞いている。あの狂ったシリウス・ブラックが、破壊の魔法を使ったのだと。十一人もの人間を一度に殺したのだと。  十三年前、そして一年前に新聞記事で見たこの男の顔は、決して消えぬ残像として私の脳に焼き付いていた。 「……そうか」  ブラックは痩せこけた顔に皮肉な笑みを張り付かせた。何の罪もない、父を含む大勢の人間を一瞬で殺した悪魔の姿だ。心の襞がざわざわとさざ波立つ。  彼はゆっくりと、一歩ずつ確認するように慎重にこちらへ近付いて来た。 「来ないで」  私は依然としてナイフを突き出している。視線は決して彼から離さないようにしながら、じりじりと後じさった。  薄汚れたローブから覗く白が、際立って目につく。腕に綺麗に巻かれた包帯は、黒犬とこの人間との同一性を無言で強調する。ああ、これがさっきまでの犬の姿だったら――「お手」とでも言って従えられたらどんなに楽だろう。  見上げるほどの身長が、静かな黒い威圧感を感じ取らせる。いよいよ、脳が思考することを拒否した。金縛りの魔法でもかけられているのだろうか。  ブラックの痩せた手が伸べられ、もはや覚悟を決めようかという時。私の思考回路は一瞬にして火花が散るように働き出した。  彼はナイフの刃先を素手で掴もうとしたのだ。それは不自然なほど。まるで、この刃が玩具だと信じきってでもいるかのように、僅かもためらわず。  予想外の行動に動揺し、私は反射的に――  彼がナイフに触れないように右手を後ろに避けてしまった。 「あ……」 「良かった、これが君の本心だな。話をする価値はありそうだ」  私はゆるゆると右腕を下ろす。間近にある顔をただ呆然と見上げることしかできなかった。彼を傷付けずに済んだことに対して、心のどこかで安堵していたことに気付いた。  私にとって、この男は禍々しい悪の象徴であらねばならないはずだった。その彼の目の奥に、一瞬でも、何かを悼むような色が垣間見えたなんて。見間違いだと思いたい。 「悪いが、ここで殺されてやることはわたしには出来ないんだ。あいつを捕らえるまでは、何としても命を落とすわけにはいかない」 「……あいつ?」  私は訝って尋ねた。  ブラックはゆっくりとした発音で、私の瞳を見つめるように言った。 「十三年前、破壊の魔法を使った張本人だ」  その一瞬、息が詰まる。彼の口から例の事件について語られることは、未だにぞっと肌が粟立つような感覚を伴うものであり、だから私は震えを抑えながら訊いた。 「何なの、それは。どういうこと」  そして、低く掠れた声は事件の顛末を淡々と語り始めた。 *  長い長い、彼の話が終わったとき、私は放心と困惑のちょうど中間くらいの心持ちで、彼の斜向かいに腰掛けていた。 「その話――信じてもいいのかしら」  口をついて出た私の本音には苦笑を返すに留め、しばらく息を入れてから、彼は決まり悪そうに視線を外した。 「わたしは何を話しているのだろうな。事件の関係者とはいえ、今日会ったばかりの女にこんな詳細まで……」 「…………」 「今の話を、信じるか信じないかはそちらの自由だ。ただ」  一度言い澱むようにして、続ける。 「真実がどうであれ、わたしは殺人者だ。何年も行動を共にしながら、奴の正体を見破れなかったのだから」  私は答えず、しばらく黙って考え込んだ。彼はじっと動かずに私を待っている。  目の前に存在している、私の父を殺した殺人鬼。長い間そう思い込んでいた人間と、今こうして向き合って座っているのだ。なんて奇妙な状況だろう。この場の不自然な冷静さに、今更ながら違和感を覚えた。  静かな、けれど切実な思いを含んだ、彼の視線がやけに痛い。それとも私が、そう思いたいだけだろうか?  鉛のように鈍く重い沈黙が落ちる。  やがて、私は正直に告白した。 「ちょっと、待って。どう受け止めたらいいのか……すぐに整理できないわ。混乱してるの。少し考えさせてちょうだい」  彼が頷くのをみとめて席を立つ。寝室のドアに向かったところで、私ははたと足を止めた。 「ああっ」 「何――」 「傷、大丈夫かしら。動物用の薬を塗っちゃったわ。犬だと思ったんだもの」 「…………」  彼は半眼になって腕の包帯を見た。  実際、その場で家から叩き出さなかった時点で、答えは出ているも同然だったのだ。けれども私がそれに気付いたのは、物音で浅い眠りに終わりが訪れた後だった。  おおかた予想通りと言おうか。物音に起こされた私がリビングで見たものは、窓から半分身を乗り出した大きな黒い犬だった。まだ夜も明けきらないというのに。多分、私が起きる前に、そっと出て行こうとしたのだろう。脇のテーブルにはメモ帳の切れ端と、何か銀色の細いものが置かれていた。  私はメモの文字に目を通し、それらを掴んで窓に駆け寄った。すでに窓を抜けて地面に降りていた彼は、まだそう遠くないところを歩いていた。  私は呼び止めた。 「待って。シリウス・ブラック」  黒い犬は昨夜のように耳をぴんと立てて振り向き、戸惑いを見せながらもこちらへ引き返してきた。犬の姿のままでも話はできるらしいが、目線の差を気にしてか一度人間の姿に戻る。 「私は、あなたが言ったことを信じるわ」  彼は面食らったように言葉を失くした。ように見えた。 「言ったろう。殺人者の話など信用するものではないと」 「ええ。あなた自身を信じるわけではないわ。――その方が、父が浮かばれると思ったのよ。何が本当のことなのか分からなかったから、信じたいと思った方を信じることにしたの。何を信じるかは、私の自由よね」  どうしてそれを、彼に伝えようと思ったのかは分からない。何を期待して言ったわけでもなかった。  ところがシリウスは、ふわりと目を細め微笑んだ。緊迫、憎悪、そういったものが溶け出してゆくような。神にやっと許しを得たような、温かい。  私はそこで初めて、この人にハンサムという言葉が当てはまることに気付いた。冷酷非情な殺人鬼の影は、もう感じられなかった。 「そうか」  彼はただそれだけ呟いた。  私は細い銀色の鎖を取り出して、指に提げた。テーブルに置かれていた、小さな十字架モチーフのブレスレットだ。 「なに、これ。お守りにしているんじゃないの? どうして置いて行こうと思ったの」 「何故って、男が付けるものではないだろう」 「はぁ……。それはそうだけれど、でも、どうして私に?」 「わからない女だな。助けられた礼だというんだ。いいから腕を出してくれ」  二の句が継げずにいる私の心情など見事に無視して、シリウスは勝手に私の右手を取り、丁寧にブレスレットを着けた。  ……何なんだろう、このお礼の仕方。変な人である。  彼に対しての私の評価は、結局は初対面(?)での印象と同じところに落ち着いた。 「すまなかったな」  透明な雫が落ちるように、言葉は零れ、やがて地に滲みる。形は無くともその温度で。  それが彼の本音であることが、もう私には分かっていた。  既に空は充分に白み、月は姿を隠していた。私は手を掲げてメモ帳の切れ端を透かし見た。 『ありがとう。君に幸福があるように』  短いフレーズを唇に乗せる。 「……変な人だわ」  私は自分が微笑んでいることに気付いた。  ソファに腰を下ろす。腕から下がった銀の十字架が揺れ、陽光を反射して瞬いた。
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