荒々たる不毛の野に、調査員らが鎌で地を掘り進める乾いた音だけが響く。ひと堀り、ふた堀り。やがてその鎌は金属とプラスチックの感触に行き当たって動きを止めた。一人の調査員はその物質の周りの土を手で慎重に避け、鎖繋ぎの小さな懐中時計を取り上げた。
「おい。こっちに来い」
もう一人の調査員を呼び、軍手の上の鈍色の時計を見せる。もはや再び時を刻むことのないそれは、長い年月を経て変形し、ところどころ腐食が進み、罅割れてはいるが、かろうじて時計の体裁を保っていた。いや、むしろ、年月が経ちすぎていることのほうが問題だった。発掘時の深さと劣化の程度を照らし合わせれば、この時計は約三千年もこの地でそのまま眠っていた計算になる。しかし、調査員が見るに、それは明らかに近代以降の技術が反映された小さな機械であった。
二人の調査員は互いに目を見合わせ、この不可思議な出土品を真夏の太陽へ捧げるように翳したのだった。
『――それでは、本日七月二十七日木曜日の世界のニュースです。××国、×××海岸付近の平野で、小型の機械らしき金属片が発掘されました。同国での年代鑑定によると、約三千年前のものと推定――』
第一章《海の章》第一話:セイレン
七月最後の水曜日の昼下がり、ディオネ・K・オルソープは、ほかに待つ者の無いバス・ストップのベンチに腰掛けていた。首都からこの港町まで一時間、更に郊外へ向かうバスは二十分近く遅れている。
『えっ、バイト先、潰れちゃったの? こんなタイミングで』
彼女の耳元に添えられた携帯端末から、ルーシーの甲高い声が吐き出された。
「そう。明日からまた探し直しよ。夏休みの間に出来るだけ稼いでおかなきゃいけないっていうのに」
ディオネは落胆の溜息をつき、胡乱な眼で出来るだけ遠くのほうを眺めた。緩やかに続く丘陵の裾野には、浅緑色の広大な放牧場がどこまでも続いている。そのなかに白い綿を点々と置いたような羊たちが、人の気も知らずに呑気に草を食んでいた。
『じゃあさ、今週末くらいはどこかに遊びに行かない? ほら、十一年生の選択授業で私たちと一緒だった、ロブとミッキーって居たじゃない。このあいだ連絡先を交換したのよ。彼ら、ディオネとまた話したがってたから、誘ったら多分来ると思うわ』
「それ、誰だっけ……」
『…………』
端末の受話口越しでも、ルーシーが「信じられない」と思っているであろうことが如実に伝わってきた。
『あなたって、人間関係については、何と言うか、本当にクールよね……。そこがいいんだけど』
ディオネからすれば、半年以上前におそらく一度しか会話したことがない同級生の顔と名前を覚えているどころか、いつの間にか連絡先を交換するほど仲良くなっているルーシーの社交力のほうがむしろ驚きだったが、何となく口に出すのはやめておいた。
『まあ、今週末じゃないとしても、せっかくだから授業が始まるまでに一度は二人で出掛けようよ。駅前に新しく出来たワッフル専門店とか』
「あ、それは行きたい」
『でしょ。決まりね』
日付空けておいてね、というルーシーの声にかぶさるように、遠くからバスのエンジン音が近付いてきた。ディオネは金色の懐中時計をワンピースのポケットから取り出して素早く時刻を確認し、バスが来たからとルーシーにさよならを言って、携帯端末を肩掛け鞄に押し込んだ。ルーシーは電話の切り際に、ちゃっかり「ねえ、ディオネ。新学期になっても、また課題のことで色々相談させて」と付け加えるのを忘れなかった。
色付きの硝子窓から見えるこの地方の空は、相変わらず重苦しい灰色だ。車内の照明のほうが明るいせいで、ディオネの顔が硝子に薄く映り込んでいた。緩く巻いたブロンドに、少しだけ垂れた目尻、人よりも目立つ鼻筋。父譲りの薄い唇は、いつものように真一文字に引き結ばれている。ディオネは硝子の向こうの見慣れた自分の姿を暫くじっと見つめ、眉ひとつ動かさないまま軽く溜息をついた。彼女の膝の上では、麦藁帽と白一色の花束がバスの不規則な振動に合わせて小刻みに揺れている。
ほどなくして、バスは目的地に辿り着いた。バスのステップから砂利道へ降り立ち、日除けの麦藁帽を手に持ったとき、ちょうど強い風が吹いて、帽子がディオネの手を離れた。彼女は慌てて後ろを振り返る。すると、背後から「おっと」と声が聞こえて、黒い帽子を目深にかぶった紳士がディオネの麦藁帽を拾ってくれたところだった。
「お嬢さん、お気をつけて。今日は風が強いからね」
紳士はディオネと目を合わせないまま簡潔にそう言って、彼女に麦藁帽を手渡してくれた。ディオネがお礼を言ってお辞儀から顔を上げたときには、もう紳士の姿はどこにもなかった。
ディオネは潮風を感じながら田舎道をしばらく歩き、広大な森林墓地の端の一つの墓石の前で足を止めた。かがんで白い花束を供え、墓石に刻まれた二つの名をじっと見つめてから、目を閉じて祈りを捧げる。
――おじいちゃん、おばあちゃん、久しぶり。私は元気よ。引っ越してからもう二年も経って、一人暮らしにもだいぶ慣れました。今はシックス・フォーム入学前の夏休み期間なの。これから絶対に大学で専門性の高い技術を身に着けて、自分で稼げるようになって、一生堅実に生きていきます。父みたいにはなりません。
伝えたいことを一息で伝えきり、ディオネは胸の前で組み合わせていた両手の指をゆっくり解いた。ふたりの息子にあたる人をあんなひと呼ばわりするという点だけは気が引けたが、心の中で彼らに話しかけるときに自分の率直な気持ちを偽ることはしたくなかった。
ディオネは父の笑った顔がどんなだったかをもうはっきりと思い出すことができない。幼い頃に母がいなくなってから、父は仕事の忙しさを理由にディオネを両親に預け、それから一度も一人娘の顔を見に帰ることはなかった。二年前に祖母が亡くなると、ディオネはやっと父が契約しているマンションに移り住んだが、この二年の間、彼が帰宅することは滅多になかったので、実質的な一人暮らしと言って良かった。家賃や生活費は常に決まった額が振り込まれていたが、ディオネはせめて生活費だけでも極力自分で稼ごうと決めていた。金銭的支援をしていれば一人前の父親の顔が出来るなどと彼に思ってほしくなかった。
そのうち、祖父と祖母が眠る場所の目の前でこんな荒んだ気持ちになっているのが申し訳なくなったディオネは、「また来るね」と二人に声を掛け、ワンピースの裾に付いた草切れを払ってそそくさと立ち上がった。
せっかく久しぶりにこの町まで来たので、少し遠回りをして、切り立った崖から海を直接見下ろせる場所まで足を伸ばすことにした。海岸沿いの道は、平日とはいえ夏休みに入ったばかりのわりには人通りが少なかった。海風に吹かれて気分が良くなってきたディオネは、周りの邪魔にならなさそうなのを良いことに、歩きながら小声で歌を口遊んでみた。昔、母が子守唄代わりに歌い聞かせてくれた童謡だ。あまりに繰り返し聞かされたので、この曲だけはいつでも全てそらで歌うことができる。この曲を歌っていると、遠い昔に聞いた母の声が重なって聞こえてくるような気がした。
一曲歌い終わる頃には、灰がちだった地面が徐々に浅緑色の草原へと変わり、ディオネの靴の先はもう少しで崖の先端に差し掛かろうとしていた。目の前に広がる海は一瞬足が竦むほど雄大で、やや荒い波音で彼女を歓迎していた。ディオネは麦藁帽と荷物を傍らに置き、そのまま黙って波音に耳を傾けながら暫く海を眺めていた。周りには人の気配すら無かった。
やがて、波音がやけに近くに聞こえることに気付いたディオネは、潮の満ち引きの状態を確認するために、草の上に膝をついて崖の真下を覗き込んでみた。案の定、崖の中腹ほどの位置に白波が当たっては砕けているのが見える。
――この時間は、むしろ干潮に近いんじゃなかったかしら?
それとも、自分がここまで歩いてくるのに思ったよりも時間がかかったのかと疑って、ディオネはかがんだ体勢のままポケットの懐中時計を取り出した。ところが、彼女が時計の文字盤を目にしようとした直前、何か洪水の時のような嫌な感じの音が海のほうから聞こえてきたので、ディオネは時間を確認するのを中断してふとそちらに目を遣った。
崖の真下を覗き込んでみると、音の正体はすぐに分かった。ディオネは思わず息を呑んだ。こんなものが海に存在するなんて聞いたこともない――。それは、突如海面に出現した巨大な黒い渦だった。よく観察してみると、海水が時々泡を立てながら、渦の中心に向かって絶え間なく吸い込まれているようだ。
――あれは何?
潮の流れによって自然に発生する渦潮とは、様子も大きさも明らかに異なる。それはむしろ、宇宙の果てに存在するというブラックホールによく似ているとディオネは思った。ブラックホールはその強力な引力で、周囲の物質を永久に続く闇の中に飲み込んでしまうのだという。飲み込まれたものがどうなるのかは、この世の誰も知り得ない。
とにかく、何か普通でない事象が起きていることだけは確かだったので、ディオネはすぐにその場から立ち去ろうとした。ところが、彼女が立ち上がった拍子に、中途半端にポケットから取り出したままだった懐中時計がディオネの右手から滑り落ちそうになった。反射的に何とか懐中時計を守ろうと掌と指に力を入れる。その瞬間、彼女はそれに気を取られ、自分が崖の縁ぎりぎりに立っていることをほんのひと時忘れてしまった。丁度そのとき強い風が吹いてきて、彼女の身体は手前側に大きく傾いた。
『お気をつけて。今日は風が強いからね』
あの紳士の言葉がもう一度耳の中で聞こえた気がした。体勢を立て直す暇もなく、彼女の体はほとんど垂直に――つまり、崖の下にぽっかり穴を空ける黒い渦の中心へと向かって投げ出された。視界の端に、渦の中心の深い深い黒色が映る。それは巨大な鰐が口を開けて喉を見せている様子にも思えた。落ちれば文字通り底の無い闇だけが待っている。飲み込まれたものがどうなるのかは、この世の誰も――。
――ああ、こんなことなら、やっぱり確かめればよかった。
渦に飲み込まれる直前、ディオネの脳裏をひとつの小さな後悔が掠めた。今日、地上にひと欠片だけ残してきた、ほんの些細な後悔だった。
そこからはあっという間だった。海上の巨大な怪物は少女の身体を難なく丸呑みにし、それから次第に収束して、ついには跡形もなく消えてしまった。残されたのは、正常な潮位に戻った極めて穏やかなコバルト色の海と、崖の上にきちんと揃えられた少女の荷物と麦藁帽だけだった。
*
“彼”は、海の様子を窺うために一人で天幕の外に出てきた。南東からの風が頻りに音を立てて吹き付けていた。彼は外衣が飛ばされないように襟元を掻き合わせ、目を眇めて暗い海の果てを見据えた。
「なにか見えるか」
いつの間にか、相棒が彼の隣に並んでいた。彼を追って天幕を出てきたものであるらしい。彼は相棒を一瞬だけ横目で見遣って「いや」と応えた。
「……ただ、風が強い。これから嵐になるだろう」
「ということは、明日もこの町で足止めか」
相棒はつまらなさそうに零した。
風の音と波音に混じって、細い絹糸のような歌声が海から聞こえる。それに気付いて、彼はわずかに唇の端を上げた。
「セイレンの歌だ。あれが聞こえるうちは、どのみち航海には出られまいよ」
相棒はそうだな、と気の無い返事を返し、風を厭うように天幕のほうへ引き返して行った。彼も頃合いを見てそちらに踵を返したが、天幕に入る前に一度だけ夜の海を振り返った。まだ航海に出てもいないのに、海の妖魔の宝玉のような歌声は、彼を深い海の底へといざなっているように思えた。
第二話:貿易船
或る日の早朝、水夫は船尾の甲板の辺りで妙な物音が聞こえることに気付いて目を覚ました。昨晩の嵐で固定紐が外れて積荷の樽が転がってしまったか、魚が打ち上げられたか、それとも大きな鳥でも留まっているのか。水夫は長い間海風に晒されたためにひどく軋む髪を荒っぽく掻き混ぜ、仕方なく確認のために甲板へ向かう。すると予想通り、甲板に何か大きなものが落ちているのが確認できた。強い朝日の影になっていたそれの正体に気付くなり、水夫は思わず欠伸を途中でやめて足を止めた。
「せ……船長、副船長! 甲板に!」
「何だ何だ、朝っぱらから……」
水夫に叩き起こされ、先に甲板に引っ張り出されたのは副船長のフィロムだった。フィロムは水夫が指差す先を視線で追って、この船に突如現れた珍客の正体を知った。――少女だ。それは一人の若い娘だった。彼女は身体を丸めて眠り込んでいたが、水夫たちが間近で騒ぐので流石に目を覚ましたらしく、ゆっくり上体を起こしてこちらを見上げた。
彼女が目蓋を上げてフィロムと目を合わせたとき、フィロムは彼女の大きな瑠璃色の瞳に吸い込まれるような気がして一瞬たじろいだ。はっとするほどの容色を備えた娘だった。目元も鼻筋も唇もそれぞれが華やかであるが主張しすぎることもなく、奇跡的とも言える均衡を保って一人の美しい人間を形作っている。明るい小麦色の豊かな髪はまだ半分濡れていて、そのひと房が彼女の首筋に貼り付いていた。
船長を含む数人の水夫は、フィロムの後ろで娘に見惚れてしまって誰も声を発せないようだった。仕方なく、フィロムは船長の代わりに一歩踏み出して彼女との距離を詰めた。
ディオネはこの船の乗組員と思われる数人に取り囲まれ、まだぼんやりと霞がかかった頭で昨日のことを思い返した。あの崖から落ちて黒い渦に飲み込まれ、そこで自分の人生は間違いなく終わるのだろうと諦めていた。ところが、どのくらい時間が経ったかも分からない頃、ディオネはどこか硬いところに打ち付けられた痛みで目を覚ました。はじめは、ここは死後の世界だろうかと考えた。でも、それにしては地面に打った腕は痛いし、吹き付けてくる雨風は冷たい。それで、ディオネはこれがどうやら現実であるらしいことを悟った。地面がしきりに揺れるので、ここがおそらく船の上であることだけは推察できたが、辺りは真っ暗だったし、状況を把握するための手掛かりも何も得られそうになかったので、船から振り落とされないように、そのまま積荷らしき樽に背を預けて朝を待った。
そのうちに眠ってしまっていたようで、翌朝、数人の話し声らしき物音で目を覚ますと、見知らぬ赤毛の青年がディオネを見下ろしていたのだった。
「何者だ」
青年はディオネのほうに一歩踏み出して尋ねた。彼の後ろにいた年嵩の水夫が「おい、フィロム」と言ったので、赤毛の青年はフィロムという名のようだ。ディオネは水夫たちに自分の事情をどの程度話すか迷った。故郷の崖から落ちて見たこともない場所に流れ着いただなんて、まともに考えたら信じてもらえるわけがない。巡り合わせが悪ければ、怪しい侵入者と見なされてここで即座に殺されるか、海に放り出されるのが関の山だ。崖から落ちたときに自分は一度死んだとばかり思っていたので、この現実感の無い状況も相俟って死への恐怖はおおかた薄れていたものの、それでも、出来れば苦痛が増える選択肢は避けたかった。
ディオネが返答に迷っているうちに、水夫たちが「どこから来た」「嵐に紛れてか?」「見慣れん衣だ。イカイジンか」「言葉が通じないようならそうかもしれん」と話し合っているのが聞こえた。一部の単語はディオネには理解できなかった。とはいえ、まずは意思疎通を試みねばならない。ディオネは勇気を出して口を開くことにした。
「船にお邪魔してごめんなさい。あの、良かったら、ここがどこの海か教えてもらえると……」
当たり障りのないことを尋ねたつもりだったが、予想に反して水夫たちは大きく動揺し、ざわめいた。私はそんなにおかしなことを言ったのかしら、とディオネが喉元に手を遣って戸惑っていると、フィロムと呼ばれた水夫が膝をつき、ディオネと目線を合わせて尋ねてきた。
「あんた、言葉が分かるのか。イカイジンじゃないのか?」
彼の櫨色の丸い目には、いま、探究心と好奇心と警戒心が同じくらいの割合で宿っているように見えた。……少なくとも、敵意は持たれていないのかもしれない。ディオネはまだ少し鼓動の早い心臓を押さえて「イカイジンって?」と訊き返した。彼は面食らったように目を瞠り、しばし考える素振りを見せた後、立ち上がってディオネの足先のほうを指差した。
「……とりあえず、こっちに来な。履き物が要るだろ」
そう言われるまで気付かなかったが、黒い渦の中に落ちるときか嵐に巻き込まれて両方脱げてしまったのか、ディオネは履き物を身に着けていなかった。口ぶりからして、彼の提案は純粋な善意からの申し出のように聞こえたので、ディオネは素直に頷き、彼を追って立ち上がることにした。そのついでに、他に落としてしまった物が無いかどうかを確かめようと、白いワンピースの右ポケットにそっと触れてみる。御守り代わりの金色の懐中時計は、黒い渦に飲み込まれる前と同じくそこにあるようだった。けれど、この船に落ちるときに衝撃を受けただろうし、塩っぽい風雨に長い時間曝されてしまったから、もう時を刻むという役割は果たせないかもしれない。それを十分に惜しむ暇もなく、ディオネは素足のままでそろそろと水夫の背中を追いかけた。
*
ディオネは梯子を下りた先の船長室で履き物と風除けの外套を借りてから、葡萄酒の樽がところ狭しと並ぶ貯蔵庫に案内された。貯蔵庫とは言っても、隅のほうには空き樽を利用した急拵えのテーブルと椅子、それに青銅や陶器の食器類が並べられていて、ちょっとした宴会場も兼ねているように思える空間だった。
「オレらは東の国から来た貿易船で、現在“波立つ海”を西進している。昨晩は嵐で足止めされたが、まあ、予定を大幅に超えることはないだろう」
副船長のフィロムはそう言って、積まれた樽のひとつを軽く叩いた。説明されたところで、ディオネにはどこがどこだか見当もつかなかったが、ここが地球のどこかであると仮定すればとりあえずの予想はできる。ディオネが観察したところ、先ほど目にした水夫たちはみな切りっぱなしの麻の衣を錆びた金属のピンで留めていて、枯茶の編み上げサンダルを身に着けていた。それと貿易品が樽入りの葡萄酒であることを考え合わせると、ひょっとすると、昔の地中海周辺、もしくは全く別の場所に存在する類似の文明――。つい深く考え込みそうになったところで、フィロムがまた話を始めた。
「それでだ。あんた、ディオネって言ったな。海の上に突然発生した黒い渦の中に誤って落ちて、気がついたらこの世界にいた、って」
ディオネは頷いた。ここまでのやりとりから、少なくとも水夫たちが自分を傷つけようとしているわけではなさそうだと信じることができたので、その辺りの事情は先ほど船長室で打ち明けたのだった。
「それなら、イカイジンであることはほぼ間違いないだろうな」
異界人とは、ディオネと同じようにあの黒い渦の中に落ちてこの世界に迷い込んだ者の総称だ。フィロムはそんなふうに説明した。違う世界から迷い込むので、当然ここの言葉は解らない――。そこまで聞いたところで、ディオネは自分が口を利いたときに水夫たちが何故ざわめいたのかを理解した。服装等から明らかにこの世界の言葉が分からない異界人であろうと推測される人物が、この世界の人間と難なく意思疎通を行ったことを彼らは訝しんでいたのだ。これはディオネ自身にも仕組みが分からないことだった。自分の認識としては、一貫して英語だけを話しているつもりなのだ。
「それで、だ。今まで見たことはないんだけど、理論上、異界人なのに最初から言葉が通じるっていう例は二種類考えられる」
フィロムは節くれ立った少し浅黒い指をディオネの目の前に二本立ててみせた。
「一つ目は、元々ここの人間だったのが、時空の虚を通って異界に飛ばされ、もう一度戻って来た場合。まあ、それもかなーり低い確率だろうけどな」
「時空の虚?」
訊き返すと、ディオネが通ってきたあの黒い巨大な渦のことをこの世界では時空の虚とか時空の切れ目と呼んでいるのだとフィロムは説明した。文字通り、そこを通った者は、何処とも知れぬ『異界』に飛ばされてしまうのだという。
「ただ、あんたは一つ目の例には当てはまらない。もしそうなら、この国の言葉を自覚無く話せるなんてことは有り得ないからな。飛ばされた先の異界で、必ず一度は言語の壁にぶつかってるはずだ」
ディオネは納得して「確かに」と同意した。
「んで、二つ目の例は――」
フィロムが言いかけたところで、どうやら高波に当たったようで船全体が大きく揺れた。二人ともどうにかその場で踏み止まったが、揺れが鎮まったことにほっとしたそのとき、ディオネの背後でごく小さな木材が転がるような軽い音がした。何かしらと思っていると、フィロムが慌てたようにディオネの真後ろの樽を指差した。
「あーっ、葡萄酒が。ディオネ、ちょっと、その杯で受けてくれ。早く、早く」
何ごとかと反射的に後ろを振り返ったディオネは、一つの樽から葡萄酒が絶え間なく流れ出てしまっているのを発見した。揺れた拍子に、樽についている注ぎ口の木蓋が緩んで取れてしまったのだ。とりあえず言われるままに青銅の杯を二つほど食器棚から取り出し、零れ出している葡萄酒が床に落ちてしまう前に出来る限り受け止めようとしてみる。ディオネが試行錯誤している間にフィロムが木蓋を回収して嵌め直し、葡萄酒の流出はようやく止まった。波もおさまって全く元通りの静寂が訪れた貯蔵庫のなか、二人は顔を見合わせて長い安堵の息をついた。
「それ、飲んじまおう。証拠隠滅だ」
フィロムはディオネが両手に持っている杯を指して悪戯っぽく言った。ディオネは驚いて「未成年よ」と首を振る。フィロムは片眉を上げて首を傾げた。
「ん? まあ、そうだな、まだ小さいガキにだったら与えないほうがいいだろうけど。あんたは別にそうじゃないだろ?」
いくつなんだとフィロムが訊くので、あと数ヵ月で十七になると答えた。フィロムは「なんだ、オレと同じだ」と破顔した。彼があんまり明るく笑うものだから、ディオネはもう飲酒年齢の決まりを律儀に守る気が失せて、フィロムと一緒に葡萄酒を頂くことにした。どうせ、ディオネの故郷の警察がはるばる此処まで追って来てこの状況を見咎めるなんてことは起こりやしないのだ。
空き樽の椅子に腰かけて杯に口をつけると、発酵した葡萄の芳醇な香りが鼻に抜ける。次いで、果実酒らしい甘みが口の中に広がったかと思うと、その奥にある酸味と渋みが顔を出す。舌に載せたときの印象は濃厚ながら、酸味のお蔭で後味は意外とさっぱりしていた。
「……美味しい」
思わず頬が緩んだ。フィロムは「だろ?」と満足気に目を細める。ディオネはこの若い青年のことを自分よりも少しばかり年上かと推測していたが、笑うと年相応に見えることを発見した。
葡萄酒を飲み干すと、フィロムは他の乗組員への指示があると言って船の上に上がっていった。ディオネは葡萄酒の樽の整理やこまごまとした用事を頼まれ、慣れない船仕事を何とかこなそうと奮闘しているうちに、気付けば日が沈んでいた。水夫たちは今日の働きに対する分け前だと言って、保存用の干し肉とパン、それに味の薄いスープをディオネにも分け与えてくれた。
夕食の後、ディオネは水夫たちが話し込んでいるところから抜け出して、船尾の甲板のほうに出てきた。昨夜と違い、海は平和に凪いでいて、時折吹く微風が心地よかった。ディオネはひとつ息をつき、歌を口遊み始めた。母がよく歌っていたあの童謡だ。宴会場から漏れ聞こえる話し声のほうが大きいから、このくらいの声量なら迷惑にもならないだろう。
歌が二番に差し掛かったところで、ディオネはすぐ後ろに人の気配を感じた。それは背中にぴったり体温を感じるほどに間近だった。おかしいと思って振り向いたときには既に羽交い絞めにされ、口元を塞がれていた。湿った不快な鼻息が絶えず耳元に降りかかる。
喉が完全に閉まって声が出せなかった。こうやって男性が本気でこちらの動きを封じに来たら、細腕の娘になすすべはない。頭の中が真っ白になりかけたところで、「おい」と別の声がして、ディオネに組みついていた水夫がバランスを崩し、そのまま仰向けに尻餅をついた。ディオネは肩で息をしながら恐る恐るそれを見下ろした。今朝会った水夫の一人で、四十がらみの髭面の男だった。男は呆けたようにこちらを見上げ、意地汚く舌打ちをして「何だよ。ちょっとくらい良い思いさせてくれたって、いいじゃないかよ」と捨て台詞を吐き、まだ足腰が立たない様子で這うように逃げていった。
「……ったく。一応客人扱いしろって釘刺したそばからコレだ」
フィロムは腕を組んで眉を顰め、逃げていく水夫の背中を睨みつけた。ディオネはやっと深く息ができたような心地で、助けてくれたフィロムに「ありがとう」と声を掛けた。
「ここで風に当たってたのか。昼間の酒に酔ったか?」
フィロムの返答はさっぱりしたものだった。ディオネは苦笑して、「ううん、大丈夫」と首を振る。辺りに少し涼しい風が吹いた。ディオネは先ほどのひと悶着で外套が床に滑り落ちてしまっていたことを思い出し、拾い上げて肩に羽織った。二人は横並びになって、そのまま落ち着くまで黙って海を眺めていた。ディオネの視界の端で、一つに編んだ赤い猫っ毛がふわふわと風に揺れていた。
やがて、フィロムがディオネのほうに向き直って静かに尋ねた。
「あんたは、これからどうしたい? こっちに来たばかりで、まだ考えられないかもしれないけどさ」
ディオネは彼のまっすぐな眼差しから逃れたくなり、目を伏せて海を見下ろした。灯りの届かない真っ暗な海は、彼女に故郷の海岸とあの黒い渦を思い出させた。
「元いた世界に……家に、帰れたらいいと思うわ。出来れば」
ディオネがどこか茫洋とした声で吐き出したその答えを受け止めるように、フィロムは「うん」と首肯した。
「……この船は、明日には港に着く。そうしたら、オレの知り合いに連絡をとるから、とりあえず、そいつに着いて行きな。多分それが、あんたの目的を達成するための一番の近道になる。おまけに、それはあんただけじゃなく、こっちの世界のオレたちにも利があることだ」
「利がある……?」
「ああ。それが、オレが乗組員たちにあんたを客人扱いしろと命令した理由だ。あんたはそれだけの値打ちを持っている。いや、その可能性が高い、と言うべきか……。オレじゃ判定できないからな」
値打ちと聞いて、ディオネは思わず半歩身を引いた。それを見透かしたように、フィロムは誤解するなと苦笑した。
「何も、見世物小屋かどこかに売ろうってわけじゃない。とにかく、明日からの詳しいことは、その知り合いから色々聞きな」
もとより一寸先をも知れぬ道行きだ。ディオネはとりあえずフィロムの提案に従うほか無かった。
彼との話が一段落した後、だいぶ心が落ち着いてきたディオネは、先ほどの歌の続きをまた小声で歌い始めた。時折聞こえる波音が丁度良い伴奏になった。奏でた音の一つひとつが、今宵の海にみんな溶けて泡になってしまいそうな気がした。最後の一音まで歌い終えて息をつき、ふと隣を見ると、フィロムが驚いた顔でこちらを見つめているのに気付いた。
「……なあ、あんた、元の世界とやらでは、歌うたいだったのか?」
彼の声は興奮からか僅かに震えているように聞こえた。ディオネはとんでもない、と首を振った。人前で仕事として歌うどころか、身内以外にまともに歌を聞かせたことさえ無いのだ。祖父や祖母は褒めてくれたけれど、単なる身内贔屓の感想に違いないと、ディオネはその賛辞を真正面から受け入れたことがなかった。
「セイレンが歌ってるのかと思った。二つの意味で鳥肌が立ったよ。もしそうなら、この至近距離で歌声が聞こえた時点でほぼ終わりだからな」
ディオネもセイレンの伝説には聞き覚えがあった。その美しい歌声で船乗りを惑わせ、船を転覆させる女怪だったか。今の例えは果たして褒め言葉なのだろうかとディオネが返答に迷っていると、フィロムはそういえば、と続けた。
「その歌、あんたも知ってるんだな」
「この歌? こちらの世界でも知られてるの?」
心当たりがないディオネは、ただ目を丸くして首を傾げた。それでフィロムのほうも「あー……いや、歌詞は違ったか」と何でもないように笑って頭を掻いた。
二人が並んで見つめる東の果ての海は、既に薄ぼんやりと明るくなってきていた。夜明けが近いのだ。ディオネはフィロムの勧めに従い、船室の隅を使わせてもらって少しでも休むことにした。梯子を下りる前に、ディオネは頭上に広がる空を仰いでみた。夜空には雲ひとつ無く、船に張られた帆の間から無数の星が垣間見える。名も知れぬ鳥が一羽だけ彼女の視界を横切って行った。ディオネは何となく、その小さな鳥の行く末をしばらく目で追わずにはいられなかった。
第三話:ヘラス
昨日フィロムから聞いたとおり、船は昼前には港に到着した。そこはディオネが想像していたよりも遥かに規模が大きい港のようで、何十名も乗り込めそうな大型の商船らしき船が何艘も同じ向きで停泊していた。船を下りるときに足元に目を落としてみると、海岸線に沿って、白く泡立つ波が規則的な間隔で打ちつけては砕けていた。
ディオネは海のほうを振り返り、ひととき呆けたように口を開けて、港に停泊している船のなかでもひときわ目立っている立派な帆船を見上げた。その船はどうやらフィロムたちと入れ違いで何処かに出航するらしく、水夫たちが絶えず行ったり来たりして忙しく出航の準備をしているようだった。その様子を見て、フィロムは「あれ? 見覚えのある奴らがいる。ってことは、あいつ、今この町にいるのか?」と意外そうに呟き、一旦ディオネをそこに待たせて、帆船に出入りしている男たちの一人に話しかけに行った。何か二つ三つ質問をしているようだ。フィロムは帰ってくるなり、思ったより早く知り合いに連絡が取れそうだからここで待ってなとディオネに言い置いて、何かの手続きをしに行ってしまった。
急に手持無沙汰になったディオネは、言われたとおりにしばらくそこで時間を潰していたが、海岸に打ち寄せる細波が宝石のようにあんまり輝いているので、どうしても好奇心に打ち勝てず、すこしだけ散歩に出ることにした。迷いようのない一本道でもあることだし、すぐに戻って来さえすれば、フィロムと問題なく合流できるだろう。
船の上から眺める海も美しかったが、こうして砂浜側から波音を楽しむのもまた格別だった。ディオネはゆっくり海岸を歩きながらいつもの歌を口遊み始める。歩くたびにサンダルの底にさらさらした砂の質感を感じるのが楽しかった。
ところが、しばらく歩を進めると、清らかな波音に混じって低い唸り声が微かに聞こえることに気付いた。ディオネは歌うのをやめ、足を止めて摺り足で引き返し始めた。何の動物か分からないけれど、急に走り始めたら刺激するかもしれない。そう考えて迷っているうちに、海の対面に広がる森の中から遂に唸り声の主が姿を現した。前脚を上げたら人間の身長ほどの高さになりそうな大型の狼が三匹から五匹ほど。狼たちの鋭く光る目は皆しかとディオネを捉えており、彼女には自分がいま獲物として見られているのだということが嫌でも分かった。
たっぷり十を数えるほどの膠着状態を破ったのは狼のほうだった。親分格らしい一番体の大きな一頭がディオネとの距離を詰めて飛びかかろうとしてくる。ディオネは何とか首元だけでも守らねばならないと考え、咄嗟にその場で自分を抱きかかえるように蹲った。
その後にディオネの耳が捉えたのは、風切り羽の音と、何か棒のようなものが空気を切る音、次いで悲鳴にも聞こえる狼の低い鳴き声だった。それらの音は数秒待っても止まなかった。何が起こっているのかとディオネが思わず頭を上げると、ちょうど頭上に影ができた。信じられないほど大きな白い鳥が彼女の頭の上を横切ろうとしているところだった。ディオネはそのまま鳥の行く先を追う。すると、剣を抜いた男性と先ほどの白い鳥が、剣先と嘴を使って狼らを追い払っているのが見えた。
大きな鳥が辺りを縦横無尽に飛び回りながら執拗に目を狙ってくるので、狼はついに堪りかねて森のほうに逃げ出した。その鳴き声が森の奥に消えていくのを待って、男性と大きな鳥はやっとディオネと対面した。
背の高い、精悍な顔立ちの青年だった。黒髪を無造作に流しているだけなのに妙にさまになっているし、形の良い目も骨ばった顎も、まるで大理石の彫刻に顕された人物のようだ。しかし、彼の容貌以上にディオネが特に注意を引かれたのは、彼が他の人間とは明らかに異なるオーラのようなものを薄くまとっていることだった。大きな鳥の周りにも同じような気配を感じた。
その正体を考えているうちに、ディオネはいつまでも人を見つめていては失礼になると我に返り、青年に礼を言いかけた。それを遮るように、彼は硬さを感じる声でディオネに問いただした。
「お前、何故ここにいた。少なくともこの町の者であれば、この時期にこの海岸を一人で歩くなどという愚行はまさか冒さないだろう。どこぞの旅人か? それにしては無知すぎる」
「な……」
あまりの言いように、ディオネは言葉を失って思わず立ち上がった。だが、ディオネが何か言い返す前に、まったく予想外のことが起こった。どこからか、ディオネのでも青年のでもない、第三者の声が聞こえてきたのだ。
「まあまあ、そこまで言わずとも良いだろう。それに、美しい歌声に惹かれて様子を見てこようと言い出したのは元々ケイロスのほうではないか」
ディオネはしきりに辺りを見回し、その声の出どころを探そうとした。だが、音の位置から突き止めた声の主は、どう考えても――。
(えっ? 今、この鳥が喋っ……)
ディオネはそう呟いたつもりだったが、実際は声にならず、ただ大きな鳥の嘴が動くのを見つめて目を瞬いただけだった。白い鳥はいつの間にかその大きな羽を器用に畳んで、飼い主らしい黒髪の青年の肩にとまっていた。
ディオネが鳥と青年を交互に見てやっと口を開こうとしたとき、遠くから「おーい」と赤毛を編んだ青年が駆け寄ってくるのが見えた。フィロムがここを見つけてくれたのだ。
「ディオネ、ケイロス。こんなところにいた。二人とも、もう顔を合わせてたのか」
それを聞いて、当事者の二人はまるで示し合わせたかのように目を丸くして同時に顔を見合わせた。
「もう……ってことは、この人が?」
フィロムに訊くと、彼は頷いて、ケイロスと呼ばれた背の高い黒髪の青年にディオネを紹介した。
「航海中に拾った娘だ。異界人のようなんだが、最初からこの世界の言葉が理解できた。だから、多分“あの件”で何か力になるんじゃないかと思ってさ。あと、あの実験に適合する確率も高いだろ」
全く表情を変えずにフィロムの話を聞いていたケイロスは、改めてディオネをじっと見て、何かに納得したように首肯した。
「確かに。これは、“そう”だな。気配で分かる」
彼らが何について話しているのかディオネにはひとつも解らなかったが、フィロムは「やっぱりか」と満足気だった。そんな彼をよそに、ケイロスは港のほうへ早々と踵を返してディオネを促す。
「……良いだろう。ついて来い」
ディオネは頭が追い付かないまま、肯定とも否定ともつかない返答を曖昧に返して、彼の広い背中をぼんやり眺めた。そうしているうちに、隣に立つフィロムに軽く背中を押される。
「じゃ、オレはここまでだな。行ってきな」
「…………」
ディオネはケイロスの後を追いかける前にフィロムのほうを向き、「ありがとう」と彼の手を取った。これからどうなるかは分からないながらも、まずは彼らが自分を殺したり海に落としたりせずに無事に陸地まで送り届けてくれたことに対して感謝を捧げねばならないと思った。フィロムは答えの代わりに歯を見せて笑った。彼はディオネと繋いだ手を軽く振りながらこんなことを言った。
「あのさ、オレ、実は修行中の身なんだ。今はあの船に置いてもらってるけど、時が来たら東の国に戻ることになってる」
オレとしては、ずっと船乗りでいたいんだけどな。そう付け足したフィロムは、ディオネの目をまっすぐ見て微笑んだ。
「で、場合によっては自分の親くらいの年齢の仲間を副船長として引っ張って行かなきゃならなかったりして、大変なときもあるんだよ。だから、なんて言うか……今回、同年代のあんたと話せて、こうやって良い縁を持ててよかったと思ってる。またいつか会えるといいな」
ディオネも心から微笑んで「うん。私もそう思う」と答えた。中天に至った太陽の光が葡萄酒色の海に反射して、彼らの視界の端でちらちら輝いていた。
ディオネはフィロムを見送った後、ケイロスという青年と白い鳥を小走りで追いかけた。すると、港にほど近い場所に張られた天幕に辿り着いた。ケイロスはディオネをひとまずその中に入るように促した。ディオネが入口の幕をくぐる直前、また別の男がやって来てケイロスに話しかけているのが聞こえた。
「ああ、こんなところにいらしたんですか、ケイロス王。シノンも。ええと、取り急ぎご報告を。たった今、追加の物資が届きまして、現在不足しているのは……」
「……えっ?」
ケイロスが答える前に、声が漏れてしまった。報告に来た部下らしき男は、自分の報告を聞いて突然声を上げた見知らぬ娘に一瞬怪訝な目を向けたものの、この状況ではまず職務を優先すべきだと考えたのか、また何事も無かったように身体の向きを変えてケイロスに話しかけ始めた。その隙に、ディオネはシノンと呼ばれていた白い鳥の嘴に促され、そそくさと天幕に滑り込んだ。
もう鳥が人語を話せることを不思議がっている場合ではなかった。天幕の出入口を閉じるなり、ディオネはシノンと呼ばれた鳥に「あの、さっきの話は本当?」とこわごわ尋ねた。シノンは平然と瞬きをした。
「ん、フィロムから聞かされていなかったか。まあ、あやつの考えそうなことではあるな」
「…………」
ディオネは今度こそ二の句が継げなかった。いや、というか、一国の王と知り合いで、しかもあれほど気安く話せる仲だなんて、フィロムも一体何者なのだろう。顎のところに手を遣って深く考え込んでしまったディオネを横目に、シノンは細い足で悠然と天幕の隅へ向かい、首の長い壺に嘴を入れてのんびり水分補給をし始めた。
その日の午後にディオネとシノンが言いつけられた用事は、港に隣接する市場での物資調達だった。何でも、ケイロスたちの一行はもう何日も前から予定外の嵐や王城からの物資補給の遅れによってこの港で足止めされていて、あと少しの食糧が調達できれば、明日にでも出航の目途が立つのだという。言われるままにディオネが天幕を出たところで、隣でシノンが大きく翼を広げて伸びをした。すると、艶のある白い羽根は白銀の長い髪に、しなやかな胴体は淡い光に包まれてたちまち人間の身体へと変化していく。ディオネがひとつ瞬きするくらいの間に、一羽の鳥はいつの間にか一人の細面の青年の姿へと取って代わったのだった。
「買い物に行くなら、人間型のほうが便利だからな」
「はあ……」
ディオネはもはや驚く元気もなく、この世界で起こる人智を超えた物事を全て受け入れられそうな境地にまで達していた。
パピルス紙に書かれた買い物リストを片手に市場への道を歩いている最中、髪の長い青年――シノンはこの世界のことを少しずつディオネに話した。
「この国のことを、我々はヘラスと呼んでいる。もう何百年か前からそう呼ばれているそうだ」
ヘラス、とディオネは復唱した。シノンはうん、と頷いて続ける。彼が手振りを交えて説明するたびに、左手の中指に嵌まっている金と銀の環を捩ったような指環のふちが陽光を反射して微かに光った。
「そしてここからが、恐らくケイロスがきみを自陣に加えることにした理由に繋がる。我が国は、もう何年も前からある現象に悩まされている。きみは当事者ということだから、フィロムから少しは聞いたかな。『時空の虚』の件だ」
「ええ。私のように、別の世界から迷い込んでしまう人が時々いるって」
「ああ、それだ。それが問題になっている。何しろ、異界人はこの国で生きるための知識も住まいも無いし、言葉が通じないから、周囲と意思疎通ができるようになるまでに時間がかかる。この国で自ら生計を立てる水準にまで至るのは更に難しい。結果として、異界人の大部分は浮民化してしまう。奴隷として雇ってもらえればまだ良いほうだ」
ディオネは、そう……と一言だけ相槌を打って目を伏せた。
「それで、時空の虚を無くそうと?」
「結果としてはそうなるが、そこまでの過程が少し違う。――込み入った話になるから、ここから先は、ケイロス王が同席しているときにまた説明しよう。ともかく、現時点で言えるのは……そうだな。きみが二重の意味で、時空の虚の問題を解決するための力になれる可能性があるということだ。それが成就すれば、きみが元いた世界へ帰還できる確率も高くなる」
シノンにそう言われて、ディオネはまだ細かいところは腑に落ちないながらも、何とか情報を呑み込んで首を縦に振った。そして、ケイロス王という響きに改めて耳馴染みの無さを覚え、ひとりごとのように呟いた。
「……あの人がこの国の王様なのね。何だか偉そうな人だと思っていたんだけど、本当に偉い人だったなんて」
その途端、隣でシノンが声を立てて笑うのが聞こえた。
「あれでも悪気は無いのだ。分かりづらいが、慣れてやってくれ」
言いながらも、シノンはどこか楽しそうだった。笑いの波がおさまると、穏やかな声で話を続ける。
「……私は元々、群れで生活する鳥の一羽だったんだ。偶々周りと違う色で生まれたばかりに群れから爪弾きにされてね。ひとりでは餌が取れずに死にかけていたところを救ってくれたのが、あの王だった」
因みに、ケイロスが私を拾ったのは先ほど狼が出たあの海岸の近くだ、と彼は軽く笑って付け足した。ディオネは長い髪で少し隠れたシノンの横顔を見上げた。硝子のような彼の瞳は金色を基調としてはいるが、よく見ると複雑な色味をしていて、光の角度によってあけぼの色に見えたり淡い紫が混ざって見えたり、あるいは銀灰色に翳って見えたりした。視線に気付いてシノンは彼女と目を合わせ、わずかに目を細めた。
「ともかく、私が彼に付き従っているのは、そういう理由だ。恩返しとまではいかなくとも、傍にいることで何か少しでも力になれたら良いと思ってね」
昼下がりの市場の様子は思ったよりも随分雑然としていて、そしてそのぶん活気に溢れていた。甘い香りのする青果店に、食器や骨董を扱う店、美しい織布を飾っている店、壺入りの蜂蜜を出している店、山盛りのスパイスが並ぶ店など、ディオネにとってその全てが目新しかった。中でも、季節の花を取り揃えた生花店らしき露店はひときわ華やかだった。鮮やかな赤や紫のアネモネの花が店先で風に揺れている。
ディオネはしばらくシノンと一緒に行動し、頼まれた品物を順に調達して回っていたが、途中で時間が足りなくなりそうなことに気付いたので、落ち合う場所を決めて残りは手分けすることにした。
手書きの大雑把な地図を頼りに、干し果実と木の実を出している小さな露店をやっと見つけて足を止める。そこで店番をしていたのは、三十になるかならないかの年の頃に見える痩せた男性だった。ディオネはケイロスの部下に頼まれた通りの品を念入りに確認しながら注文し、店番の男性に銅貨を手渡す。そこでディオネは、銅貨を受け取る男性の指が細かく震えていて、目にも頬にもまるで生気が無いことに気付いた。ひどく寒そうな様子なのに、彼の額には脂汗が浮かんでいる。
ディオネが彼を心配して声をかけようとしたところに、ちょうど店の奥から店主らしい婦人が現れた。彼女は店番の男性の薄い掌から素早く銅貨を回収し、品物が入った袋をディオネに渡した。そして「あんたはもういいから、あっちに行ってな」と、男性を店の奥に手で追い払うような仕草をした。
「すまないね。言葉の不自由な異界人でさ」
ディオネは、そうなんですね、と答えながらも男性の様子が気になって、店の奥のほうに目を遣った。
「ほら、異界人は寿命が短いって言うだろ。店にとっては正直お荷物でしかないが、あの様子だとどうせあとひと月も生きていやしないだろうからねぇ。使用人として買い取ってやったことを感謝してほしいくらいだよ」
店の主人はそんなことを軽快な早口で喋り倒し、たくさんお買い上げありがとうね、とディオネに営業用の笑顔を向けた。ディオネは何だか言葉が詰まってしまって、ぎこちない会釈を返すのが精一杯だった。
自分が地を歩いている感覚が無いまま、シノンとの待ち合わせ場所へと向かった。先ほどの露店の店主の話が頭の中で何度も何度も繰り返されていて、道行く人の賑やかな話し声も急に消え去ってしまったようだった。
その静寂を破ったのは、甲高い子どもの声だった。辺りを見回すと、すぐそばの広場のほうで子どもが走り回っているのが見えた。元気に遊んでいるのかと思い、しばらくぼんやりとその様子を見守っていたディオネは、どうやらそうではないことに気付いて息を呑んだ。喧噪の中に聞き覚えのある唸り声が混じっている。行き交う人の間から何とか様子を確認すると、怯える子どもに狼が今にも飛びかかろうとするところだった。
「――危ない」
考えるより先に体が動いていた。ディオネは狼と子どもの間に飛び出して子どもを抱きかかえた。勢いよくしゃがんだ拍子に、足元の石畳で膝を擦り剥いた。同時に、狼の鋭い爪が二の腕の辺りを掠ったのが分かった。狼は助走のために一旦距離を取り、尚もディオネの肩に取りつこうとしているようだった。
避けられない――。冷や汗が背を伝った。子どもに危害が及ばぬように腕に力を入れる。その瞬間、ディオネは自分の掌にだけ熱が集まるような不思議な感覚を覚えた。これは何だと事態を把握する暇もなく、今度はこちらに向かってこようとしていた狼が何かにぶつかって突然足を止めた。その場で右に左に徘徊しているのを見るに、狼自身も混乱しているようだ。まるでそこにだけ見えない壁が突如出現したかのようだった。そうしているうちに狼はついに諦めたのか、尻尾を下げて広場の向こうの茂みへと姿を消した。その間、ディオネはずっと息を止めていたが、やっと息をついて、子どもを抱きしめる腕の力を緩めることができた。
いつの間にか、広場にはディオネと子どもを中心としてちょっとした人だかりが出来ていた。周りの人はみな、今起こった不可解な現象を目にしたからか、気味悪がって誰も近付いて来ようとはしなかった。ディオネが腕の中の子どもの背を撫でながら戸惑っていると、「ちょっと失礼」と人垣を掻き分けて誰かがこちらに近付いてくる気配がした。すぐに頭の上に人ひとり分の影が出来て、ほっそりとした腕がディオネの前に差し出される。
「お嬢さんと坊や、大丈夫?」
ディオネはまだ頭の整理が追い付かないまま、顔を上げて声の主をうかがう。そこには片腕に大きな甕を抱えた若い黒髪の女性が立っていた。彼女の後ろで、二人組の女性が眉を顰めてちらちらと彼女のことを盗み見ながら何事かを囁き合っているのが見えた。「魔女だ」という一つの単語がディオネの耳にも聞こえた。
彼女は背後の陰口に頓着する様子もなく、ディオネが受けた傷の程度を素早く把握すると、静かな声で「傷口を清めたほうがいいわね。ついて来て」と言ってディオネたちを手招きした。ディオネが彼女の後ろの人垣のほうに目を移してみると、陰口を言っていた女性二人組はいつの間にかいなくなっていて、代わりに、ディオネをここまで探しに来てくれたらしいシノンが、一体何があったのかと訊きたそうに黒髪の女性の後ろからひょっこり顔を出していた。
第四話:魔女と琴弾き
「――これでいいわね。こうして膏薬を塗り込んでおけば、数日で跡も残らずに治ると思う」
ディオネたちに声をかけた黒髪の女性は、「思ったよりは傷口が浅くてよかった」と言いながら、麻の包帯が巻かれたディオネの上腕に軽く触れた。ディオネと一緒にいた子どもには幸い目立った怪我はなかったので、探しに来た親に無事引き渡し、ディオネだけがここで手当てを受けることになったのだった。
手当てが一段落したあと、ディオネは部屋の中に所狭しと置かれた甕や瓶のたぐいを興味深く見渡した。これが全て薬の材料や薬草だそうだ。手当てをしてくれた背の高い女性は、親切に「はい。熱いから気をつけて」と言って、取っ手のついた器をディオネに手渡してくれた。ミラと名乗った彼女はこの町で薬師をしていて、今日は薬の材料を調達しに市場に出たところ、偶々あの広場での騒ぎに行き合ったのだという。
湯気の立っている器の中身は、体があたたまる蜂蜜湯だった。黄みがかった緑色の瞳の上に長い睫毛を伏せて蜂蜜湯の器に口をつけるミラの様子を、ディオネは自分の器越しにこっそりと窺ってみた。ミラはさほど感情表現が豊かな性格ではないらしく、口数も少なかったが、簡潔で飾り気のない言葉にはそのぶん不純なものが混じっていないように感じられて、この短い時間のやりとりだけでも、ディオネは彼女の振る舞いに好感を持ち始めていた。蜂蜜湯を味わうあいだ、小さな治療室の中は概ね沈黙で満たされていたが、不思議と居心地は悪くなかった。
二人でゆっくりと器の中身を飲み干し、ちょうどひと息ついたところで、その静かな時間は終わりを迎えた。不意に玄関の木戸が開いて人が入って来る気配がしたのだ。ミラが食器を置いて応対に出る。ほどなくして、玄関のほうから「あら、お帰り。明日じゃなかったの?」「事情を聞いて、折角だからと当番を代わってもらったんだ」というやりとりが聞こえた。
そのまましばらく待っていると、ミラが彼を連れて治療室に戻ってきた。藁の色の髪を後ろで一つに結っている若い男性だった。
「急にあわただしくなってごめんね。夫のアルカスよ」
ミラはその男性のことをディオネにそう紹介した。ディオネが軽く会釈してアルカスと目を合わせたとき、また不思議なことに気付いた。ケイロスやシノンの周りに感じた薄いオーラのようなものが、彼の周りにもある。少なくとも彼女にはそう感じられた。それはフィロムやミラや、水夫たちや、市場で会った人たちに対しては明らかに感じられなかった気配だ。この違いは一体何なのだろうと考えているうちに、いつの間にか家に入って来ていたらしいもう一人の男性の人影がアルカスの後ろから姿を現した。
「あっ……」
その人影の正体を知って、ディオネは思わず声を上げた。対照的に、ミラは然して驚いてもいない風で、「シノンは一緒じゃなかったの?」と平然と彼に話しかけた。彼――ケイロスは、「あいつは久しぶりに人型になって疲れていたようだからな、今夜は休ませる」とミラに答えた。
「彼女、シノンと連れ立っていたからまさかとは思ったけど、あなたの知り合いだったのね」
ミラは意外そうにそう言ってディオネとケイロスを交互に見たが、意外な繋がりに驚いたのはディオネのほうだった。聞けば、ミラとアルカスとケイロスは共通の友人で、子どもの頃はきょうだいのように育った間柄らしい。
「ケイロス、道すがら話していた異界人というのは彼女のことだね? 確かに気配が違う」
アルカスが優しそうな栗色の目でディオネをじっと見て微笑んだ。ケイロスは食卓の椅子を引っ張り出してきて腰掛けながら「ああ。おそらく我々と同類だ」と言った。
「そういえば、広場での騒ぎのときに……」
同類とはどういうことなのかとディオネが疑問を投げかける前に、厨から軽い夕食を運んできたミラが相槌を打ち、ディオネの周りに見えない壁が出来て狼を追い返したことを話した。ミラは途中から騒ぎに気付き、人垣の間からそれを目にしていたのだった。アルカスはミラの話を受け、少し考えてからディオネに尋ねた。
「なるほど。ディオネ、そのときに何か変わったことはあった?」
ディオネは昼間のことを思い出して、掌に熱が集まる感じがした、とアルカスに伝えた。それに、ケイロスとシノン、アルカスの周りに見える共通のオーラのことも言っておかなければならないと思った。ディオネの話を聞いたアルカスは、得たりとばかりに深く頷く。
「それがまさに、きみが僕たちと同じ能力を持っているという証拠なんだと思う。言い換えれば、血の力とでも呼ぶべきかな。僕たちは普段、そういう者を『神力を持つ者』と呼んでいる」
「神力……」
「そう。それが何かを詳しく説明するには、この国の成り立ちまで遡る必要があるかもしれない」
アルカスはスープ匙を空中で動かして、遥か遠くまで遡るような身振りをした。
夕食を終えた後、ケイロスたちは食卓を片付けてちょっとした談話室のような空間を作り出した。そこでアルカスが何か思いついたように一人で立ち上がったかと思うと、奥の部屋から楽器を手に戻ってきた。縦長の半円型に成形された木製の台に幾つかの弦が縦向きに張られているのを見ると、その楽器は竪琴のようだ。彼以外の三人が輪になって見つめるなか、アルカスは呼吸を整えるために小さく息を吸ってから弾き語りを始めた。少し掠れていて柔らかい、けれどもよく響く歌声だった。
むかしむかしの神の庭 天の御神と地の女神
御子がこの地の王となり 幾百の日が経ちにけり
神の力の香る地は いつしか寂れ 人の手に
今では貴き神々は 遠い御山の奥深く――
「――つまり、国造りの神話だね。元は神々の子孫が治めていた国だから、その血は王家に連綿と受け継がれていて、神の力を発現することがある、と言われる」
「ということは、単なる伝説というわけではなく、実際にケイロスや王家の人は神の力を持って生まれているの?」
ディオネが尋ねると、ケイロス本人が「いいや、神々の時代からは既に何代も下っているからな。血も大分薄まり、神力を持つ者が生まれることは少ない」と否定した。けれど、とアルカスが後を引き取る。
「稀に、先祖返りと言って、神の血が濃い人間が生まれることがある。ケイロスはそれだ」
だから、ケイロス王が強い神力を持っているというきみの見立ては、結局一周回って正解ということになるね。アルカスは笑ってそう付け足してくれた。ケイロスはそのアルカスを指して、「こいつも王族には当たらないものの、最高神の血を引いていて、神力を持っている。俺のような例外を除いては、基本的に家系図上の距離が神に近いほどその血は濃くなるからな」と続けた。
「……今までの話の流れだと、もしかして私も?」
「ああ、ほぼ間違いないだろう。先ほどお前自身が言っていたように、神力を持つ者は本能で同族を見分けられる。異界人にもかかわらず最初から言葉が分かったのも、狼と出くわしたときに近付けさせなかったというのも、おそらく神力の影響だ。神の血には、人間の摂理を越える様々な力があるとされる」
ケイロスからそこまで説明を受けたところで、ディオネはフィロムが「オレじゃ判定できない」と言っていたことを思い出して得心した。「本能で同族を見分けられる」というのが、ディオネが体験したように「他の人とは違うオーラが見える」ことと同義なら、神力の無い自分にはその判定が出来ないと彼は言っていたのだ。
「――さて。難しい話は今日はこのくらいにしておいて、最後にもう一曲くらい弾こうかな」
アルカスは竪琴の弦を何本か軽く鳴らした。四人が話し込んでいるうちに、夜はすっかり更けていた。すると、ケイロスは何か思いついたように唇の端を上げて、「良い機会だ。アルカスにひとつ歌曲でも教わるといい」とディオネに促した。ディオネは彼がわずかでも笑うのを初めて見た気がした。
アルカスはパピルス紙に書かれた簡単な楽譜を奥の部屋から持って来て、いくつか見せてくれた。しかし、残念ながらディオネにはいまいち読み方が分からず、結局は旋律だけアルカスに実演してもらってそれを真似することにした。
竪琴の伴奏で、一節分の音符をゆっくりと唇から滑り出させる。ディオネの歌声を聴いた途端、アルカスとミラは傍目にも分かるほど目を輝かせてすぐさま顔を見合わせた。ケイロスはどこか満足そうだった。ディオネの主旋律に、アルカスが副旋律のハーモニーで寄り添う。その夜、決して広いとは言えない談話室の中は、竪琴の情感豊かな音色と絹のような二人分の歌声で満たされていた。
その後、数曲の追加演奏を経て、夜中の宴は解散となった。男女それぞれの寝所で床を整え、ミラが部屋の灯りを消そうとしたとき、ディオネは昼間の露店での出来事を思い出し、意を決して「あの……」とミラに声をかけた。
「何?」
ミラの声は女性にしては低く、けれど決して威圧的ではない、輪郭の柔らかな響きがあった。ディオネは言葉を続けようとしたが、結局尋ねるのをやめた。
「……ううん、何でも。それより、あなたとケイロスが知り合いだったって聞いて、私も驚きました。幼馴染だったって」
「うん。私とアルカスは、ここからずっと北東にある小さな村の出身でね。ケイロスはわけあって、物心ついた頃から私たちと一緒に過ごしていたの」
十歳を越える頃から、アルカスとケイロスは田舎の豊かな森の中へしょっちゅう狩りに出るようになり、毎回生傷をつくって帰ってくるので、その対処をしていたら、いつの間にか薬草から膏薬を作って傷の手当てをすることに慣れてしまった――ミラはそう言って寝床の中で溜息をついた。燭台の小さな火に彼女の本気で呆れた目が照らされているのを見て、ディオネは思わず小さく笑みを漏らした。
「それで薬草に詳しく?」
「ええ。必要に駆られてね」
ミラが掛け布の中で軽く肩を竦めたのが分かった。それからミラは静かにディオネを見つめて、「……久しぶりだな」と呟いた。
「え?」
「アルカスやケイロス以外の人間とこんなにたくさん話したのは本当に久しぶり。だから、嬉しい」
ディオネが驚いて「そうなの?」と訊き返すと、ミラは頷いて苦笑した。
「こんな風に毎日得体の知れない薬を作っている怪しげな女のところになんて、誰も近寄りたくないみたい」
それを聞いて、広場で彼女の陰口を言っていたらしき二人の顔が否応なく思い出された。
「たしか、『魔女』って……」
ミラは顔色ひとつ変えず、「そう」と冷静に相槌を打った。
「気味の悪い魔女の家みたいだって言われることもあるわ。私がそう言われるぶんには気にしなければいいんだけど、本当の女性魔術師に対して失礼な言い草よね」
ディオネは何と返答したものか迷ってしまい、曖昧に頷くことしかできなかった。ミラのほうはさしてそれを気にする様子もなく、こうして話ができただけで満足だと言うように僅かに微笑むと、ひとつ小さな欠伸をして燭台の小さな火を消し、「おやすみ」とディオネに挨拶した。ヘラスで初めて迎える夜は、家の裏手の森で鳴いているらしい梟の声とともにゆっくりと更けていった。
第五話:水の国の女王
翌朝、ディオネとケイロスは前日に取り決めた予定の通り、シノンたちが待つ天幕に戻ってから出航の準備を整えることにした。アルカスは一足先に仕事の持ち場に戻るため、早々に家を出発していったとミラが話していた。
ディオネはこの船が何処に向かうものなのかも知らされないまま荷物の積み込み要員として駆り出され、永遠に終わらないのではないかと思うほどの量の作業を操り人形のように只管繰り返した。その甲斐あってか、ケイロス一行は太陽が天辺に昇るまでには無事に海へと漕ぎ出すことができた。
今回の航行日数は貿易船に乗っていたときよりも随分長かったが、その間ひっきりなしに仕事を言いつけられていたので、思いのほか短く感じた。食事の用意や積載品の管理や漕ぎ手の手伝いなど、船仕事をひととおりこなす間、見慣れぬ風貌のディオネを遠巻きに観察して近寄ってこない女官もいたし、親切に話しかけてくれる者もいた。ある日、小休憩の時間に見晴らしの良い船首のほうに出てディオネが風に当たっていると、聞き慣れた羽音がして、帆先にとまっていたらしいシノンが船のへりまで下りてきた。
「休憩中か。先ほど偶々上から見ていたが、また何事か話しかけられていたな」
「ええ。時空の虚の調査を手伝うのかと聞かれたわ」
「みな、珍しい異界人に興味津々と見える」
シノンはククと喉を鳴らして笑い、ディオネの周りを悠々と飛び回る。ディオネは頷くことも首を横に振ることもできず、ただ曖昧な微笑を返した。先ほどから手持ち無沙汰だった右手を、何とはなしにシノンの痩せた首元へと伸ばしてみる。そのまま柔らかい羽毛の感触を堪能していると、梯子のほうからやや重いサンダルの足音が聞こえてきて、ケイロスが姿を現した。航海中は毎日船長室に籠もり、側近らとずっと仕事の話をしているようだったが、偶然休憩時間が重なったらしい。ケイロスはディオネの隣に並び、海を眺めながら欠伸をした。シノンはケイロスの姿を見て何か思い出したらしく、「そういえば」とディオネに話しかけた。
「以前の物資調達の日に、ミラの家で『神力』の話を聞いたと言っていたな。神力は血筋でしか受け継がれないが、先祖や親族に何か心当たりは?」
ディオネが答える前に、ケイロスが横から「おそらく半神か、少なくとも半神の子だろうな」と付け足した。
「半神?」
「神をふた親のどちらかに持つ者のことだ。王家に属する俺はそうではないが、アルカスは半神にあたる」
なるほど、と頷いて、ディオネは自分の家族の顔を思い浮かべた。深く考え込むまでもなく、真っ先に思いつくことがあった。
「父は間違いなく私が元いた国の人だけれど、母がどこの人なのかを聞いたことはなかったわ。私がまだ子どもの頃に、『亡くなった』ではなく、ある日突然『いなくなった』んだって、周りからはそう聞かされてた」
「ふむ。それは……」
シノンが思案するように嘴を振ると、ケイロスは「ああ。十中八九そうだろう」と相槌を打った。
「だが、それだけでは絞り切れないな。候補が多すぎる」
シノンは候補となる女神を頭の中で思い浮かべているようで、海の遠くのほうを見て首を傾げる。その視線を追って水平線に目を遣ったディオネは、聞こうと思っていたことを思い出してケイロスのほうに向き直った。
「ところで、この船って南に進んでいるのよね。どこまで行くの?」
船仕事に慣れるのに夢中で忘れていたが、彼女は行き先も知らぬまま、ただ行く当てが無いからという理由だけでこの船旅に同行することになったのだった。
「南の島国だ。俺の何代も前から親交がある」
春になって航海が解禁されたので、女王に挨拶をしに行くと同時に、昨今の『時空の虚』の問題解決に関する助力を請う。それが今回の訪問の目的だとケイロスは話した。
南の国というのが国名なのかとディオネが訊くと、「我々は水の国とも呼んでいる。工芸が盛んな国だ。豊かな水源に磨かれた質の良い貴石がよく採れる」とケイロスが答える。因みに、フィロムの出身国である東の国は製鉄が盛んで、焔の国と呼ばれている、とシノンが付け足した。
ひとしきり外国の説明を終えた頃には、水平線の向こうに緑に覆われた陸地が顔を覗かせようとしていた。
予定からは数刻ほど遅れたものの、一行は無事に航海を終え、南の国の港に到着した。そこから馬車で平野を経由して小高い丘の上の王城に到着するなり、ディオネは立派な更衣室に通されて、体を磨かれ、香油を塗られ、信じられないほどきつい補正具を腰に巻かれ、ディオネの目の色と同じ深い青色の上等な布を被せられ、首元や手首や髪を繊細なつくりの装身具で余さず飾り立てられた。大きな耳飾りを提げられた耳たぶが重い気がしたが、着替えを手伝ってくれた女官は「すぐに慣れますよ」と笑っていたので、そういうものなのかとひとまず飲み込むことにした。
正装したケイロスと控えの間で合流し、女王陛下の待つ大広間に通される。ディオネは教えられた通り、会談の主役であるケイロスが目立つように、彼の二歩分ほど斜め後ろを極力静かに付いて行った。女王はケイロスたちが礼をしたのを見ると、ヘラスの使者一行に顔を上げるよう指示した。
「長年の無沙汰をお詫び申し上げる。カペラ女王陛下におかれては、変わらずご健勝であられることとお見受けするが」
「久しぶりね、ケイロス。即位式以来ですから、もう四年ほどになるかしら。そちらも恙なく?」
女王は魅惑的な下がり目をそっと細め、上品に口元にあてた扇子の向こうで軽く首を傾げた。左目の下に泣き黒子がひとつ見える。
「あなたの弟君はマメに便りをくださるけれど、あなたときたら、何年も連絡ひとつ寄越さないで……」
「…………」
女王はたおやかな笑顔を崩さなかったが、その裏にちらちら見え隠れする謎の圧をディオネは察知せずにはいられなかった。ケイロスは珍しく決まり悪そうな顔をして、女王から一瞬視線を逸らした。それを見て、女王は格式ばった空気をやや緩めるようにひとつ溜息をついた。
「まあ、いいわ。今回の訪問の用件は事前に従者から伝え聞いています。最近あなたの国を中心に被害が増えている、時空の虚の件ね」
パピルス紙に目を落として報告内容を確認していた女王は、「それと……」と言って不意にディオネのほうを見た。
「この旅の間に、神力を持つ異界人を偶然拾ったんですって? そこの彼女かしら」
「ああ。話を聞くに、いずれかの女神を母親に持つ半神と見受けるのだが」
ケイロスがそう応えているうちに、ディオネはケイロスの従者に促されて一歩前に進み出た。
「お初にお目に掛かります、女王様。ディオネ・キュプリス・オルソープと申します」
ディオネの口上を聞いた女王は、そこで「あら」と意外そうに口許に手を遣った。隣を確認すると、ケイロスも女王と同じような表情をしてディオネを見つめている。もしかして何か失礼があったかとディオネは思わず息を止める。だが、その狼狽が伝わったのか、女王は「いえ、違うのよ」と微笑して取りなした。
「それなら、あの女神の眷属にあたる娘さんなのね、と思っただけなの。お二人とも、良かったら後で王城の裏の神殿に立ち寄って行かれるといいわ。きっと、そのお嬢さんに縁あるものが見つかるだろうから」
その後、ディオネを含む何人かの使者はひととおりの挨拶を済ませて一旦女王の御前を辞し、控えの間で待機していた人間型のシノンと合流した。会談は滞りなく進んだらしく、いくらも待たないうちにケイロスも大広間から帰ってきた。ケイロスはその足で、女王から紹介された神殿へとディオネを連れ出した。神殿の裏手は崖になっていて、どこか寂しい輝きを放つ夕陽が西の海に沈みゆくのを遮るもの無く一望できる特別な場所のようだった。
「……まったく。もし初対面のときにでもお前が正式名を名乗っていれば、話はずっと早かったろうに」
「そう言われても、あなたたちと出会ったときの状況的には、とてもそんな雰囲気じゃ……」
ディオネはささやかに抗議した。ケイロスはカペラ女王と同じく、ディオネのミドルネームを聞いて彼女の母の名がすぐに分かったと言った。キュプリスとは、ヘラスや南の国で信仰されている美の女神の別名だ。南の国では特にこの女神への信仰が篤く、今ふたりが立っている神殿は国内でも最大の規模を誇る総本山のような位置付けだという。
ディオネは大理石を彫って造られた、人間の背丈よりも大きな女神像を不思議な気持ちで見上げた。正直、その像に相対したところで、この神が自分の母だったのだという感慨は湧いてこない。けれど、女王が言っていた通り、自分がここを訪れた意味は確かにあったと思えた。
「実際に神やその力を持つ直系の子孫が存在する世界というだけでも驚きだったのに、まさか自分が半神にあたるなんて」
ディオネはまだ信じられないという気持ちで呟いた。
「お前はこの世界の生まれではないと言っていたな。そうすると、かの女神が時空の虚を通ってそちらの世界に渡ったということになるか」
ケイロスがそう言うのを聞いて、ディオネは思い出したことがあった。
「私も祖母からの又聞きだから、そのときは勘違いか作り話だろうと思って聞き流していたんだけど。ある日母が空から落ちてきて、それを助けた父が一目惚れしたって。あれは単純に言葉の通り、本当のことだったのかしら……」
今となっては確認する術は無いものの、納得できる話ではあった。未知の世界に迷い込んでしまったとばかり思っていたが、自分の中に流れる血の半分がこちらの世界に縁あるもので、此処がおそらく母の故郷なのだと分かると、妙な気分だった。ディオネは、もう顔も覚えていない母の後ろ姿を思い浮かべた。
ディオネとケイロスはそれから暫く神殿の周囲を散策し、辺りが暗くなる前に森の中の城へ戻ることにした。いつの間にか空も海も金色から橙色、珊瑚色へと染まり、太陽が静かに海の向こうへ沈もうとしていた。
森へ続く緩い坂道を下りる途中で、ケイロスはディオネを振り返った。
「ディオネ。時空の虚問題の解決のための我々の計画は、主に二つだ。一つは、異界人を元の世界に帰すための研究を進めること。神の血を引き神力を持つ異界人であるお前は、その研究のための実験の適合者である可能性が高い」
ディオネは顔の周りの髪が風に靡いて唇に付きそうになるのを手で押さえながら静かにケイロスの話に耳を傾け、フィロムがディオネを“適合者”と評していたことを頭の片隅で思い出して頷いた。ケイロスは話を続けた。
「だが、研究の完成にはまだしばらく時間が必要だ。それを待っている間、もう一つの計画に協力してほしい。こちらは、問題の根本解決に繋げるための『神捜し』だ。俺やお前やアルカスが持っている、同族を見分ける力を用いる。神やその眷属を見分けられるのは我々だけだ」
ディオネは、ケイロスの鋭い漆黒の瞳に夕焼けが映り込んで、燃えるような色に輝いているのを見た。思わず喉の辺りで息を堰き止め、立ち止まってその瞳を見つめ返す。ケイロスはディオネのほうへ一歩進み出て手を差し延べた。
「客観的に見て、この神捜しの計画にお前の力が役立つのは確かだが、俺は何よりお前の意志が欲しい。神捜しの特別編隊は少数精鋭だ。意志無き傀儡が一人混ざるだけで、たちまち流れの停滞に繋がる」
「…………」
ディオネはしばらくそのままケイロスを見つめた。それから、呼吸を整えるために一つ息をついて、ついに彼との三歩分の距離を詰め、骨ばった手をおそるおそる取った。
「あなたと一緒に行くわ。元の世界に帰るための協力をしてもらうなら、それだけの対価を何らかの形で提供する必要があると思うから」
ケイロスはそれを聞いて頷き、また唇の端を少しだけ上げて「契約成立だ」と笑った。結ばれた二つの手を、暮れ残った夕日の柔らかい光が照らしていた。
第二章《夢の章》第六話:歌姫
ケイロス王一行は南の国に数日間滞在して海の様子を窺い、七日目には無事にヘラスの王城に帰城した。ヘラスの首都の様子を初めて目にしたディオネは、丘の上に聳える王城の規模と色彩の鮮やかさに圧倒されるほか無かった。南の国の白一色の城も海の青さに映えて大変美しかったが、ヘラスの華やかな王宮はその何倍も広大で、一人で歩いたら迷子になってしまうに違いないと思った。
王城に到着してからというもの、ケイロスと顔を合わせる機会は極端に減った。国王という重要人物なのだから当然だとディオネは自分なりに納得していたが、ディオネが王宮に入ってから初めての勅令には首を傾げざるをえなかった。なんと、今年の花祭りの儀式の歌姫をディオネに任ずるというのだ。
「今年の花祭りって、この気候から察するに、もうすぐなんじゃないの?」
「ああ。今日から数えて五日後だ」
シノンはディオネの肩にとまって、勅令のパピルス紙を覗き込みながら事もなげに言い放った。ディオネは思わず長い回廊の途中で歩みを止め、鸚鵡のように「五日……」と繰り返した。
儀式の歌姫の歌唱指導には、一足先に王城に戻っていたアルカスが付いた。彼は普段は内務官の一人だが、この花祭りの時期だけは歌唱指導や竪琴での伴奏の仕事にも駆り出されるそうだ。
見慣れない書式の楽譜を読み解くのには苦労したが、アルカスの根気強い指導に助けられ、二日目まではディオネの歌唱練習は順調に進んだ。しかし、三日目にちょっとした出来事があった。アルカスと一緒に練習室に向かう途中、高官の執務室の前を通ったときに、ちょうど若い女性が何か大きな声で何かを言っているのが廊下まで聞こえてきたのだ。「コーラスの一人に降格?」「冗談じゃない。納得できない」「なぜ私の場所を新入りの異界人など明け渡さねばならないのか」――聞き耳を立てなくても、話の内容は仕切り幕越しに勝手に漏れ聞こえてくる。ディオネの心臓はたちまち大きく跳ねた。おそらく声の主の彼女がディオネのことを言っていると分かったからだ。
ディオネがその場から動けずにいるうちに、声の主がちょうど部屋を出てきて、鉢合わせになってしまった。その気の強そうな女性と目が合った瞬間、彼女は冷たい目であからさまにディオネだけを睨みつけ、アルカスに挨拶もせずに踵を返して廊下の向こう側へ歩き去って行った。
案の定、その日の練習は不調と言うほか無かった。午前の練習の間、ディオネは楽譜に視線を落とし、細い声で何の感情も籠もらない音を吐き出し続けるばかりだった。その状態を自覚すればするほど、歌声は一段と細く揺れて萎んでゆく。アルカスは見かねて一旦練習を打ち切り、白胡麻と蜂蜜を固めた乾燥菓子と香りの良いハーブティーを持って来させた。ディオネは申し訳なく思いながらも、熱いうちにというアルカスの勧めに従って、湯気の立つ茶器に口をつける。癖のない爽やかな香りが鼻に抜けた。
「……ケイロスは、どうしてこんな時期に歌姫役の変更を命じたのかしら」
アルカスはディオネの不調に対して叱咤するでも励ますでもなく、ただ頷きながら話を聞いていたが、これには眉を少し動かして首を傾げた。
「どうだろうね。彼は意味の無いことはしないから、何か狙いがあるんだろうとは思うけど。とはいえ、僕の立場で予想できるのはここまでかな」
そして、そうだ、と言って、王の執務室がある北の棟の方角を軽く指差す。
「まあ、素直に答えてくれるかどうかは保証できないんだけど、一度本人に直接尋ねてみるといいよ。今なら、彼もちょうど間食を摂っている頃だろうから」
アルカスに練習室を送り出され、ディオネはひとり王の執務室を訪った。ケイロスはディオネの訪問を知ると、別段驚く様子もなく淡々と彼女を部屋に招き入れる。軽食を摘みながらも、視線は一貫してパピルス紙の書類に落とされていた。
私が来る前に歌姫役を務めていた女性の件で――とディオネが口火を切ると、ケイロスは「ああ」と応え、一瞬だけディオネの目を見返して、それからまた書類の文字を辿り始めた。
「あれには来年の歌姫役を約束した。それで手打ちに出来ぬと言うなら、もうこちらから掛けてやれる言葉は無い」
「……今回の指名には、何か意図が?」
巻物を捲る手が止まり、初めて視線がまともにかち合った。語尾が少し揺れているディオネの声とは対照的に、ケイロスの声色はあくまで冷静だった。
「年に一度のこの花祭りは、王宮内外の百官が一堂に会する亦と無い機会だ。そして、俺は『神捜し』にあと一年もかけるつもりは更々無い。となると、お前を計画の協力者として紹介し、印象付けられる機会はここしか無いのだ。実際、この花祭りの成否によって、今後の立ち回りのしやすさが大きく左右されると思っておいたほうが良い」
ケイロスの言うことは確かに尤もだ。計画を滞りなく進めるためにはディオネを宮廷内で動きやすくすることが望ましく、そのための采配だったというのも頷ける。
「…………」
ディオネは目を伏せて足元に目を落とした。彼の話を聞いて、自分の不調の本当の原因に気付いてしまったからだった。ディオネが黙り込んだのを見て、ケイロスはディオネの考えを見透かしたかのように、一言だけ「心配するな」と僅かに唇の端を上げて付け足した。
退室のお辞儀をして執務室を辞したディオネは、力の無い歩調で回廊を進んだ。
――彼の話を聞いてもどこか腑に落ちなかったのは、真の意図や役割の話以前に、根本的にそれをやり遂げるだけの自信が私に無いからだ。あの歌姫役だった女性や、この重要なお祭りに集まった人たちを納得させるだけの歌をうたえるという自信が……。
采配の狙いを聞いたところで、それはディオネがそれだけの説得力の有る歌がうたえるということを前提とするものであり、その前提となる能力が無ければ成立しない。今まで人前で歌を披露した経験が碌に無いディオネには、自信の付けかたなどさっぱり思いつかず、途方に暮れてその場で座り込みたい気持ちにさえなった。
王城の北棟の執務室から東棟の練習室へ戻るには、回廊を何度も左右に折れて、それから広い中庭に面した渡り廊下を抜ける必要がある。ディオネが物思いに耽りながらぼんやりと渡り廊下を歩いていると、ふと物音がすることに気付いた。その不自然な音は、美しい花畑の脇の並木の辺りから聞こえてくるようだ。ディオネはその場に立ち止まって物音に注意を向け、音の出所を探した。柔らかい衣擦れの音がするから、音の主はおそらく動物などではなく人間で、それも成人した女性だろうと当たりをつけた。だが、次に聞こえた音にディオネは首を傾げた。音の主が人間だと仮定すると、やや不自然な音がしたのだ。これは明らかに、樹木の枝が人為的な力で軽く揺れる音……。
――もしかして、木登りをしている?
ディオネは中庭に下りて、立派な葉を青々と茂らせる常緑樹の真下で様子を窺ってみた。すると、重なり合った葉の間から、豪奢なドレスの裾と金の飾りサンダルが覗いた。更によく見ようと覗き込む。すると、幹の中ほどから斜めに伸びた太い枝に腰掛けている赤毛の少女と目が合った。
「わ」
少女の目が見開かれたと思うと、彼女は不安定な枝の上であっという間に均衡を崩し、ディオネに半身をぶつけるように木から滑り落ちてきた。
「い、痛……」
どちらからともなく呟く。少女は落下の衝撃で少しの間ぼんやりしていたようだったが、ディオネを下敷きにしてしまったことに気付くと、勢いよく起き上がって「ごめんなさい! 大丈夫?」と叫んだ。
ええ、大丈夫、と何とか答えながら、改めて明るいところで相手の顔をよく見てみると、樹の上から落ちてきた彼女は目を瞠るほどの美少女だった。まだあどけなさの残る少女らしい顔立ちながら、そのなかにどこか高貴さも滲んでいて、長い睫毛に縁取られた夢見るような淡い青緑色の瞳は驚くほど大きく、頬などは瑞々しい薄紅色の果実を思わせる。先ほど樹木の葉の影になって朱赤色のように見えていた柔らかな巻き毛は、光の加減によって、より明るいストロベリー・ブロンドに近い色味のように見えた。
「……あら。あなた、もしかして、最近ケイロス様が連れて帰ってきたっていう半神の女の子?」
少女はディオネの存在を既に知っていたらしい。興味深そうに目を輝かせ、布を何枚も重ねたドレスを可憐にひらめかせてディオネのほうに身を乗り出した。
「ええと、どうしてそれを……?」
戸惑いを隠せないディオネに、彼女は文字通り花の咲くような笑顔を向ける。
「そんなの、簡単よ。このお城の中で今まで見たことのない女の子だったもの。こんなに綺麗な子だったのね」
きらきらした目でそう言われてディオネが少々面食らっているうちに、遠くから「リンクス様ー……」と女官が誰かを探しているらしき声が聞こえてきた。その声を捉えた少女は、これはまずい、という顔をして、土で汚れてしまったドレスを急いで整え始めた。
「あの、お願いがあるの。私がここで樹に上っていたこと、誰にも言わないでちょうだいね」
彼女は肩を竦めて人差し指を唇の前に立て、ディオネがようよう頷くのを確認すると、風のように軽やかに並木の奥のほうへ駆けて行ってしまう。彼女は去り際に、「私たち、きっとまたすぐに会えると思うわ」と目を細めて言い置いていった。
「……何だったのかしら、今の……」
謎の美少女が去った後、ディオネは樹の下に座り込んだまま、暫く目を丸くしてしきりに瞬きすることしかできなかった。やがて、あの少女を探していると思しき女官が目視できる範囲まで近付いてきたことに気付いた頃、やっとそそくさと立ち上がり、何事もなかった風を装って渡り廊下に戻ったのだった。
その日の午後の練習は予定よりも少し遅れて始まった。練習室に帰ってきたディオネの顔を見るなり、アルカスは「ケイロスから何か話が聞けたみたいだね」と言い当てた。ディオネは頷いて、卓の上でパピルス紙の楽譜を巻き直しながらアルカスに尋ねる。
「……ねえ、アルカス。舞台に立つ自信をつけるにはどうしたらいいのかしら」
一般的には、場数を踏むことで経験値に裏打ちされた自信が蓄積されていくのであろうことは想像できる。けれど、今は本番の舞台まで何日も残されていない状況だ。
アルカスは「そうだな」と顎に指を宛てて答えた。
「それなら、自信が無いなんてことを考えるぶんの思考の隙間を無くしてしまうといいよ。『今、何のために歌っているのか』――そのことだけに意識を集中させれば、必然的に他のことを考えている暇は無くなる」
「何のため……」
そう呟いて、目の前の楽譜の上に踊っている音符を人差し指でなぞってみる。音符に沿って頭の中で旋律を追っていると、不思議と心が落ち着いていくのが分かった。その様子を横で見ていたアルカスは、満足そうに「うん。それじゃあ、もう一度歌ってみよう」とディオネを促した。
*
アーモンドの薄紅色の花が遂に満開を迎えた日、王城併設の円形劇場は、色とりどりの花々で賑々しく飾り立てられていた。ケイロス王にとっては、即位してから都合五度目を数える花祭りの儀式だった。春の到来を祝い、今年の豊作を願う祭儀は今年も定型通りの手順を踏んで厳かに進んでゆく。儀式の最後には、歌姫が穀物の女神へ捧げる歌を独唱し、次に乙女たちのコーラスが加わって、全員での大合唱にて締め括る。それがこの祭りのお決まりだった。
――さて、今年はどうなるか。
ケイロスは高座に設けられた豪奢な椅子に腰掛け、長い前髪の間から中央の舞台の様子を見定めようと目を眇めて注視した。
ディオネは舞台裏の天幕の影から、儀式の進行状況をそっと窺った。反対側の天幕で待機しているコーラス隊の一人と目が合う。数日前に冷たい目でディオネを睨みつけた、元歌姫役の女性だった。ディオネはまた彼女の不機嫌な表情を目にしてしまう前に、そっと視線を外した。
このあと楽器隊から合図が出たら、いよいよ歌姫役の出番がやってくる。どうやっても逸る鼓動を何とか抑えるために、昨日までの練習でアルカスから教わったことを一つずつ反芻した。そうしているうちに、楽器隊を主導するアルカスがディオネに目配せする。ディオネは頷いて、ひとつ長い息を吐くと、舞台の中心に向かって確かな足取りで歩き始めた。
舞台の上からは、思った以上に客席の様子がよく見える。最も見晴らしの良い高座には、正装をして月桂冠を身につけたケイロス王が座している。その脇には、王族らしき女性と、まだやっと十を超えたくらいの年頃に見える少年。更に一段下がったところには、リンクスと呼ばれていたあのストロベリー・ブロンドの少女の顔も見えた。
祭りの高揚による雷鳴のような拍手が収まるのをたっぷりと待ち、一度落ち着いて客席を一周見渡す。
緊張は自分でも不思議なほど薄れていた。今日自分が行うべきことははっきりしているのだ。それはあの歌姫役だった彼女に認めてもらうことでもなく、自分を良く見せることでもなく、もしかしたら、歌をうまく歌うことですらなく――。
――天の神まで届く歌をうたうこと。
彼女は肺に大きく息を吸い込み、はじめの一音目を春の澄んだ青空へ向けて歌い上げた。
舞台の中心に歌姫が進み出ると、ケイロスが座す高座の周りは俄かにざわめいた。「なんと美しい娘だ」「これまで見たこともないほどだ」と高官が口々に囁く声が聞こえてくる。
――だが、驚くのはここからだろう。
拍手が収まり、呼吸の音すら聞こえないほどの静寂が訪れる。広大な円形劇場に清澄な空気が満ちてゆく。観客が期待に胸を膨らませて見守る中、ついに歌姫がたっぷりと豊かな高音を劇場に響かせた。
劇場全体を包み込み、色鮮やかな花弁へと形を変えて更にどこまでも舞い上がってゆくような音だった。それは声と言うよりも音に近い。彼女自身の意志と心の温度を包み込んで音にしたもののように思えた。
ケイロスの周りの観客は、息をするのも忘れたようだった。歌姫は間違いなく、神に捧げるための歌をうたっている。だが観客のほうはその凄みに誰もが目と耳を奪われ、彼女が作り出す音の波に知らず飲み込まれてゆくのだった。
細かく空気を震わせる心地良い下降音形で、独唱は静かに終わった。一呼吸置いて、劇場は嵐のような拍手と歓声で埋め尽くされる。みな席を立ち、ある者は拍手の手を高々と頭の上に掲げ、考えられうる限り最大の賛辞を今日の歌姫に捧げていた。
ディオネはほとんど無意識下で歌唱速度と強弱を繊細に調整し、ついに最後の一音を歌い終えた。その時点ではまだ頭の中は真っ白な宇宙のようで、ディオネの耳には何の音も聞こえてこなかった。
次の瞬間、驚くような熱量の歓声が瞬く間に膨れ上がり、ディオネをはっとさせた。周りを見渡すと、誰もが席を立ち、歌姫の立つ舞台に向かって拍手の雨を注いでいる。その光景にディオネがしばらく胸元を押さえて驚いているうちに、あたたかい南風が吹いてきて、劇場の至るところに飾られた満開のアーモンドの花を散らした。今日ここに集まった全ての人々を祝福するように、舞台にも観客席にも薄紅の花吹雪が降り注ぐ。
観客席を見渡している途中で、ディオネの斜め後ろで次の出番の準備を整えていた先ほどのコーラスの女性と目が合った。彼女は呆けたような表情をしてディオネを見つめている。ディオネは今度は目を逸らさずにしっかり彼女と目を合わせ、次の曲は宜しくね、という意味を込め、わずかに微笑をつくって会釈をした。
一曲目の区切りのお辞儀をするために最後に正面に向き直ると、ちょうど見晴らしの良い席に座っているケイロスの姿が見えた。じっと見ていると、彼が周りには分からないように密かに口元を動かして、ディオネに何事かを伝えようとしていることに気付いた。ディオネはその言葉を読み取るなり、自然に口元が綻ぶのを感じた。彼のいつもよりあたたかい「よくやった」という声が、拍手の音に混じってディオネの耳だけに聞こえたような気がしたからだ。
第七話:風花の巫女
まるで瞬きするような速さで、花祭りから数日が過ぎた。あれからディオネが城内の人々に話しかける回数は確実に増え、話しかけられる回数も増えた。此処に至って、ディオネはケイロスが言っていた狙いの効果を改めて肌で感じるのだった。
今日は国王の号令により、午後から南の別棟の中広間で例の“神捜し”の計画の作戦会議が行われる予定とのことで、ディオネもそこに同席するよう命じられた。いよいよ『時空の虚』に関する調査が始まるのだ。
ディオネがシノンと一緒に中広間に入ると、既にアルカスが到着していて、会議の準備を進めていた。彼の影になっていた小柄な人物がこちらを振り向いた途端、ディオネは「あ」と声を上げた。その人物はディオネに気付くなりぱっと笑顔を見せ、すぐさまこちらに駆け寄ってきて、白い両手でディオネの手を包み込んだ。
「嬉しいわ。この計画の首都での参加者に、同じくらいの歳の女の子は今までいなかったの」
花祭りの前に中庭で出会った、あのリンクスという少女だった。ディオネは、彼女があのとき「私たちはきっと近いうちにまた会えると思う」と言っていた理由を悟った。彼女はディオネがこの計画に新しく加わる人間であることを知っていたのだ。
ディオネはそのままシノンとリンクスの間の席につき、会議の参加者が集まるのを待った。ほどなくして議長のケイロスが現れた。彼と一緒に広間に入ってきた人物を認識した途端、隣のリンクスが急に髪の先の巻き具合を整え始め、そわそわと落ち着きをなくしたのが分かった。ディオネが不思議に思ってそちらを密かに窺ってみると、その人物はケイロスより更に背が高く、鎧の肩当ての部分を衣の上から身に着けた兵士らしき青年だった。隊の訓練を終えたその足でこちらの会議に合流したのだろうか。彼は洗練された凛々しい顔立ちに鋭い切れ長のブルーアイを持ち、一つに結った長い髪は薄暗い室内でも銀色に輝いて見えた。彼の周囲にもケイロスやアルカスと同じ不思議な気配が感じられたので、ディオネには彼が神力の持ち主であることが分かった。
生真面目そうな青年は、取り立ててこちらの様子を気に留めることもなく、ケイロスと小声で何かを相談しながら静かに円卓についた。それを機に、ケイロスは「揃ったか」と参加者の面々を見回した。円卓についているのはディオネたちの他に、凛と背筋の伸びた老女、立派な口髭を蓄えた老翁、気の良さそうな壮年の男性、そしてディオネと同年代か少し年下に見える少年。それで全員のようだった。彼らはどういう基準で集められた人たちなのだろうとディオネが考えているうちに、ケイロスは立ち上がって説明を始めた。
まずは確認も兼ねて、これまでに分かっていることが説明された。このヘラス国を中心に、「虚」と呼ばれる黒い渦が空間中に突然現れ、全く別の世界と繋がってしまうという事象が確認されている。この世界の人間が虚に落ちて行方不明になってしまうこともあれば、別の世界の人間が虚を通ってこちらに迷い込んでしまうこともある。こちらに迷い込んでしまった人間を、この世界では『此処とは異なる世界の者』――異界人と呼んでいる。
虚が発生しやすい場所や時間等の法則性は現在見つかっていない。例えば海上に、森の中に、町の片隅に……至るところに発生する可能性がある。渦の大きさに関しても同様で、何人も飲み込むような大きなものから、人が通れない程度のものまで様々である。小さな虚が王宮内で発見されたこともある、とケイロスは言った。
「そのときの対処はどのように?」
思わずディオネは質問した。
「虚が発生した場合、早急に修復部隊と捜索部隊を組む。修復部隊の中心となるのは、そこにいる魔術師たちだ。虚を魔術で閉じて無効化する」
そう言って、ケイロスは円卓の反対側に並んで座る四人のほうに目を向けた。白髪をひっ詰めた老女が厳めしい表情をわずかに和らげ、ディオネに向かって会釈した。
ケイロスは話を続ける。
「そして、捜索部隊を率いるのは神力を持つ我々だ。虚が発生する場所では、神の気配を感じられることがある。そこで、我々の“同族を見分ける力”を利用する。虚の周辺に身を隠していると思われるその神を捜し出す――それが使命だ」
「捜すことそのものが目的?」
ケイロスはその質問を肯定も否定もせずにこう説明した。
「実は、虚が発生し始めた頃から、一柱の神の気配が世界から消えている。それで我々は、この二つの事象に関連があるのではないかと推測した。重要な神の一柱が雲隠れしたことで世界の均衡が崩れ、綻びが発生しているのだと」
「その綻びが虚というわけね」
そうだ、とケイロスは頷いた。
「その神を捜し出して、虚の発生を止める方法を聞き出す。――実際、人間が話し合いを持ち掛けたところで、気紛れな神がそれに応じる確証は無いが。それでも、これが今後の虚の発生を食い止められる可能性がある唯一の方法だ」
ここまで聞いたところで、ディオネの頭の中で時空の虚の問題と神捜しという単語が漸く一つに繋がった。同時に、彼らに協力することは神そのものを相手取ることだったのだと分かり、その途方の無さにほんの僅か惧れを覚えた。
「しょせん我々魔術師が出来るのは、発生した虚の修復という、いわば“対症療法”のみ。異界人を元の世界へ帰す研究も別動部隊が中心となって進めてはいますが、それが成功したとしても、一般に普及するまでにどれほどの時間がかかるのかは定かでない。となると、このまま手をこまねいているだけでは永遠にイタチごっこを繰り返すだけですからな。王はこの問題の原因を突き止め、根本から解決しようとなさっているのです」
老いた魔術師が立派な髭を撫でながら嘆息した。ケイロスはみなを見回して、自分自身にも言い聞かせるように声の調子を一段階引き上げる。
「先王や先々王の時代にも、既に時空の虚の問題は存在した。これは私の代で必ず解決せねばならないと考えている。神の空位が長引けば長引くほど世界の秩序は乱れ、災厄を好む神らがそのぶん力をつけることになるからな。加えて、昨今は東の国もきな臭い。立て続けにはなるが、またあいつを外交と言う名の偵察に遣らねばならないか」
「ただ、今はリンクスもいることだし、流石に今すぐ戦を仕掛けてくるような状況でもなさそうだが……」
顎に手を遣ってシノンが応じると、それは同感だ、とケイロスも首肯した。
南の国を訪問した際の会談でも、フィロムの出身国である東の国の状況が話題に上がっていたことをディオネは思い出した。そのときは半分ほどしか理解できないまま大人しく話を聞いておくしかなかったが、今になって思い返してみると腑に落ちる。曰く、東の国の今の王族は北方からの移民であり、南方開拓を始めた何代も前の王が神格化されて崇められているほかは特段の信仰を持たない民族だという。だから、東の国の王にとっては、神々と縁の深いヘラスや国ぐるみで信仰の篤い南の国の文化は異質なものに映りやすいだろう――。あのとき、ケイロス王とカペラ女王は、確かそんな話をしていた。
ケイロスの話を聞いて、アルカスが半分ケイロスを窘めるように口を挟んだ。
「解決を急ぎたいのは僕も同意するけれど、この隠れ鬼の相手は“十二神”と同等かそれ以上の力を持つ、極めて強大な神だ。心してかからねばならないね」
どういう意味だろう、という視線をディオネから受け取り、ケイロスが「まだ話していなかったか」と後を引き取った。
「我々が捜している神の名は、クロノス。農耕と時空を司る神だ」
会議が終わると、他の参加者は雑談をしたり休憩のために部屋の出口に向かったりと思い思いの行動を始めた。その様子を何となしに観察しながら、今日聞いた情報を頭の中で纏めようとしていると、隣に座っていたシノンも「さて」と椅子を引いて立ち上がり、ディオネを挟んで二つ隣のリンクスのほうに掌を伸ばした。
「ディオネ。誰かからリンクス王女の紹介は?」
「リンクス……王女様?」
ディオネが目を丸くして訊き返すと、シノンは「まだだったか」と言って紹介を始めた。
「彼女は東の国の王の姪御にあたる。彼女の役割は……」
そう言いかけたところで、部屋の出口のほうから「シノン」とケイロスが呼ぶ声が割って入る。どうやら「次の予定があるから急げ」という意味であるらしいことはディオネにも分かった。シノンは「ああ」と応え、また後で、とディオネに声を掛けてから、鳥の形に戻って優雅に会議室を横切っていった。
美しい純白の羽根が一枚舞い散るのを横目に、ディオネはふと会議の中でのシノンの発言を思い出した。あのとき彼が態々唐突にリンクスの存在に言及したのも、今にして思えば合点が行く。東の国にとっては、自国の王族の姫君が滞在しているヘラスをいま攻める理由は無いと思う、という意味だったのだろう。思考を整理し終えてディオネがリンクスのほうに改めて向き直る前に、リンクスのほうが先に「彼が紹介してくれた通りよ」とディオネに笑いかけた。
「私はね、神の御告げを聞く巫女としてここに呼ばれているの。元々ヘラスにも強い力を持った巫女様がいらっしゃったんだけど、前任のかたが早くに亡くなられたから、ヘラスの王様が私の叔父様――東の国の王に打診して、私が派遣されることになったんですって」
ディオネが南の国で目にした神殿の巫女の姿をぼんやりと思い出しながら相槌を打つと、リンクスはシノンが落としていった白い羽根を徐に手に取り、卓に広げられていたパピルス紙の地図の中の一地点を羽根の先で差した。
「私の役割は、虚が次にどこに発生するかを、御告げをもとに予測すること。虚が発生する可能性が高いと思われる地点が分かったら、神の眷属と魔術師を中心とした部隊が組まれて、そこに向かうことになるの」
よほど大きな虚が発生すれば、事態の収束のためにリンクスたちも含めて総出で現場に向かうことも有り得るが、基本的にはリンクスらの部隊が王宮で虚の発生予測と調査隊派遣計画を担い、ディオネらが現場へ派遣されるという形になるらしい。「私たち、力を合わせて頑張りましょうね」と微笑むリンクスにディオネがまた頷いたところで、おそらく出口に向かうためだろう、二人の後ろを背の高い人影が通った。そのとき、ちょうどリンクスの肘の向こう、卓の際のほうに置かれていた小さな馬車の彫刻の装飾部分にその人物の衣の端が引っかかり、馬車の彫刻はそれなりに重そうな音を立てて床に転がった。
「――すまない。大事なかったか」
そう言いながら、その人物はすぐさまそれを拾い上げて元通りの場所に納める。見れば、あの銀の髪と切れ長の瞳を持つ兵士風の青年だった。彼に話しかけられたリンクスは、動揺を隠し切れない様子で「え、ええ。何ともありません」と返すのが精一杯のようだった。
青年は顔の筋肉ひとつ動かさないまま、だが敬意を持っていないわけではないことが分かる軽い会釈をして、「失礼」と足早に部屋を出て行った。彼の姿が見えなくなっても、リンクスは憧憬と憂いが半分ずつ含まれているような眼差しで、出口のほうを長いこと見つめていた。
「今の人は?」
ディオネがそっと尋ねると、リンクスははっと居ずまいを正して答えた。
「ええ。彼はゼルトと言うの。国王直属軍の騎馬隊を率いている騎士なのよ。それと、あなたなら気配で分かったと思うけれど、彼は神の眷属ね。アルカスと同じく半神で、神力も強いんですって」
「ふうん。それで……リンクスは好きなのね? ゼルトのことが」
会議室に残っている者はもう彼女ら以外に誰もいなかったが、ディオネは念のため、リンクスのほうに顔を寄せて耳打ちした。すると、リンクスは「えっ」と一言発したきり、たちまち頬を美しい薔薇色に染めて黙ってしまった。白い華奢な指で覆った唇の間から、か細い「どうして……」という呟きが零れ落ちる。あまりに純粋な反応に、ディオネは「見ていたら分かるわよ」と苦笑するしかなかった。
ところが、リンクスは「でもね」とすぐに表情を曇らせ、大きな目を深く伏せて首を横に振った。
「私は神に仕える巫女だもの。務めを終えるまでは、思いを伝えることも許されないわ。そういう決まりなの」
それに、きっと彼は私のことなんてなんとも思っていないのだろうし。そう言って彼女は淋しそうに微笑した。
「けど、全てが終わって東の国に帰るときが来たら、そのときは……少しだけ頑張ってみようかな」
はにかんでディオネのほうに向き直った拍子に、赤色に近い鮮やかな巻き髪が彼女の首筋でふわりと揺れた。その姿は、浅緑色の草原のなかで何処か頼りなげに、けれど撓やかに風に揺れている、一輪の赤いアネモネの花を思わせた。
応援してる、とディオネが答えると、リンクスはまさに花が綻ぶような笑顔を見せた。
第八話:銀の騎士
初めてディオネに「任務」のお呼びが掛かったのは、会議の二日後のことだった。シノンはディオネに采配内容を伝えに来たついでに、その場で彼女の準備をあれこれと手伝い、それから馬車を待たせている西門のところまでディオネを案内してくれるとのことだった。シノンも一緒に行くわけではないのかと尋ねると、この計画に関しては自分は専ら伝令役に徹しているという答えが返ってきた。
「私自身は只の鳥であって、神力を持っているわけではないからね。私が神の眷属のように見えるのも、こうして言葉を話せるのも、人間の姿に変身できるのも、全てケイロスから神力を分け与えられているがゆえのことだ」
神力とは分け与えることができるものだったのかとディオネは目を丸くする。それを汲み取ったのか、シノンは不思議な色彩の瞳を細めて説明を続けた。
「神力を分け与えられる側の存在を“器”と呼ぶ。人間を“器”にすると上手く行かない確率が高いそうだ。ゆえに、私のような動物が選ばれる」
なるほど、とディオネが頷いたところで、足早に歩いていた彼女とそれに合わせて飛んでいた一羽の鳥は、丁度王城の西門に到着した。門の外では、今回組まれた部隊の隊員たちが既に準備を整えて待機している。
今回の任務の指揮官は、銀の髪の騎士ゼルトと、気の好い壮年の魔術師だった。通常であれば魔術師と神の眷属が一人ずつ配属された部隊となるが、今回は捜索に時間がかかりそうな任務ということもあり、まだ半人前のディオネが勉強も兼ねてゼルトの任務に同行することになった形だ。
虚の発生現場に到着するまでの間、口数の少ないディオネやゼルトとは対照的に、魔術師はほとんど休み無く楽しそうに喋り続けていた。彼の話の中身は、今日これから向かう西方の平原では夏にしばしば野生動物の狩りが行われることや、今年は気候が良くて蒼い鱗を持つ太った魚がよく獲れたらしいことや、更には「息子の槍さばきが上達して最近兵士の試験に合格したが、剣の扱いは娘のほうが長けていた」などの身の上話にまで及んだ。大部分が取り留めのない話ではあったものの、ともかくそのお蔭で初任務の緊張を感じる暇もなかったので、ディオネにとっては有難かった。
やがて馬車が動きを止めたことに気付き、幌を捲り上げて外を見ると、四方を白い山に囲まれた草原が広がっていた。こういうところにも虚は発生するのだ。ディオネが兵士の手を借りて馬車を降り、何もない筈の空中をふと見上げてみると、そこには人ひとりがやっと通れそうな黒い穴が渦を巻いてぽっかりと口を開けていた。その虚と自分の記憶の中のそれとを比較してみて、ディオネは自分が落ちた虚がかなり大きいものだったらしいことを初めて知った。
「あー……。今回のはあそこにあるようですな」
後から馬車を降りてきた魔術師は「さて、どうするか……」と杖の先で軽く頭を掻きながら、淡い琥珀色の目で虚の様子の観察を始めた。彼が杖を翳したとき、ディオネは彼の目の色と杖の先に嵌まっている貴石の色がよく似ていることに気付いた。魔術師はそれからいくらもしないうちに頭の中で方針を固めたらしく、音を立てて膝を打った。
「うん、良いでしょう。あれくらいならすぐに片がつく。お二方、その間に捜索の準備をなさってはいかがですかな。そのほうが効率良く進むだろうし、帰路に着く時間も早められる」
そう説明して、茶目っ気たっぷりに片目を閉じる。ディオネが隣にいたゼルトを見上げると、ゼルトは相変わらず表情を変えないまま、「そうするのが良さそうだ。魔術師殿、此処は頼む」とだけ言葉を発して頷いた。
ゼルトから聞くところによると、今回のように神の眷属と魔術師がそれぞれ全うするべきことを分担して任務を進める形式はそれほど珍しいものではないとのことだった。ゼルトは虚の修復を始めた魔術師の居る地点からどんどん離れ、草原の北方を目指しているようだ。ついてくるように言われたので、ディオネはひとまずその通りにした。
虚から五百歩分ほど離れた地点で、ゼルトは「この辺りか」と呟いて足を止めた。
「神の気配を感じるはずだ。今回は色濃くは無いが、判別しかねるというほどでもないな。周囲にクロノスが潜んでいるか、または既に立ち去っている可能性もある」
ゼルトが平坦な低音で説明するのを聞きながら、ディオネは神経を研ぎ澄ませて辺りに注意を払った。この草原にはそもそも隠れられそうな場所も無いし、この場にいない神の気配を感じ取るなんて出来るものかしらと最初は半信半疑だったが、集中して探してみると、確かに自分のものともゼルトのものとも違う神力の気配が思いの外はっきりと感じられた。ディオネはそのまま北に十歩ぶん進み、方向を変えて西へまた十歩ぶん進んで、神の気配の変化を感じ取ろうとした。
「どちらかというと、西側のほうが近いような……」
「ああ。この西側の山の付近だな」
ゼルトとディオネはそこを中心に右へ左へと歩き回り、気配が濃くなる方向の特定を試みる。
「……何だか、ダウジングマシンになった気分」
「?」
ディオネが思わず呟くと、ゼルトは何を言っているのか解らないと言うように片方の眉を僅かに引き上げてディオネを横目に見たが、幸い深く追及してはこなかった。
その後も二人は足を棒のようにして歩き回ったものの、結局クロノスを見つける有効な手掛かりを得られないまま、この日の調査は日暮れ前に打ち切りとなった。
「……どんな方法で探すのかと思っていたけど、こういう風に気配を追って歩き回るのね」
「結局、我々“神の眷属”が常時安定して行使できる能力は、同族を見分ける力のみだからな。人間の身体は、基本的に神の力を意の儘に操作・制御できるようには作られていない」
ゼルトの答えを聞いて、ディオネは市場で狼を退けたときのことを思い出した。確かに、あのとき自分がどのように力を使って何が起こったのか説明せよと言われても不可能だし、同じ状況になったときに再現することもできないだろう。どれほど強力で有用な能力であっても、不安定な力を当てにして調査を進めることはできないのだとディオネは納得した。
調査の片付けを終えた後、二人は元来た道を辿り、馬車を降りた地点の近くで待機している魔術師の許へ向かった。しかし、途中で困ったことが起こった。ほんの一瞬、夕陽に照り映える山々の姿に目を奪われていた隙に、すぐ隣にいたはずのゼルトの姿が消えていたのだ。
「え……」
ディオネは焦って一旦立ち止まり、こんな何も無いところで逆にどうやったら見失うのだろうと疑問に思いながら辺りを見回す。すると、ふと振り返った先に、いつの間にか戻って来ていた長身のゼルトの姿を見つけた。
「足を止めさせたか。済まないな」
ゼルトは平坦な声でそう言って、謝意を表すように目を伏せる。ディオネがその視線の先を辿ると、彼の手の中で何か色鮮やかなものが揺れていることに気付いた。小さく可憐で華やかな、一輪の赤いアネモネの花だった。
「その花を摘んでいたの?」
ゼルトは首肯した。丁度ここからは死角になる崖の際のほうまで足を伸ばしていたらしい。
「……この花が遠くから目に入ったとき、ある人物を思い出した。その者に贈りたいと思ってな。群生していたところから一輪拝借した」
それを聞いて、ディオネの頬は知らず知らずのうちに緩んでいた。彼が誰のことを思い浮かべているのか、彼女にはすぐに分かったからだ。対してゼルトはディオネの笑顔の理由が解らないらしく、しばらくの間は美しい眉を少々怪訝そうに顰めていた。銀の騎士の無骨な掌の中で、“風の花”は柔らかな花弁を心地よさそうにそよがせている。
第九話:クロノス
1
初任務の日から数えて三日目に、次の任務についての通達があった。その日、太陽が中天に差し掛かる時分に、ディオネは数名の兵士とともに北東の山の麓の村へと出発した。修復班を率いる魔術師とは、今回は現地で合流する手筈になっているそうだ。
馬車に乗り込む直前、回廊の途中で偶然リンクスとすれ違った。リンクスは行ってらっしゃいと手を振った後、すすと衣の裾を靡かせてディオネに近寄り、耳元で幸せそうに囁いた。
「あのね、帰ってきたら聞いてくれる? ある人からお花をもらった話」
それを聞いたディオネは何だか自分のことのように嬉しくなって、「ええ、勿論」とリンクスに微笑んだ。
日が傾きかけた頃になって、ディオネが乗った馬車はやっと小さな村の入口まで辿り着いた。煤けた石門の前で待っていたのは一人の若い女性だった。彼女が今日の協力者である魔術師だと、調査の手伝いのために同行した兵士の一人が教えてくれた。
「ようこそ。宜しくね」
サーリアと名乗ったその魔術師は、人好きのする笑顔でディオネに左手を差し出した。快活そうな女性だと思った。彼女の手を握るとき、彼女が手首に付けている華奢な腕環が目に入った。その腕環には、彼女の瞳と同じ薄い菖蒲色をした小さな美しい石がひとつ嵌まっていた。
ひととおりの挨拶が済むと、サーリアはそのままディオネたちを引き連れて村の中に入り、かろうじて舗装されている曲がりくねった砂利道を進んで、突き当りの民家の前に案内した。彼女が指差した先の石壁の真ん中にはっきりと黒い穴が空いていて、その中からはかすかに低い風音がした。ただ、今回は人が通れるような大きさの虚ではなく、通れるとしたら小動物までが精々だろうと思われた。因みにサーリアの話によると、この虚は石壁の裏側まで貫通しているわけではないので、住居の内側には影響が無いとのことだった。
「さてと。ディオネ、今回はクロノスの気配はどう?」
サーリアから尋ねられて、ディオネは周囲からそれらしき気配を探ってみた。今回は前回と違って人が生活する村の中なので、人の気配は当然あるが、前回明確に感じられた神の気配は皆無だった。念のため民家の周りを歩かせてもらっても結果は同じだった。サーリアにそう伝えると、彼女は「そっか。残念」と眉尻を下げた。
「毎回必ず気配が残っているというわけではないのね」
「ええ。半分以上の成分が人間である“神の眷属”と違って、神力の強い神様は、短い時間なら自分の気配を隠すこともできるらしいの。そうなったら、正直、気配を辿るのはかなり難しくなると思う」
サーリアの説明を聞いて、ディオネは納得しつつも肩を落とすしかなかった。今まで聞いていた条件だけでも、姿が見えない神を見つけ出すなど雲を掴むような話だと思っていたのに、隠れ鬼の相手が自分の気配を隠すことまで出来ると聞くと、ますます自分たち人間側の望みが叶う可能性が限りなく遠のいていく気がしてくる。
「よし、それじゃあ、修復を始めるわよ。そんなに大きい虚ではないけど、放置すると流石に危ないからね」
サーリアは一歩前に踏み出して虚の前に左の掌を翳した。亜麻色の髪が彼女の背で風に揺れた。ディオネはその瞬間、彼女の腕環に嵌まった貴石が淡く輝くのを見た。西日の差し加減でそう見えるのかと思ったが、見る限り、明らかに貴石自体が発光している。ディオネがその光景に目を奪われている間に、サーリアは何事かを口の中で呟き、まるで目に見えないものをゆっくりと握り込むように指を閉じた。その動きと連動して虚はみるみる小さく収縮していき、ついには最初からそこに何も無かったかのように綺麗に消え去ってしまった。ディオネが魔術師のほうに視線を戻したときには、彼女の腕環の光も消えて、元通りに戻っていた。サーリアは石壁から目を離さないまま、ひと仕事終えた合図としてひとつ息をついた。
その日の調査が終わった頃にはもう馬車を動かせる時間帯ではなかったので、ディオネたち一行はこの村で宿泊していくことになった。ディオネはサーリアの家に招かれ、野菜のたっぷり入ったスープをご馳走になった。彼女には夫と三歳になる娘がいて、夫は今日は魔術の機構の調整のために不在、娘は別室で既に乳母から夕食を与えられて眠っているという。
「それで、明日の動きなんだけど。私、明朝あなたたちと一緒の馬車に乗り込むことになってるわ。このまま天気が崩れないといいわね」
平たい器の中で匙を動かして香草を掬いながら、サーリアがそういえば、といった調子でそう口にした。
「じゃあ、あなたも一緒に王宮へ?」
「うん、そのはずよ。ケイロス様に“研究”の中間報告をしに行くためにね」
それは何の研究なのかとディオネが尋ねようとしたところで、ちょうど玄関の木戸が叩かれた。二人して一旦匙を置いて玄関に出てみると、他の家に宿泊することになったはずの一人の兵士が何故か玄関の外に立っていた。
「あのー、連絡の行き違いがありまして……」
曰く、明朝の馬車がディオネと随員の兵士だけで一杯で、サーリアのぶんの席が確保されていなかったそうだ。
「とはいえ、サーリア殿を明日王宮にお連れしないわけにもいきませんから、我々のうちの一人を一旦村に残らせていただき、追って迎えを遣りましょうか?」
「うーん……」
サーリアはしばらく考え込んだのち、兵士に向かって朗らかに首を振った。
「ううん、そのままで大丈夫よ。今夜は気温も丁度良いし、風も穏やかだし、むしろ夜のほうが鳥も少なくて安全だし、久しぶりに空路で向かおうかな」
空路? とディオネが横から疑問を呈する前に、サーリアがディオネを勢いよく振り返る。
「ねえ、せっかくの機会だもの、ディオネも一緒に乗っていくのはどう? 二人まではいけるから」
「ええと……」
ディオネは何が何だか分からないながらも、まっすぐ見つめてくるサーリアの目の輝きに気圧されて、気付いたときには既に首を縦に振っていた。
食事を終えて少し休憩をとり、サーリアに呼ばれるままに家の裏手の広場に向かうと、彼女は大きな木の棒の片側を細く割いたような箒に似た道具を携えてディオネを待っていた。その段になってようやく事態が飲み込めたディオネは、驚きのあまり、自分でもわけのわからないことを口走った。
「えっ、空路って、本当に空路ってこと?」
「何言ってるの、そう云ったじゃない。ほら、怖くないから、後ろに乗って」
サーリアはさっそく箒のような道具に跨り、いそいそとディオネを促す。ディオネが躊躇しながらも言われた通りにすると、サーリアの「行くわよ」という合図に合わせてすぐに手首の腕環の石が光り始め、二人の周りに同心円状に風が起こった。ディオネがその状況を完全に把握しきる暇も無く、二人を乗せた箒は静かに地面を離れてゆっくりと浮上していく。
「わ……」
ディオネは思わずサーリアの背にしがみつき、徐々に遠くなっていく地面を呆然と見下ろした。風の音に混じって、箒の前のほうからどこか楽しそうなサーリアの声が飛んでくる。
「やたらと速く飛んだりはしないけど、念のため、そうやってしっかり掴まっていてね」
ディオネは首を何度も縦に動かして返答し、サーリアの体に回した腕の力を強めた。最初こそ恐怖が勝ったものの、箒の浮上が止まり、滑るように前へと進み始めてしばらく経つと、会話する余裕も生まれてきた。サーリアは後ろのディオネをちらりと振り返って話し始める。
「実は、今回の任務ね、私がケイロス様にあなたを寄越すように頼んだの。今度の実験の適合者になる可能性が高いっていうあなたに、早いうちに一度会っておきたかったから」
「実験って……」
「そう。私たちが手掛けているのは、異界人を魔術で元の世界に送り返す研究よ。ケイロス様からの依頼でね」
時空の虚の原因を潰すための“神捜し”と並行して、異界人を元の世界に帰す研究を進めている。確か、ケイロスもそんな話をしていた。
「研究の完成には、まだ時間が必要って聞いたわ」
「そうね。もう少しかかると思う。でも、もう大体の目途はついているから、そんなに気の遠くなるくらい先のことじゃないわ」
サーリアはそう言ったあと、声の調子を変えて、自分だけに言い聞かせるように呟いた。
「そう――今度は絶対成功させる。同じことは繰り返さない」
その呟きは、二人の耳のそばでしきりに鳴り続ける風切り音に紛れて、ディオネの耳には届かなかった。
*
二人が首都の灯りを頼りに王城に辿り着いたのは、夜もだいぶ更けた頃だった。二人はそれから仮眠をとり、起きて早々にケイロスの呼び出しに応じて王の執務室を訪れた。
「――なるほど。この手法であれば、当初の予想よりは早くに完成まで漕ぎ着けそうだな」
「ええ。今、魔術式と機構の調整を……」
残念ながらサーリアの報告の内容をディオネが理解することは難しかったが、これから実験の当事者になる予定の身としては、研究の進捗を知ることができるのは有難いと思った。報告は滞りなく終了したようで、最後の質疑応答の段になったので、ディオネは何気なく尋ねてみた。
「この実験の適合者は今までにもいたの?」
すると、今まで理路整然と説明をしていたサーリアは急に言葉を詰まらせ、ディオネの視線から逃げるように目を伏せてしまった。怖がっているというよりも、これに答えるべきかどうか迷っているように見えた。それを感じ取ったのか、代わりにケイロスが話し始めた。
「ああ。一年ほど前、同様の実験を行った。被験者はお前のような神力は持っていなかったが、巫女の力を持つ少女だった。彼女はこの世界の空気への適応が弱く、既に非常に衰弱していた。何にしても、これ以上は待てないと判断した。本人の強い希望も含め、実験の決行を急がねばならない理由があった」
ここまで聞いて、ディオネにはその実験がどのような結果に終わったのかが予想できた。ケイロスは結果を明言せずに先を続けた。
「……今回は、当時と比べて研究も進んでいる。被験者の経歴も条件も異なる。特に神の血の濃さは、時空を超える際の負荷耐久に大きく寄与する可能性が高い」
ケイロスの説明の内容を飲み込んでディオネが頷こうとしたとき、執務室の入口のほうからシノンがケイロスを呼ぶ声がした。
「時間切れだな。次の会議だ。――サーリア、研究の現況は把握した。引き続き頼む」
王は手短にそう伝えて席を立った。後に残されたサーリアは、座っていた椅子と椅子の間を詰めて、ディオネの手を自身の両手で包み込んだ。
「……ケイロス様が仰っていた通りよ。あれから魔術式にも無数の改良を加えているし、あなたほどの神力の強さなら、時空を越えるときの負荷にもきっと耐えられる。今すぐには難しいかもしれないけど、絶対成功するって信じて」
ディオネはサーリアの真剣な目を見つめて、今度こそ明確に頷いた。サーリアはそれを確認して唇の端の緊張を和らげると、昔を回顧するように軽く目を伏せ、幾分声量を落として話を続けた。
「前回の実験がうまくいかなかったとき、研究者である私たちは当然だけど、ケイロス様もかなり堪えていらしたみたいでね。それ以来、被験者の選出にはかなり慎重になってたの。あの子……被験者になった巫女の女の子ね、まだ小さかったし内気な子だったっていうこともあって、明るい顔の記憶がほとんど無いのよ。元の世界に帰りたいって毎日泣いてた。だから、何の恐れも不安も無い、彼女の心からの笑顔が見たかった、って。それが心残りになってるって」
その点はもちろん私も同じ気持ちよ、とサーリアは話を結んだ。ディオネも「うん」とただ頷いた。そして、ふと手元に視線を落とした瞬間、今まで気付かなかったものが目に入ってきた。サーリアの白い右手に、赤黒く変色した痣や火傷の痕がたくさん刻まれている。日常生活の家事や虚の修復でこの数の傷がつくとは到底考えられなかった。
「サーリア、これ……」
痛くはないのかと尋ねようとしたが、その前にサーリアが気まずそうな顔になり、自身の右腕をディオネの前から引っ込めてしまった。
「もしかして、魔術の研究で?」
ディオネは重ねて尋ねた。返答は無かったが、彼女の分かりやすい反応が十分に物語っていた。
「どうしても、魔術の過程で血液や火を扱ったりするからね。大丈夫よ、自分の意思で取り組んでいることでもあるし、ひどい傷にはならないようにちゃんと制御してる。私も、同じく研究員である夫もね」
サーリアは右手の傷を自分の左手で隠して、明るい声でそう弁解した。
「どうして、そんなにまでして……」
考えるより先に、いつの間にかディオネの口からその疑問が零れ出ていた。すると、サーリアは軽く微笑んで、左手首の腕環を反対の手の指先で撫でた。
「それは、いつかあなたにも話すわ。無事に研究が完成したら」
そのときちょうど執務室の高窓から朝日が差し込んできて、彼女の腕環についている美しい菖蒲色の石に反射して輝いた。
2
それから翌日まで王宮に滞在して、サーリアは魔術師の村に帰っていった。首都に移り住まずに地元で研究を続けているのは、地方の静かな環境のほうが魔術の研究には適しているのと、娘がまだ小さいので、乳母も夫もいるとはいえ、やはり何かと手が離せないことが多いからだそうだ。
ディオネのほうは、その日以来、一旦実験のことを頭の隅に追い遣らざるをえなくなった。調査任務は概ね数日置きに呼び出しが掛かるし、任務が無い日も、水を汲んで来たり繕い物をしたり祭儀の手伝いをしたりと、ごく一般的な女官としての雑事を任された。任務は単に現場への移動・偵察・報告対応の繰り返しのように見えても、毎回何かしら想定外のことが起こった。本題のクロノス捜し以外で一番印象に残っているのは、調査の途上で十歳くらいの迷子の女の子を見つけてしまい、保護者を探している間に歌をうたってあげていたら、目を輝かせてディオネを見上げてくれたことだった。
調査と現場対応は、“神の眷属”ひとりと魔術師ひとりの組み合わせで進めることがほとんどだったが、比較的大きな虚が出現した場合や、ディオネにとっての最初の任務のときのように調査範囲が広い場合はその限りではない。一度ケイロスと組んで北西部の谷に向かったときなどは、ほぼ一日中歩き通しで、翌日二人して筋肉痛に苦しんだことをよく覚えている。
日々はまるで矢のように過ぎ去り、気付けば季節がひとつ先に進もうとしていた。日に日に強くなる陽射しは、ディオネに故郷で過ごした最後の日のことを時折思い出させた。
今日は概ね十日毎に開かれている、調査員全員参加の定期会議だ。前回と同じく、様式に則った報告のみで終わると予想していたが、会議の最後にリンクスから「ご覧いただきたいものがあるのですが」と進言があった。彼女が卓の上に広げたのは、全く同じ地形を描いた二枚の地図だった。
「私、過去にどのくらいの規模の虚がどの程度の頻度で発生したのかの記録をとっているんです。過去とは言っても、直近の一年分くらいの記録になってしまうのだけど」
リンクスが指差した範囲には、インクでいくつかの印が付けられていた。
「こちらがふた月前までの記録、こちらが最近の記録。観測期間は大体同じです」
彼女が説明するそばから、地図をよく見ようと魔術師の二人が身を乗り出す。
「ふむ。虚の発生頻度が昔に比べて上がっているとは言われていたものの、実際に地図上で見ると違いは歴然ですな」
「それに、最近は虚が発生する場所が全体的に王城のほうに近付いているか」
「そうなんです。発生する範囲が明らかに狭くなっている。ただ、現場で神の気配が感じられたかどうかという要素に絞ると、結果はまちまちですね。王城からの距離との相関関係はそれほど強くないように見えます」
「…………」
リンクスと魔術師たちの話を黙って聞いていたケイロスは、みなの意見があらかた出尽くしたのを見計らって「了解した」と相槌を打った。
「リンクスも、現場調査に当たった皆も御苦労だった。リンクス、虚の発生場所の観測については、今後も注視を頼む。対策としては、サーリアら地方駐在組の戦力をある程度首都に集中させるよう手配を進める。あとは……そうだな。中枢の内務官がこちらに数人割かれている分、宮廷内の差配の手が不足する恐れがあるが、そこはシノンを内務官の頭数に数えるのと、丁度数日以内には奴もこちらに到着するだろうから、それで埋め合わせが利くだろう」
暗にしばらく人間の姿で政務の手伝いをしろと言われたシノンが、ケイロスの隣で羽毛をぴんと逆立てたのが分かった。当のケイロスはシノンの無言の抗議を歯牙にもかけず、ただ皺が深く刻まれた眉間に手を遣って、何か考え込んでいるようだった。調査と通常の公務の両立による疲労からか、或いは掌で目元が影になっているだけなのか、心なしか顔色が優れないようにも見える。だが、ディオネが声をかけるまでもなく、ケイロスはその後早々に特別会議の解散を告げた。
*
「……よし、調査はこのあたりにしておこうか。今回も空振りかな」
「ええ……」
アルカスは手で庇を作って、遮るものの無い広大な草原をぐるりと一周見渡した。今日の調査現場は首都北方の中央平原だ。調査範囲が広いうえに虚も比較的大型とのことで、ディオネとアルカス、それに首都駐在の二人の魔術師が現場対応班として派遣されたのだった。ディオネとアルカスは虚の修復に向かう魔術師たちと一旦別れ、周辺を歩き回ってみることにした。この平原にはたびたび気性の荒い野生動物が現れるとのことで、調査員はそれぞれ弓や投げ槍や棍棒などの得物を携行した。ディオネも念のため、比較的軽い短剣を持たされている。
だが、ただ短い夏草が静かに揺れているこの草原には今のところ神どころか人や動物の気配すら無く、植物までもひっそりと息を潜めているようだった。
「あ」
魔術師らと合流するために馬車のほうに向かって歩いている途中で、ディオネは小さく声を上げた。何かを見つけたわけではなく、前回の調査以来だいぶ緩くなっていた髪結い紐が振動でついに千切れてしまったのだった。解放された髪の毛が重力に従ってするりと背中に流れる。ディオネが千切れた紐を慌てて拾っている間に、アルカスは懐に手を入れて何かを探しているようだった。
「……あった。これ、もし代わりになるなら使うといいよ」
アルカスが差し出したものを見ると、繊細な装飾が施された楕円型の髪留めだった。それは長年使い込まれた形跡がありながらも尚美しい光沢を放っていて、あまりに値打ちの高い品のように見えたので、驚いて「本当に借りていいの?」と尋ねると、アルカスは「勿論。それに、僕が持っていても使わないしね」と笑った。それで、ディオネは恐縮しながらもその髪留めを借りることにした。しばらく立ち止まって髪をまとめ、髪留めに挟んで裏側のピンで固定する。それが終わるか終わらないかの一瞬、ディオネは髪留めの金属音とは別の、何か異質な音を聞いた。弾かれたように振り返ったが、辺りには相変わらず何の気配も無い。聞き違いか――否、そんな筈はない。微かな音だったが確かに聞こえた。以前どこかで聞いた音だ。ディオネはそれをどうしても思い出せない自分に苛立ちを覚えた。もう一度聞けば、どんなに小さな音でも絶対に思い出せるのに――。
「ディオネ?」
心当たりを探して考え込んでしまったディオネに、どうしたのかとアルカスが話しかける。そうだ、アルカスにも今の音は聞こえただろうか。そう考えて、ディオネが「あの……」と口を開きかけたときだった。アルカスがディオネの背後の大きな岩のほうに目を遣り、はっと表情を変えた。すぐにディオネの腕を強く引いて、自分の背後に誘導する。何事かとアルカスを見上げ、彼の視線を辿ると、いつの間にか岩陰から一匹の猪が姿を現し、ディオネが先ほどまでいた辺りを徘徊していた。猪はこちらに気付くなり、何が気に障ったのか、全身の毛を逆立てて全速力で突進してきた。
調査に同行していた兵士が矢を放ったが、猪の足の速さに追いつくことは叶わない。より近い場所にいた兵士が投げた槍は辛うじて猪の胴体を掠った。アルカスは棍棒で猪を一旦退け、体勢を整えてからディオネに「剣を貸して」と短く指示した。ディオネが短剣を渡すと、アルカスはすぐに鞘を抜き、再度突進してきた猪の牙を受けてまた押し退ける。猪が着地して体勢を整えきる前に、急所の喉元に短剣が突き立った。極めて冷静で正確なやり口だった。アルカスはディオネに下がっているように言って、顔色ひとつ変えずに猪から剣を引き抜いた。生命を失ったその体から赤黒い血液が勢い良く噴き出す。あまりに派手に血が飛び散っているので、ディオネは心配になってアルカスの隣に駆け寄った。
「大丈夫?」
覗き込むと、アルカスの衣と顔の一部までが血の色に染まってしまっていた。彼は呆然と猪の死体を見つめ、辛うじて短剣を握っているような状態に見えた。顔色は誰が見ても分かるほど蒼白く、ディオネの声が聞こえているかどうかも定かではない。
「アルカス……?」
もう一度問いかけたとき、ちょうど短剣が彼の手から滑り落ち、地面の石塊に当たって鈍い音を立てた。それでアルカスは漸くディオネに気が付いたようで、取り繕ったように「……ああ、何ともないよ。大丈夫」と笑顔を作った。まるで何かをひどく恐れているように見えた。そのわけを尋ねて良いものかとディオネが迷っているうちに、ちょうど騒ぎを聞きつけたらしい魔術師たちが二人のもとへ駆け寄ってきた。
「何があったんです?」
血染めの衣に驚いてアルカスの傍に片膝をついた魔術師に、猪が襲ってきたことと、殆どが返り血だから心配はいらないことを説明する。アルカスは先ほどまでの動揺をおくびにも出さず、獲物の猪を指差して首を竦めた。
「今日の夕餉の主役は決まったようなものだね。こいつの丸焼きだ」
その夜、アルカスは念のため至近の診療所で軽い裂傷の手当てを受け、翌日の昼下がりにはディオネらと共に予定通り首都へと出発した。馬車の中でのアルカスの口数は、互いに疲れが溜まっていることを差し引いても往路より明らかに減っていて、ディオネにはそれが気掛かりだった。外の景色を眺めているアルカスの横顔をそっと窺ってみる。橙色に染まった日差しが馬車の中にまで入り込み、明るい小麦色をした彼の髪の先を輝かせていた。
*
夕焼けの残滓も消えかける頃になって、一行は漸く王宮に帰還した。アルカスと魔術師らは先にケイロスに調査結果を報告しに行くというので、ディオネは体に付いた埃と土汚れを落として旅装から通常の内着に着替えてくることにした。自室に戻る途中、幅の広い回廊の片隅で誰かが座り込み、柱に背を預けて居眠りしているのを発見した。近付いてよく見てみると、その人物は人間型に変身したシノンだった。よほど眠気に耐えられなかったと見える。
「シノン、大丈夫? こんなところで寝ないほうがいいわ」
「ああ……。今日は普段の伝令業務に加えて、内務のほうにも駆り出されて流石に疲れてしまった。……いや、いけないな。ケイロスもディオネも疲れているというのに……」
ディオネに体を揺すられたシノンは、終始ぼんやりとした声で呟いた。それはほとんど寝言に近かった。ディオネは眉を下げて少し笑ってしまい、「お疲れ様」とシノンの背を軽く二回叩いて、あとはそっとしておくことにした。人間型を保つだけで力を消耗するということだったから、やがて体力温存のために鳥の姿に戻って寝所にでも飛んでゆくのだろう。
ディオネも、女官らと軽く夕食を摂ってから自室へ戻った。その頃には辺りはすっかり暗くなっていたので、ディオネは自室に灯りをつけて、備え付けの卓の傍にあるクリスモス椅子に腰掛けた。簡素な部屋に、椅子の脚が軋む音が響いた。
昨日の調査で起きたことについて、考えを纏める時間が欲しかった。ディオネはそのためにまず外界からの情報を遮断しようと、椅子の背凭れに寄りかかって目蓋を下ろしてみた。しばらくそうしていると、目を閉じているぶん聴覚がより鋭敏になり、屋外のかすかな風の音や虫の声が時折聞こえてきた。ディオネはやがてその中に、美しい糸のような一続きの音の連なりを見つけた。誰かが外で楽器を奏でているのだ。ディオネには、これが何の楽器の音なのかも、そして奏でているのが誰なのかも、ほんの一・二節ぶんの旋律を聴いただけですぐに分かった。
目を閉じたまま、竪琴の玲瓏な響きに身を浴す。彼の奏でる音は柔らかく、それでいてどこまでも澄んでおり、真珠の玉のような雨粒が地に染みてゆっくりと溶けていくような情景を思い起こさせた。音にも奏者の性格がこれほど分かりやすく滲み出るものかと、ディオネは演奏を聴きながら頬を緩めざるをえなかった。
竪琴の演奏に一区切りがついて音が一旦止まったところで、ディオネは目を開けて体を起こした。彼に借り物を返却する用事を思い出したためだ。両手を頭の後ろに遣って髪留めを外し、ほの明るい燭台のもとに掲げる。植物の蔓を模した透かし技法の装飾は見れば見るほど精緻で、どれほどの職人でも真似できないような芸当に思われた。装飾部分の構造をもっとよく見ようと矯めつ眇めつしているうちに、髪留めの背面のピンの先に指が引っかかったらしく、皮膚が引き攣れる嫌な感触を覚えた。一旦髪留めを卓に置いて燭台の前に手を翳すと、人差し指の腹のところに小さな赤い血の玉が出来ている。少し遅れて、指先の熱さと小さく脈打つような痛みがやってきた。手を動かさずにそのままじっとしていると、やがて小さな切り傷から溢れ出た血液は雫となって指の根元まで伝い始める。ディオネはそれを拭うでもなく、灯りに照らされて光る赤い液体が流れるさまを暫く他人事のように観察していた。
「…………」
卓の上に血の雫が一滴落ちてかすかな音を立てた。そのことがディオネを椅子から立ち上がらせる契機となった。まずは傷の応急処置をして、また忘れてしまわないうちにこの髪留めを返しに行かなくてはならない。こんな夜更けに相手の部屋を探して訪うまでもなく、相手が現在屋外で竪琴を弾いていることは分かっているのだから。
ディオネは夜着の上に外套を羽織って、女官が暮らす別棟からこっそり外に出ることにした。こんな時間に外出するのは初めてのことだが、目的を果たしてすぐに戻って来れば良いことだし、それほどきつく咎められることもあるまい。そう思っても、鳴らす足音は自然と控えめになった。
建物から出て南門近くの小さな中庭に差し掛かる頃には、また竪琴の旋律が聞こえ始めた。彼が二曲目の演奏を始めたのだ。今度は憂いを帯びたような旋律で、一曲目よりも更に深い音が心に染み入るようだった。その音にディオネはかすかな引っかかりを覚えた。
――なんて哀しい音。まるで、奏者自身が苦難に苛まれて嘆いているかのような……。
そう考え始めると、音に呼応するように足取りも緩やかになってゆく。演奏を聴きながらたっぷり時間をかけてやっと中庭の向こう側まで横切ったところで、西棟の見張り台の石垣の上に腰掛けている人影を見つけた。ディオネの予想通り、淡い小麦の色の髪を後ろに束ねたアルカスが脚を組んで竪琴を弾いていた。
演奏の邪魔にならないようにそっとそちらに近付いていくと、月明かりに照らされて彼の顔があらわになる。その横顔を見たとき、ディオネは思わず足を止めた。彼の眼差しにはただ深い深い憂いと慈愛と懐古の情が満ちていた。その哀しみの壺は、事情を知らぬ者が軽い気持ちで覗き込んで良いものではないということがディオネには分かった。それで、彼女は結局アルカスに声をかけるのをやめ、回れ右をして寝室に戻ることにした。音楽家には無心で自分のためだけに音を奏でたいときがあることをディオネは知っている。それに、明日でも明後日でも、彼に髪留めを返す機会はあるだろう。今は、今夜だけは、この哀しくも美しい旋律を邪魔することなく、黙って耳を傾けていたかった。
寝室棟に向かって歩いているうちに、ディオネは彼の奏でる音をこんなに静かな環境で聴ける時間がもうじき終わってしまうのが惜しくなり、少し回り道をして王宮の中を散歩していくことにした。竪琴が奏でる旋律の拍子に合わせて、出来るだけゆっくりと歩いた。
やがて、ディオネは回廊をいくつも通り抜け、おそらく普段は足を踏み入れない北棟の方面にまで歩いて来てしまったことに気付いた。すぐに足を止めて来た道を戻ろうとしたが、周囲の暗さも相俟って、どちらから来たのかすっかり分からなくなってしまった。「敷地が広大すぎて、一人で歩いたら迷ってしまいそう」――王宮に来たばかりの頃に呟いた言葉が今になって思い出される。肝心なところで役に立たない自分の記憶力が恨めしかった。
とはいえ、早く見覚えのある廊下なり中庭なりに出なければ、自力で寝室棟に帰ることは叶わない。勘を頼りに進んでみるしかないか――そう考えてひとまず分かれ道が来るまで回廊を直進してみると、右に曲がった先の突き当たりの部屋から明りが漏れていることに気付いた。部屋を仕切る幕に隙間が出来ているらしい。ディオネは足を止めてしばらく逡巡したが、このまま一人で当ても無く進んで行ったら、本当に全くひとけの無いところで迷ってしまいかねないという懸念が勝った。こんな夜分に悪いと思いつつ、ひと声掛けて南の棟へ帰る道だけ教えてもらおうと、その部屋にそっと近付いてみる。部屋の目の前に立ったとき、ちょうど夜風が仕切り布を揺らし、ディオネが声を掛けるより先に、部屋の中の様子が一瞬垣間見えてしまった。
瞬きにも満たない時間だったが、ディオネの目にその光景を焼き付けるには十分だった。それは衝撃的と言うよりは、ただただ不思議な光景だった。見方に拠っては、幻想的だとすら言えるかもしれなかった。部屋の中には窓際に造り付けの卓と立派な椅子があり、その椅子にはケイロスが眠ってでもいるかのように背を預けていた。脇息に投げ出した彼の手の指の先には黄金に淡く光る糸のようなものが見え、そのもう片方の先は卓の上に乗った鳥型のシノンの脚の先に繋がれている。光の糸はまるで生き物のように時折揺らめいたり、消えそうに細くなったりしながらも、ある一定の間隔で拍動していた。シノンもケイロスと同じようにその長い睫毛を下ろしていて、真っ白な体の周りがぼんやりと発光している。
「――――」
ディオネはそこから一歩も動けなくなり、口元に手を遣ってしばらく息を殺していた。そうしているうちに、ふと背後に人の気配を感じた。いつから――と焦ってディオネが振り返る前に、夜更けに聞くにはやけに軽やかな甘い声が突然上から降ってきた。
「――お嬢さん、どうしたんだい? こんな時間に」
弾かれたようにそちらを振り向いて、声の主を確認する。わずかな月明かりでも分かる、輝かんばかりの明るい金色の髪がまず目に入った。彼女に声をかけてきたのは、澄んだ湖を思わせる鮮やかな色の垂れ目を持つ、輝くばかりの美丈夫だった。彼がディオネを見下ろすと、肩を越えるほどの長い金の髪が顔の輪郭に掛かって、さらりと涼やかな音を立てるような気さえした。
このかたはどなただったろう。これほど目立つかたであれば、おそらく花祭りのときに観客席の中からすぐに見つけられたと思うけれど……。ディオネは内心首を傾げながら、ともかく問いかけに答えなければならないことに気付き、「ええと……」と漸く口を開いた。
「ごめんなさい。ここに許可無く侵入するつもりは無かったの。散歩していたら、迷ってしまって」
すると、彼は「そうか」と満面の笑みで頷いて、とりあえず王の寝室の前で話していては流石にまずいからと、ディオネの肩にそっと手を回し、中庭に面した回廊のところまで案内してくれた。――やはりあの部屋はケイロスの寝室だったのだ。何も知らなかったとはいえ、ディオネは今になって肝が冷える思いがした。
「……なるほどね。竪琴弾きの音に誘われて、夜の散歩を?」
事情を話すと、彼は何だか楽しそうにくくと声を殺して笑い出した。
「ああ、失礼。道に迷って困っているのを笑うなんて、良くなかったね。いや、君があんまり可愛いものだから」
彼はそう言って器用に片目を閉じ、ディオネの髪をひと房掬い上げて、緩く巻いた毛先に軽い口付けをした。これほどの美男が極めて自然にやってのけるその仕草自体は、そのまま絵画にでもなりそうなほど優雅で美しかったが、ディオネは何だか居たたまれない気持ちになって、どこまで踏み込んで良いものかと戸惑いながら恐る恐る尋ねてみた。
「あの……失礼ですが、どなたにでもそういう物言いをなさるんですか」
彼は、今度は声を上げて笑った。
「困惑させてしまったか。良いんだよ、お嬢さんはこのくらい大切に扱われるべき存在ということさ」
ディオネはどう返答すれば良いのか分からず、目を白黒させて黙ってしまった。それを見て、彼はただ柔和に目を細める。
「折角だから、寝所に帰す前に、私の散歩にも付き合って貰おうかな。この廊下の奥の部屋――ある人の自室を訪ねる途中だったんだ。良かったらついておいで」
金髪の美丈夫に付き従って廊下を進むと、また突き当たりに仕切り布が掛けられた部屋が現れた。彼は一歩前に出て見張り役の兵士に声をかけ、部屋の主人を呼び出したようだ。ほどなくして軽い足音が近付いてきて、赤い仕切り布の向こうから黒髪の女性が姿を現した。ディオネは彼女の顔に見覚えがある。花祭りでケイロス王の近くに座っていた、優しそうな目の女性だ。
「あら。いつ戻ってきたの?」
彼女は金髪の青年を見るなり、見た目に違わぬおっとりとした声で尋ねた。
「ついさっきですよ。早く貴女にお会いしたくて、明日まで待てずにこうしてお部屋まで伺ってしまいました」
「相変わらずね?」
黒髪の女性は鈴を転がすようにころころと笑う。青年は何のことやらと言いたそうに笑顔で小首を傾げ、ディオネを一歩前に出させた。
「ディオネ、こちらがイスダル妃。ケイロス王の兄嫁にあたるかただよ」
「王妃様……」
ディオネは口の中で呟いて、「突然のご訪問を失礼いたします」と深く頭を下げた。その途中で先ほどの違和感に気付き、思わず小声で青年に尋ねる。
「あの、いつの間に私の名を?」
すると、彼は耳を疑うようなことをさらりと言った。
「ケイロス兄上からの手紙で伝え聞いているとも。そういえば私たちはさっき出会ったばかりで、互いに名を明かしていなかったね」
「まあ、あなたったら、自己紹介もせずに彼女を連れ歩いていたの?」
「だって、後で正体を明かすほうが面白いでしょう」
そう言って何食わぬ顔で微笑む青年に、イスダル妃はかける言葉も無いと言わんばかりに目を丸くして呆れてみせる。それから気を取り直してディオネのほうに向き直り、ほっそりとした手を伸ばした。
「花祭りでのあなたの活躍は観客席でよくよく見ていました。お会いできて嬉しいわ」
握手に応じると、緊張ですっかり冷たくなってしまったディオネの手とは対照的に、王妃の手はすべらかで温かかった。王妃はそのまま金髪の青年のこともディオネに紹介してくれた。
「彼はエフィルス。私の夫とケイロスの弟で、私にとっては義理の弟ということになるわね。外務官として、いつも色々な国や地域を飛び回っているの」
その説明を聞いて、だからこんな目立つ人を今まで王宮内で見かけたことがなかったわけだ、とディオネは納得した。
「エフィルス、ちょっとそこで待っていてね。ゼルトに言われて、上衣の飾り釦を取りに来たんでしょう?」
「ばれましたか。その通りです。イスダル様が預かってくださっていると聞いたものですから」
エフィルスが今宵彼女の部屋を訪った理由は、落とし物を受け取るためだったらしい。イスダル妃は一度部屋の奥に下がり、エフィルスが落としたという飾り釦を掌に載せて戻ってきた。エフィルスは「有難うございます」と微笑と共に軽く目礼をして、受け取った釦をあるべきところに付け直した。
「……さて。せっかくですからこのまま月夜のお茶会にでもお誘いしたいところではありますが、今宵はまず彼女を無事に寝室棟まで送り届けねば。イスダル様、積もる話はまたの機会に」
どうやらこれがいつもの調子なのか、イスダルは顔色ひとつ変えず、にこやかに「ええ、また必ず」と手を振ってディオネたちを見送ってくれた。
エフィルスに南棟まで送り届けてもらう道中、ディオネは「驚きました」と彼を振り仰いだ。
「ケイロス王に弟君がいらっしゃったなんて。今まで、王からそういう話を聞いたこともなかったですし……」
独り言のようにそう付け足すと、エフィルスは「ああ」と相槌を打った。
「三人ともそれぞれ別のところで幼少期を過ごしたから、私たちは一般的な兄弟ではないかもしれない。特に私は妾の子だからね。兄上たちとは異母兄弟にあたる。自分が王の子であることを長い間知らずに、母の実家である城下町の仕立屋で平民と同じように育てられたよ」
この人は驚くようなことを何でもないように淡々と話す人なのだということが、ここに来てディオネにも分かってきた。エフィルスは天気の話でもするような調子で昔話を続ける。
「十四になった頃、母の実家の店が上手く行かなくなって、王城に働き口を探しに来たんだ。そうしたら、たまたま侍女の一人が赤ん坊の頃の私のことを覚えていてね。それが切欠で、当時の王――長男のオルクス兄上が事情を知り、私と私の家族の居場所を王宮内に作ってくれたというわけさ。その頃には、ケイロス兄上ももう王宮に呼び戻されていたかな」
エフィルスは過去の記憶を手繰り寄せるように顎に手を遣って、斜め上に視線を移した。ディオネは王宮に来る前、港町でアルカスやミラに聞いたことを思い出した。確かアルカス夫妻とケイロスは、同じところできょうだいのように育った間柄だと言っていた。ディオネは今になって、ケイロスがなぜ少年期を王宮で過ごさなかったのかが改めて気になった。エフィルスに視線で尋ねてみると、彼はそれを受け止めて頷いた。
「ケイロス兄上は、強すぎる神力のせいで先々代の王――私たちの父から疎まれ、表向きは静養という名目で、田舎町に隔離されて育ったらしい。父王の崩御と前後して、オルクス兄上が声をかけて王宮に呼び戻したと聞いているよ。ケイロス兄上も田舎にいる間に、神力を制御して暴走を防ぐ方法を身に着けたようだし」
「神力を……。もしかして、その方法って」
「察しが良いね。そう、ケイロス王の部屋で目にしたあれが、神力の制御策だ。ああして、溢れ出た分の力を定期的にシノンへ渡しているんだそうだよ」
いつだったか、シノン自身も話していた。自分は王から神力を分け与えられている、“器”という存在なのだと。そのお蔭で人間の言葉を話したり人間に変身したりすることができるようになったと彼は言っていたが、今のエフィルスの話を踏まえると、“器”に神力を分け与えることで助かるのはむしろケイロスのほうなのだろうとディオネは理解した。人間の制御能力の限界を超えて神の力が溢れ出てしまえば、どういった結果になるのかは想像に難くない。
エフィルスとディオネはしばらくそのまま月明かりの中の散歩を続け、ディオネにとって見覚えのある南西の回廊まで戻って来たところで、互いに就寝の挨拶をして別れることになった。ディオネがエフィルスの背中を見送ってまた寝室棟に向かって歩き出したところで、まだかすかに竪琴の演奏が聴こえることに気付いた。今夜は随分と色々なことがあった気がしていたが、実はディオネが部屋を抜け出して来てからそれほど時間は経っていなかったらしい。
竪琴の音を聴きながら回廊を左に折れて、南西側の中庭に出ると、アルカスとはまた別の人物が石造りの噴水の縁に腰掛けて月を眺めているのが目に入った。癖のある黒髪を無造作に肩まで流した、既に見慣れた後ろ頭。
「……ケイロス」
自分でも不思議なことに、頭で考える前に気付けば声を掛けていた。彼はディオネの姿を認めると、落ち着いた低い声で「ああ」とだけ答えて、自身の隣の空間を目で示した。なぜここにいるのかとも、何か用事があるのかとも訊かれなかった。ディオネは素直にケイロスの隣に腰を下ろした。ケイロスはそれを一瞥し、表情こそ変えなかったものの、どこか満足した様子でひとつ頷いた。
二人は互いに何かを話し始めるわけでもなく、雲が晴れて輝きを増した下弦の月をしばらく黙って眺めていた。かすかに聞こえる竪琴の音色と夜風に吹かれて新緑がさざめく音だけが、その場にある音の全てだった。ディオネの細い髪が風に煽られて数本くちびるに掛かった。彼女はそれを払い除けて、まずは先ほどあった出来事を話そうと口を開いた。
「イスダル様とエフィルス様にお会いしたわ。エフィルス様はあなたの弟君で、その――一番上のお兄さんが、先代の王様だったって」
ケイロスはまた「ああ」と相槌を打った。彼の横顔を窺ってみると、やはり先ほど神力をシノンに分け与えて負担が軽くなったためか、先日の会議のときよりもややすっきりとした顔色をしているように見えた。
彼はたっぷり二呼吸分ほど置いてから、「――六年前、西方の異民族との大きな戦があった。戦の前線に出て指揮を執ったのは兄王だった」と話し始めた。
「俺も兄に付いて戦場へ向かった。当初、戦況はこちらに有利だったが、消耗戦に持ち込まれ、敵も味方も疲弊していった。一度撤退して体制を立て直すことを兄と相談していたとき、突然敵の奇襲に遭った。――兄は俺を庇う形で死んだ。どうか、息子が王としての責務を果たせる年齢になるまで守ってやってほしい――そう言い残してな」
ディオネは声が喉の奥に詰まってしまったような気がして何も言えなかった。ただ、彼の髪が夜風にそよいでいるのを見ていた。
「もとより、俺は仮初めの王に過ぎない。兄王とイスダル妃の息子であるディオクレイス王子に無事に王位を継ぐことさえ出来れば、それで俺の役目は終わりだ。だが、王子は十分な神力を持っていないし、それはディオクレイス以降の王位継承者も同じだろう。先祖返りで異常な神力を持つ者が王位に就くなどということは、今を逃せば今後おそらく起こらない。なればこそ、この“クロノス捜し”だけは、俺の代で必ず決着をつけねばならない」
そう話す彼の鋭い目には、静かな炎が点っている。ディオネは彼との今までのやり取りを思い返し――そういえば、花祭りのときにイスダルの隣に王族らしき少年が座っていたから、それがディオクレイス王子だったのだろう――、彼が一貫してこの時空の虚の問題に執着とも言うべき情熱を傾けていた理由を理解した。
「……私ね、サーリアから実験の話を聞いたときに気付いたことがあるの。最初は元いた世界に帰る魔術が完成するまでの期間限定の契約に過ぎなかったはずなのに、驚くことに、いつの間にかその目的を忘れかけてた。必ず皆と一緒にクロノスを見つけ出して、時空の虚の問題を解決するための力になれたらいいって、今は本当にそう思ってる」
ふ、と小さく息が吐き出される音が確かに隣から聞こえた。そちらを窺ってみると、月光に照らされた彼の唇の端がほんの少し上がっていた。
「だから、私にも最後まで協力させて。あなたの力になりたい。ここまで連れてきてくれたことにも、元の世界に帰る実験の機会を与えてくれたことにも、感謝してるから」
重ねてそう言うと、ケイロスは今度は明確に笑みを刷いて、それから揶揄するように言ってのけた。
「まさか、お前からこんな風に礼を言われる日が来るとはな」
「それは、最初のうちは大体失礼な言動しか目にしていなかったからで……」
心外だと抗議すると、彼は緩やかな動作で大きな掌を目の前に立ててディオネを制した。
「それに、なにもお前のためだけではない。魔術師の研究が前に進んで異界人を元の世界に帰す方法が確立できれば、難民化の解消も叶う。俺はただ、俺の目的を達成するためにお前や他の協力者を動かしているに過ぎない」
それは分かってます、とディオネは苦笑した。噴水の縁の冷たい大理石から腰を上げて振り返り、立ったままケイロスと対面するような格好になる。噴水の段差の分を含めると、立った状態のディオネと座ったままのケイロスとで目線の位置はさほど変わらなかった。ディオネは彼の目をまっすぐ見つめて話し始めた。
「ねえ、もう少しだけ聞いてくれる? 私、ここに来てから、生まれて初めて将来の夢が出来たのよ。一生かけて叶えたい夢が」
以前は、とにかく安定した仕事に就くことしか考えられなかったのにね。心の中でそう自嘲する。
「今まで、人前で歌ったことがなかったの。いつも自分のためだけに歌ってた。だから、私の歌を聴いた人がどんな反応をするのかなんて、考えたことすらなかった」
ケイロスもまた、身動きひとつせずにディオネの顔をただじっと見上げている。相槌は無かったが、ディオネには彼が真剣に話を聞いていることが十分に伝わっていた。
「だけど、誰かが私の歌を聴いてくれたときの顔を見ているうちに、こう思うようになったの。どう過ごしても一度だけの人生なら、私はこうやって一生を過ごしてみたいんだ、って」
貿易船の上で歌を口遊んだときのフィロムの顔や、ミラの家に泊まったときのアルカスたちの笑顔や、迷子の子どものために歌をうたったときの反応や、それに、花祭りの独唱曲を歌い切ったあとのケイロスの満足そうな顔を思い出す。そうやって、誰かの人生の彩りになったり、幼い頃の記憶の一部になったり、或いは恐れに打ち勝って一歩踏み出す力になったり、時には傷ついた心を癒す涙になったりすることができたら、どんなにか素敵だろうと思う――。ディオネがそう話を終えると、ケイロスは僅かに目を細めて、ただ一言「そうか」と頷いた。それは今までディオネが聞いた中では、いちばん優しい響きの声だった。
初夏の涼しい夜風に乗って、琴弾きのしらべが揺蕩うように二人のもとへ運ばれてくる。闇に映えるディオネの白い内着の裾が、新緑の葉擦れの音と同じ速度で緩やかにひらめいていた。
3
翌日、会議室で今日の皆の予定をリンクスに尋ねたところ、「アルカスは、今日は朝早くから調査に向かったわ。今日中には戻って来るはずだけれど」との返事だった。それで、ディオネは髪留めを懐に持ったまま一旦自室に戻って、その日は女官としての頼まれ事を消化して過ごした。
また次の日、ディオネは早朝から兵士たちを伴って王城を出立した。リンクスからの情報によると、北の国との国境近くの森の中に小規模な時空の虚が発生したという。今回も、相方となる魔術師とは現地で合流する予定だ。
――王宮のほうで異変が起こったのは、太陽が西に傾き始めた頃だった。ケイロスとゼルトが執務室で軍議を進めている途中、珍しく控えの者が「失礼」と会議を止めさせて王に耳打ちした。ケイロスは「承知した。そちらに行く」と躊躇い無く席を立ち、ゼルトにも同行するよう目で示した。
控えの間で待っていたのはリンクスだった。彼女の顔色は蒼白で、執務室から出て来た二人と目が合うなり「ケイロス様、ゼルト」と声を震わせた。
「御告げがあったのです――」
王はリンクスからの報告を聞くなり、現在王城内に残っている調査員と魔術師にすぐさま緊急招集を掛けた。曰く――南西の海岸に、今までに無い規模の虚が現れる予兆あり。被害を最小限に抑えるため、至急、現状確認と修復を試みる必要がある。ついては、魔術師と“神の眷属”を今から?き集めて海岸へ向かう――と。
「急ぎ出立準備を整えよ。現在調査任務に出ている者については、順次呼び戻せ」
低くよく通る彼の声は、不思議と人を動かす力がある。常々考えていたことを頭の片隅で改めて認識し直し、ゼルトはアルカスと目を合せて互いに頷き合った。
ケイロス王を挟んでゼルトとは逆側の席についている官吏が、青天の霹靂のような命に狼狽したようにしどろもどろに進言するのがゼルトのほうにも聞こえた。
「しかし、王。主要な内務官や武官をみな連れて行かれては、城内の守りが手薄になりましょう。もし何かあれば……」
「イスダル妃とエフィルス、それに大臣のカリオンを残す。軍は国王直属の一軍のみを割くこととする。これが今見出せる最大限の妥協点だ」
有無を言わせぬ響きだった。臣下は「承知」と深く頭を垂れ、内務の調整のため、衣を翻して執務室へ急いだ。
南西の海岸に到着するなり、彼らは一様に言葉を失った。海面と太陽の丁度中間ほどの空に、黒い巨大な渦が縦向きに口を開けている。今まで何度も目にしたことはあるはずだが、もはや全くの別物にも見えた。それほど尋常ではない規模の虚だった。
立っているのも難しいほどの突風に、魔術師が腕で目を覆って小さく呻いた。これは只の海風ではない。虚の引力が何もかも吸い込んでしまおうとしているのだとケイロスには分かった。実際に、虚の端から人間らしき影が吐き出されて海へと落ちて行く姿も確認できた。
「魔術師はそのまま前線での対処を頼む。調査員は近隣住民の避難誘導とクロノスの捜索を並行せよ」
簡潔に命令し、アルカス・ゼルトの班をそれぞれ北部と南部に振り分けて、自身は中央部での統轄を担当する。リンクスは避難所に到着した民のもとに遣って安全を確保させた。そうしている間にも大風の影響は民の間に確実に広がり始めており、ケイロスらは被害を最小限に抑える為の対応に追われて文字通り息つく暇も無いほどだった。やがて、ふと作業が途切れた隙を見計らい、ケイロスは現状を確認するためにアルカスとゼルト、リンクスを招集した。ちょうどそのとき、王宮からの使いだという一人の兵士がケイロスの前にまろび出るようにして跪いた。
「ケ、ケイロス王、申し上げます。南東方面を哨戒していた者からの報告で、神山付近で強い嵐が発生したと――」
神山は此処からすぐに駆けつけられる距離ではない。表情を強張らせたアルカスとゼルトが素早く目を見合わせるのが視界の端に入った。
「自然発生か」
兵士の前に膝をついて尋ねると、彼は手の震えを抑えるようにしてやっと首を振った。
「それが――かの災厄の女神が現れて嵐を起こしているようです。これを鎮めるには、人間の単純な武力ではとても太刀打ちできないかと」
ケイロスは歯噛みした。何故選りに選ってこのような時に。
――否、解っている。
彼は頭を振る。このような時に偶然運悪く災厄の女神が人間のもとに現れた訳ではあるまい。かの女神が司るのは争いと不和。なれば、この強力な時空の虚による国の乱れを感じ取り、それに引き寄せられて力を付けたのだろう。
さて、このまま神山の嵐に対して何も手を打たないわけには行かない。ケイロスは顎に手を遣って考え込んだ。相手が女神である以上、こちらも“神の眷属”を派遣する必要があるが――。
思考を言葉にする前に、アルカスが一歩進み出て静かに口を開いた。
「ケイロス。僕が行こう。……行かせてほしい」
その場にいた兵士らが「それは……」「お一人では危険だ」と俄かにざわめき始めた。アルカスは彼らを見回して微笑し、改めてケイロスの目を正面から見据えた。
「僕はかの女神に相見えたことがある。見たところ、こちらは今すぐクロノスが現れて何か仕掛けて来そうな風でもないし、神山のほうにある程度の戦力を割いたほうが良いだろう」
アルカスの口調は冷静そのもので、言い分も尤もだ。だが、平時と変わらぬ人当たりの良い人間を装っていても、いま、彼の眼の奥はそれこそ時空の虚よりも昏く虚ろだった。ケイロスは、アルカスの顔色がここ数日優れなかったことも、その理由も承知している。――同時に、自分ではその憂いの淵から彼を救ってやれないであろうことも。
「…………」
重い沈黙ののち、ケイロスは本人の希望通り、アルカスを神山のほうに派遣することを決定した。その場にいる一人ひとりの顔を見渡すと、リンクスの心配そうな表情が目に入る。ケイロスは敢えてそれに気付かなかった振りをした。
アルカスの肩に手を置いて、彼を自分の側に半歩分引き寄せる。そのまま彼に短く耳打ちした。
「生きて帰れ。命令はそれだけだ」
アルカスははっとしたようにケイロスと目を合わせて、ひと呼吸だけ躊躇った後に頷いた。「了解」という一言は、虚から吹き荒れる風の音に半分以上掻き消された。
*
その頃、ディオネはクロノスの気配を探して、北方の深い森を奥へ奥へと進んでいた。今日の相方の魔術師は、森の入口付近で虚の修復措置を続けているはずだ。
尖った枝を持つ背の低い樹木の傍を通ったとき、結い上げた髪の一部が枝の先に引っかかって歩みが止まった。髪に絡まった枝葉を無理に取り除こうとすると髪が引っ張られて痛いので、一度ほどいてしまって結い直そうと髪留めを外す。結局アルカスに髪留めを返すタイミングが合わず、今回の調査にも持って来てしまったのだった。
そのまま立ち止まって前回のアルカスたちとの調査を思い返していると、それと連鎖して、あのとき猪が草を踏み分ける音に混じって聞こえた謎の音のことも思い出された。それは喉の奥に刺さった魚の小骨のように彼女の思考の一部をいつまでも占有している。あれも虚の発生現場付近で起こったことには違いないから、思い出しさえすれば何か分かるかもしれないのに……。そう考えながら、掌の上の髪留めの精緻な彫刻を何となしに眺めていたときだった。斜め後ろ上空から俄かに突風に吹かれたような激しいさざめきが聞こえ、ディオネははっと頭上を振り仰いだ。――いや、風が吹いたのではない。大型の鳥の羽ばたきが局所的に風を起こしたのだ。
「ディオネ。ここにいたか」
注意深く樹々の間を縫ってこちらに降りてきたのは、鳥の姿のシノンだった。ディオネは驚いて目を瞠った。
「…………」
「南西の海岸に、かなり大型の虚が出現した。いま、“神の眷属”と魔術師らがケイロスの指揮のもと現場へ向かっている。私には、現在調査に出ている者を至急集めてくるように、との仰せだ」
シノンは一度人間の姿に変化し、長時間の飛行のために息が切れているのを隠しもせずに一呼吸で言い切った。
けれどこのとき、ディオネの頭には彼の言葉が何ひとつ入って来なかった。――彼女は気付いてしまった。直後に、気付かなければよかったとひどく後悔した。そして、躊躇った。自分が今しようとしていることは、目の前の人物と自分との間に今まで培われてきた全てを無に帰すことに等しい。それでも、次の言葉を告げることをやめるわけにはいかなかった。元々、そういう契約だったからだ。
「……ねえ、シノン。私、別の場所で虚の調査をしていたときに、小さな音を聞いたの。その音はどこかで一度聞いたことがあるのに、何の音なのかどうしても思い出せなかった」
ひとつ言葉を重ねるごとに語尾が震えた。彼女の目の前に居る、人並外れて美しい男性は、徐々に表情を凍らせて目を見開き、何も言わずに只々ディオネを見つめている。
「でも、たった今思い出したの。あれは羽ばたきの音だった。最初にあなたが私を助けてくれたとき、南西の海岸で聴いたのと同じ音よ。あなたほど体も翼も大きな鳥は自然界にはそう居ないから、聞き間違えるはずはない」
西からの風が樹々をざわめかせる。その風は向かい合うふたりの間を無情に流れてゆく。
「ディオネ? 何の話を……」
「それに、私はいま、あなたの羽音が聞こえるまで、まるで気配に気付かなかった。いつもなら、ケイロスから神力を分けてもらっているあなたの気配に気付かないなんてことは絶対に無いのに」
自分が偶々考え事をしていたから見落とした? 平時であればそう片付けてしまったかもしれない。だが、虚の発生現場で聞いた謎の音とシノンの羽音とが線で繋がってしまった今、この違和感を見逃すわけにはいかなかった。
氷のように冷たい、不思議な色合いの目のなかに、ディオネの姿が逆さに映り込んでいる。そこから視線を離さないように彼女は必死で自分をふるい立たせ、決定的な言葉を漸く喉の奥から絞り出した。
「あなたが、クロノス……?」
第三章《時の章》第十話:結界
時が経つのが普段の十倍は遅く感じた。誰かと一対一でまともに向かい合っての沈黙がこれほど重いものだとは、ディオネは今まで知らなかった。
「――こんなときに何を言っている? 今は一刻も早く海岸へ向かい、ケイロスたちを支援しなければ。ほら、ディオネ」
シノンはディオネとの距離を一歩分詰めて、「一緒に行こう」と片手を差し延べる。ディオネは一歩退ろうとしたが、足が竦んで動けなかった。代わりに頭を振って拒絶の意志を示し、反射的に彼の手を払い除ける。そのとき、握っていたままだった髪留めのピンが何かを掠める感触があった。シノンの手の甲にピンの先が引っかかったのだ。白く骨ばった手の外側に、真一文字の傷がついていた。彼はその手を無感動な眼差しで見下ろしている。やがて傷から血液が溢れ出てきて、彼の手首から肘まで伝ったひとしずくが草の上に音も無く落ちた。――ディオネはそれが本当に血液と呼んで良いものなのか信じられず、思わず目を瞠って一歩前に進み出た。その液体は光を反射して水銀のような色に輝いている。人間や動物の血液の色では有り得ないことは明白だった。
ディオネは足元の草から彼の腕、手先、髪、顔へと視線を移した。彼女の目の前で、既に銀色の血に呼応するように変化は始まっていた。白に近い銀の髪と白い衣は、インクが水に溶けるような速度で黒に染まり、明るい金色の瞳にも徐々に翳りが差して、ついには漆黒に包まれた。
「どうして……」
乾ききった唇から、その一言だけが零れ落ちた。ディオネの表情を見て、嘗てシノンと呼ばれていた者は満足そうに薄笑いを浮かべた。
「お前以外の者は、ある意味国王の一番の側近とも言える私に疑いを向けること自体が難しかっただろうな。ケイロスと神力授受の契約を結んでから十四年、あれが王宮に呼び戻されてからは十年。それだけの年月をかけて、私は王宮に馴染みすぎた」
クロノスは彼とディオネの間の何も無い空間に掌を翳す。その瞬間、彼の掌から闇が湧き出て急速に広がっていくのをディオネは見た。逃げようとする暇も無かった。気付いたときにはディオネも、そしてクロノス自身も、その闇にすっかり飲み込まれようとするところだった。鋭く息を呑む音を最後に、ディオネの記憶はまるで幕を下ろすように途切れた。
ふたりが姿を消した後、そこに残ったのは、清麗な森のさざめきと、ディオネの手から滑り落ちた物言わぬ髪留めだけだった。
*
ケイロスは大風で荒れ狂う海と、その空中に黒い巨大な月のように浮かぶ時空の虚のほうに目を移した。まだ虚の近くには近寄れないほどの風が辺りに吹き荒れているが、それでもいっときに比べれば嵐は収まってきている。それに安堵の息をひとつ吐いたとき、天幕の中から腰を折って出て来た兵士に「ケイロス様、交代しましょう。少し休憩なさってください」と声を掛けられた。ケイロスは了承し、兵士と入れ替わりに天幕へ入る。簡易的な天幕の中はただ薄暗いばかりの何も無い空間ではあったが、とりあえず風を直接受けない環境で体を休めることはできる。
ケイロスが風除けの外衣を脱いで簡易椅子に置き、その上に腰掛けようとしたときだった。
「……何だ?」
彼は素早く立ち上がって辺りを見回した。天幕の中だというのに、乾いた風切り音のような低い音が聴こえる。幻聴か――と頭を振ってみるが、その音は消えるどころか徐々に増幅されて近付いてきているように感じられた。
音の出どころを探って四方を振り返る。すると、視界の端に黒い――何か穴のようなものが不意に飛び込んできた。
――天幕の中に、何故……
ケイロスは自身の目を疑った。それは人ひとりが通れる程度の大きさの“時空の虚”のように見えた。いつの間に、と思わず呟いたのが先だったのか、吸い込まれぬように虚から極力距離をとろうとしたのが先だったのかは分からない。しかし、そのどちらも絶望的に間に合わなかった。声を上げて臣下に状況を伝える間も無く、ケイロスの身体は一瞬にして深い闇の中へと引きずり込まれていった。
――暫くののち、王が天幕から出てくるのが遅いことを心配した兵士は、また腰を曲げて天幕の中を覗いてみた。
「ケイロス様?」
薄暗い天幕の中にはただ静寂だけが満ちている。簡易椅子に無造作に置かれた外衣が、持ち主の代わりに何事かを語りかけているようだった。
報せは風のように海岸中を駆け巡り、ケイロス王の失踪はすぐにこの場にいる全員の知るところとなった。
「どうして、こんなときに……」
「王は天幕の中でお一人だったのだろう。この騒ぎに乗じて、何者かに拐かされたのでは」
「いや……こんなことは言いたくないが、あまりの重圧に指揮者の役割を放棄されたということはないか」
一人の呟きを源として疑念は漣のように広がり、その場を支配していた困惑の空気は怒りへと容易に転化する。「滅多なことを言うものではない」と諫める者、「いや、そうに違いない」と恐慌状態に陥る者の声が入り交じり、隊の様相は混沌を極めた。
「――そなたらは、これまであの王の何を見て来た」
吹き荒れる風を掻き消すように、地に響くような声を張り上げたのはゼルトだった。その一言で辺りは水を打ったように静まり、いくつもの目が一斉に彼に注がれる。
「戦に於いても内政に於いても、ケイロス王がこれまで臣下を残して務めを放棄するなどということはあったか。卑怯にも一人だけ逃げ出そうとすることはあったか。これに答えられぬようであれば、自分たちがいま何を言っているのかよくよく省みることだ」
ゼルトは言いながら、自分に注目している兵士一人ひとりの目を見返した。彼の話に聞き入っている者、態度を決めかねているのか隣の者と小声で相談している者、気まずそうにゼルトから視線を外す者など、反応は様々だった。
彼は隊の隅々まで届くよう、また、自分にも言い聞かせるように、更に一段階声を張り上げた。
「王は我らをお見捨てにはならない。きっと何か已むを得ぬ事情がおありだ。なれば、ケイロス王が帰還されるまでの間、みなで無事に此処を守り通す――それが今の我々の役目ではないか」
兵士たちは互いに目を見合わせ、周囲の様子を窺うようにではあったが、徐々にそこここから同意の声が上がり始めた。それは打ち寄せる波のような力と確かな熱量とを持つうねりとなり、ついには大風の音を上回るほどに膨らんでゆく。
*
南東の神山の奥深くの樹海、その道なき道を掻き分けるようにアルカスは進んでいた。何度も蔦が足首に絡まり、腐って倒れた樹木の幹に躓き、枯葉で足を滑らせかけた。困難な道程ではあったが、逆にこれほど分かりやすい道標も無いとアルカスは考えた。植物の命が奪い取られている痕跡を辿れば、恐らくその先に女神が待ち構えていることだろう。
樹海を進みながら、アルカスは昔のことを思い返した。そうだ――確か、あの日も深い森の中をこんな風に進んでいた。
アルカスがケイロスやミラと出会ったのは、三人ともまだ物心がついたばかりの頃だった。後から周りの大人に聞けば、仮にも王位継承権を持つ第二王子の遊び相手として、この地方で家柄と年齢が偶々近かった子どもが宛がわれたということのようだったが、子どもの頃はそんな事情はどうでもよかった。アルカスはよくケイロスと狩りに出掛けた。ミラがそれに付き合うこともあった。ケイロスとアルカスは狩りでよく生傷を拵えたので、
私が薬草の専門家になったのは半分はあなたたちのせいだと思う、とミラは時折ぼやいていた。
やがてケイロスの父であるキュクノス王が崩御し、既に政を担っていた兄王のオルクス様がケイロスを王宮に呼び戻した。ケイロスは強すぎる神力の扱いに長いこと苦慮していたが、偶然海岸で拾ったシノンという鳥を“器”に見立てて神力授受の契約を結んでからは、力を制御できずに周囲の物を破壊してしまうことも殆どなくなっていた。
ケイロスが王宮に帰って一年ほどが経った頃、アルカスはミラを伴っていつも通り手近な森へと狩りに向かった。そこで、夢中で獲物を追っているうちに、思いのほか森の奥深くにまで迷い込み――。
回想はそこで途切れた。神山の頂上付近にまで辿り着いたアルカスは、樹木が全て薙ぎ倒されて開けた台地のようになっている一角を見つけた。その真ん中に、一人の少女が――否、少女に見えるものが閑やかに佇んでいる。丈の短い白い衣を身に着けた彼女はこちらに背を向け、両の手を背中側で組み合わせている。それだけであれば、端から見れば彼女のほうが山奥に迷い込んでしまったか弱い存在のように映るかもしれない。だが、神の眷属であるアルカスは、この少女が決して迷子などではないことを知っている。この神山自体に漂う清浄な神気も相俟って、これ以上無いほど濃厚な神の気配。そして、少女の周囲を取り巻くように黒い火花のようなものが絶えず散っていた。
「……エリス」
アルカスは女神の名を呼んだ。彼女は気怠げに振り返る。炎のような色の瞳がアルカスの姿を捉えると、その目はどこか嬉しそうに細められる。そして、少女は可憐な紅い唇の端を引き上げ、嫣然と微笑んだ。
*
ディオネは夢から覚めるように目を開いた。体がひどく冷えていて、乾燥しているように感じた。足元を確かめると、そこはまるで黒い底無し沼だった。足首の紐をきつく結んでいたはずのサンダルが脱げているばかりでなく、足を着けるべき地面さえも存在しない。それを確認して、彼女は初めてこの状況の一部を理解した。――おそらく、自分はいま宙に浮いている。
「気付いたか」
氷のような声がして、弾かれたように周囲を見回す。どこを向いても辺りは一面の黒で、よく見ると小さな白い星が無数に瞬いているのが確認できた。そして、そのなかに黒衣を纏った一人の男の姿が不思議と浮き上がって見えた。つい先ほどまでシノンという偽りの名で呼ばれていた“クロノス”は、漆黒の長い髪を靡かせ、片手に巨大な鎌を携えてディオネを睥睨している。
「ここは……」
やっと一言声を発したとき、隣にもう一人誰かの気配がすることに気付いた。
「クロノス。あなたの結界の中か」
答えは目の前の男の口からではなく、ディオネの隣の人影から齎される。そちらに目を向けると、ケイロス王がクロノスを睨みつけている。クロノスはその視線をものともせずに高らかに嘲笑った。
「おまえは昔から中々察しが良い。もっとも、肝心な私の正体だけは見抜けなかったようだが。おまえたちが時空の虚に翻弄され、何年もかけて総出で私を捜している姿は、私から見れば滑稽なこと極まりなかった」
そして、急に真顔に戻って冷え切った眼でケイロスを一瞥したかと思うと、空に向かって大鎌を振り上げた。それに応えるように、耳を塞ぎたくなる轟音と黒い雷が二人に向かって放たれた。
第十一話:神の血統
「――なあ、アルカスよ」
少女はその姿に見合わぬ老練な仕草とともに深い緋色の目を細めた。
「折角このような形で再会できたのだ。昔話でもしようではないか。あれは何年前のことだったろうな。わたしにとってはほんの瞬きほどの時間に過ぎぬが、人間であるおまえにとっては昔懐かしい思い出のひとつの筈だ」
女神に正面から相対するアルカスは、彼女が何の話をしようとしているのかを理解して背筋の冷えを覚えた。彼の顔色が変化するのを面白そうに眺めながら、女神はアルカスとの距離を徐々に縮めてゆく。
「我々はあのひととき、四六時中一緒だった。おまえは何日もまともに食事も摂らず、暗闇のなかで日がな一日わたしの相手だけをして過ごしていた。あの頃のおまえの絶望に満ちた目は、中々の見ものであったぞ。ただ、その日々が思いの外早く終わりを迎えてしまったことは、わたしにとってはいささか興が削がれる点ではあったがな」
アルカスの脳裏に、そのときの光景が一瞬にして蘇った。目の前が徐々に暗くなり、足元が揺らぐ。女神は更に距離を詰め、既に手を伸ばせば互いに触れられるところまで近付いてきていた。彼女は可愛らしく小首を傾げ、俯くアルカスの顔を挑発的に覗き込む。
「あの日――わたしは樹の陰から一部始終を見ていたのだ。森の奥深くに迷い込んだおまえたちは、意図せず野生の熊の縄張りに入り込み、怒り狂った熊に襲われた。おまえは女を背後に庇い、携えた弓と長槍とで応戦した。弓で動きを止め、倒れたところに馬乗りになって、長槍で心の臓を思い切り突き刺した。それで終わりだった。そして、おまえが巨大な熊の隣に跪き、絶命したかどうかを確認している途中――」
「やめろ。やめてくれ」
アルカスはついに立っていられなくなり、砂と岩の混ざった地面に力無く膝をついた。少女が彼を見上げる形になっていたのが反転し、こちらを見下ろしてくる美しい女神を蒼白な貌で呆然と見上げる。女神はまだあどけなさを残す小さな掌でアルカスの頬に触れ、次いでその手を首筋にそっと沿わせた。アルカスはそれを振り払いもせずに、ただ畏れの混ざった眼差しを彼女に向けている。――やめてくれ。その先を言わないでくれ。
だが、女神がその懇願を聞き入れることはない。じわじわと時間をかけて、彼の首筋に掛けた手の指に込める力を強めてゆく。
「熊はみるみる女の姿に変化していった。その女の顔は、行方知れずだったおまえの母親の顔だった!――そうだ。おまえの身のうちには、未だ深く染み付いているのだろう。最愛の母の心の臓をみずからの手で貫いたときの感触と、全身に浴びた凄惨な返り血の臭いが!」
「――黙れ!」
アルカスは衝動的に短剣を取り出し、ついにその切っ先を彼女の胸の中心へと突き立てた。衝撃で彼女の手が首筋から外れた。
肉を貫く感触は確かに有った。それでも彼女は絶命するどころか、痛がる様子すら見られない。只、燃えるような血の色の目でアルカスを見つめ、凄絶な笑みを以て彼を支配しようとするだけだ。アルカスが慄いて思わず短剣を引き抜くと、彼女の胸の傷は灼けるような音を立てながら元通りに塞がっていった。
今度は女神のほうが反撃する番だった。彼女はその手に黒い雷を宿し、物を軽く放るような仕草でその雷をアルカスに容赦無く浴びせる。アルカスは身体のあちこちに焼け付くような痛みを覚え、眼前には衝撃による眩しすぎる光が絶えず明滅していた。立ち上がって応戦しようにも、女神は攻撃の手を緩めることを知らず、立て続けにアルカスの身体に雷という名の槍を打ち込み続ける。アルカスは肺の痛みに息を荒げてその場に座り込み、ついには背中を深く丸めて蹲った。砂の上についた肩肘が既に焼け焦げて黒く変色しているのがぼやけた目に映った。
――出立前、ケイロスは言った。人間が物理的な力で神を打ち倒すことなど出来ない。だから、打ち負かすことではなく、人間界に出て来られないように神山に封印してしまうことを考えろ、と。
こうしている間にも上空の黒い雲は更に重く厚く広がり続け、女神を取り巻く黒い火花は勢いを増すばかりだった。このまま、この災厄が神山の麓の村にまで届いたら――。
アルカスは息を吸い込む度に痛む胸を抑えながら、それでも拳に力を入れて上体を起こした。目の前に立ちはだかる少女、その紅い瞳を見上げる。
「此処に来てあなたと対面する前に、既に解っていた。ケイロスほど規格外の神力を持っている者であればいざ知らず、僕の神力だけでは、あなたの力を抑え込んで封印することは叶わない。だが――僕も何も勝算を持たずに此処に来たわけじゃない」
女神は訝しげに片方の眉を引き上げた。
「ほう。では、どうする。わたしには人間如きの希望に従ってやる気など更々無いことを、おまえは承知しているだろう。わたしにとって一番の養分になるのは、人間の争いや絶望から生み出される負の力なのだから」
「ああ、勿論解っているさ。あなたの前では僕は只の人間であり、僕の力はあなたに及ばない。けれど、この神山自体が纏っている神気にも力を借りて、更にあるものを増幅剤として掛け合わせれば、おそらく神力の強さは互角になる。但し、それはたった一度きりの機会だ」
「何? おまえ、まさか――」
女神の表情が変わる。それを見て、知らず唇の端が緩んだ。「生きて帰れ」――最後に聞いた友人の声が、白く霞がかった頭の中に木霊する。
――ケイロス、約束を守れなくてごめん。それに、ミラも……。
神力を大きく増幅させる機会は一度きり。失敗は許されないが、思ったほどの懸念は無い。神山という土地の加護が有利に働くこともあり、アルカスの計算上、これならほぼ確実に――道連れに出来るだろう。
「――――」
合図は声に出さずとも発動する。全身の血が一瞬にして熱く燃え上がるような感覚をおぼえ、次の瞬間、目も開けていられないほどの強い光の塊が両者の間に現れた。その光越しに、不和の女神が美しい貌を歪め、信じ難いと言うように目を見開いている。それが、彼が最後に見た光景だった。
南西の海岸にほど近い港町の外れ、薬草を摘みに外に出たミラは、東の山のほうで何か大きな音が聞こえた気がして振り返った。使者からの報せによると、ケイロスやディオネたちは時空の虚に対応するために海岸のほうへ向かい、夫は女神を鎮めるために神山へ向かったという。
――どうか、みな無事に帰ってきて。
神山の頂上付近は黒く厚い雲に覆われているが、その中心から徐々に白い光が差してきて、ついには黒い雲を相殺してすっかり飲み込んでしまったように見えた。ミラはその光景を見つめ、指先が白くなるほど強く両手を組み合わせた。
*
槍と大鎌とが噛み合う音が鳴り、辛うじて長槍が大鎌の刃を退けた。薄氷を踏むような危うさではあるが、神の得物での攻撃にこうしてどうにか渡り合えているのは、ひとえに神力の影響だ。神の張った結界の中では神力が格段に扱いやすくなる。ケイロスは長槍に神力を纏わせ、こちらの命を刈り取ろうとしてくるクロノス神の鎌に応戦していた。
――だが、まずいな。今のところ、相手の動きを止めることすら出来ていない。こちらの体力か集中力が尽きるのも、それこそ時間の問題だ。
ケイロスは歯噛みした。何も言えずに海岸に残してきてしまった仲間たちのことを思うと、早く帰らなければと焦りばかりが募る。余裕の無い表情のケイロスを面白そうに見下ろしていたクロノス神は、突然顎を上げて高笑いを始めた。
「魔力は才覚に宿るが、神力は血に宿る。“先祖返り”であるお前の神力は、あれに――忌々しい私の末の息子に本当によく似ているな! まるであれと力比べをしているようだ」
その一言で、ケイロスはクロノス神が――“シノン”が自分に近付いてきた理由を察した。シノンがずっと執着していた対象はケイロスではない。シノンはケイロスの裡に流れる血と神力にしか興味が無かったのだ。とすると――。
「最初からか?」
空を切って横薙ぎに振るわれた鎌を、ケイロスの槍がすんでのところで食い止める。凄まじい力に押し切られぬよう槍を持つ手に力を入れながら、ケイロスはクロノス神に問うた。相手はそれだけで何を訊かれているかを承知したようで、美しい面に薄ら笑いを浮かべて嘲るように答えた。
「ああ、そうだ。神の座から逃亡した私は、最初から計画的にお前に近付いた。仲間から爪弾きにされた哀れな動物のふりをしてな」
ケイロスは当時のことを思い返した。シノンを拾ってからしばらく経った頃、王の側近だったニケフォロス将軍がちょうど個人的にケイロスを訪ね、有り余る神力を溜める“器”を作れば王子も普通の人間と変わりない生活を送れるでしょう、と進言した。魔術師が魔力を貴石に貯めて扱いやすくする方法に着想を得たのだと言う。
ケイロスは結果としてシノンを“器”に選び、神力授受の契約を結んだ。だが、そのせいでシノンはケイロスの神力の中に“クロノス”としての神気を隠すことが叶うようになり、これまで誰にも疑われずにいたのだ。
もはや相手に対する怒りは微塵も湧かなかった。いまケイロスの身の裡に燻っているのは、ただ自分に対する怒りと失望のみだった。
否――ケイロスは拳の震えを押さえて首を振る。今考えるべきは、この結界から脱出することだ。最悪の場合、彼女だけでも生きて帰さねばならない。
その障壁として眼前に立ちはだかる黒衣の神をケイロスが鋭く睨みつけると、彼は面白くて堪らないと言うようにまた軽く笑った。
「――ずっと、その顔が見たかった。お前を観察するのは飽きなかったが、この一瞬の愉悦は格別だ。あれにも一度で良いからその顔をさせてみたかったものだな」
言いながら、クロノスは大鎌を振り上げて黒い雷を放つ。それは的確にケイロスの片脚を灼いた。痛みに耐えられず、かたく食い縛ったケイロスの歯の間から苦悶の呻き声が漏れる。時の神は間髪与えず、目にも留まらぬ速さで大鎌の先端をケイロスの腹に突き刺した。クロノスが鎌を引き抜いたそばから、夥しい量の血が吹き出す。
「ケイロス――」
ディオネは蒼白な顔でほとんど叫ぶように名を呼び、彼に駆け寄って肩を支えた。そして相対するクロノスを怒りの籠もった目で睨みつける。その眼差しが大層クロノスの癇に障ったらしい。クロノス神の瞳は一瞬にして烈火のように燃え上がり、次の瞬間にはディオネは彼のもとに囚われていた。両手を拘束され、動こうにも動けない。
何か冷たいものが項に触れたのが分かった。クロノス神の大きな掌だと遅れて理解する。クロノス神はそのまま耳元でディオネに囁いた。彼の長い黒髪のひと房がディオネの頬に触れた。
「……美神の娘よ。お前は“神の血混じり”のひとりとして、あの先祖返りの王に大層重用されていたようだな。あれを更に絶望させる為に、お前を利用するのも一興か」
クロノス神は、ふたりの目の前で蹲って肩で息をしているケイロスを目で示し、態とらしく甘い猫撫で声でディオネを誘った。
「私と一緒に行こうか、ディオネ。あの男はあのままじきに死ぬが、お前だけは助けてやってもよい。私の権限で、神の末席に加えてやろう。お前は老いと死の苦しみから解放され、母親と共に永遠に生き続けるのだ。お前が望むなら、一時的に元いた世界に帰ることも許そう。――但し、私に従えばの話だがな」
ディオネは今の今まで一つも理解できなかったこの神の行動原理を、ようやく少し理解できたような気がした。小さい子どものように気に入らない者の周りから協力者を遠ざけたいだけなのだ。
しかし、考えを理解することと考えに共感することはまるで違うことだ。ディオネには彼に唯々諾々と従う気など更々無かった。首を振って強い口調で言い放つ。
「私はあなたと一緒には行かない。神の地位も永遠の時間もいらないわ。元の世界に帰るのだって、あなたになんか頼らない」
ここで絶対的な力を持つクロノスに逆らったことで例え死ぬことになったとしても、彼を――ケイロスをこのまま見殺しにするよりはましだと思った。彼女の返答を聞いて、クロノス神は一瞬にしてその眼差しを氷のように冷たいものへと変え、まるで面白そうな玩具への興味を失ったとでも言うように平坦な声で告げた。
「ならば、二人仲良くここで死ぬことだな。人間どもよ」
抵抗する暇も与えず、ディオネの長い金髪を乱暴に掴んですぐさま大鎌を振り上げる。
「やめろ」
「離して!」
ディオネが暴れても、体格も力も違うクロノスはびくともしない。クロノスの大鎌の尖った刃の先がディオネの身に届く前に、彼女は懐から護身用の短刀を取り出し、躊躇い無く自分の髪を切り落とした。小麦のような金色の房が暗闇のなかで光りながら辺りに舞い落ちてゆく。そのとき一瞬生まれた隙をつき、ディオネは振り向きもせずにケイロスの元へと駆け戻った。
膝をついてケイロスの傷の様子をうかがう。腹部の刺し傷からは衣越しに生温かい血が絶えず染み出ていて、もはや一刻の猶予も無いことだけが分かった。血を流しすぎたらしく、彼の顔からは血の気が引いて、意識も朦朧とし始めている。
「……すまないな。結果的には、こうして俺と奴の因縁に巻き込む形になった」
ケイロスは喘鳴の間に何とか声を絞り出しているようだった。ディオネはただ静かに首を振る。それから震える手でケイロスの片手を握り、クロノス神には極力聞こえないように耳元で確認した。
「――教えて。あなたがやっていたように、ここでなら、私も神力を解放できる?」
その問いかけが耳に届いたとき、ケイロスは胸の裡に希望が生まれる音を確かに聞いた。そうだ、アルカスが出立するときに彼に言って聞かせた。「相手は神だ。勝つことを考えるな。負けないことだけを考えろ」と。そして、いま彼らがいるのは、言うなれば時空の虚の中だ。ならば、クロノス神をここに閉じ込めて封印してしまえばよい。この空間が完全に閉じてしまう前に二人だけで脱出するのは――一人だけでは難しくとも、二人分の神力を合わせれば、いくらか成功の目が見えてくる。
「あなたほどではないのだろうけど、私も神力を持っているんでしょう。一緒に戦いたいの」
クロノス神に聞かせないために声量は抑えているが、それでも力強い声が掌の熱とともに流れ込んでくる。ケイロスは冷え切った身体に再び生命の灯がともるのを感じた。
――守ってやらねばならない存在だとばかり思っていたというのに。
傷の痛みも左脚の感覚が無いことも忘れて、自分でも驚くほどの精神力で身体を起こし、ディオネの目をまっすぐに捉える。
「魔術師は自身の魔力を貴石に込めて使役する。神力でも同じことができるということは身をもって証明済だ」
「何か、代わりになるものは……」
ディオネは身の回りを検め、やがて懐から金色の懐中時計を取り出した。懐中時計の裏側を開くと、小さな丸い鏡が付いている。
「……これなら、もしかしたら」
ケイロスとディオネは頷き合い、二人で懐中時計に手を翳してそこに神力を集めた。互いに手を重ねて、クロノスが次の攻撃に転じる前に懐中時計の鏡の面を彼に向ける。凝縮した二人分の神力にクロノスは一瞬怯み、一歩ぶん後じさる。それを契機に、ケイロスが神力を纏わせた長槍で手近な空間をひと突きし、人間が通れる程度の穴を作った。穴からは光が漏れている。同時に、まるでその穴から空気が抜けているように、空間自体が収縮し始めた。
背後から「逃がすものか」という呻き声とともに黒い雷が飛んできたが、クロノスはまだ光に目が眩んでいるらしく、その雷はディオネたちから遠く離れたところで派手に火花を放った。
「ディオネ」
ケイロスが後ろを振り向いて手を差し出す。その手は血に塗れていて、重傷のために制御が利かず震えていたが、それでも、力強い手だと思った。ディオネは迷わずその手を取った。――そこからは、記憶ごと光に焼かれてよく憶えていない。
*
南西の海岸上に張った簡易天幕を出たゼルトは、眉を顰めて鋭い眼光で海上の虚を見据えた。
「――ゼルト様、魔術師たちがもう限界です。このままでは」
部下の耳打ちに渋面を作って頷く。ゼルト自身も勿論判っている。これ以上魔力の継続的な放出を強いられれば、力を使い果たして倒れる者が必ず出てくる。だが、巨大な虚から発生する大風は、衰えるどころかここに来て尚勢力を増すばかりだ。
――あの巨大な虚には太刀打ちできないのか。
ケイロス王が必ず戻って来ると信じてはいるものの、焦燥ばかりが脳を灼く。虚の大きさは今や空の半分を飲み込むほどに拡大している。このまま力尽きて、虚の修復が叶うこともなく、ここにいる全員が渦に飲み込まれてしまうのか――。
瞼を固く閉じ、無念ながらも覚悟を決めたときだった。そこにいる全員が、同じ異変を感じ取った。
「風が止んだ……」
「これは……どうしたことか。黒い渦がひとりでに消えてゆくぞ」
「こんなことは初めてだ」
戸惑いを隠しきれない兵士たちは口々に言い合う。ゼルトは切れ長の目を細め、消失してゆく時空の虚の動向を長い時間注視していた。
第十二話:挽歌
ディオネが目を覚ますと、まず耳に入ってきたのは人々のざわめきだった。次いで、足下の冷たさに気付き、自分が石畳の路上で横になっていたらしいことを認識する。ゆっくりと起き上がる間に、徐々に頭の靄が晴れてきた。
項の辺りに違和感をおぼえ、緩慢な動作で首筋へ手を遣る。すると、肩の上で短く切り落とされた巻き毛の先が指に当たった。そのことは、あの結界の中での出来事が夢や幻ではなかったことをディオネに教えた。あれが夢ではない、とすると、彼の大怪我も――。
「――ケイロス」
ディオネは焦って辺りを見回した。だが、探し回るまでもなく、彼はうつ伏せになってディオネの隣に倒れていた。なるべく揺らさないように手をとって声をかけ、体温と脈があることを確かめてひとまず安堵の息をつく。そこで、自分たちがどうやら人垣に取り囲まれているらしいことに漸く気付いた。この喧騒や、いま座り込んでいる石畳の柄にはそこはかとなく覚えがある気がして、ディオネは軽く首を傾げる。それもそのはず、ここはディオネがヘラスに初めて到着した日に立ち寄った南西の海岸沿いの市場の往来だった。クロノスの結界──時空の虚を脱出した後にどこに飛ばされるのかは賭けでしかなかったが、結果的に、ふたりは無事ヘラス国内に戻ってこられたようだ。
だが、勿論全てがうまくいったというわけではない。ケイロスの腹部の傷は言うまでもなく直ぐに治療が必要な状態だったし、左脚は素人のディオネが見ても分かるほど完全に焼け焦げてしまっていた。
ケイロスは周囲の通行人らの力も借りて、すぐにミラのもとへ運び込まれた。薬師であるミラは、ケイロスの回復力であれば腹部の傷はうまく塞がる可能性が高いと診断したが、脚のほうは彼女にもどうにもできなかった。腐食が進まないように下肢を切り落とし、技師に義足を作らせる方針になるという。
夜になって、ケイロスは漸く目を覚ました。痛みに呻きながらもすぐに起き上がろうとしたので、ディオネとミラは二人がかりで必死に止めた。今は療養に専念するしかないと観念したらしいケイロスは、それでも何かをしていないと落ち着かないのか、今日あったことを掠れる声で途切れ途切れにミラへ報告していた。
ひととおりの治療を終えた後、血に染まった敷布を洗濯しながら、ミラは静かな口調でディオネに話した。
「アルカスが女神を鎮めるために神山へ向かったって、ケイロスが事前に知らせてくれたの。それで、ついさっき兵士が報せに来てくれたわ。神山の頂上付近で、女神が封印された形跡と、ひとりの焼け焦げた遺体が見つかったって」
それを聞くなり、ディオネは思わずミラのほうを振り向いた。まるで喉が絞め潰されたように、一瞬にして息が詰まった。洗ったばかりの手巾がディオネの手から滑り落ちて、水を張った器の中にゆらめきながら沈んでゆく。
「……そんな」
絞り出せたのはその一言だけだった。何よりミラのことが心配になって視線で問いかけると、力の無い柔らかな微笑とともに、大丈夫、という目配せが返ってきた。
「本音を言うと、まだ実感が無いの。でも、手を休めてしまったら一気に現実感が押し寄せてきそうで。だから、今はこうやって忙しているくらいが丁度いいのかも」
夜が深まるに連れて、ケイロスは傷に由来する発熱で魘されるようになった。ディオネは器に汲んだ水に手巾を浸して彼の額に載せてやり、ミラと交代して床についた。
――やはり、自分が思っていたよりも体力と精神力の消耗が激しかったらしい。ディオネは床についてからすぐに眠りに落ち、明け方近くの時間になってふと目を覚ました。ミラと交代したのが真夜中だったので、数刻は泥のように眠っていたようだ。
ディオネは隣の部屋のケイロスの様子を窺い、彼の寝息がいくらか穏やかなものになっていることを確認して、乾いてしまった手巾を取り替えた。それから水を貰いに厨のほうへ出ると、外から薄明るい光が差しているのが目に入った。夜が明けようとしているのだ。ディオネは何となしに家の外へ出て、ミラの家の裏手の小さな丘の上へ向かった。ここなら日の出がよく見えそうだ。――そういえば、前回の宿泊時にミラが雑談がてら話していた。子どもの頃、アルカスとケイロスと一緒にここでよく遊んだものだと。
遠くの山の稜線を望む見晴らしの良い場所を見つけ、ディオネは草原に腰を下ろした。その拍子に、懐から何かが滑り落ちる。金色の小さな懐中時計だった。ディオネはそれを掌に載せてしばらく見つめた。こちらの世界に来た時点で既に時計の役目は果たせなくなってはいたが、此度の衝撃でか、ついに盤面の硝子が完全に罅割れ、長針も妙な方向に歪んで折れ曲がってしまっている。それでも、ディオネにはこの懐中時計を手放す気はなかった。両手で大事に包み込み、元通りに懐へと戻す。
ディオネは小さく息をつき、改めて東の空を眺めた。日の出が近いとは言えど、辺りはまだ薄暗かった。
「…………」
考えないようにと努めてみても、哀しみと遣る瀬無さは波のように襲ってきた。朝靄にけぶる目の前の景色が余計に滲んで見えた。
やがて、ディオネはもう会えない人に手向ける歌を小声でうたい始めた。この世界に来たばかりの頃にも歌っていた、故郷の童謡だ。息を吸うたびに、冷たい早朝の空気が肺に取り込まれるのが感じられた。
歌に一区切りがついてディオネが歌うのをやめたとき、ちょうど後ろから誰かが近付いてくる足音がした。振り向くと、ミラが丘を登ってきていた。ミラはディオネの隣に腰掛けた。
「今うたっていた歌、あの人から教わったの? 歌詞は少し違うみたいだけれど」
ディオネはミラの質問を不思議に思いながら首を横に振った。
「私の故郷で愛されていた有名な童謡よ。私、故人を悼む歌はよく知らないものだから、せめて代わりにと思って」
そう答えると、ミラは目を瞠って口元を覆った。その意味をディオネが尋ねる前に、ミラが穏やかな声で話し始めた。
「その曲ね、あの人が初めて作った鎮魂歌なの。葬儀以外で聞く機会はなかなか無いはずだから、どうして知っているんだろうって驚いたわ」
今度はディオネが目を丸くする番だった。ミラは優しく目を細めて微笑んだ。彼女の若草色の瞳に涙が溜まって星のように輝いていた。
「……そう。あの人の歌、今も遠い世界のどこかで愛されてるのね」
ディオネは頷いて微笑み返し、アルカスが書いたというその歌をまたうたい始めた。遠くに行ってしまった人のところまで届くように。
その横でディオネの歌に耳を傾けているうちに、朝陽が昇るのを見ていたミラの目から頬へと静かに涙が伝った。
第十三話:二人の王
朝日が昇るのを見届けてディオネとミラが屋内に戻ると、ケイロスが包帯だらけの身体で杖をつきながら出掛ける準備をしようとしているところだった。
「だめよ。あなたの回復力が高いことは知ってるけど、まだ動ける状態じゃないわ」
ミラが慌てて止めたが、ケイロスは表情ひとつ変えずに黙って首を横に振った。
「ゼルトやリンクスたちにとって、まだ俺は遠征の途中で姿を消したままということになっている。一刻も早く戻って、隊のみなに説明せねばならん」
そう言われて、ミラとディオネはお互い困った顔で目配せをした。結局ケイロスはディオネに体の片側を支えられ、慣れない杖をつきながら海岸へ向かうことになった。
*
ゼルトは昨日の疲れも癒えぬまま薄暗い簡易天幕の中で目を覚まし、重い頭を起こした。今日は大風の被害状況を改めて確認し、避難した住民らを元の住処に帰さねばならない。
「ゼルト様。ケイロス王が――」
ほとんど転がるようにして天幕に入ってきた部下の報告に耳を疑った。天幕の外に出てすぐに、海岸に続く道の向こうから金髪の娘に寄り添われてこちらに歩いてくる王の姿を見つけた。
「――お待ちしていた」
「すまない。遅くなった」
再会を喜ぶ短い挨拶を交わした後、ケイロス王は姿を消してから今まで何があったのかをゼルトらに説明した。シノンの正体がクロノスだったこと。クロノスを時空の狭間に封印したので、時空の虚が頻繁に発生することは少なくとも無くなるだろうということ。
「……では、あの巨大な虚が消滅したのはその影響か」
おそらくそうだろう、とケイロス王は答えた。ゼルトは包帯を巻かれたケイロスの左脚に目を遣った。神と直接相対することがどれほどのことなのかを想像せずにはいられなかった。
神山に向かったアルカスが女神の封印成功と引き換えに命を落としたことも知らされた。ゼルトの隣でリンクスが短く息を呑み、遠いところへ行ってしまった仲間を悼んで深く目を伏せた。
一通りの情報共有を終えた後、ゼルトとディオネらはケイロス王の指示のもとで天幕撤収および原状復帰など、帰営の準備を進めた。そこから少し離れた森の入口付近では、リンクスらが近隣住民の問合せなどに対応している。
リンクスが住民に簡易地図を見せて復旧計画を説明していたときだった。傍仕えの女官は、リンクスの背後に見知らぬ男が忍び寄るのを見た。女官が声を上げるのと、視界に影が落ちたことに気付いたリンクスが不思議そうに振り返ろうとしたのはほとんど同時だった。
「リンクス様!」
悲鳴に近いその声で、ゼルトもケイロスもディオネも一斉にそちらを振り返った。丁度、リンクスの背後の人影が剣を振り上げるところだった。ゼルトは即座に天幕の資材を手放し、考えるより先に駆け出した。
――間に合え。
だが、彼が伸ばした手がリンクスに届く前に、振り上げられた剣が彼女の衣と肌を大きく裂いた。ゼルトは、彼女の白い肌に赤い血液が無遠慮に飛び散るのを見た。リンクスは驚いた顔のまま、声も上げずにそのまま膝をついて頽れた。ちょうどそのとき、ゼルトはようやく森の入口に辿り着き、鍛えられた腕のなかに確かにリンクスを抱きとめたが、彼女の身体は血で赤く染まっていて、既に冷たくなり始めていた。
呆然とするゼルトの傍に、遅れてケイロスとディオネが駆け寄った。時を同じくして、背後の森の中から数人の足音が近付き、ついに白日の下に姿を現した。身分の高そうな出で立ちをした赤い巻き毛の男が一人、その従者らしき男たちが数人。いずれの顔もディオネには見覚えがなかったので、ヘラスの王宮内の人間ではなさそうだと考えた。その場にいる人間が赤髪の男を誰何する前に、彼は薄く笑って大仰に手を広げ、馬鹿にしたような口調でケイロスに話しかけた。
「これはこれは、ヘラスの国王どの。久しいですな」
ケイロスは男を睨みつけたまま詰問した。
「東の国の王――デモクラトス。なぜ彼女を殺した。そなたの異母妹である姫君を」
「いや、手違いで何処かの賊がこの女を殺してしまったようですなあ。しかし、丁度良かった。人ならざる怪しい力を持った人間がまた一人減ったことで、人間が人間だけのために治める平和な世がまた一歩近づいたではありませんか。そうは思われませんか。現代に『神』の力は必要ないのです。その神の意思を聴くと言われる、怪しげな『巫女』なる者も。――あのような女に私と同じ血が流れているなど、考えるだけでも汚らわしい」
「何だと……」
ケイロスは腰に刷いた剣の柄に手を掛けた。ところが、隣国の王のほうはケイロスに敵意を向けられても少しも焦る素振りを見せなかった。
「ああ、そうです。ヘラスの前王……貴方の兄君は勇猛果敢にして才気煥発、実に優秀な方でしたな。まあ、『神の血混じり』や魔術師なる者らの重用を除けば、ですが。そして、奥様も若き王子をよく護っておられると聞いています」
何故、突然イスダルとディオクレイスの話を? ケイロスは訝しみ、そしてある可能性に思い当たって声を上げた。
「まさか……。后と王子らに何をした」
「今頃、我が軍が何重にもヘラスの城壁を取り囲んでいる頃でしょうなあ。奥方と王子には、ぜひこのまま我が国にご足労願いたいと考えております」
隣国の王は慇懃無礼に頭を下げたが、その実、何を言っているかは、隣で話を聞いていたディオネにも読み取れた。それはつまり……
「彼らは人質であり、捕虜として扱う心積もりがある。そういうことだな」
隣国の王は、ただケイロスの様子を楽しそうに眺めるだけで、言葉は返さなかった。二人の王は互いにそれ以上近付くでもなく、視線を外すわけでもなく、何かを探り合うような膠着状態が続いた。やがて口を開いたのはケイロスのほうだった。
「……承知した。こちらの要望は、王宮に居る者……后と王子らの身柄の解放だ。対価は、ヘラス国の長である私の命で足りるか」
「ケイロス王!」
「ケイロス様、なんということを」
臣下たちは血相を変えて口々に止めに入ったが、ケイロスの決意は変わらなかった。
「これは傑作だ!」
隣国の王は大きく二つ手を叩き、天を仰いで笑い出した。
「良いだろう。その勇気ある申し出に免じて、王城に差し向けた我が軍は引き揚げさせる。約束しよう」
そう言うなり、隣国の王は傍の部下に淡々と命令した。
「この男を捕らえよ。夕刻に“青の丘”で磔だ。それまでは牢にでも放り込んでおけ」
それを聞いて、ディオネは背筋が凍った。思わずケイロスを支える腕に力を込めて、彼にだけ聞こえるくらいの声で「行ってはだめ」と囁く。ケイロスは小さく笑みを漏らし、目を伏せて頭を振った。
「……お前がいなければ、あの結界の中から生還することは叶わなかった。感謝する。――だが、その頼みは聞けない。どうあっても、俺は行かねばならない」
ケイロスはもう片方の手でディオネの白い指を優しく振り解き、「誰も手を出すな」とヘラス側の兵士全員に一言だけ命じたあと、杖をついて隣国の兵士のほうに歩き出した。彼の手首に鎖が巻かれる音が、ディオネには遠い世界の音のように思えた。隣国の王と兵士がケイロス王を連れて森のほうに歩き去るのを、ディオネはなすすべもなく見送るしかなかった。つい先ほどまで触れていたケイロスの外套の感触とかすかな体温だけが、まだディオネの手の中に残っていた。
それから、ディオネには他の兵士と共にどんな会話をして、どのように帰営の準備を続けたのかの記憶は無い。ただ操り人形のように無表情のまま手を動かし、兵士から休憩を言い渡されると、ディオネの足は自然と海岸の脇にある緑に覆われた丘のほうへ向いていた。
恨めしいほどに青々とした草を踏み分け、幽霊のように力無く足を動かすうちに、いつの間にか海を臨む一番高い箇所まで辿り着いていた。眼下に広がる海を眺めながら、ディオネは考えた。そういえば、南の国でケイロスと契約を結んだときにもこんな景色を見た。この世界に来る前、初めて時空の虚を見つけたときも。
ついに脚に力が入らなくなり、ディオネはその場に座り込んだ。そのまま、どのくらいの時間が経ったろうか。ディオネは不意に視界が影で遮られたことに気付いて、ようやく緩慢に顔を上げた。
「ディオネ」
彼女の顔を覗き込んでいたのは意外な人物だった。この世界に来てから初めて出来た友人だ。――そういえば、彼と別れたのもちょうどこの海辺だった。ディオネは働かない頭でぼんやり考えながら、目の前の男の名を殆ど無意識に呟いた。
「フィロム……」
最終話:水鏡
元々貿易船でこの近くの海をまわっていたが、この一連の騒ぎを聞いて急遽駆けつけてきたのだとフィロムは言った。癖のある赤い髪を掻き混ぜ、もどかしそうに首を横に振る。
「伯父貴とも話してきたが、ダメだな。今はどう動こうと、ケイロス王とディオクレイス王子の両方の生殺与奪を握られてる。状況が悪すぎる」
伯父……とディオネはどこか茫洋とした声で繰り返した。
「やっぱり……あなた、東の国の王族だったのね。一国の王であるケイロスとあんまり気安く話すから、そうなんだろうなと思った」
「まあな。……あの伯父貴め、最初からケイロス王を始末するのが狙いだったと見える。その交渉のために、ケイロスの『急所』であるディオクレイス王子を抑えてからケイロスの遠征先に向かったんだろう。……あれでも、神の血やら巫女やらが絡まなければ、根っからの悪人ってわけでもないんだが」
フィロムが歯噛みする横で、ディオネはまだ俯いたまま立ち上がれずにいた。
「……分かってるつもりよ。一国の王が領土を拡大しようと隣国に兵を差し向けるのも、少なくともこの世界では普通のことで……それで、あの人は、ディオクレイス王子とその母君、王宮に残っている多くの臣下を守るために身代わりになろうとしている。ここで抗えば、王子たちの命の保証は無いだろうから。……そういうこと全部、頭では分かっているの。でも……」
ディオネはそう言ったきり、続く言葉をなかなか口に出すことができなかったので、見かねたフィロムが後を引き取った。
「……ケイロス王はオレにとっても友人だ。このまま黙って見とくだけってわけにはいかないよな。行こう、ディオネ。とりあえず、ここからまっすぐ北進して“青の丘”まで行くんだ。そこでケイロス王を助ける方法を考える」
フィロムは立ち上がってディオネに手を差し出した。ディオネは頷いてその手を取ろうとしたが、ついさっき振り解かれた手の感触を思い出してまた手を引っ込めてしまった。いくら動けと命令しても、腕にも脚にもすっかり血が通わなくなってしまったかのように、まるで力が入らなかった。深く俯いて、震える声を絞り出す。
「ごめんなさい。そうしなきゃいけないのに、私もそうしたいのに……もう、立てない。どうしても、脚に力が入らないの」
フィロムが膝を折って、ディオネの様子を窺おうとしてくれている気配を感じたが、ディオネは顔を上げることができなかった。
「あのとき、シノンがクロノスだと気付いても私が何も言わなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。ううん、その前に、私が時空の虚に落ちてここに来たりしなければ……」
自分はパンドラの壺を開けてしまったのだと、ディオネは初めて理解した。壺の中から飛び出していってしまった災厄を元のように閉じ込めることはもう二度と叶わない。
ディオネが途切れ途切れに話すのをフィロムは黙って聞いていたが、話が途切れたところでぽつりと呟いた。
「……例えそうだったとしても、オレはそんなの御免だけどな」
それを聞いて、ディオネはやっと顔を上げた。フィロムはディオネと正面から目を合わせて続ける。
「それだと、オレがあんたに会えなかったことになるじゃないか。それに、皆の話を聞く限り、クロノスの力を削がなければ、海岸にいた全員が時空の虚に飲み込まれていた可能性が高い。だから、あんたがクロノスを見つけたことにも、ケイロスと協力して一時封印を成し遂げたことにも、きっと意味があったんだ」
ディオネは虚ろな目で呆然とフィロムの話を聞いている。フィロムは見かねてディオネの腕を引き、あたたかい手で彼女を立ち上がらせた。
「時間がない。オレは先に兵士たちのところに言って相談しておくよ。あんたも、ここから一歩踏み出す力が見つかったら、いつでも追いかけてきな。待ってるから」
彼の声と眼差しはどこまでもまっすぐだった。ディオネは知らず微笑みを誘われ、気付いたときには頷いていた。
「あなたって、良い人ね」
「今更気付いたのか?」
フィロムはさっぱりとした口調で軽口を叩いて苦笑した。
彼が去ったあと、ディオネは足先を丘の下り口に向けて歩き始めた。しかし、数歩進んだところで、懐から何か小さな物が草の上に落ちてしまったことに気付いた。アルカスから借りていた髪留めは残念ながらどこかで落としてしまったようだから、心当たりはひとつしかない。この世界に来る前からずっとポケットに入っていた、金色の懐中時計だ。
ディオネは懐中時計を探すために一度しゃがみ込んだ。それほど勢いよく転がるものではないから、間違いなくこの辺りに落ちたのだと思うけれど。
丈の高い草の間に転がっていた懐中時計を無事見つけて回収し、再度立ち上がったときだった。ディオネは目の前に見慣れない建造物があることに気付いた。それは煤けた灰色の石を積んで造られた古めかしい塔だった。先端に巨大な鐘が取り付けられているところを見ると、この塔は鐘楼のようだ。鐘の中から垂れ下がっている紐の先は、鐘楼の最下層に繋がっている。石の壁に隔てられた最下層の様子はディオネが居るところからでは窺い知ることはできず、ただ扉も仕切り布も無い入口の奥はひっそりと暗いばかりだった。
ディオネは考える間もなく、まるで吸い込まれるようにその鐘楼に近づいていた。入口をくぐると、ひんやりとした空気がディオネの身体を包んだ。更に不思議なことには、ここはある気配に包まれていた。――間違いない。これは神の気配だ。
背後で小さな石が落ちるような軽い音がした。
――やっぱり、ここに一人で勝手に入るべきではないかもしれない。
ディオネはそう直感し、踵を返して外に出ようとした。だが、そこにあるのはただ平坦な灰色の石の壁だけだった。今の今まで確かにそこに存在した入口が、いつの間にか消え失せている。
それを認識したとき、ディオネの背筋は一気に冷えた。それでなくともこの建物の中は薄暗く、日光が当たらないのに何処からか涼しい風だけが吹いてくるので、外よりも肌寒く感じた。
――風……。
そうだ、風が吹いてくるということは何処かに出口があるということではないか。ディオネは更に暗い道の先から冷たい風が吹き込んでくることを発見し、おそるおそるその奥へと歩を進めた。
人ひとりがやっと通れるほどの狭い通路を抜けた瞬間、ディオネは思わず軽く目を眇めた。自分の姿を見失いかけるほど薄暗かった通路とは打って変わって、吹き抜けの広間のようになっている円形の空間には明るい光が降り注いでいた。どうやらこの部屋が塔の中心のようだとディオネは考えた。上を見上げると、遥か先に大きな鐘と青空が覗いている。鐘の先に結ばれた紐は予想通りこの最下層に続いていたが、その紐の先はおよそ人間が届くはずもない箇所で途切れており、人間が意図して鐘を鳴らすことは、いかな大男でも難しいのではないかと思われた。
光に目が慣れてくると、この広間が最初に感じたほど明るくはないことに気付いた。塔があまりに高いので、外からの光が最下層に届くまでに弱められてしまうのだ。
広間には等間隔で雫の落ちる音が響いている。雨も降っていないのにどこから聞こえてくるのかと辺りを見回してみると、広間の中央に石を丸い形に積んで作られた井戸がしつらえられており、おそらくそこに水が落ちている音だと気付いた。井戸は相当に古いものらしく、足元のほうに植物の蔓が巻きついていた。ディオネは井戸に近付いてその縁に手を掛けた。掌に付いた細かい砂が、この井戸がどのくらいの間手入れされていないのかを物語っていたが、その中に満たされた水は井戸の底が見えそうなほど透き通っており、覗き込むと光の反射でディオネ自身の顔が映り込んだ。水面には定期的な間隔でひとしずく分の波紋が広がっていた。だが、不思議なことは、上を向いても落ちてくる水の姿がどこにも見えず、それゆえ、その水がどこから落ちてきているのかも特定できないことだった。
ディオネは不可解な水音に首を傾げたが、そのことについて解明を進めるよりも一刻も早く脱出のための手掛かりを探さなければと我に返り、井戸の縁に掛けていた手を離そうとした。ところが、次に起こったことが彼女の視線を井戸の水面から逸らさせることを阻んだ。この水鏡は小さな雫によって時折揺らめきながらも、つい一呼吸前までは確かにディオネの姿を忠実に映していたはずだ。それが、井戸を覗き込んだディオネの目にいま映っているのは、まだ髪が長い頃の自分の後ろ姿だった。彼女は断崖に立っていて、海上に発生した巨大な黒い渦を戸惑った様子で観察している。
「――――」
ディオネは我知らず口許に手を遣って息を呑んだ。井戸の水面から目を離せないでいるうちに、またひとつ雫が落ちた。静かな水面をささやかに乱す波紋が、水鏡の中心から同心円状に広がってゆく。その波紋が井戸の縁まで広がりきった頃には、水面に映る光景はまた全く違うものに変わっていた。赤毛の青年と自分が葡萄酒で乾杯をしている。それを目にした瞬間、葡萄酒の味とこのときに交わした言葉が、泉のようにディオネの脳裏に蘇ってきた。
井戸の映像の中のふたりが葡萄酒を飲み干す前に、またひとつ雫が落ちた。今度は、自分が海岸でケイロスとシノンに助けられたときの光景だった。ひとつ雫が落ちるごとに、井戸が映す光景は変化した。次は、シノンと共に買い出しに出掛けている姿。次は、アルカスの竪琴の伴奏でミラたちに歌を聞かせている姿。リンクスと出会ったときの光景や、ゼルトと共にした初めての調査任務の光景、二人乗りの箒の上から見た景色。そして――あの月夜にディオネが初めて目にした、王の心からの微笑み。
水が落ちる音はいつの間にか止まっていた。その代わり、ディオネの眼から雫が落ちて水鏡に波紋をつくり、そのまま井戸の底に揺らめいて消えてしまった。
最後の月夜の光景もその波紋によって消えてしまい、水鏡は再び瞳を潤ませたディオネの顔を忠実に映した。そのまましばらく井戸を覗き込んでいると、丸い水鏡の対面にいつの間にか誰かの影が映っていることにふと気付いた。ディオネは反射的に顔を上げたが、井戸の向こうには誰もいなかった。だが、再び井戸を覗き込むと、白い衣を身に着けた男性らしい上半身が確かに映っているのだ。
水鏡の中の彼の姿を注視していると、やがて彼が水面に左手を翳したようで、男性にしてはほっそりとした掌と白い腕の一部が映った。彼の中指には、金と銀の環を捻ってつくられた特徴的な指環が嵌まっている。
ディオネは思わず彼の名を呼ぼうとして、すんでのところで思い留まった。姿の見えない彼が微笑む気配がした。彼は井戸の上で水を掻き混ぜるように優雅に指を動かした。すると、また水面に波が生まれて、また別の光景が映し出された。――今度はディオネが見たことのない場所だった。否、調査任務で訪れたことがあるかもしれないが、周囲に特徴的な目印等がある場所ではないようなので、自信を持って特定はできなかった。
そこは夏草に覆われた小高い丘だった。その頂に杭が立てられ、その杭に一人の人間が身体を縛り付けられて理不尽に自由を剥奪されている。その人物の表情は窺い知れない。けれど、その姿を見たことで、ディオネにはこれがいつどこで行われていることなのかがすぐに分かった。時刻はおそらく夕刻。燃えるような夕焼けが空全体を覆っている時分だった。
「ケイロス――」
思わず声を張り上げて訴えかけるが、それが井戸の向こうに届くことはない。ただ自身の声が冷たい石造りの広間に虚しく木霊するだけだった。
『みな、よく見よ。これが先祖返りの王の生の終焉であり、人間が人間の世を築く一歩となる記念すべき瞬間とも言えよう。この日を以て、忌まわしき神の血は地上から駆逐されるのだ!』
しわがれた咆哮のような口上が井戸を通してこちらまで届いた。深く俯いたケイロスは、無造作な黒い髪の間の漆黒のまなこで東の国の王だけを見据えているようだった。
そこでディオネは、いま自分が居る塔の広間の中へと一旦意識を引き戻した。小さな羽虫がディオネの視界を蛇行しながら横切り、井戸の水面に着地しようとしたからだった。ディオネは羽虫がそのまま水に溺れると予想して見つめていたが、そうはならなかった。羽虫の身体が水面に触れた瞬間、鋭い火花のような音がごく短く弾け、気付いたときには羽虫が着水したはずの場所から濃灰色の細い煙が上がっていた。
ディオネは目を瞠った。一方で、水鏡の向こうにも動きがあった。先刻まではあれほど天気が良かったのに、空には黒い雲が急速に垂れ込め、西から低い雷鳴が迫ってきているようだ。風と雷鳴とが強まるに連れて、周囲に集った兵士らの間にも動揺が広がってゆく。
雷は嵐を呼び、ついに丘の上には雨混じりの激しい風が吹き荒れ始めた。この急変に焦ったらしいデモクラトス王は、『早くしろ。磔にして首を斬り落とせ!』と殆ど悲鳴のように叫んだ。
部下らしき男が儀式用の剣を振りかぶる。ディオネに迷っている時間は無かった。先ほど羽虫が迎えた最期の様子が脳裏に過ぎったが、無理やり振り払った。――可能性が低いとしても、ここで賭けに出ないでどうする。また見ているだけで何もできずに大事な人を失うよりは、こうするほうがずっとましな選択のはずだ。今のディオネには、そう言い切ることができる。
彼女はもう一度ケイロスの名を呼んだ。そして、水面に映る彼の手を掬い上げようとするように、勢いをつけて右手を井戸の水の中に深く浸した。飛沫が大きく跳ねる音が、吹き抜け構造の空間によって増幅されて何倍にも大きく響いた。
*
ディオネは雪の中で花が咲くのと同じ速度で緩やかに目を覚ました。短い草の先が微かな風に揺れて頬に当たるのが擽ったかった。
――私、夢を見ているんだろうか。
まだ薄く霞のかかった頭で考える。草原に横になったまま何度瞬きしても、目に映るものは同じだった。無造作に流した黒髪、幾分血色が良くなったように見える頬、今朝の出立時よりも砂と風雨で随分汚れた上衣。彼は片手をディオネと固く繋いだまま、鋭いけれど今だけは優しく見える黒い瞳で彼女を見下ろしていた。
彼が確かにここにいることを認識した次の瞬間、ディオネは以前の自分であれば到底考えもしなかったであろう行動に出た。つまり――ケイロスの首筋に抱きついたのだ。
「よかった……」
ケイロスもディオネを抱きしめ返し、彼女の背を優しくたたいた。低くあたたかい声が耳元で響く。
「――声が聞こえた。お前が救ってくれたんだな」
「ううん。シノンが――」
ディオネが首を振ってそう言いかけたとき、ふたりの背後の上空から古びた鐘の音が降ってきて彼らの注意を引いた。草原に座り込んだまま頭上を振り仰ぐと、先ほどまで確かに鐘楼があったところに鐘つき台の骨組みだけが残っていて、紐を揺らす人がいるわけでもないのに、鐘がひとりでに揺れて錆びついた音を奏でていた。
「……そうか」
ケイロスはそれで事情を承知したのかしていないのか、何かを祝福するように鳴り続ける鐘をディオネと共に見上げながら、安心したような声で呟いた。
しばらく鐘の音に耳を傾けていると、やがて丘の麓のほうから彼らを呼ぶ声が近付いてきた。背格好からその声の主を把握した二人は、どちらからともなく目配せをして笑い合う。二人の姿を認めた赤毛の青年――フィロムは、再会の喜びを表現するように大きく手を振った。
ケイロス・ヘレニアは、東の国の王によって“青の丘”で磔にされて死んだ――。それが、この日以来ヘラスの民の間に広まった“史実”である。だが、死刑に立ち会ったデモクラトス王やその部下ばかりではなく、ケイロス本人や協力者であるフィロム王子がその風説を広めるのに加担していたことは、ごく少数を除いてこの世の誰も知らない事実だ。
*
ミラは兵士の案内で、難民の避難所の中に足を踏み入れた。あの巨大な時空の虚のために起きた嵐によって住処を失った者が、未だ此処に大勢身を寄せているとのことだ。彼女は避難所の中を歩き回って様子をよく観察し、難民一人ひとりの身体の調子をみて、治療が必要な者には薬草を煎じた飲み薬などを手渡していった。
「可哀想に、今回のことで親と死別してしまった子どももいましてね。何とかみな新たな家庭が見つかると良いのですが」
兵士は憐れむような声音でそう零して溜息をついた。ミラは兵士と話している最中、ふと視線に気付いて目を上げた。見ると、七・八歳くらいの年の頃に見える少年が、向こうの土壁に凭れかかってじっとミラを見つめている。何か訴えたいことでもあるのだろうかと、ミラは兵士との話を一旦切り上げて、少年が座っている区画のほうへ向かった。
「どうしたの。身体の調子はどう? 何か欲しいものは?」
その場にしゃがみ込んで少年と目線を合わせる。ところが、少年はミラの声掛けに表情ひとつ変えずにすぐに首を横に振り、ミラが予想もしていなかったことを話し始めた。
「ううん。ただ、ちょっとおねえさんが気になったんだ。かなしい目をしてるようにみえたから」
「え……」
「だれかにいじめられたの? もしそうなら、おれがはやく大きくなって、おねえさんを守ってあげるよ。おねえさんが、かなしいかおをしなくていいように」
赤茶の髪の少年は真剣な目をして、「わるいやつはやっつけてやるんだ」と勇ましく槍を構える真似をした。その様子を見ていると、ミラの胸の中につくられた決して消えない暗い虚が、少しずつ小さくなっていく気がした。
ミラは何度も小さく頷き、「ありがとう」と呟いて、骨が浮き出るほど痩せてしまっている少年の体を腕のなかに抱き寄せた。
*
それから昼と夜が何度か繰り返された後のある黄昏時のこと、“彼”は再びこの海岸を訪れた。この日の海は当時の嵐が嘘だったかのようにまったく凪いでいて、ひとけのない海辺にあるのは彼の履き物が砂を踏む音と幽かな潮騒だけだった。
目的とする地点に近付いたとき、彼はどこからか歌が聞こえることに気付いた。辺りを見渡すと、海に向かって歌を口ずさんでいる金の髪の女が一人でそこに佇んでいた。彼はその女を知っている。ひと月ほど前、ケイロス王の死とともに姿を消した半神の娘だ。
流石に声をかける前に同族の気配に気付いたらしく、彼女は歌うのをやめて振り返った。そして彼の変わりない姿を認めると、「あなたも花を手向けに?」と瑠璃色の目を僅かに細めて尋ねた。彼は「ああ」とだけ応え、彼女が目で示した場所の手前で片膝を折る。そして、目印の石を置いただけの簡素な墓標に、紅い風の花を一輪供えた。
娘は海に向かってまた歌い始めた。彼は彼女の横で跪いたまま目を閉じ、その歌声に耳を傾ける。それは確かに、若くして散った一輪の花のために捧げられた鎮魂歌であった。
エピローグ:金の時計の記憶
それからひと月ほど経ったある日。ディオネが中庭に洗濯物を干していると、不意に玄関の戸が開く音がした。
「お帰りなさい」
ディオネは一旦手を止めて、簡素な家の中に彼を招き入れた。今日は義足の点検の日だから、薬師である彼女を伴っているはずだ。
彼は変装のために常に深く被っている覆いを取り払い、やっと何憚ることなく息ができるとでも言いたそうにひとつ嘆息した。ついで、彼の陰から、ミラが「久しぶり。お邪魔します」と顔を出した。
ケイロスの義足の点検を手際よく進めながら、ミラは雑談の合間にディオネに尋ねた。
「この間、研究が完成したって魔術師さんから報せがあったんでしょう。よかったわね」
ディオネは器具をミラに渡す手を止め、一呼吸置いて「ええ」と答えた。その反応と思いのほか沈んだ声音に違和感を覚えたのか、ケイロスとミラの視線がディオネに集中する。
「……被験者になるかどうか、迷っているの?」
ディオネは答えるのを躊躇った。ミラは身体の向きを変えてディオネに向き直り、優しく諭すように話した。
「確かに、あなたにはこの世界の女神の加護がついているから、おそらく他の異界人よりは身体に影響が出づらいと思う。それでも、この世界で何年も過ごしていれば、どうしても身体は蝕まれやすくなってしまうものなの。会えなくなるのは寂しいけれど、このままあなたが弱っていってしまう可能性が高いと知りながら、それを見過ごすわけにはいかないわ」
ディオネは黙って頷いた。その点はディオネにも心当たりがある。ヘラスの地を踏んだ初日に市場で出会った、真っ青な顔色をした男性。あの露店の主人は、異界人は寿命が短いと確かにはっきり言っていた。それに、前回の実験の被験者である少女も、この世界に長く滞在したために、実験を受ける頃には既に著しく衰弱してしまっていたと聞いた。それらを考え合わせると、現在ディオネ自身の身体に影響が出ていないからといって、この先も健康に過ごせるとは言い切れない――そう認めざるをえなかった。
義足の点検が終わってミラを玄関口で見送るとき、ディオネは意を決して打ち明けることにした。
「あのね。最近、魔術師から詳しい説明を受けたの。魔術の仕組みとしては、今ここにいる私を周りの大気ごと切り抜いて、それを時空の虚に落ちる前の身体に貼り付けて馴染ませることになるんですって。そのときに記憶の混濁が起こるから、成功したとしても、この世界で経験したことは忘れている可能性が高いって」
それを回避しようと手は尽くしたが、その点だけは現在の魔術では解決策が見つからなかった――サーリアは残念そうな声でディオネにそう説明した。ディオネは被験者として実験に臨むにあたって、その条件自体は納得しているつもりだ。ただ、あの鐘楼の中で誓った通り、此処での出来事が無かったことになるという事実を惜しむ気持ちを消し去ることはできなかった。
「そう……」
ミラはディオネの話に真剣に耳を傾け、ディオネの意を汲んで頷いた。
「――だけどね。聞いて、ディオネ。あなたがこうしてここにいたという事実は、消えて無くなったりしない。あなたが私たちのことを忘れてしまったとしても、私たちが覚えてる。特に、私にとってあなたは、怖がらずに私と接してくれた唯一の女友達なんだから」
だから、私もケイロスも、たとえ頼まれたってあなたのことを忘れられるはずがない。ミラはディオネの手を取り、別れを惜しむように静かな声でそう言って微笑んだ。
*
実験の当日は、徐々に肌寒さが増してきた或る秋の日だった。澄んだ夜空の下に松明が焚かれ、ディオネとケイロス、それに深い藍色の上衣を纏った魔術師たちが円になって集まっている。
「さあ、この地点に立ってね。深呼吸をして」
サーリアにそう誘導された通り、ディオネは中庭の木立の根元の二歩手前まで進み出た。サーリアがそこから離れる前に、ディオネは訊いておきたかったことを思い出し、急いで彼女を呼び止めた。
「あの、気になっていることがあるの。どうしてそんなに研究に打ち込めるのかって、あなたに訊いたことがあったでしょう」
それを聞いてサーリアも思い出したらしく、「研究が完成したら答えるって、約束していたわね」と朗らかな声で答えた。
「私ね、小さい頃に魔術を教えてくれた師匠みたいになりたいの。師匠は、『善い魔術師になりなさい』って言ってた。魔術でひとを助けられるような、とびきり善い魔術師に」
――私は、あなたにとって善い魔術師になれていたかしら。淡い菖蒲の色の円い瞳は、ディオネにそう問いかけている気がした。ディオネは返事の代わりに、東の村の善き魔術師に向かって笑顔で頷く。
全員が持ち場につくと、サーリアとともに研究を主導してきたダビーという黒髪の魔術師の合図で、ついに魔術発動の儀式が開始された。サーリアの腕環の菖蒲色の貴石と、ダビーが掌に載せた濃い榛色の石とが相互に共鳴し合って淡く光り出す。ダビーがそのまま貴石をケイロスのほうに差し出すと、ケイロスはそれを見下ろし、小刀で自身の指先を切って、赤い血液の雫を貴石の上に一滴落とした。この魔術では、時空を超えるための莫大な力を確保するため、こういった形で神力の助けが必要となる。ディオネは事前にそう説明を受けていた。その儀式の様子を見つめているうちに、ディオネの足元に描かれた巨大な魔方陣を中心として、徐々に小さな竜巻のような風が起こり始める。
「では――良い旅を」
魔術師の声が聞こえるのと、ディオネの視界が白一色に包まれたのはほとんど同時だった。その直前、じっとディオネのほうを見つめていたケイロスの姿が脳裏に焼き付いた。きっとそれが、彼なりの惜別の表現なのだろうとディオネは思った。
この記憶も、この一秒きりで消えてしまうのかもしれないけれど、それでも憶えていたい。薄れゆく意識のなかで、ディオネはそれだけをぼんやりと考えた。
*
「――お嬢さん、お気をつけて。今日は風が強いからね」
麦藁帽を手渡してくれた紳士の一言で、ディオネは我に返った。
「あ……。ありがとうございます」
その一言を伝え終わる頃には、紳士はもう背を向けてディオネの進行方向とは反対の道を進み始めていた。
――あれ?
ディオネは片側の髪を耳に掛けようとして違和感を覚えた。私、いつ髪をこんなに短く切ったんだったかしら。
考えている間にも、紳士の後ろ姿は徐々に遠ざかってゆく。ディオネは立ち止まってそのさまをじっと見つめていた。そのうちに、自分でも思いもしなかったような考えが頭に浮かんできた。そうだ、何だったか思い出せないけれど、いま、彼を呼び止めて伝えなければならないことがあったような――。
ディオネが紳士のほうへ一歩だけ踏み出したとき、ワンピースのポケットから金属の小さな鎖が擦れ合うような軽い音が聞こえた。ポケットの中を検めると、いつも持ち歩いている金色の懐中時計があるだけだった。ただ不可解なことは、懐中時計の表面が完全に割れてしまって、細い鎖の部分も、まるで長い時間潮風に晒されてでもいたかのようにひどく錆びついていることだった。
「――――」
その懐中時計に触れた瞬間、ディオネの目蓋の裏側に、遠く離れてしまった懐かしい人たちの顔が一瞬にして浮かび上がった。そう――その瞬間、ディオネは確かに彼らの姿を懐かしいものであると認識した。
ディオネは目を瞠って暫くその錆びついた懐中時計を見つめ、それから目蓋の裏に見えた彼らに向かって微笑んだ。顔を上げてひとつ深呼吸をし、「あの」と帽子を目深に被った紳士を呼び止める。
紳士は驚いた様子でディオネを振り返った。ディオネは彼のもとへと駆け寄って、帽子の陰に隠されている彼の顔を見上げた。
「一年ぶりかな。声ですぐに分かったわよ。――お父さん」
紳士が帽子をゆっくりと脱ぐと、隠されていた素顔が真夏の陽のもとに晒される。ディオネと同じ瑠璃色をした涼しげな両の瞳が、今にも泣き出しそうに潤んでいた。
ふたりは一緒に祖父母の墓に花を供え、過去の――或いは未来のディオネがそうしたように、海がよく見える切り立った崖のエリアに立ち寄った。ディオネがその場にしゃがんで海を覗き込んでみると、やはり巨大な黒い渦が口を開けて彼女を待っていた。そのとき強い風が吹いて彼女の身体が前向きに傾いだので、父親は娘の腕をとって、彼女が海に落ちてしまわないように引き戻した。けれど、その拍子に錆だらけの小さな懐中時計がワンピースのポケットから滑り落ち、あっという間に黒い渦の底へと消えてしまった。
ディオネは今度こそ体勢を崩さないように注意しながら、懐中時計が黒い渦に飲み込まれていくのをただ静かに見守っていた。
風鳴りだろうか、ディオネの耳にどこからか歌が聞こえた気がした。遠い母の故郷で生まれた、あの懐かしい葬送歌が――。
*
何処かの世界の何処かの町の交差点で、二人の若者が信号待ちの間にニュースについて話している。彼女は何となしに振り返り、二人の会話に耳を傾けてみた。
『なあ、あのニュースを聞いたか。どこだったかで、三千年の時を経た精密機械が出土したって。あれ、鑑定を進めたら、結局、たった百年くらい前にこの国で造られた懐中時計だったらしいぜ』
『なんだよ。じゃあ逆に、その時計はどういう理由で、遠い外国の三千年前の地層に埋まっていたんだろうな』
『さあ……』
《終》