ノベルスカヤと
真夏の北風

"Novelskey" Original Characters fan fiction



「――はい、確かに受け取りました。しっかり編集部まで届けてきますね!」  そう言い残して、わたしは先生が暮らすアパートメントの扉を閉じた。胸元には、つい先ほど出来上がったばかりの原稿が入った大きな茶封筒。  まだ時間には余裕があるから、またいつもの公園に立ち寄って少しだけ読ませてもらおう。あの公園の長椅子に座り、期待に胸を膨らませながら一枚目の原稿用紙を取り出す。そして、まるで香りのよい珈琲を味わう贅沢なひとときのように、ゆっくりと最初の一文字に目を通すのだ。その光景を想像しただけで、我知らず笑顔が零れた。アパートメントの前の坂を、軽く鼻歌なんて歌いながら、足取りも軽く下っていく。  もう少しで下り坂が終わり、この町の中では比較的大きな通りに出る。遠くで点滅し始めた信号機にちらりと意識を向けたちょうどその時、急に後ろから強く身体を押されたような気がした。坂の上から北風が吹いたのだ。あまりの突風に驚いて、わたしは後生大事に抱えていたはずの茶封筒を思わず取り落としてしまった。衝撃で封が外れ、原稿が一枚ずつばらばらになって風に舞い始める。 「ああ、どうしよう――」  わたしはそれ以上原稿が舞い散らないように封筒を両腕で抱えてしゃがみ込み、風が完全にやむのを待った。ほどなくして辺りに静寂が戻る。おそるおそる立ち上がって事態を確認してみると、派手に散乱した白い原稿用紙によって道路に見事な斑模様が描かれていた。  途方に暮れて道の真ん中で立ち尽くしていても、悲しいことに事態は変わらない。わたしは軽く息をついて覚悟を決め、腕の中の封筒をまた落としてしまわないように十分注意を払いつつ、手近な原稿用紙から一枚ずつ順番に回収を始めることにした。立って移動してはしゃがみ込んで、また立って、黙々と原稿用紙を拾い集めていく。そうしていると、しゃがみ込んだわたしの上に突然陰が出来て、風鈴の音のような澄んだ声が降ってきた。 「あの、大丈夫ですか?」  わたしがその声に呼応して顔を上げると、声の持ち主は中腰になってわたしを覗き込んでいた。白地に淡い水色の襟のセーラー服を身に着けた、高校生くらいに見える女の子だった。肩を越えるくらいの長い髪が制服の襟のところで揺れている。  彼女はわたしの返事を待たずに改めて辺りを見回し、「えーっと、とりあえず、あっちに散らばってるのを拾ってきますね」と草叢のほうへ歩いていってしまった。 「あ……。ありがとうございます」  わたしは残りの原稿用紙を胸元に抱え直して、彼女の背中に慌てて声をかけた。  幸い、原稿用紙は心配していたよりは遠くに飛ばされておらず、ひどく汚れたり折れ曲がったりしているものも無さそうだった。女の子が集めてきてくれた分も合わせて、きっかり三百枚。先生の家を出る前に確認した枚数と相違ない。 「よかった……。お蔭で助かりました」  ほっと胸を撫で下ろして、もう一度お礼を言うと、女の子は「いえいえ」と笑顔を見せて首を振った。  改めて彼女の出で立ちを目にしたとき、おや、と思った。彼女は鞄のたぐいを何も持っていないようだ。この辺りに住んでいる子が、財布だけ持ってちょっとした買い物にでも来たのだろうか。――でも、夏休みの時期に制服で? 「あの、部活動か何かの帰りですか?」  世間話を装ってそれとなく尋ねてみると、予想に反し、女の子は途端に表情を曇らせて首を振った。 「……はい、とも、いいえ、とも答えられないんです。私、分からなくて……」 「分からない?」  女の子は消え入りそうな声で「ええ」と頷く。頼りなく彷徨う視線に不安さが現れていた。 「気付いたら、この道を歩いていました。思い出せないんです。自分の名前も、さっきまでどこで何をしていたのかも、どこへ帰れば良いのかも」  そう言って、彼女はまた考え込むように目を伏せてしまった。真夏の苛烈な日差しが、彼女の眼の下に睫毛の陰を濃く落とした。  わたしは彼女の様子をしばらく見つめた。それから、自分でも知らないうちに彼女との距離を一歩分詰め、封筒を抱えていない方の手で彼女の手をとっていた。 「わかりました。一緒に探しましょう、あなたの記憶」  彼女は丸い大きな目をしばたたいてわたしを見つめている。わたしは極力明るい声で「きっと見つかりますよ」と続けた。 「ありがとうございます。ええと……」 「あ……。わたしは、エレーナ・ノベルスカヤと言います。どうぞ気軽に、ノベルスカヤとお呼びください」 *  わたしたちがまず考えたのは、彼女が身に着けている制服を手掛かりにすることだった。学校名が分かれば、そこから芋蔓式に情報を得られるかもしれない。 「とは言っても……簡単には見つかりませんね」  女の子にその場でくるくる回ってもらって背中のほうまで確認しても、制服には校章や刺繍は見当たらなかった。 「うーん。他に手掛かりは……」  そう言って女の子が顎に手を宛てた時、彼女の制服の胸ポケットに空色の筆記具が挿さっていることに気付いた。わたしの視線を追って含意を了解したらしい彼女が、胸ポケットから洋筆と小さな帳面を取り出してわたしに手渡してくれる。 「これ、私もノベルスカヤさんと出会う少し前に気付いて確認したんですけど、手掛かりにはなりそうもなかったです。何も書いていない、普通のメモ帳とペンでした」  わたしが改めて確認しても同じだった。彼女が言うように、帳面の表紙にも中身にも、洋筆の側面にも、文字らしきものは何も見当たらない。真夏の空のような色の帳面の中身は、入道雲よりも白い薄紙が只々何頁にもわたって続いているだけだった。  次に考えたのは、彼女が着ている制服に見覚えが無いかを道行く人に尋ねることだった。わたしたちは公園までの道を歩きがてら、協力してくれそうな地元の人に声をかけていくことにした。けれど、人の好さそうなご婦人に尋ねても、散歩中のご老人や赤ちゃんを抱いたご家族に尋ねてみても、みな首を横に振るばかりだった。 「分からないなぁ。ごめんなさいね」 「いいえ、こちらこそ突然すみませんでした。ありがとうございます」  そのやりとりを幾度も続けるたびに、わたしたちの足取りはどんどん重くなっていった。大通りには背の高い街路樹が連なっていて、日差しは比較的避けやすいものの、気温の高さや肌に纏わりつくような湿気が体力と気力に影響していることは確実だった。公園の二区画前の曲がり角に差し掛かった頃、わたしは隣を歩く女の子の様子をそっと窺ってみた。彼女は最初に記憶が無いと話した時のように深く目を伏せ、ほとんど足を引きずるようにしながらも辛うじて歩を進めている、といったふうに見えた。彼女に何か話しかけようとして口を開きかけたとき、それまでは彼女の向こうに見える背景の一部でしかなかった薄紅色と鳥の子色の可愛らしい看板が、不意にわたしの目に飛び込んできた。あ、あのお店って確か――。わたしは思わず足を止めて呟く。 「……氷菓あいすくりーむ」 「え?」 「氷菓あいすくりーむ、食べに行きませんか。この前、おいしいお店を見つけたんです」  わたしにつられて足を止めた女の子は、やっと顔を上げてわたしを見た。辺りには油蝉の静かな合唱と、時折通る車のエンジン音だけが響いている。 * 「たくさん種類があって迷いますね」  涼しい店内で順番待ちをしている間、わたしたちはリスのようにせわしなく辺りを見回しながら、そんなことを小声で話し合った。店内の突き当りの壁には、チョコレイト味の氷菓あいすくりーむの絵が描かれた広告が大きく掲げられている。白いチョコレイトに蜂蜜と砕いた木の実を混ぜ込んだ、期間限定の商品だそうだ。その広告を眺めながら、わたしは女の子に耳打ちした。 「このお店の氷菓あいすくりーむ、もじす…………ええと、知り合いのうさぎさんへのお土産で一度だけ買ったことがあるんです」  彼女は「しりあいのうさぎさん……」と不思議そうに小声で復唱したものの、細かい事は気にしないことにしてくれたのか、それ以上は何も尋ねてこなかった。  わたしたちはわっふるこーんの氷菓あいすくりーむをそれぞれ片手に持って、公園の隅の長椅子に腰掛けた。期間限定ふれーばーの氷菓あいすくりーむの味は予想以上だった。ひとくち舌で味わうなり、女の子と思わず顔を見合わせて「おいしい」と声を揃えたほどだ。彼女の目が氷菓あいすくりーむのおかげできらきら輝いているのを見て、わたしはひとまず安心した。  氷菓あいすくりーむが残り半分ほどになって、さくさくのわっふるこーんの部分に差し掛かった頃、女の子がわたしの膝の上の大きな茶封筒を指差して言った。 「それ、どこかに持って行く途中なんですよね?」 「ええ。この通りをまっすぐ行ったところにある、黄色の建物まで」  わたしはそう答えて、片腕で封筒を抱え直した。 「……大事なものなんですね」  女の子がしみじみとそう言ったので、わたしは「はい」と答えた後、「……あれ、どうして分かったんですか?」と訊き直した。女の子は「目を見れば分かりますよ」と笑った。 「その封筒を見ている時のノベルスカヤさんの目、おいしいアイスクリームを食べた時と同じくらいきらきらしていましたから」  何だか途端に恥ずかしくなり、わたしは膝の上の封筒に目を遣るふりをして俯いた。その状態のまま、実はね、と前置きして女の子に話し始める。 「先生の小説の冒頭部分をこのベンチで読ませてもらうのが毎回の楽しみなんです。でも、先生はアパートメントの部屋の中では絶対に読ませてくれないんですよ。落ち着かないから、って」  困ったものです、と苦笑すると、彼女もわっふるこーんをさくさくと口に運びながらわたしと一緒に笑った。ひとしきりそれが収まった頃、わたしは封筒の表の宛名の文字を半分無意識に親指でなぞりながら付け足した。 「それに、わたし、人が書いた文字を読むのが好きみたいです。文字を眺めているだけでも幸せな気持ちになるんです」  わたしが、文字を書く人々の想像力から生まれた存在だからでしょうか? そう続けようとしたけれど、口に出す前に少しだけ躊躇して、結局は氷菓あいすくりーむと一緒に飲み込んでしまうことにした。  そのとき、女の子が突然慌てたように声を上げた。 「あっ、ノベルスカヤさん、アイス、アイスが」  どれどれと手元を確かめてみると、残り少なくなったわっふるこーんの側面を氷菓あいすくりーむの雫が伝って、今にもわたしの指に付こうとするところだった。わたしは急いで氷菓あいすくりーむを食べ切り、ちょっとその封筒をみていてもらえますかと女の子にお願いして、公園の隅に設置されている手洗い場へ向かった。 「――それにしても、これからどうしましょう」  日が暮れた町にあの女の子を置いていくなんてできないし、でも、これ以上手がかりなんて……。そんなことを考えながら手を洗い、ハンカチーフで指の水滴を拭っていると、不意に頭の後ろのほうに何かがそっと触れたような感じがして、それから「ノベルスカヤさん」と女の子の声がした。手洗い場が長椅子のところから少し遠かったので、迎えに来てくれたようだ。 「はい、これ」  彼女がわたしに封筒を手渡してくれたちょうどそのとき、また涼しい北風が吹いた。封筒の中の紙が数枚揺れて、ちらりと黒い文字が目に飛び込んでくる。その瞬間、わたしは息を呑み、「……もしかして」と呟いた。  風に煽られて頬にかかった髪の一束を耳の後ろによけて顔を上げる。彼女は何が起こっているのかさっぱり分からないという顔をして、不安そうにわたしを見つめている。わたしは考えるより先に、ごく自然に彼女の手を取っていた。 「行きましょう。走れますか?」 「えっ、行くって、どこへ?」  そう尋ねる彼女に向かって、わたしは返事の代わりに微笑んだ。わたしたちは手を繋いだまま、まるで北風に逆らうように、もと来た道を走り始めた。  交差点を右に折れ、真っ直ぐ伸びる坂道に差し掛かったら、目的地はすぐそこだ。わたしたちは下駄と靴の音を響かせながら長い坂を一気に登りきり、先生が暮らすアパートメントの二階の一室の前でようやく足を止めた。 「先生。先生」  はずむ息を整える時間も惜しんでそう呼びかけると、すぐに扉が開いて、先生が姿を現した。 「どうしたの、ノベルスカヤ」  わたしから二歩分離れたところに立っていた女の子は、先生が開けた扉の死角に入ってしまったので、先生はまだ彼女の存在に気付いていない。わたしは手を伸ばして、先生から見える位置まで彼女を呼び寄せた。 「彼女が誰なのか、先生ならお分かりになるんじゃないかと思って連れて来ました。――いえ、きっと、この世の中で先生しか分からないはずです」  空いているもう片方の手で、先生によく見えるように原稿用紙を掲げる。その原稿用紙のところどころに、数文字分の空間が不自然にぽっかりと空いている。まるで、元々そこにあった文字が何かの拍子に失われてしまったように見えた。  先生は女の子と原稿用紙を見比べるなり短く息を呑み、それから納得したというようにひとつ頷いて、女の子に向かって微笑んだ。 「――ああ、もちろん。何しろ、ここ最近は、きみたちのことばかり考えていたようなものだから」  女の子は何を思っているのか、大きな目でただ真っ直ぐ彼を見つめている。 「こんなふうに会えて嬉しいよ。“ヒカリ”」  先生がそう口にしたあと、先生とわたしがひとつかふたつ瞬きをする間に、女の子の姿は蝋燭の火のように消えてしまった。その瞬間はわたしの位置からはよく見えなかったけれど、彼女は消える直前、微笑んでいた気がする。そうだといいと思った。 「……彼女は、物語の中にいた人だったんですね。先生が書いた、この小説の」  そう言って、わたしは原稿用紙に目を落とした。原稿用紙の中の不自然な空白は、元通りに「ヒカリ」という文字で埋められている。 「そういえば、彼女、この町の様子には見覚えがある気がするって言っていました」 「ああ、それは多分、俺が作品舞台のモデルにしたのがこの町だから……」 「なるほど……」  話しているうちに、名残惜しさが溜息に変換されて、ほうと一つ零れ落ちた。ちょうどそのとき、何かに気付いたらしい先生が矢庭にわたしの後ろ頭を指差した。 「あれ、ノベルスカヤ、髪飾りに何か付いてない? ほら、ここ」  言われるままに髪飾りの辺りに手をやってみると、結び目の辺りに、布とは違う乾いた感触を覚えた。それを抜き取って手に載せてみる。その正体は、可愛らしい蝶々の形に折り畳まれた小さな手紙だった。  できる限り丁寧に、蝶々の折り目を一つひとつほどいていく。やがて、長方形の紙に戻った蝶々の中から、今日の昼間の空のような鮮やかな青い洋墨の可愛らしい文字が姿を現した。それを見た瞬間、わたしにはこの手紙が誰によってどの筆記具で書かれたものなのかがすぐに分かった。 『ノベルスカヤさんへ。今日は私の探しものに付き合ってくれてありがとう。アイス、とってもおいしかった。  私、もしこのまま今までの記憶が戻らなかったとしても、今日あなたと過ごしたことはずっと覚えていたいです。そして、もし叶うなら、また逢えたら嬉しいな』  先生が見守るなか、わたしはその短い手紙を何度も何度も読み返した。わたしの手の中にある、折り目のついた真っ白なメモ帳は、橙色に染まり始めた陽光を反射してちらちらと輝いている。 *  朱色や黄金の乾いた落葉を踏んで、わたしは公園の周りを見渡した。いつの間にか吐く息が白くなる季節が訪れていた。真夏に感じた爽やかな風とは違う、本物の北風がぴゅうと音を立てて吹き抜け、ゆるく巻いたわたしの髪をさらった。  公園の中にあの時と同じ長椅子を見つけて、全く同じ場所に腰掛けてみる。そして、ひとつ深呼吸をして冷たい空気を飲み込んでから、先ほど手に入れた一冊の本を開いた。最近発売されたばかりの新刊だ。表紙に青色の文字で印字されている書名は、『真夏の北風』。 「……また会えましたね。今度はちゃんとあなたの名前を呼べるのが嬉しいです」  開いた本の頁の隙間に向かって、わたしは独り言と同じ調子でそっと話しかける。きっと彼女に届いていると信じて。 「わたしも、あの日はとっても楽しかったです。ヒカリさん」
 執筆・読書好き向けのMisskey系SNSノベルスキー内のオリジナルキャラクターを題材とした二次創作小説です。
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