午後二時半頃。キーボードをたたく先生の指がついに動かなくなってしまったので、わたしは頭を垂れた先生の背中に向かって話しかけた。
「……先生。確か、つい三十分前にも訊いた記憶がありますけど、改めてうかがいますね。『進捗いかがですか?』」
先生の肩越しに、液晶モニターをひょいと覗き込む。案の定、画面に映っている文字の量は先ほどとさして変わっていないように見えた。
先生はわたしの問いかけへの返事の代わりに、歯の間から呻き声のような音を細く漏らした。そして、この世の悲嘆を煮詰めたのかと思うような盛大な溜息をひとつ吐き出すと、一旦休憩にするか……と気の抜けた声で呟いて、机の上段の引き出しからお菓子の箱を取り出した。そのチョコレイト菓子はわたしも街中でよく目にするものだったけれど、外箱のデザインが違っていた。見慣れた赤や茶色ではなく、淡い黄緑色と黄色を基調としたデザインだ。わたしが興味津々でその外箱を観察していると、先生がわたしの視線に気付いて、この間発売された新しい味だと説明してくれた。チョコレイトに蜂蜜を溶かし込んで、炒った木の実を砕いたものを混ぜて固めてあるそうだ。先生が金色の包装紙の中から取り出した小さな四角いチョコレイトは、よく見たことがある枯茶色のものと違って淡い鳥の子色をしていて、その表面には細い筆で描いたような曲線の模様があしらわれていた。先生は、パッケージの色使いがノベルスカヤの髪と着物の色に似ているね、なんて言いながら、一かけ分のチョコレイトをあっという間に自分の口の中に放り込む。そして、流れるように二つ目のチョコレイトの包装を解いて、わたしの方にそれを差し出した。
あーん、と先生に促されて口を開く。そのまま目を閉じて待っていたら、ひんやりとした物質が舌に載って、すぐさま口の中で溶け始めた。奥歯で噛んでみると小気味良い音が小さく鳴る。砕いた木の実の食感と上品な香りの奥に、蜂蜜の風味が隠れていた。わたしはチョコレイトが溶け切って喉の奥に吸収されてしまうまで、幸福な甘さと滑らかな舌触りを楽しんだ。名残惜しいような気持ちで口の中に残った甘さを飲み下した後、自然と感嘆の溜息が漏れた。
「美味しい。こんなチョコレイトもあるんですね」
そう言って先生の方を見ると、先生は新しいひとかけの包装を解くでもなく、チョコレイトをわたしに差し出した時の体勢のままわたしを見つめていた。
「……先生?」
首を傾げてもう一度呼びかける。すると、先生はまるで金縛りが解けたようにはっとして左手を引っ込め、チョコレイトの包み紙を丸め始めた。どうしたんですかと重ねて尋ねてみたら、先生は、昔妹にしてあげていた癖が出た、と言って頭を掻いた。わたしはその返事の意味を掴みかねて二呼吸分黙りこくった後、さっき先生にチョコレイトを食べさせてもらったことを思い出して「ああ」と目を丸くした。
ちょっとだけ気まずそうな先生の様子にくすっと笑ってしまいそうになりながら、わたしはご馳走様でしたとお礼を言った。先生はうん、と頷きかけ、突然あっと叫んで立ち上がった。どうやら、何か良い展開を思いついたらしい。机のほうに向き直るなり、今浮かんだアイディアを逃すまいとするようにすぐさま文字を打ち込み始めた。
そうしてまた、わたしは彼の進捗を見守る仕事に戻る。キーボードの音だけが響く部屋の中には、蜂蜜入りのチョコレイトの香りがまだかすかに残っていた。雨上がりの草木の匂いを含んだ風が開けっ放しの窓からするりと入り込んできて、わたしたち二人の髪を柔らかく撫でた。
執筆・読書好き向けのMisskey系SNS
ノベルスキー内の「
ノベルスキー短編小説大会」参加作品です。
お題は「ノベルスキーのオリジナルキャラクターを題材とした、朗読向きの物語(※1000~1500文字)」でした。朗読向き……朗読向きってどんなん……? と迷った挙句、今回は女性の一人朗読がしやすそうな書き方に落ち着きました。