十三番目の女神

MYTHINGシリーズ

辺境に住む村娘アリエスは、反逆者として国から追われる一人の兵士と出会う。
彼が国軍から追われる理由とは? そして、王宮で起こったとある事件の真相とは?
「黒の結界」の十三年後の物語。

目次
主な登場人物
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序章:饗応の杯

 月の美しい夜であった。王女はその夜、寝台に入っていくら時間が経ってもどうしてか一向に寝付けずにいた。だんだんと夜も深まり、満月がだいぶん西に傾いた頃になって、彼女はついに諦めて手元の燭台に灯りを入れた。当然ながら、女官たちは既に深い眠りについており、辺りは静まり返っている。  不意にへやの入口の仕切り幕の方で物音がした。何か物でも倒れたのかと、眠気が訪れるまでの気慰みも兼ねて様子を見に行くと、意外なことに、仕切り幕の外に一人の兵士が立っていた。彼の掲げている黒い盆には、水差しと豪奢な角杯が二つ載せられている。 「これはこれは。王女殿自らお出迎えいただけるとは、恐縮至極に存じます」  無精髭を生やした四十がらみの兵士は、そう大仰に驚いてみせた。いやに芝居がかった仕草に見えた。それに、今夜の見張りの衛士はこんな顔だったろうか。王女は表向きは歓待の笑顔を作りながら、まだ覚えきれていないこのヘラス王宮の衛士の顔を必死で思い返していた。兵士は王女が口を開かないことは気にしていないふうで、目線だけで盆の上の杯を示した。盆を持っていないもう片方の手は、まだ後ろに回したままだ。 「いや、陛下から内密にと仰せつかっているのですが、王女殿がもしまだ起きているようなら、良い酒があるから付き合わないか、とのことでして。何しろお忍びでとのことですから、陛下は後からいらっしゃいますよ」  兵士はそう説明すると、大変恐れ入るが入室をお許しいただいても? と言いたげに眉を下げた。 「そうですか……」  微笑を崩さないまま、素早く盆の上を見遣る。二つの角杯には、おそらく王家以外が所有することは難しいだろうと思われるほど贅を尽くした彫刻が施されており、それは闇夜のなかにあっても僅かな月明りを反射してひときわ輝いていた。  目の前の兵士は、彼女がこの王子直々の饗応を受けることを少しも疑っていないような邪気の無い表情で王女を見つめ、大人しく返事を待っている。王女もしばらく兵士を見つめ返していたが、結局、困り笑いで兵士の前に柔らかく両の掌を見せた。 「ええと、少々お待ちになっていただければ。陛下からのお誘いでしたら、やはり、きちんと支度を整えてからわたしがそちらに出向くべきですから」  そう言って王女が踵を返し、入口の仕切り幕を下ろしかけたところで、兵士の顔色が急に変わった。黒い盆と金の杯が彼の手を離れ、重い音を立てて床に叩きつけられる。代わりに後ろ手に持っていた銀の短剣が、王女の心臓目掛けて高く振り上げられるのを見た。それと前後して、兵士の背後からまた別の人間らしき鋭い声が王女の耳に届く。 「逃げろ」  その声で王女ははっと我に返り、咄嗟に南側の出口に向かって駆け出した。逃げる――何処へ? 考えている暇は無かった。この日、東の国の王女は、寝所である北西の棟から夜の闇に紛れて王宮の外へと逃れたのだった。 *  王宮の北西側、客人を迎え入れるための特別棟にほど近い回廊に、灯りを手にした二人の衛士の姿が見える。そのうちの一人であるリゲルは、煉瓦色の頭の後ろのほうを掻いて盛大に欠伸を漏らした。 「あーあ。いくら見張りの頭数が足りないからって、これで二日連続の深夜巡回番か。戦や遠征が無くたって、楽な仕事じゃあないよなぁ……」 「俺なんて、このあと仮眠を摂ったらすぐに次の勤務だぜ」  夜勤の相棒と軽く愚痴を言い合い、廊下の突き当りで西の中庭と東側の回廊へと二手に分かれる。 「じゃ、俺は東門の方までぐるっと見てくるよ」 「おう。お疲れさん」  リゲルは片手を上げて西側の警備へと向かう。西の中庭を横切り、北西棟に入ったところで、奥の部屋から何やら話し声が漏れ聞こえてくることに気付いた。一人は壮年と思われる男性の声、もう一人は女性の声のようだ。リゲルは話し声が聞こえる部屋の近くへと何気なく足を向けてみる。すると、国王の婚約者である賓客の部屋の前で、一人の兵士がこちらに背を向けて話し込んでいるのを見つけた。こんな夜更けに王女の私室を訪うというだけでも相当に怪しいが、更に驚くべきことに、それに応対しているのは下働きの女官ではなく、婚約者であるハルス王女その人だった。  衛士の嗅覚でどうも不審に思ったリゲルは、足音を立てぬように男の背後に近寄ってみた。だが、確かめるまでもなく、彼はその途中で更に疑わしいものを見つけてしまった。その兵士の腰の辺りで、薄明りに反射して何かが一瞬光ったのだ。それは彼が後ろ手に隠し持っていた短剣の刀身の輝きであった。兵士は――否、兵士に扮した不届き者は、今にもその短剣を王女に向けて振り上げるところだった。 「――逃げろ!」  自分と兵士、兵士と王女の位置関係から、助けるのは間に合わないだろうと踏んだリゲルは、考える間もなくハルス王女に向かって鋭く叫んだ。表情を凍りつかせて短剣の切先を追っていた王女が、リゲルの声にはっと反応し、部屋の南側の裏出口の方へと一目散に走り出したのが見えた。  声でリゲルの存在に気付いたらしい男は、ハルス王女が逃げていった方に目を遣ってひとつ舌打ちすると、獲物を取り逃した事への八つ当たりのように、躊躇いなくリゲルに向かって短剣を振り下ろした。リゲルもすかさず警備用の剣で応戦する。組み合ってすぐに、この男はやはり訓練を受けた兵士ではなく、見た目だけ似せた素人だと分かった。 「言え。何者だ。一体何処から入り込んだ」  リゲルは男の上に馬乗りになり、首元の襟口を片手で捻り上げて詰問した。だが、その男は変に肝が据わっているのか捨て鉢になっているのか、一切怯む素振りを見せず、逆に一瞬の隙をついてリゲルの腹を強かに蹴り上げると、彼が立ち上がれずにいるうちに手首を履き物サンダルで踏みつけて自由を奪い、辺り一帯に響き渡るほどの大声を張り上げた。 「反逆者だ。我らが陛下に仇なす反逆者の一味を捕らえたぞ!」 「な……」  リゲルの脳内をいくつかの仮定が駆け巡ったが、そうしているうちに、今まで何処に隠れていたのか、いくつもの忙しない、だがいくらか統制された足音が四方からこちらに近付いてくるのを感じた。あれは奴が仲間を呼ぶ合図だったのだ。  こうなっては、リゲルがとれる行動はひとつだった。どうにか手首の縛めを跳ねのけて立ち上がり、包囲が薄い方角を見極めて敵を振り払いながら駆け出す。せめて、仲間の衛士が巡回しているであろう東側の棟までは辿り着ければ良いが。  ――何だ? 何が起こっている?  妙な胸騒ぎと混迷のなかで、リゲルは勢い余って時折まろびながらも無我夢中で駆けた。結局、王宮の外に追いやられるまで、相棒の衛士と落ち合うことは叶わなかった。 *  同刻、王族の寝所である北棟の前。闇そのもののような深い漆黒の長衣を纏った背の高い人影が、広い柱廊の中央へと音も無く滑り出た。寝所から出てきて“彼”と対峙したディオクレイス王は瞠目した。“彼”が王の前にいることに驚いたわけではない。それはディオクレイスにとっては特段不可解なことではない。だが、“彼”が魔力を込めた鉾の切っ先をこちらに向けていることは、思いもしなかったことだった。ディオクレイス王は思わずたじろいで一歩ぶん後退さる。 「……何故だ。よりによっておまえがなぜ、こんなことを」  “彼”は応えなかった。夜の海の色のつめたい瞳が月明かりを反射して輝き、目前の王の瞳を射貫く。ほどなくして、彼が手にしている三つ又の鉾の先と、彼の額飾りの中心の小さな貴石ほうせきが呼応して淡く光りはじめた。ディオクレイスは、それが魔術が発動する前触れであることを知っている。突然のことに、衛士を呼ぶという考えにすら至らなかった。  ――みなは無事か。彼女は?  そう思いを馳せる暇も無く、深い藍色の光は徐々に強くなり、夜の帳のようにディオクレイス王の視界をすっかり覆い尽くしてしまった。  あの暗殺者の援軍らしき男らに追われていつの間にか王宮の北側の棟にまで入り込んでいたリゲルは、魔術師がディオクレイス王に鉾を向けて何らかの魔術をかけ、王が大理石の床の上に眠るように倒れ込むまでの一部始終を偶然目にしてしまった。彼は回廊の柱の陰に隠れて必死で息を殺した。彼の脳は、今しがた目にした光景を処理することを拒否していた。――ディオクレイス王とあの魔術師とは、もう何年も互いを親友と呼び合うような間柄であったと聞いている。それが、何故。  魔術師の部下が、「王の身柄をどうなさいますか」と彼に尋ねた。魔術師は王を冷たく見下ろし、何の感情も無い低い声で一言部下に命令した。 「このまま北端の物見塔の牢に幽閉せよ。牢の出口には魔術で錠を施す」  部下は了解して、粛々と王を運び始める。リゲルは彼らの前に姿を現してそれを阻止したい衝動を理性で抑え込まなくてはならなかった。――いま無計画に出て行くのは分が悪すぎる。自分は完全に反逆者の汚名を着せられようとしている。このまま捕まれば、こちらの弁解などには耳も貸さずに一方的に拷問にかけられ、全く心当たりのない証言をさせられた挙句、王家に弓引く反逆者として首を刎ねられるのだろう。  それを回避するには、今は王宮の外に逃げて、体勢を立て直すほかない。王宮の外で力を得るのだ。あの国一番の魔力を持つ強力な魔術師に対抗し得る力を。  リゲルは魔術師とその部下が立ち去るのを見届けると、足音を立てぬようにその場を辞し、夜の闇に身を隠して王宮の外へと逃走を始めた。魔術師は北端の塔へと向かう前に、ふと思い出したようにその場で立ち止まって振り返り、茂みの向こうへと消える若い男の姿を海の色の鋭い瞳で一瞥した。

第一章:フォーマルハウトの村娘

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 “決して人前で魔術を使ってはいけない”――それが、魔術の師匠がアリエスに教えた最初のことだった。 『いいか、アリエス。約束してくれ。お前が持っている魔力は人前では隠すべきだ。それが結果としてお前自身の身を守ることに繋がる。さあ、私が魔力をうまく制御する方法を教えてあげよう――』  師匠の深い声が頭の中に木霊する。彼と別れてこの辺境の村で暮らすようになってからも、アリエスは師匠から魔術を教わった幼い頃の日々のことを繰り返し夢に見た。昨夜もそうだった。アリエスは目を擦って夢の内容を反芻し、胸のあたたかさを覚えながら寝床を出た。  ヘラス国の北西の国境付近に位置するフォーマルハウト村は今日も平和そのものだった。アリエスはいつものように近所の娘らとともに洗濯をして敷布を軒先に干し、昼間は葡萄を収穫して葡萄酒を作る準備を進めた。それが終わると清水で足を綺麗に洗って、夕暮れ前に洗濯物を取り込む。今日は珍しく昼過ぎから陽が翳っていて、夕方から夜にかけては雨になりそうだと村の大人たちが話していた。  洗濯物入れの籠を抱えて屋内に入る直前、二軒隣の機織りの家のミレイナに呼び止められた。 「アリエスお姉ちゃん、これ」  まだ十にもならないミレイナの背に合わせて、アリエスは「なになに」と笑顔で屈み込む。アリエスが本当の妹のように可愛がっている彼女は、近くの花畑で摘んできたらしい薄紫色の小さなうさぎ草シクラメンの花をアリエスに見せてくれた。 「わあ、かわいい花束! お姉ちゃんにくれるの?」  アリエスが笑みを深めると、ミレイナは満足そうに首を縦に振る。アリエスはミレイナの細い巻き毛を撫でて「ありがとう」と小さな花束を受け取った。 「ミレイナ、姿が見えないと思ったら、またこっちに来てたのね?」  ミレイナの姉のタリアが妹を探して困り顔でやって来た。お喋り好きの近所の娘たちも一緒だ。タリアがミレイナの手を引いて一旦帰ってしまったのと引き換えに、亜麻色の髪の快活な少女がアリエスの方に近付いてきた。 「ねえ、アリエス、聞いて。さっきタリアにも話してきたんだけど。あたし、昨日隣の村の男の人から交際を申し込まれちゃったのよ」  確か、彼女は数日前に男性と一緒に歩いていたことを仲間内から囃し立てられていたのだった。 「今度僕の村に来なよ、って言われたんですって。それってほとんど求婚の言葉よね」  明るい榛色の髪の少女がそう相槌を打つ。次は年頃の乙女たちの輝かんばかりの眼差しがアリエスに向けられる番だった。 「ね、アリエスは無いの? そういう話」 「私は、無いかなぁ……」  アリエスは曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。あなたはどうなの、と榛色の髪の少女に尋ね返そうとしたとき、大通りのほうに何やら物々しく行進を続ける立派な身なりの男性たちの姿が見えた。アリエスの視線につられて、二人の少女も後ろを振り返る。 「……今日も来てるわね。王宮の兵士さんたち」  亜麻色の髪の少女が声を低めて囁く。榛色の髪の少女が二人にもっとそばに寄るように目線で指示して、彼女らにそっと耳打ちした。 「あたし、こんな話を聞いたのよ。あれは、王宮から消えてしまった王様と、婚約者である東の国の王女様を捜しているんですって。なんでも、お二人は駆け落ちしたんじゃないかって噂よ」 「えっ?」  アリエスたちの声は自然と大きくなり、榛色の髪の少女を「しーっ、静かに」と慌てさせた。王宮から遠いこの辺境の村にまで首都の噂が流れてくるには相当な時間差がある。そも、よほどの内容でない限り、こんな田舎まで噂が回ってこないことのほうが多いのだ。そう、それこそ今回のように、国王と婚約者が揃って姿を消したなどという、大きすぎる出来事でもなければ。  次いで、不思議そうに眉を顰めて話を聞いていた亜麻色の髪の少女が口を挟んだ。 「あたしのお兄が昨日兵士さんに声を掛けられたんだけど、王様と王女様を見かけなかったかって訊かれた後、妙なことを訊かれたのを覚えてるって言ってたわ。この村に魔術師はいないか、って」 「魔術師?」  二人の娘の会話を聞いて、アリエスは背筋に何か冷たいものが走ったような気がして密かに息を呑んだ。円い目を白黒させて友人たちの様子をうかがうが、幸い、彼女らはお喋りに夢中で、アリエスの顔色の微妙な変化には気付かなかったようだ。 「一体どうして今になって魔術師なんかを捜しているのかしら?」 「さあ……。それも、王宮のえらい大臣様のご命令なんですって」 「魔術師って、今はすごく数が少ないんでしょう? こんな辺境の小さな村の中でなんて見つかりっこないのにね。もしこの村に魔術師がいたら、みんなとっくに知ってるわよ。それこそ、村じゅうの噂になってるはずだもの」 「あたしたち、魔術師に会うことなんてないものね。一体どこに住んでるのかしら? くらーい洞窟の中で、一人で呪文を唱えていたりして」 「ひどく偏屈で、人嫌いだって聞いたわ」 「もしかしたら、あまりに醜い顔を隠したいから、人里を離れて暮らしているんじゃない?」 「…………」  アリエスは笑って話を合わせられる自信が無いと焦っていることを悟られぬように、ひたすら洗濯籠の中の布の数を目視で数えるふりをして目線を下に落としていた。だが、そのうちにアリエスは本当に今日の洗濯物に対して違和感を覚えた。どうも、いつもの洗濯の時よりも軽くて嵩も足りないような気がする。 「あ……」  今日一日の行動を脳内で早回しをして振り返り、アリエスは心当たりを見つけた。おそらく、森の中の清水で洗濯をした後に、敷布を一枚回収し忘れたのだ。  アリエスは友人たちに経緯を説明し、「えーっと、私、もう一度森に戻って、敷布を取ってくるね」と、愛想笑いとともにぎこちなく手を振ってその場を辞した。早足で森へ向かう背に、「アリエス、これから雨が降りそうだから気をつけて行ってきてねー」という声が聞こえてきた。  誰も追いかけて来やしないのに、アリエスはまるで何かから逃げるように夢中で森へと向かった。なるべく誰にも会わぬように、周りの音が聞こえぬように早足で歩いた。  森の奥の渓流のほとりに辿り着く頃には、アリエスの息はだいぶ上がっていた。 「あー、あった……」  置き忘れた白い敷布が岩の上にそのまま残っているのを発見して脱力する。あとはこれを回収して家の前に戻れば、全てが元通りだ。  ――戻りたくないな。  アリエスの唇から自然に溜息が零れ出た。髪で顔が隠れてしまいそうなほど深く俯き、手に取った白い敷布を意味もなく眺めて、しばらくその場に立ち尽くす。  静寂を破ったのは、茂みが激しく揺れる音だった。何か生き物がそこらで動いていて、しかもそれは徐々に近付いてくるようだ。――もし、このあいだ貴重な作物を荒らしていった兎だったら容赦はするまい。アリエスは細い枯れ枝を槍に見立てて身体の前で構え、まだ見ぬ野生動物が潜む茂みに向かって申し訳程度の戦闘体勢をとった。  しかし、結論から言うとその威嚇は無駄に終わった。ひときわ大きな葉擦れの音とともにアリエスの前に躍り出たというより飛び立っていったのは、黒い大きな烏だった。 「なんだ、脅かさないでよ……」  アリエスはひとまずほっと胸を撫で下ろしてひとつ息をついたが、事はこれだけで終わらなかった。アリエスが森の出口のほうへと踵を返す前に、今度はどこからか男の声が聞こえたのだ。 「いたぞ! そっちへ逃げた」 「今度こそ確実に捕えろ!」  茂みを踏み分ける音の数から察するに、四、五人ほどはいるのではないかと思われた。アリエスがどうしたものかと対応を決めかねて落ち着きなく右へ左へとサンダルの先を彷徨わせているうちに、茂みの向こうからまた何かの生き物が勢いよく現れた。それは一つの人影だった。そう――人間の男のように見えた。  ――誰?  アリエスは反射的にたじろいで、その人影と逆にまともに目を合わせてしまった。肩まで伸ばして結った煉瓦色の髪に、黒に近い焦げ茶色の、意志の強そうな瞳。十分に歳若い青年に見えるが、今年十六を迎えたばかりのアリエスよりは流石にいくらか歳上だろうか。いや、実際は彼の容貌についてよりも、出で立ちのほうがよほどアリエスの注意を引いた。彼の衣服は襤褸布同然で、右肩から腰にかけてが大きく破かれており、彼の肌の至るところに、全てが最近付けられたというわけではなさそうな無数の傷跡が走っていた。特に右肩の一帯は夥しい量の血で赤黒く染まっていて、正直、本来であればとてもこんなふうに普通に立っていられる状態ではないように見える。 「あの……」  アリエスが恐る恐る半歩踏み出して彼に声をかけようとしたとき、先ほどから誰かを捜しているらしい「こっちだ」という男の声が二人のすぐ近くの茂みのほうから聞こえた。青年はその声が聞こえた方角へと厳しい視線を一瞬だけ送り、その瞳で今度は自身と相対しているアリエスの方を見据えると、アリエスの歩幅にして五・六歩分はありそうな距離を大股の数歩であっという間に縮めて――アリエスの背後から逆側の肩に左腕を回し、どこから取り出したのか、鈍く光る短剣の切っ先を彼女の首筋に突きつけた。それとほぼ同時に騒々しい足音がして、ついに先ほどから声だけが聞こえていた者らが二人の前に正体を見せた。男たちはこの煉瓦色の髪の青年とは対照的に随分立派な甲冑を身に着けていて、彼らが王宮からの命令で派遣された兵士であることが推察できた。では、先ほどから捜していたのは、まさに今アリエスを刃物で脅しているこの青年か。 「近付くな」  青年はよく通る声で兵士に向かって短く告げた。兵士らが「人質をとったか」「外道な」と青年に得物を向けながら口々に苛む声が聞こえてくる。アリエスもせめて文句を言ってやろうと、身を捩って「ちょっと……」と言いかけたところで、すかさず彼の掌で口を塞がれた。血と砂の入り交じった匂いがした。尚も暴れて軛を逃れようとするアリエスの耳元で、青年は彼女にだけ聞こえる声量で素早く告げる。 「悪い。もう少しだけ我慢してくれ」  その声色があまりにも意外なものだったので、アリエスは思いがけず抵抗する気力を削がれて、ただただ目を丸くした。隙を見て青年の横顔を盗み見ると、彼は真剣そのものの眼差しで兵士だけを睨みつけている。 「この期に及んで罪無き村人を巻き込むなど、どれだけ罪を重ねるつもりだ。その娘を解放しろ」 「嫌だね。罪深いのはどっちだよ」  人質のアリエスを挟んで、双方一歩も退かぬ睨み合いが続く。その間にも、兵士は気付かれぬほど僅かずつ青年との距離を縮め続けている。  その状態が暫く続いた後、やがて危うい均衡を破ったのは青年のほうだった。十分に時機をはかって、アリエスの耳元で「走るぞ」と鋭く囁き、彼女の首筋から短剣を離すと同時に、アリエスの手を取って背後の森の奥へと走り始めたのだ。 「待て!」  当然、それを合図に兵士たちも動き出す。兵士が持っていた弓矢が後ろから数本射かけられたが、幸いどれも回避した。アリエスは青年に手を引かれ、夢中で樹々の間を縫って逃げた。よく考えればアリエスまで逃げる道理は無いのだろうけれど、青年は樹々の間を逃げている間もアリエスの手を離そうとはしなかったし、また、アリエスの方から手を振り解くという考えも不思議と浮かばなかった。 「……流石に撒いたか」  樹木の包囲が途切れた小さな広場のような場所に辿り着き、青年は肩で息をしながら周囲を見渡した。 「一体……何がどうなって……」  アリエスも息苦しさの合間になんとか独り言を漏らし、それから青年に腕を掴まれたままだったことをはっと思い出して、「離して」と彼の手を振り解いた。青年は「ああ……」とだけ言って素直に手を離した。アリエスは彼に先ほど刃物を向けられたことをまだ許していないということを表明するために、安全な距離を取りつつも無言で彼を睨みつける。 「悪かったよ。怖い思いさせて」  青年は意外にも殊勝に瞳を伏せ、アリエスとの距離をそれ以上詰めてこようとはしなかった。 「…………」  アリエスはどういう態度で応じるべきか戸惑い、何も返答することができなかった。その代わり、相手の出方を見るため、また状況整理を進めるために、おそるおそるではあるが、いくつか尋ねてみることにした。 「……あなたを追っていたあの人たちは、身なりから見て王宮の兵士なのよね?」  青年は思いのほか躊躇いを見せず、「ああ」とすぐに首肯した。 「そうだ。しばらく前から追われてる。あいつらから見たら、おれは反逆者なんだろう」  含みのある言い方が気に掛かった。この目の前の人物は真実を口にしているのか、それとも私を欺いて同情でも誘おうとしているんだろうか。アリエスが青年を見つめたまま黙っていると、青年は力無く苦笑して、持っていた短剣を足元の茂みに放った。 「じきに日が暮れて雨が降る。それまでにこの森を出たほうがいい。お尋ね者のおれはあんたの村まで送ってやることはできないが、村の近くまでなら……」  そう言って差し出された手をアリエスは一瞥したが、彼の手をとる気にはなれず、首を横に振って拒絶した。 「結構よ。あんなことがあった後だもの、信じられるわけないでしょ」  青年はわずかに瞠目し、当然か、と言わんばかりにひとつ息をついて「わかった」とアリエスとの会話を打ち切った。アリエスは日が暮れる前に森を抜けてしまうつもりで、元来た道を辿るために青年の隣を通り抜けようとする。そのとき、視界の端に青年の身体が傾ぐのが見えた。彼は食い縛った歯の間から細い呻き声を漏らし、そのまま地面に膝をついた。アリエスはそこで初めて、彼の上衣が血に塗れていたことを思い出した。反射的に彼に駆け寄ってしゃがみ込み、顔色を窺ってみると、唇まで蒼白で、激しい痛みに耐えるように肩で息をしているのが見て取れた。先ほど走った時に傷口が開いて血が失われ、ついに立っていられなくなったのだろう。見ると、彼の右肩から鮮やかな血液が後から後から肘の方へと流れて滴っている。 「大変。水で清めないと……」  アリエスは自然な動作で指を空中に掲げたが、それから次の行動に移る前にひととき躊躇った。  ――でも……  こうしている間にも、アリエスが掌で触れている彼の背中からはどんどん体温が失われ、呼吸も弱くなってきている。アリエスは流石に迷っている場合ではないと自分に言い聞かせて首を振り、目を閉じて意識を集中させた。  ――水の精霊よ、私に力を貸して。  衣の下に隠した胸元の首飾りの貴石ほうせきが淡い光を放つ。次いで、水の流れる音が聞こえる方角へとアリエスが指を向けると、離れた場所にある渓流の水が、躍るように空中で蛇行しながらアリエスの手元へと集まってきた。アリエスがその水で彼の肩の傷口を清めていると、青年がおそらく朦朧とした意識のなかで、「あんたは……」と驚いたように呟くのが聞こえた。それはそうだろう、アリエスが人前で魔術を使ったのはこれがほとんど初めてだ。アリエスは珍しいものを見るような彼の視線には気付かなかった振りをしながら、自分の衣の裾を裂いて包帯をつくり、彼の二の腕に結わえようとした。  そのときだった。彼はこれほどの出血にもかかわらず、驚くべき精神力で身体を動かし、アリエスの手首を強い力で掴んだ。 「……見つけた」 「え?」  アリエスが聞き返すと、彼は顔を上げた。深い茶色の瞳の中には、思わず言葉を失うほどの切実さが宿っている。 「おれはずっと探していたんだ。“魔術師”を――」

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 自分はずっと魔術師を探していた。そう言ったきり、青年は流石に精神力の限界を迎えたらしく、その場に倒れ込んで眠るように意識を失ってしまった。彼にちゃんと息があることをアリエスが慌てて確認しているうちに、水の粒が葉を叩く細かい無数の音が聞こえ始める。村の大人たちが言っていたとおり、雨が降り出したのだ。アリエスは仕方ないので、互いの体温が下がらないように青年の隣に身を寄せて、大樹の根元付近で雨を凌ぐことにした。弱々しい呼吸だけを繰り返していた青年は、幸い、ほどなくして口を利ける程度に回復した。彼は雨が地に染み込む音のようにぽつぽつと話し始めた。 「……もう、ひと月以上前のことだ。この国ヘラスの王――ディオクレイスとその婚約者である異国の王女が、夜更けに揃って姿を消した。二人は今も見つかっていない」  その話なら、ついさっき村で聞いてきたばかりだ。アリエスは得心して頷いた。 「村の女の子たちは、駆け落ちしたんじゃないかって言ってたわ」 「ああ。王家の窮屈なしきたりに飽いた王女がその手練手管で王を唆し、自由を求めて王宮の外へと連れ出した――。だが、それは国軍の兵士が流させた噂話に過ぎない。実際に起こったことは違う。ディオクレイス王は、今も王宮のどこかに捕えられている。身柄がまだ移動されていなければ、おそらく、北端の物見塔の中に。そしてハルス王女は、おれと同じく、まだこの国のどこかに逃げ隠れている可能性が高い」  青年があまりに真っ直ぐな目をして真剣に話すので、アリエスはその雰囲気に気圧されて、いつの間にか彼の話を本当のことかもしれないと思い始めていた。 「それは……確かなの? それなら、あなたが王女様ではなく魔術師を探していたというのはどうして?」  そう問いかけると、青年は俯いて左手を胸の辺りまで掲げ、その中に何かを握り込むように拳をつくった。 「……力が必要だ。王女を探し出して、あの魔術師に刃を突きつけるための力が」 「あの魔術師……?」 「王を捕え、この反乱計画を主導したと思われる、王宮付きの魔術師だ。おれたちはその魔術師と対峙せねばならない。この村にも、名前くらいは届いてないか? 当代随一の魔力を持つと言われる、ルーデス・エヴィアっていう……」 「……えっ?」  その名を聞いた途端、アリエスの表情が固まった。いっそ、聞き違いであればいいと思った。たっぷり二呼吸ぶんの沈黙の後、「そんな……」と口の中だけで声を震わせてやっと呟く。だって、ルーデス・エヴィアは――。 「そんなはずないわ。人違いか、何かの間違いよ。それが本当に私が知っている彼の話なら、彼がそんなことをするわけない。だって、彼は――私の魔術の師匠なんだから」  雨が強まってきた。辺りはとうに暗くなっており、もはや今日のうちに村へ戻るのは諦めねばならなかった。育ての親である老夫婦は、帰ってこない娘のことを今頃心配しているだろうか。 「……私、ここから遠いところにある小さな村で生まれたの。その頃の記憶はないから、そう聞いてるっていうだけだけど」  アリエスは目を伏せて、地面を雨がしきりに叩くのを眺めながら話し始めた。 「故郷の村が焼き討ちに遭って孤児みなしごになった私を弟子として引き取ったのが彼だった。その頃、私は魔力の制御方法がよくわからなくて、しょっちゅう魔力を暴走させていたらしいの。それで師匠せんせいは、私に魔術制御の方法を教えてくれた」  逆に言えば、実践的な魔術のたぐいはほとんど習っていない。けれど、ルーデスと離れてからずっとこの辺境の農村で”他の皆と同じ、普通の村娘”として暮らしてきたアリエスにとっては、高度な魔術などよりも、魔力をうまく制御する方法のほうがよほど重要事だった。 「一緒に暮らしていた五年の間、師匠せんせいは私によくしてくれたし、確かに口数の少ない人ではあったけれど、魔術をそうやって悪い事に使うような人には見えなかった」  アリエスはそう言って首を振った。青年はアリエスの話を聞いて、「そうか……」とだけ呟いた。 「それじゃあ、余計に信じられないのも当然だと思う。でも、今の話が、おれがこの目で見てきた全てなんだ」  青年はわずかに戸惑って言葉を選ぶような様子を見せつつも、乾いた血で汚れた衣の上に投げ出した手の指を拳の形に握りしめ、焦りの滲む声音で続ける。 「このままじゃ、ディオクレイス王も不名誉な噂を流された上にずっと幽閉されたままで、ハルス王女もきっと助からない。そんな最悪の事態になる前に、おれは王女を捜し出して王宮へ戻る。誰にも反論できない真実を突き付けて、ルーデスの計画を止めなきゃならない。……だから、魔術師であるあんたに、協力してほし……」  彼の声は徐々に苦しそうに掠れて、遂には途切れてしまった。顔色は蒼白、眉間には深く皺が刻まれ、額にも脂汗が浮かんでいるところを見ると、血を失いすぎたことによる貧血か、傷の痛みに耐えきれなくなってしまったのだろう。  ――この人が嘘をついているとしたら、人はこんなになってまで、王宮から遠く離れたこんな辺境へ命懸けで逃げて来られるものだろうか。その考えがアリエスを迷わせ始めていた。複雑な思いを抱えながらも、ひとまず今は目の前の怪我人の苦痛が和らぐようにと、彼の広い背をさする。  夜半を過ぎても、雨が止む気配は無い。アリエスは目を覚まさない青年と肩を寄せ合い、彼の外套を半分ずつ二人の肩にかけて一夜を過ごした。雨が青葉をたたく音を聴いているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。  夢を見た。夢の中のアリエスはまだ五つか六つで、魔力の暴走で鍋を焦がしてしまったか何かでひどく塞ぎ込んでいた。顔を上げられないでいるアリエスの肩に、体温の低い大きな掌が置かれる。 「アリエス、気にすることはない。魔力を制御する方法を教えるから、怖がらずにもう一度やってみなさい」  アリエスは師匠の顔を見上げたが、ひどく靄がかかって、彼の顔がよく思い出せなかった。 「師匠せんせい。王様のことを裏切って幽閉したって、本当ですか? 本当だとしたら、なぜそんなことを?」  そう尋ねたかったが、声が出なかった。アリエスが焦って口を開け閉めし、喉に手を遣っているうちに、いつの間にか彼は後ろを向いてアリエスの元を去ろうとしていた。その後ろ姿は、アリエスが実際に六年前に見た姿でもあった。アリエスをこの辺境の村に預けて王宮へと去りゆく彼の姿だ。  待って、と言いかけたときに目が覚めた。辺りで人の動く気配と草を踏む音がする。どうやら青年のほうが先に目を覚まして、出発の準備を進めていたらしい。ふと自分の胸の辺りを見下ろしたアリエスは、彼の外套がアリエスの身体を包むように掛け直されていることに気付いた。  青年の顔色は昨夜に比べると随分良くなっており、普通に歩けるまでに回復しているようだった。そのことに安心しつつも、アリエスは何となく無言の気まずさに耐えかね、青年の意思確認のためと、昨夜の非日常的な出来事が幻ではなかったということを確かめるために、彼に話しかけてみた。 「……ねえ。昨日も言ったとおり、私、師匠せんせいのように魔力の強い魔術師じゃないわ。高度な魔術なんて習っていないし、これまで魔術師であることを隠して、普通の村娘として生きてきたの。そんな私が、魔術の技量で師匠せんせいに敵うわけがない」  そう改めて言葉にしてみると、自分の無力さが浮き彫りになった気がして、アリエスは思わず肩を落として俯いた。しかし、青年はそれを聞くなり、「そういうことじゃない」と即座に否定する。 「おれから見ると、魔術師ってことだけじゃなくて、あんたがルーデスの知り合いであることにも意味があるんだ。敵の過去の情報が手に入るかもしれないからな。具体的な戦術は、情報を集めながら、旅をしながら考えればいい」 「…………」  アリエスはそれ以上話を進展させることを避け、森を抜けて村に帰る準備を淡々と進めた。青年と一緒に村まで戻れば、また昨日の兵士たちと道中で遭遇してしまう可能性も十分あったが、それでも彼は流石に一人では危ないだろうと言って、フォーマルハウト村に到着するまで同行してくれた。  幸運なことに、村に戻った二人を最初に発見したのは、アリエスを育てた老夫婦だった。心配して森の入口のほうまで様子を見に来ようとしてくれていたらしい。村じゅうを巻き込んでの騒ぎにならずに済んだことに胸を撫で下ろしたのも束の間、老夫婦はアリエスが道に迷ったのを青年が助けてくれたものと勘違いして、「あなた、香草茶でも飲んで行きなさい」と、あっという間に彼を家に上げることを決めてしまった。  年季の入った質素な卓を、四人の人間と四つの茶器が囲む。青年は老夫婦まで巻き込むことを避けるためか、自分の職や身分をうまく伏せて、今のところは当たり障りの無い会話に終始していた。青年側の事情は全て森の中で話し尽くしたということで、あとはアリエス自身の決断を待っているのだろう。  森の中で、ひと晩雨音を聞きながらずっと考えていた。どちらにしても大きな決断であることは承知の上だ。――けれど、自分の心に従うなら、答えは既に出ている。では、目下の問題は、その答えとどう向き合い、どう伝えるべきかだ。  アリエスは香りの良い香草茶を一口飲んで唇を潤すと、茶器をそっと卓に置いてから、対面の老夫婦に向かって話し始めた。 「おじいさん、おばあさん。私ね――」 * 「――よかったのか。村の仲間に知らせてから出発しなくて」  旅の準備に丸一日を費やした翌日の朝、二人はそれなりに重い皮袋かばんを背負って、山の入口に続く坂道の上からフォーマルハウト村の長閑な景色を一度振り返った。 「うん。だって、旅に出る理由を聞かれたら答えられないもの……」  正確には、答える勇気が無いと言うほうが正しい。旅に出る理由を説明することは、自分が魔術師であることを告白することだからだ。森の中で青年を助けるためにやむを得ず魔術を使ったことはあるけれども、村の娘たちの前でその告白ができるかどうかは、アリエスにとってはまた別の話だった。  ――私は、人から聞いた話だけを鵜呑みにするんじゃなくて、どうしてもこの目で直接確かめたい。本当にあの人がこの事態を引き起こしたのか、そうだとしたら、それはどうしてなのか。それに、この機会を逃したら、あの人にはもう二度と会えない気がするの――。アリエスは、青年と共に旅に出ることを決めた理由を育ての親にそう説明した。実際に口に出したら、自分でも不思議なほど、あらためて心が決まった気がした。私は、ほんとうのことが知りたいのだ。たとえ、その真実を知ることで自分が傷つく結果になるとしても、知らないままでいるよりはずっと良いと思えた。  アリエスの決意が固いことを知って、育ての両親は「あんたは、子どもができなかった私たちの前に突然現れた神の使いみたいなもんだったからね。時を経て、また私らのもとを去ってしまう日が来たってことなのかもしれないね」と、心配と諦めが半々の顔でアリエスを旅に送り出してくれた。アリエスは村の様子が見えなくなってしまう前に、もう一度後ろを振り返り、村の風景を目に焼き付けようとした。それから青年のほうに向き直って、わざと一歩分の距離を取る。 「……魔術師としてついていくことを承諾したからって、あなたのことを完全に信用すると決めたわけじゃないわ。あなたは魔術師である私を利用する。私は、真実を知るという目的を果たすためにあなたを利用する。それだけのことよ」  アリエスが改めてそう宣言すると、煉瓦色の髪の青年は気を悪くしたふうも無く、からりと笑った。 「分かってる。だけど、他に仲間が見つかるまでは折角二人の道行きだ。仲良くしよう」  目の前に差し出された手を取るか否か一瞬躊躇う。結局、彼の人好きのする雰囲気と真摯な瞳に根負けして、アリエスは一回り大きな手をおずおずと握った。青年は明らかにほっとしたように表情を緩める。 「よろしく。おれはリゲル・デルフィス。今はお尋ね者だが、元の肩書きは王宮の衛士だ」

3

 山間のフォーマルハウト村を出ると、すぐに険しい山道が現れる。アリエスは用事がない限り村の南の山道に足を踏み入れることはなかったので、蛇行する山道がこれほど急峻で歩きづらいものだとは知らなかった。歩くたびに編み上げサンダルの間を草のふちが掠めて、二人の足に小さな傷をつくった。先導して進むリゲルは、アリエスが無事についてきているかどうか、ときどき後ろを振り返って確認してくれた。  ――やっぱり、悪い人には見えない。でも……。  目の前の青年と、昔馴染みの魔術の師匠が敵対関係にある以上、その両方を同時に信じることはできない。その思いがアリエスの判断を難しくしていた。  それからしばらく歩を進め、少し開けた山中の広場のような場所に辿り着いた頃、二人は作戦会議を兼ねて軽食休憩をとることにした。 「さて。闇雲に進んでも、捜し人が見つかる可能性は低い。まずはここから南に下って、人の多い町に出ることが先決だな。そこで物資調達がてら、それとなく聞き込みを進める」 「王女様を捜すの?」 「ああ。あとは、魔術師だな。弟子のあんたが一番分かってるだろうけど、ルーデスの魔術は強力だ。味方に付いているぶんには心強いが、敵に回った途端に大きな脅威になる。おれはあの夜それを思い知った。あっちは予め計画を立てていて、こっちにとっては不意打ちだったってのもあるが、そのぶんを差し引いても、とても太刀打ちできる相手じゃなかった。それなら、こっちにもそれなりの戦力が要る。出来るだけ強力な魔術師が」 「魔術師か……。私、そういえば、自分と師匠せんせい以外の魔術師がどこにいるのかよく知らないわ」  フォーマルハウト村の中では魔術師の存在が話題に上ること自体が稀であり、また、アリエス自身も物心がついてから村の外に出たことはなかったので、今までそういったことを知らずに生きてきたのだった。リゲルのほうもそれを聞いたところでたいして驚かず、さもありなん、とばかりに頷く。 「魔術師の人口は元々多くないうえに、昔の魔女狩りや、魔術師の村の焼き討ちで更に数が減ってるからな。相当難しいってことは覚悟してる」  では、魔術師を探していたリゲルと魔術師である自分が偶然出会ったのは一体どれほどの確率だったのだろうかと、アリエスは密かに考えずにはいられなかった。 「それにしても、正直、もっとゆっくり進むことになるかと思ってた。体力はあるほうみたいだな」  木の実を口に放り込みながら、リゲルが意外そうに目を丸くする。アリエスは片方のふくらはぎを軽く手で叩いて答えた。 「あの村にいると、みんなそうなるわ。男の子も女の子も、野原を駆け回って育つから。あとは、私の場合は、魔術のおかげでもあるかも。サンダルに簡単な魔術をかけてあるの。風の精霊の力を借りて、少しだけ進みやすくなるようにね」  そう説明して、さっそくリゲルのサンダルにも同じ魔術をかけてやる。リゲルは試しにその場で動き回ってみて、「ほんとだ、ちょっと軽くなった」と喜んだ。 「魔術って、いろんな使い方があるもんだな」  自分は魔術が身近にあったわけではないから興味深い、と感心したように続ける。アリエスはその反応に驚いたし、正直に言うと戸惑った。初めて人前で魔術を使った夜も、そして今も、リゲルはアリエスたち魔術師のことを、あの村の娘たちのように遠巻きに警戒するような目で見てくることは一度もなかった。 「どうして……」  思わず呟く。気味が悪いと思わないの、と続ける前に、「ん?」とリゲルに訊き返され、アリエスは何でもない、と慌てて口を噤んだ。  軽食を片付けてまた歩き始めた後は、ほどなくして人の手で整えられた砂利道に出て、やっと横並びで会話をする余裕も生まれた。 「そういえば、何年かルーデスと暮らしてたって言ってたな」  アリエスは森の中をのんびりと飛んでいる青い蜻蛉を軽く避けながら、うん、と頷く。 「最初のほうは覚えていないんだけれど、私は当時五歳くらいだったって周りの大人たちから聞いたわ。彼に引き取られて、約五年間一緒に暮らして……それから王宮から彼にお呼びがかかったとかで、私はフォーマルハウト村の老夫婦に預けられることになったの。それ以来、噂でさえ名前を聞かないまま六年も経っていたから、本当に驚いた」 「六年前か。古参の兵士仲間が言ってたな。当時は、すごい魔術師が王宮に戻ってくるらしいと騒がれてたって」  アリエスは正直、師匠であるルーデスがどのくらいの魔力を持っている人物なのかを知らずに接していたので、客観的な評価を第三者から聞くのは、面映ゆいような、何だか落ち着かないような、不思議な気持ちだった。そんなアリエスの内心を余所に、リゲルは話を続ける。 「おれはルーデスを呼び戻したのが誰かを知り得る位置にはいないんだが、王宮内の噂では、ディオクレイス様が呼び戻したんだって言われてる」 「王様が?」 「あの二人は、前王のケイロス様の代から、つまり幼少期からの付き合いで、だいぶ深い信頼関係を築いていたみたいだからな。だからこそ、おれもすぐには信じられなかった。あの夜、ルーデスと対峙したディオクレイス様もきっと同じ気持ちだったろう」  今から十三年前、“時空のうろ”に起因する大きな災害があって、その動乱のなかで前王ケイロスは東の国ラダニエの王に処刑された。その後、時空のうろの修復のために王宮に集められていた魔術師らは、役割を終えて思い思いの場所へと散っていった。田舎娘のアリエスでも、このヘラス国に生きていればこのくらいのことは人伝で聞いて知っている。 「ルーデスは先王の御代、王宮魔術師の一人として時空のうろの問題の解決に貢献したって聞いてる。まだ相当若かったのに、大人の魔術師に交じって最前線で活躍していたどころか、うろの修復方法を最初に見つけ出したのもルーデスで、先王もその功績を評価して厚く遇していたそうだ。その話だけ聞くと、王家に反旗を翻す動機は特に無いように思えるんだけどな」  リゲルは訝しむように首を傾げる。アリエスも俯いて「うん……」と歯切れ悪く頷いた。そもそも、そんな華々しい経歴の人間がわざわざ王宮勤めを辞めてまでアリエスを引き取り、人目につかない田舎町で育てる気になったのはどうしてだろう。詳しい話を聞けば聞くほど、アリエスの中で彼に訊きたいことが雪のように募っていった。  二人は日が沈んでしまう前に小さな宿場町に辿り着き、今夜はここで宿をとることにした。宿の部屋に入るなり、リゲルは「ちょっとそこに座って待ってな」とアリエスを寝台に腰掛けさせる。何だろうとアリエスが彼を見上げていると、リゲルは荷物の中から何種類かの粉末を取り出して手早く水で練り、器に入れて寝台の脇に置いた。 「軟膏だ。擦り込むと切り傷に効く」  そう言って履き物サンダルを脱ぎ、自分も寝台に腰掛けて薬を塗り始めた。アリエスも見様見真似で同じようにしてみた。軟膏は草を燃やしたような独特のにおいがして、傷口に塗ると少ししみた。 「あなた、薬師なの?」  そう尋ねると、リゲルは首を振った。 「いや、本業ではない。育ての親が薬師で、手伝ってるうちに色々覚えたってだけのことだ」  へえ……と今度はアリエスが感心して相槌を打つ。 「孤児だったんだ。巨大な“時空のうろ”のせいで起こった大風で、親と住処を失った。あんたも、事情は違えどそうだったんだろ。お互い、今までよく生きてきたよな」  リゲルは世間話をするような調子でそう話した。アリエスはどんな表情をしていいか分からず、うん、とだけ答えて、リゲルから手渡された携帯食の干し無花果を齧った。  せっかくこの辺りでは比較的栄えている町に出たので、翌日は町中を巡回する兵士に正体を悟られぬよう注意しながら、王女の目撃情報を聞き込むことにした。聞き込みの途中、不意に辺り一帯が薄暗くなる。今日は晴れていたはずなのに、急に雲が出てきて太陽を隠したのかしらと思って見上げてみると、太陽の光を遮っていたのは雲ではなく、空を旋回する巨大な濃灰色の鳥だった。町行く人はみな一様に立ち止まってそれを見上げている。小声で話し合っている者もいた。 「あの鳥、最近現れるようになったわね。何だか監視されているみたいで怖いわ」 「餌を探しているのかしら」 「この辺りにはまだ下りてきたことはないみたいだけど、隣町では何人か攫われたそうよ。しかも、何故か裕福なご婦人ばかりが狙われているんですって!」  確かに、地上から見上げてもあの大きさということは、人を襲う力は十分にありそうだ。アリエスとリゲルは空を見上げるのをやめ、思わず顔を見合わせる。得体の知れないその巨鳥を恐れてか、道の脇の家々はどこも固く門扉を閉ざしているようだった。そのせいもあって、二人の本来の目的である王女捜しの聞き込みの成果も芳しくない。 「……やっぱり、簡単には見つからないよな。彼女の居場所に繋がりそうな情報すら無い」 「この辺りには立ち寄らなかったのかも……」  市場に買い出しに来た地元民を装いつつ、二人は小声で相談し合った。市場の南の端の店に手頃な値段の果物が出ていたので、干して携帯食に出来そうなものをいくつか見繕う。店の端に置かれていた果実をもっとよく見ようとアリエスがしゃがみ込んでいたとき、不意に外套の裾が引かれたのを感じた。次いで、まだ舌っ足らずな「わっ」という短い叫び声と軽い衝撃、布が破れる音。 「坊主、大丈夫か?」  横で見ていたらしいリゲルの声が降ってくる。アリエスも状況を確認してみると、五つか六つくらいの歳の頃に見える少年がアリエスの外套の上に膝をついていて、リゲルの助けで起き上がろうとしているところだった。推測するに、偶然背後を通ろうとした少年が、しゃがんでいたアリエスの外套の裾に引っかかって転んでしまったのだろう。 「ああ、ごめんね。怪我は……」  アリエスがそう言いかけると、少年は彼女と目が合うなり、みるみる泣きそうな顔になった。 「母ちゃん……?」 「……えっ?」  思ってもみなかった一言に、アリエスはそのまま言葉を失くして固まってしまった。 *  アリエスとリゲルは、玄関から居間、暖炉まで清潔に整えられているこじんまりとした家の中を遠慮がちに見回した。 「ごめんなさいね、うちの子が……」  緩く巻いた髪を後ろ頭にまとめ、大きなお腹を抱えた婦人が、もう一度申し訳なさそうに眉を下げた。アリエスは首を横に振り、いいえ、こちらこそ、と恐縮して答える。  さいわい、少年に大きな怪我は無く、しばらくの後に本当のお母さんが少年を探しに来てくれたので、それで迷子事件は無事に終息となった。しかし、落ち着いてから確認してみたところ、少年が転んだ拍子に外套の裾が大きく破れてしまっていたので――アリエスは自分で縫い直せば良いから構わないと言って辞退したものの――婦人のどうしても繕わせてほしいという強い要望もあって、彼女の家で外套の補修をしてもらうことになったのだった。  繕いものが終わるまでにはまだ少し時間がある。アリエスは家の中を見てきても構わないという婦人の勧めに従って居間を通り抜け、立派な樹が植えられている中庭のほうに出てみた。すると、リゲルが先に中庭に来ていたようで、あの少年と話しているらしき声が聞こえた。 「坊主、何してるんだ?」 「あの木に生ってる果物、母ちゃんに食べさせたいんだ。滋養があると思って」  少年の視線を追ってみると、なるほど、樹の頂上付近にひとつだけ、よく熟れた赤い果実がかすかな風に揺れている。リゲルも手で庇を作ってその果実を見上げた。 「そうか。うーん……あの高さだと、おれが坊主を肩車してもちょっと足りないな。それじゃあ……」  アリエスが魔術で強めの風を起こして果実を落としてみようかと言い出す前に、リゲルは手際良く矢を用意して弓につがえ、片目を眇めて冷静に狙いをつけると、満を持して矢を放った。矢はどういうわけか、折り重なった緑の葉の間を見事にすり抜けて、果実の茎だけを正確に打ち抜いた。重力に従って落ちてきた果実は、両手を伸ばしていた少年がうまく掌の中に収めたようだ。  よかったな、と少年の頭を撫でてやっているリゲルの様子を、アリエスは何度も目を瞬きながら見つめる。そうしているときにちょうど、婦人が「お茶でもどうかしら」とアリエスたちを呼びに来てくれた。  アリエスたちが囲んだ食卓は、四人分の飲み物の器と果物の皿を並べるとそれだけでもういっぱいになった。少年とリゲルが収穫してきた果実は、期待どおりに甘みが強かった。 「ねえ、“イオニス”もおいしいって言ってるかな?」  少年が隣に座っている母親のお腹を撫でながらそう尋ねると、婦人も「そうね」と微笑んだ。 「イオニスって、赤ちゃんの名前?」 「そうなんです。夫がこの地方の兵士だったんですけど、半年前に北東方面の内紛に駆り出されて……結局そのまま帰ってこられなくて。だから、生まれてくるこの子には、夫の名前をつけようって決めているの」  ちなみに、この子――ニコスはお祖父ちゃんの名前を貰ったのよ。そう続けて、婦人は少年の頭を優しく自分のほうに引き寄せた。この地方では特に、尊敬や愛情を示すために、子どもに両親または祖父母と同じ名前を与える慣習が残っているそうだ。何とも誇らしそうな顔のニコス少年に、アリエスも目を細めて微笑み返した。  夕暮れが近付く頃、二人は婦人と少年の家を出て、町外れの安宿に向かうことにした。アリエスは繕われた外套を羽織りなおし、改めて世話になった婦人に頭を下げる。玄関へ向かう際の世間話からの流れで、自分たちが王宮に向かっていることと、人探しをしていることをそれとなく尋ねてみたが、残念ながら婦人には特に心当たりは無いとの返事だった。  玄関から外に出るとき、気付いたことがあった。田舎の家でよく防犯のために玄関先に掲げられる常夜灯が切れている。それについてアリエスが言及する前に、婦人が少し寂しそうに苦笑しながら口を開いた。 「これね。主人が帰ってこられないって分かってからかしら。お恥ずかしいけど、もう何か月もこのままなのよ」  アリエスは婦人の話を聞いて、火の絶えた松明に視線を落とす。 「…………」  躊躇いは一瞬だった。不安を吹き飛ばすように、ニコスに向かって「見てて」と微笑む。それからゆっくり目を閉じて、炎の精霊に心の中で呼びかけた。首飾りに付いた深い緑色の貴石ほうせきが胸元で光り出す。その光にニコスが小さく声を上げているうちに、アリエスは指先を松明の先に近付け、ごく小さな円を描いた。次の瞬間、松明の先に小さい灯火が点っていた。 「魔力を込めましたから、普通の炎よりは長持ちするはずです。もし良ければ、竈の種火にも使ってください」  アリエスがそう言うと、婦人はニコス少年と顔を見合わせ、それから嬉しそうに「ありがとう。優しい魔術師さん」と笑みを深めた。 「おねえちゃん、すげー。そんなことできるの。ちっちゃい頃に読んでもらったおとぎばなしの、竈の女神様みたいだった。あのね、絵本の中にね、火を操ってる挿絵があったんだよ」  そうだったんだ、と答えながら、アリエスは小さい子どもが「ちっちゃい頃」と自身の過去を振り返っているのが愛おしくてたまらず、少し笑ってしまった。それを見ていた婦人が、「ああ」と思い出したように声を上げる。 「魔術師といえば……あなたたち、魔術師を探しているって言っていたわね」  ええ、とリゲルが首肯すると、婦人は考え込むように掌を頬に当てて話を続けた。 「最近ね、遠くの山のほうまで出稼ぎに行っていたっていうお隣さんが帰ってきたのよ。その人が言うには、旅の道中でこんな噂を聞いたらしいの。“最果ての村”と呼ばれている西の端の村の外れに、強大な力を持った魔術師が人目を避けるように一人で暮らしているらしい、って」 「“最果ての村”……」  アリエスとリゲルの呟きが重なった。 「あくまで噂だし、信頼性が高い話かどうかは私も分からないんだけれど、闇雲に国じゅうを探し回るよりは、まずそこに行ってみるのも良いかもしれないわね」  強大な力を持った魔術師――。アリエスは皮袋かばんの持ち手の紐を握り直し、リゲルと互いに顔を見合わせて頷き合った。 * 「いい人たちだったな」  親子と別れたあと、親子の家のほうを振り返ってそう言うリゲルに、アリエスも「うん」と同意した。リゲルは進行方向に踵を返し、そのまま歩き始めるかと思いきや、数歩進んだところで突然立ち止まった。何事かとアリエスもリゲルの陰から顔を出して道の先を確認してみると、十分に舗装されていないのか、それとも工事の途中なのか、道を斜めに横切るように罅割れが出来ていた。 「ちょっと大きいな。アリエス、ほら」  割れた道路を先に越えたリゲルが、振り向いてアリエスに手を伸ばす。けれど、考え事をしていたアリエスは、その手をすぐに取ることができなかった。一旦動きを止めて、リゲルの掌をじっと見つめる。 「……アリエス? どうした」  問いかけられて、二呼吸ぶん逡巡する。結局アリエスは、目を伏せたままぽつぽつと話し始めた。 「私ね、父と母が付けてくれた本当の名前を知らないの。周りの大人は、私が両親をなくしたショックでそれ以前の記憶を名前ごと忘れてしまったんだろうって、そう言ってた。アリエスっていうのは、あの人が――師匠せんせいが付けてくれた名前よ。『名前が無いと、呼ぶときに不便だから』って」  誰かにこのことを話すのは初めてだ。少し語尾が震えた。アリエスはその震えを誤魔化すために、黙って話を聞いているリゲルの反応を窺おうともしないで、一方的に話し続けた。 「あの人は、私が魔術の制御に何度失敗しても、叱りつけたりしないで根気強く教えてくれた。まだ幼かった私が危ないことをしようとしたら、危険を遠ざけて守ってくれた。……優しい人よ。少なくとも私は、それを知ってる」  ようやく顔を上げる。リゲルの深い茶色の目がアリエスを見つめていた。いま、二人の間には罅割れという名の線が引かれている。その一歩分の隔たりを意識しながら、アリエスは話し続ける。 「……でも、今こうして親切に私に手を差し出してくれているあなたのことも、私は悪い人だとは思わない。だから、少し悲しいと感じてしまったの。あの人とあなたを同時に信じることができないことが」  師匠であるルーデスの無実を信じるなら、目の前のリゲルは嘘をついていることになる。それは逆も然りだ。  ひととき、沈黙が下りた。アリエスはリゲルの瞳を見つめる。その奥にある何かを読み取ろうとしてみる。けれど、沈黙は長くは続かず、リゲルのさっぱりとした声に軽々と吹き飛ばされてしまった。 「それでいいよ。少なくとも今は。今すぐ白か黒かの結論を出す必要も無いだろ。あんたは今、こうしておれの旅に付き合って力を貸してくれてる。それは事実だ」  アリエスはその場で何度か瞬きをしてから目蓋を閉じた。リゲルの言葉が時間をかけて心に染み込んでいくのを感じた。再び目を開けたとき、リゲルの大きな手は変わらずそこにあった。  確かめるように、自分の胸元に手を当ててみる。首飾りについているオリーブの葉の色の石の感触が衣越しに伝わってきた。  ――うん。私は、師匠せんせいのことを信じてる。そのうえで、私がいま自分の目で見ているものや体験していることも、同じように信じたい。今は、それでいい。  ひとつ深呼吸をして、アリエスは初めて自分の意思でリゲルの手を握った。 *  月の光は万物に対して平等に降り注ぐ。王宮の柱廊にも、夜の森の月桂樹の葉脈の上にも、眠りにつく民家の煉瓦屋根にも、そして――こんな埃に塗れた路地裏にも。  彼女は追手の矢を避け、張り巡らされる包囲網をすり抜けて何とかこの路地裏まで辿り着き、片方の掌を汚れた塀に沿わせながら力無く歩を進めていた。もう真っ直ぐ歩く力は残されていなかった。やがてその歩みも止まり、彼女はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。かろうじて残っている判断力を振り絞り、出来るだけ死角になりそうな古い木箱の隣を選んだ。腰を下ろした拍子に、護身守代わりに身に着けている小さな麻袋が汚れきった衣と擦れ合う音がした。  まだ弾んでいる呼吸が落ち着くのを待つあいだに、木箱に背を凭せ掛けてぼんやりと月を見上げる。滋養不足のために目が霞み、月の輪郭は判然としない。それでも、記憶が確かであれば、今日は満月のはずだった。あの日と同じ、美しい真円の月の夜だ。  震える手で懐を探り、錆びついた小刀を取り出す。彼女はひととき躊躇っていたが、ついに決心し、その刃の切っ先が自らの喉元近くに向かうように、小刀を両手で空中に振り上げた。刃が月光に照らされて鈍い輝きを放ち、彼女の緩く巻いた紅鳶色の髪の縁に反射していた。

第二章:異国の王子と王女

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 国一番の港から首都へと続く山道を、豪奢に飾り立てた馬車が五台連なって進んでいる。真ん中の馬車に乗り込んでいるのは異国の王子だ。ヘラスで“水の国”と呼ばれている南の島国の王子は、物珍しそうに幌を上げて外の景色を眺めていた。故国は一昔前は水の国と通称で呼ばれることが多かったが、近年はシャウラという国名で呼ばれることが多い。シャウラおよびヘラスと国交のある焔の国ラダニエも同様だ。 「メイヴィス様、危のうございますよ」  従者の諫言にも「うん」と生返事を返し、遠くに連なる白い山々を見遣る。この風景は母国ではなかなか見られないものだ。今回は王の婚礼の儀に出席するための訪問だが、こんな名目でもないとメイヴィス王子がこうして単独でのんびりとヘラスを訪れる機会は少ないので、出来る限り目に焼き付けておきたかった。  やがて山の出口の関所に差し掛かり、身分証を検めるため、五台立ての馬車は大通りの脇の林の中に停められた。手続きを待つあいだ、メイヴィスは休憩と視察を兼ねて宿場町の様子を見てくることにした。冬が近づいている合図なのか、メイヴィスの一行が無事にヘラスの港に到着してから昨日に至るまでの数日間は雨が降り続いており、その影響で石灰質の地面は多少泥濘ぬかるんでいた。メイヴィスが編み上げサンダルで土を踏んでみて地盤の様子を窺っていると、支度を整えた従者が外套をメイヴィスに手渡しながら「参りましょうか」と町のほうを示した。  メイヴィスは母のカペラ女王に連れられて何度かこの国を訪れているが、最後に訪問したのは四年前、前王妃イスダルの葬礼の折だった。 「メイヴィス様、いかがですか。久々のヘラスは」 「変わりなくて何よりだ……と言いたいところだけど、少し妙な感じだ。みな、やけに浮足立っているね。前回、同じ季節に訪れたときは、もっと活気があったと記憶しているのだけど」 「はあ……。わたくしは前回の訪問の際もご一緒しておりますが、そうでしたでしょうか」  従者のフェクダはいまいち腑に落ちぬといった様子だったが、メイヴィスはこの違和感に確信があった。人々はみな陰で何事かを話し合っていて、道行く人と挨拶をするどころか目を合わせる者すら少なく、じきに日が暮れるというのに常夜灯が点される様子もない。――この町の人々は何かを恐れている? だとすれば、何を? 弔事にあたる前回の訪問時であればいざ知らず、況してや今回は国王の婚礼という稀に見る慶事の時節であるはずなのに。それを含めて考えると、やはりこの町の様子は異常と言うほか無かった。  結局メイヴィスは予定より早く視察を終えることにして、馬車が停めてある広場に向かった。やはり山の際にあたるこの道が特に泥濘ぬかるんでいる。 「フェクダ。崩れるかもしれない。早めに出発を――」  従者を振り返ってそう言いかけたところで、片足の重力を失って身体が傾いだ。メイヴィスが踏み抜いた地面が突如崩れ始めたのだった。彼は従者が慌てて何事かをメイヴィスに向かって叫ぶのを聞きながら、声を上げる間もなく崩落に巻き込まれていった。  意識が戻ったときには、既に陽が傾きかけていた。メイヴィスは思考の靄を振り払うように頭を振り、慎重に身体を起こす。腕や足を点検してみたが、泥汚れの他にはたいした怪我も無さそうなことは幸運だった。  しかし、元いた地点からするとだいぶ下のほうまで滑り落ちてきてしまったらしい。メイヴィスは自分の身の丈の三倍でも足りないほどの崖の上を見上げた。よしんばここを登れるとしても、また土砂崩れが起こる可能性を考えると、賢い選択肢ではないだろう。メイヴィスは顔や身体の泥汚れを出来る限り払ってから、周囲を探索することにした。少し歩けば人がいるかもしれないし、どこかに遠回りでも崖の上に合流できる道があるかもしれない。  崖沿いに歩いてみても迂回路らしきものはなかなか見つけられなかったが、その代わり人の話し声が聞こえた。少し離れたところに見える洞穴のような場所からだ。メイヴィスは一瞬安心したが、次の瞬間眉根を顰めた。聞こえてくるその声が下卑た笑い混じりの声で、更に、そのなかに時折女性の悲鳴のようなものが混ざっていることに気付いたからだ。 「…………」  懐に忍ばせている飾り付きの短剣を握り直す。音を立てぬよう洞穴に近付いていくと、こちらに背を向けた五・六人の男が洞穴の中にいることが確認できた。まずはこの人目に付きづらい場所で何が行われているかを特定せねばならない。メイヴィスは息を殺して、洞穴の中からは死角になるように、壁に背中をぴったりと付けた。 「……ほら、こっちにも渡せよ。なかなかの上玉じゃねえか」 「あんな裏路地を女一人で歩いてたら、どうなるか知らなかったなんてまさか言わねぇよなぁ?」 「嫌――やめて。離しなさい」  ――え?  その女性の声を聞いた瞬間、メイヴィスは身を隠すために音を立ててはいけないということも忘れて、思わずそこから一歩踏み出した。細かい砂利を踏む音と衣擦れの音が洞穴の中に響き、男たちが弾かれたようにこちらを振り向く。 「誰だ。誰かいるのか!」  メイヴィスは己の初歩的すぎる失態に、片手で目を覆って頭を垂れた。次の瞬間、否、と思い直して首を振る。自分の嫌な予感が的中しているのであれば、それこそ一刻も早く確かめねばならない。ひとつ息をつき、覚悟を決めて洞穴の中を覗き込んだ。  予想通り、吐き気がしそうなほど醜悪な相貌の男たちの九つの眼がメイヴィスを睨みつけていた。うち一人は隻眼だった。  そして、そのなかで強張った表情を浮かべ、目を見開いてこちらを見つめる女性と目が合った。彼女が必死で掻き抱いている薄汚れた上衣の下に、襤褸布のような衣が垣間見える。それは非対称な形に引き裂かれていて、彼女の細い肩から今にもずり落ちそうだった。これまでの男たちの罵声と彼女の様子を考え合わせれば、これから何が行われようとしているかは明白だった。それを悟ったとき、普段温厚な性質たちの彼にしては珍しいことに、脳の一部分の血が瞬間的に沸騰する感覚をおぼえた。メイヴィスはそれを表には出さないようにもう一度彼女と目を合わせ、次いで下卑た笑みを刷いた男らを順に睨み据える。大将らしき男がメイヴィスに近付いてきて、隈の深い落ち窪んだ目で、この場にはそぐわないほど立派な出で立ちの王子を睥睨した。 「兄ちゃん、見たところ随分と羽振りが良いようだが、何か金目の物や武器になる物は持ってるか。全部ここに捨てて行きな。命が惜しくなかったらな」  破落戸は信じられないほど黒く汚れた手で、メイヴィスの足元の地面を指差す。メイヴィスは一層険しさを増した瞳で、自分よりも背の高い男を見上げた。十を数えるほどの睨み合いの末、メイヴィスはふと男から視線を外し、懐から豪奢な装飾が施された短剣を取り出して、躊躇いもせず足元に放り投げた。この短剣は宝石がいくつもついている金製で、売り捌けば金貨百枚は下らないはずの品だ。  一瞬、男がその短剣に気を取られる。その隙を突いて、メイヴィスは男の鳩尾に打ち身を入れ、男が動けずにいるうちにすかさず体勢を低くして短剣を回収する。その流れで男の脇をすり抜け、肩を震わせて座り込んでいる女性のもとへ向かった。粗暴な手や足が行く手を阻もうとしてきたが、ひとつは短剣の柄で叩き落とし、ひとつは避け、もうひとつは腕の軌道を少し変えてやって仲間を攻撃するように仕向けることで対処した。息つく間もなくしゃがみ込み、女性の手を取って、立ち上がる時の反動で強く引く。 「――行こう。走って」 「――――」  彼女が声を上げる前に、メイヴィスは走り出していた。彼女もそれにつられる形で走り出した。何かを考えている暇など無く、無我夢中で走って、気付いたときには薄暗い洞穴を抜け出していた。二人は男たちの怒号が聞こえなくなるくらいまで、夕焼けのなかを息つく間もなく駆けた。 「ここまで来れば……流石に」  メイヴィスは徐々に走る速度を緩め、洞穴があった方角を見遣って、肩で息をしながら立ち止まった。方向も分からず走るうちに、洞穴があった方角とは反対の岩場のような場所に出ていた。メイヴィスは女性の手を握ったままだったことを今更思い出して、掌に込める力を徐々に緩めた。女性の琥珀色の瞳とまともに見つめ合う。彼女の瞳を、メイヴィスはよく知っていた。 「どうして……」  罅割れた唇から最初の一言を絞り出したのは女性のほうだった。その声はひどく震えていた。メイヴィスは緩く頭を振って、信じられない思いで女性と視線の高さを合わせた。嫌な予感が当たってしまった。すぐに自分の外套を脱いで、肌寒そうな彼女の肩に着せかけてやりながら問いかける。 「……それは私の台詞だ。何があったのか、教えてくれるかい。ディオクレイス王の許嫁であるはずのあなたが、どうしてこんな姿でこんなところに?――東の国の、ハルス王女」

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 いつの間にかすっかり陽も沈んでしまっていたので、今日中に従者たちと合流するのは諦めたほうがいいと考えたメイヴィスは、まずは随分と心身を消耗しているハルス王女を急造りの横穴で休ませることにした。欠伸を噛み殺しながら火の番をしている間、メイヴィスはぼんやりと昔のことを思い出して独りごちた。 「懐かしいな……」  メイヴィス王子がハルス王女と出会ったのは、十三歳になる年だった。ハルスはメイヴィスの兄のシグナスが東の国ラダニエに留学に行くのと入れ替わりで南の国シャウラに留学に来たが、留学期間の終了直前にラダニエで疫病が大流行し、南の国シャウラから東の国ラダニエへの渡航制限が掛かったため、結果的に、予定よりも長い時間をメイヴィスらと共にすることになった。加えて、メイヴィスとハルスは年齢が近かったので、同じ家庭教師から勉学の手ほどきを受けた学友でもある。ハルスは知的好奇心が強く大変勉強熱心で、同年代内での試験の成績はいつもメイヴィスと一・二を争っていた。  出会って半年が過ぎる頃には、メイヴィスはハルスとすっかり打ち解け、他のどんな学友よりも一緒に居る時間が長い存在になっていた。もっとも、毎日夜遅くまで書庫に残って自主的に勉強していたのは二人しかいなかったので、会話する機会が多くなるのは必然とも言えた。因みに、真面目な性格のハルスがいつまでもメイヴィスに対して敬語を使うので、事あるごとに気楽に接してくれれば良いと言い続けていたら、友人同士の呼びかたにはなったものの、敬語はついに外れなかった。  もうすぐハルスが留学してきて九月ほどが経とうという頃、座学が終わって弓術の練習場に移動している最中に、彼女がふとメイヴィスに尋ねた。 「メイヴィス。さっき先生とお話していて聞いたんですが、十日後のサンシュヒョウテイカイって何ですか?」  メイヴィスはああ、と頷いた。三種評定会とは、この国で年に一度開催されている伝統的な催しだ。 「もうそんな時期か。きみがここに来たのは、去年の評定会のしばらく後だったね。かんたんに言うと、成人前の王族や王宮務めの貴族が、弓術と剣術と座学の成績の三種目を競うお祭りのようなものだよ。留学生の王族も対象だから、今年はきみも参加することになると思う」  なんでも、この国が創られた当時の英雄王が弓と剣の名手であるとともに学問を重んじる人物でもあったことに由来しているらしい。 「なるほど。それじゃあ、これから弓と剣をもっと練習しないと……」  ハルスはそう言いかけて、誰かの視線に気付いておや、と立ち止まった。メイヴィスもつられて立ち止まる。練習場の入口の左の角のほうで、メイヴィスと同じ髪の色をした少年がこちらをちらちら見て、仲間と何事か言い合っているようだった。 「あそこにいらっしゃるの、グラフィアス様……ですよね」  ハルスが戸惑ったようにメイヴィスに耳打ちした。ハルスが言った通り、輪の中心にいる少年はメイヴィスのすぐ上の兄のグラフィアスだ。メイヴィスは溜息をついて、ハルスにだけ聞こえる声量で答える。 「取り合わなくていいよ。僕が去年の評定会でたまたま総合優勝したからって、それ以来ああして何かと僕を目の敵にしてくるんだ。姉の面子をつぶすとは何事だ、ってね」  三種評定会は表向きは王室内の交流促進という名目ではあるものの、次期王室を牽引していく世代の者が現国王に自らの有能さを示すための場であるということは周知の事実である。メイヴィスの姉のテオドラ親派の筆頭であるグラフィアスにとっては、テオドラの活躍の場を潰すメイヴィスの存在が面白くないのだろう。グラフィアスは、一番上の兄のシグナスが二年ほど前に王位継承権を放棄してからというもの、次の王位継承権を持つ姉のテオドラにあからさまに取り入り、器用にも両親が見ていないところでだけ、こうしてメイヴィスを邪険にして、どうにか評判を下げようとしているのだった。メイヴィスは性格上、誰かから敵意のある目で見られるくらいは特に気にしていないものの、それでも面倒なこと極まりないのは確かだった。テオドラやグラフィアスと違って、メイヴィスは特に王位を狙うために評定会に参加するわけではない。ただ、現時点で第一王位継承者でない者が表立って王位継承権を放棄することはできないというだけのことだ。 「でも、ごめん。僕といっしょにいたら、きみまで悪く言われるかもしれない」  メイヴィスがそう謝ると、ハルスはどうしてそんなことを、と言わんばかりの表情で即座に首を横に振った。 「ううん、気にしません。それより、練習しましょ。わたしたち、そのためにここに来たんだもの」  メイヴィスは目を丸くして一時言葉を失ったが、すぐに目元を緩めて頷いた。  次の日からも、メイヴィスはいつも通り自習を続け、弓と剣の鍛錬を続けた。ハルスも評定会に参加するからにはもっと上達したいからと、生来の真面目さを発揮して、メイヴィスと一緒に鍛錬を重ねた。その期間中、王宮ですれ違ったグラフィアスたちがメイヴィスの悪い噂を流そうと陰口を言っているのを何度も見かけたが、メイヴィスは相手にしないことにした。  そして、三種評定会の日がやってきた。座学の試験は事前に行われ、今日は成績が貼り出されるだけだ。午前中の種目は剣術だった。メイヴィスは昨年と同じように一位を獲ったが、グラフィアスは剣術が得手ではなく準決勝で既に敗退していたためか、それとも元々剣術が男女別の種目のためか――女性の部は姉のテオドラが一位に輝いて惜しみない賞賛を得ていた――、剣術の評定の時間はわりあい平和に過ぎていった。  問題は午後の弓術だった。弓術は男女混合競技で、遠くの的にどれだけ正確に矢を当てられるかを競う。十四人の参加者が挑戦したところ、その中で最も中心近くに矢を当てられたのは、今のところテオドラとグラフィアスだった。残るは十五人目のメイヴィスと十六人目のハルスだけだ。  メイヴィスはひとつ息をついて集中力を最大限にまで引き上げ、事もなげに弓を引く。その途端、どよめきが起こった。メイヴィスが放った矢は的の中心を見事に射抜いていた。  矢を射って皆の前を辞した後、メイヴィスが控えの場に戻ってハルスと軽く雑談していると、グラフィアスがメイヴィスの後ろを通って、声変わりの済んだ低い声で一言呟いていった。 「目上の者を立てられもしないとは、恥知らずめ」 「…………」  メイヴィスは反応しなかった。グラフィアスからはちょうどハルスの姿が見えていない角度だったらしく、第二皇子はラダニエの王女に気付くと、一瞬「しまった」というように動揺して僅かに目を泳がせた。 「おっと。他国の姫君にお聞かせするようなことではなかったな。失礼。独り言とでも思ってお忘れください」  ハルスは特にはいともいいえとも答えず、グラフィアス王子に笑顔で礼をした。 「……次、わたしの番ですね。失礼します」  既定の持ち場についたハルスは、限界まで弓を引き絞って冷静に矢を放つ。その矢はメイヴィスの矢が刺さった箇所の僅かに右に突き立った。この瞬間、今回の弓術の評定でメイヴィスが一位、ハルスが二位の成績を修めたことは誰の目にも明らかだった。  控えの場に戻ってきたハルスは、「大舞台で中心に当てるのはやはり難しいですね。勉強になりました」と残念そうにメイヴィスに話しかけた。そして、グラフィアスが近くにいることを横目で確認し、大きくも小さくもない声で冷静に付け足す。 「ああ、そういえば――少しばかり鍛錬を積んだだけの他所者の下級生に遅れをとるのは、『恥ずかしいこと』ではないんでしょうか」  グラフィアスの顔色が変わる。彼が何か言い出す前に、ハルスは素早く笑顔を作って続けた。 「ただのひとりごと・・・・・・・・です。では、失礼」

3

 翌朝、少ない食糧を二人で分け合って簡単な朝食を摂ってから、メイヴィスとハルスは行動を開始した。昨日と同じように周囲を歩き回って、崖の上に登れそうな箇所を目視で探しながら、此処に至るまでにハルスの身に一体何があったのかの聞き取りを少しずつ始める。 「……正直なところ、わたしにも全容は分かりません。ただ、約ひと月前、夜半に短剣で命を狙われそうになって、そのときに誰かが逃げろと言ってくれて、その声に従った。それから夢中で逃げるうちに、いつの間にか王宮の外に出ていました。何が起こっているのかは分からないながらも、状況から考えて、いま戻ったら殺されるか囚われるかの二択だろうと直感しました。それで、そのまま首都の北へ北へと」  ハルス王女はその当時のことを思い出しているのか、長い睫毛を伏せて、細かい傷が無数についた自らの掌を見下ろしていた。 「逃避行の最中、町の噂を聞きました。『我が国の王が、異国の王女に誑かされて駆け落ちをしたらしい』と」 「馬鹿な……」  メイヴィス王子は溜息をついて軽く頭を振った。ディオクレイス王とハルス王女の人品を多少なりとも把握しているメイヴィスからすれば、あまりに荒唐無稽な噂だった。 「……そうか。でも、そんな噂が市井にまで広がっているということは、ディオクレイス様は残念ながら今あまり良くない状況に置かれている可能性が高いね。平常通りまつりごとの指揮が執れる状況であれば、あのかたがこんな噂を黙認されるなんてことは考えにくい」  メイヴィスはディオクレイス王と特段深い交流の機会は無かったものの、初めてヘラスを訪れたとき、穏やかな笑顔で使節団の旅の労をねぎらい、四つ下のメイヴィスに対して親切に接してくれたことが印象に残っている。ハルスのほうも、一年近く前にメイヴィスが外交の一環で東の国ラダニエを訪れた際、「ディオクレイス様とお話していると本当に安心できる」と、婚約が決まったことを笑顔で報告してくれていた。 「わたしもそう思います。或いは――」  ハルスはその続きを言わなかったが、メイヴィスには彼女が何を心配しているのかよく分かった。もしそうであれば、『王女に誑かされて駆け落ちをした』ではなく、例えば『王女が王を殺害して逃走中』などという噂を流したほうがハルスを確実に陥れるには手っ取り早いだろうから、現状そうはなっていない以上、可能性は低いと思われるが……。 「けれど、何にせよ、その噂を聞いたことで、逆にわたしの決意は強固になりました。どれだけ時間がかかろうと、わたしは必ずヘラスの王城に生きて帰らねばならない。そして、ディオクレイス王あのかたがご自身の意思で突然職務を放棄して姿を消したわけではないということを、わたしが証明せねばならないと」  彼女らしい気丈な声だったが、やはりひと月にも及ぶ放浪生活の疲労が滲んでいた。昨日メイヴィスが彼女を見つけられなかったら、どのみちそう遠くないうちに彼女の体力は尽きてしまっていたかもしれない。メイヴィスは「うん」とハルスに同意して、考え込むように顎の下に拳を充てた。 「これまでの話をまとめると、そもそも今はヘラスの王宮で婚礼の儀の準備が進んでいるわけではないんだね。それどころか、ディオクレイス王が行方不明になっていて大変なことになっているけれど、そんな王宮内の状況は市井に伝わっていないばかりか、出鱈目な噂まで流されている。そして、きみは現状、その噂を否定できるほとんど唯一の生き証人というわけだ」  ヘラス国内にすら正しく情報が伝わっていないのだから、最近ヘラスに入ったばかりのメイヴィス一行のもとに何の情報も入ってこなかったのも無理からぬことだった。ヘラスの国軍は、どんな意図でどの程度の情報統制を掛けているのだろうか――。  話しながら歩き続けていると、やがて二人はメイヴィスが崖崩れで最初に落ちた地点の付近まで辿り着いた。やはりここから登れないだろうかとメイヴィスが試行錯誤していたとき、予想に反して、斜め後ろのほうから涙混じりの少々情けない声が聞こえた。 「……様。メイヴィス様ー」  従者のフェクダの声だ。メイヴィスは首を巡らせて声が聞こえた方向を特定し、遠くに見えた人影に向かって、「大丈夫だ。ここにいる」と大きく手を振った。  フェクダは日暮れまで崖の上でメイヴィスを捜し続け、あまりにも姿が見えないので、半泣きになりながらもわざわざ崖の下まで捜しに来てくれたのだった。 「本当によかったですよー……」  フェクダはメイヴィスに抱きつかんばかりの勢いで主人の無事を喜んだ。メイヴィスは少しの苦笑ののちにフェクダを労い、さっそく離れ離れになっていた間の簡単な情報共有を始める。 「隊の皆に怪我などは?」 「驚いた馬を宥めるのにはいささか苦労いたしましたが、他は大きな怪我などはございません。みな、すぐにでも出発できます」 「そうか」  フェクダからの報告を聞いて、メイヴィスはまた顎に拳を充てて考える。ヘラスの王宮がそういう事態になっているという情報を得た今、どう動くのが最も効果的か。可能な限り危険を排除しつつ、だが確実に王と王女が被害者側であることを証明し、且つ、ディオクレイス王の無事を確認するための方策はあるか――。思考の海に沈んでいると、フェクダが遠慮がちにメイヴィスに耳打ちした。 「ところで、あの、メイヴィス様。このかたは……?」  メイヴィスは、そうか、と得心した。フェクダがメイヴィスの従者になったのはハルスが留学期間を終えて自国に帰った後だから、フェクダはハルスとの面識が無い。主人の隣にいるこの女性は、果たして我ら一行の内情を聞かせても良い人物なのか――それを彼は探ろうとしているのだろう。 「…………」  メイヴィスはしばらく思案したのち、フェクダの質問には答えず、いかにも今思いついたという風にそれとなく尋ねる。 「そういえば、フェクダ。お前、たしか私と背格好が大体同じだったよね」 「え? それは、はい。その点を買っていただいて、従者兼影武者として採用していただきましたから……」 「よし、それじゃあ、その特技を生かす時が来た。お前は今から“メイヴィス”になるんだ」 「……は? それはどういう」 「言葉の通りさ。このまま皆のところに戻って、『メイヴィス王子は無事だが、理由わけあって陣には戻れない。別の行路で首都へ向かい、ヘラス王城の正門前で落ち合う手筈だ』と皆に伝えてほしい。真ん中の三台目の馬車にはお前が代わりに乗り込むといい。そして、私のふりをして首都まで向かうんだ」 「そんな無茶苦茶な……」  フェクダは主の提案に呆れた様子だったが、メイヴィスは本気だった。メイヴィスらの五連の豪奢な馬車はどうやっても目立ち過ぎる。目立つということは、畢竟、人の目に触れる機会が多いということだ。その中にハルスを合流させるわけにはいかない。それに、秘密は共有する人数が多いほどどうしても漏れやすくなる。それらの懸念を常に抱えながら馬車で首都へ向かうよりは、只の旅人のふりをして目立たぬ行路で情報を集めながら方策を探るほうがうまくいく確率が高いと踏んだ。  ――このまま真っ直ぐ王城に着いてしまったら、ハルスに刃を向けた者がいる場所に無策で踏み込むことになる。ハルスはこの状況をひっくり返せる唯一の生き証人だ。情報が不十分なまま切り札を相手の前に晒すわけにはいかない。  メイヴィスはいま何よりも時間が欲しかった。自由に動いて必要な情報を集め、最善の方策を考えるための時間が。さいわい、メイヴィスは過去にこの国ヘラスを訪れたときも国内の町をほとんど歩いたことがなかったので、ヘラスの中に外国の王子であるメイヴィスの顔を知っている者は多くない。さほど目立たずに町中に溶け込んで調査を進められるだろう。 「観光も兼ねて、ゆっくり遠回りして行くよ。当然馬車のほうが早く目的地に着くだろうから、怪しまれない程度にやり過ごしてほしい」  メイヴィスがいつも通りのどこかのんびりとした口調でそう言うのを聞いて、フェクダはもういくら引き止めても無駄だと悟ったらしく、それ以上は何も訊かずに、ただひとつ長い溜息を吐いてメイヴィスの提案を了承した。その代わりと言わんばかりに、フェクダはこっそり一度馬車のもとに戻り、持てる限りの携帯食糧と金貨を融通してきてくれた。  フェクダが五台立ての馬車の元に戻って行くのを見送っていると、驚き顔でおろおろと話の展開を見守っていたハルスが、心底申し訳なさそうに呟いた。 「本当に良いんですか、メイヴィス。わたしと一緒にいると、まさに昨日のように、あなたまで危ない目に遭う機会が増えてしまう。わたしにとっては勿論心強いのは確かだけれど、あなたの側に利は無いでしょう。それなのに、どうして……」  ――“僕といっしょにいたら、きみまで悪く言われるかもしれないよ”。いつだったか、自分が彼女にかけた言葉をメイヴィスは思い出した。あのときそう告げた自分は、今の彼女と同じように、これほど不安に圧し潰されそうな目をしていたのだろうか。  メイヴィスは目の前にいるハルスを見つめ、微笑んで応える。 「どうしてって、当然だよ。私はきみの友人だから」  すると、ハルスの琥珀の色の瞳が見開かれて、それからほっとしたように目元が緩んだ。本人は冷たそうに見えると言って、自分の目をあまり気に入っていないそうだが、ハルスの感情を読み慣れたメイヴィスにとってはそんなことは問題にならなかった。  メイヴィスはふと、外套の上に無造作に広がっているハルスの髪に視線を移す。夕暮れに映える美しい紅鳶色の波のようだった彼女の豊かな髪は、草木染で茶色に染められ、肩のところで不揃いに切り落とされていた。彼女の出身国である焔の国ラダニエとは違い、この国には赤い髪の人間が少ない。自身の背丈が女性にしては高いほうであることも利用して、髪の色や性別の情報を少しでも攪乱できるよう、自分で髪を染め、小刀か何かで切ってしまったのだろうと想像できた。 「…………」  王族は常に陰謀と隣り合わせの運命とはいえ、だからといって、彼女がこんな目に遭わされる道理は無い。メイヴィスはそう改めて心の中で呟くと、またしばらく考え込み、それから、今は山に隠れている東の方角を真っ直ぐ指差した。 「さて。まずはこの山の北側に大きく回り込んで、そこから東の港のほうに向かってみようか。きみの祖国に助けを求めることができそうな状況かどうか、実際に足を運んで確かめてみよう」

第三章:隠れ帽子の魔術師

 ヘラス国北西部、“最果ての村”の手前に位置する小さな宿場町の安宿の一室にて。リゲル・デルフィスは、明らかな失敗作の薬湯を前に、頭を抱えて呻いていた。 「どうして…………」 「ごごごごめんなさ……」  顔を青くして狼狽しきった魔術師アリエスの手元では、何やら溶岩のように気泡が絶えず生まれては消えてを繰り返す、邪悪な色をした怪しい液体が煙を立てている。  この状況になった経緯はこうだ。リゲルが行商用の薬を煎じていたところ、それにアリエスが関心を持ち、混ぜるだけなら自分にもできると思うから手伝っても良いかと申し出た。特に断る理由も無いので、リゲルは快く道具をアリエスに渡し、自分は別の薬に使う薬草を選定するために一時その場を離れていた。すると、しばらくして薬草から出るはずのない黒煙と鼻をつくにおい、更に何かが激しく煮えるような音がすることに気付き、事態を把握して慌てて止めに入ったというわけだ。考察するに、薬草の成分にアリエスの魔力が反応して、アリエス自身も知らないうちに魔力を溶かし込んでしまったということらしい。 「私、まだ魔術の制御能力が全然足りていないんだわ……」  予想以上に落ち込んで律儀に一人反省会を始めようとするアリエスの様子に、リゲルは一周回っていっそ笑みを誘われ、ついに堪えきれず小さく吹き出した。いつの間にかもう薬湯の失敗などどうでも良くなっていた。貴重な資源であることは確かだが、リゲルも腕前が上達するまでは数多くの失敗を繰り返してきた。また薬草を採ってきて煎じなおせば良いのだ。  急にくくと笑い声を漏らし始めたリゲルの姿を、アリエスはもともと丸い目を更に丸くして、頭の上に疑問符を浮かべながら見つめていた。

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 アリエスとリゲルは七日ほどかけて、通称で“最果ての村”と呼ばれている西の端の村まで辿り着いた。そこは村というわりには大通り沿いに露店や酒場がずらりと軒を連ねており、人の行き来もフォーマルハウト村よりはずいぶん多いようだった。二人は資金作りのためにしばらく薬を売り歩いたあと、情報が聞けそうな店に潜入してそれとなく聞き耳を立てることにした。 「ここにするか。なかなか賑わってるみたいだ」  リゲルが選んだのは、葡萄をかたどった看板が出ている大規模な酒場らしき店だった。周りの席には、中年の男性三人組に、親子らしき連れが二組ほど、あとは外套の頭巾フードを深く被った旅人らしき二人組、男女混合の集まりが四組。まだ夕食には早い時間帯だったが、みな名物の葡萄酒を楽しんでいるようだ。 「……例の強力な魔術師って、たしか人目を避けて山奥で暮らしているっていうことだったわよね。そんな人が、本当にこの賑やかな村にいるのかしら」 「適当な客に、その魔術師の話だけでも尋ねてみるか……」  もちろん立場上、目立つような訊きかたはできない。幸いここは酒場で、程度の差はあれどみな葡萄酒で酔いが回っていることだし、雑談の延長線上でそれとなく尋ねてみるのがよいだろう。そう考えてリゲルが店内を見回していると、不意に二人の頭上を影が滑っていった。新しい客が二人の横を通り抜け、アリエスの真横の一つだけ空いていた席に腰掛けたらしい。  その男性は室内だというのに山高帽を深く被っており、帽子のぶんを差し引いても信じられないほど背が高かった。山高帽のせいで容貌は窺い知れないが、背中に流れる長い金の髪が店内の灯りを反射して輝いているのが特徴的だった。  アリエスは絞った果汁をミント水で割った飲み物に口をつけるふりをしながら、隣に腰掛けた男性を横目で窺ってみた。こっそり窺ったつもりだったが、男性は早々にアリエスの視線に気付いたらしく、金色の睫毛で縁取られた切れ長の鋭い目をこちらに向けた。よく磨かれた紅玉のような色の瞳だった。アリエスはその一瞬だけで何だかその鋭い瞳に射すくめられたような気がして、それとなく視線を外す。そのとき、店の入口のほうが俄かに騒がしくなった。 「おーい、酒くれ。この店にある分、ありったけな。カネはツケでいいよなあ?」  四人か五人組の男たちが騒々しく店内に入ってきて、迷惑そうにする周りの客に手あたり次第因縁をつけて回っているようだった。やがて男たちはアリエスの隣に座る帽子の男性に目をつけたようだ。男性は一歩も引かぬという風に頬杖をついて相好を崩し、無表情で微動だにせず破落戸たちを見据えていた。 「ああん? おめえ、その目つきは何だ。ちょっとばかり顔の造りが良いからって、調子に――」  頭目らしき大男が帽子の男性の前に進み出た瞬間、男性が徐に大男の前に右手の人差し指を突き付け、そのまま斜め下に短い線を描くように緩く指を振り下ろした。たったそれだけで、大男はまるで透明な誰かに肩を強く押されたようによろめいて大きくたたらを踏んだ。  アリエスとリゲルは息を呑んで互いに目を合わせた。魔術師のアリエスでなくとも、今の一瞬で誰もが気付いただろう。あれは――魔術だ。それも、貴石ほうせきと魔力を同調させるまでもなく一瞬のうちに魔術が発動していたということは、相当に強力な魔術師であることは間違いない。 「うわ、何だよ、今の。こいつ、魔術師か! 気味悪りぃ」  手近な卓に片手をついて呆然と相手を見つめる大男の横で、取り巻きの一人が情けない悲鳴のような声を上げた。店内は相変わらずざわついている。やがて別の取り巻きが一歩前に進み出てきて、居丈高に魔術師を見下ろした。 「待てよ、お頭。俺、怪しげな術なんて怖かぇ。この生意気な若造に、どっちが上なのか思い知らせてやらなくちゃあな」 「それもそうだな。よし、任せる。やっちまいな」 「あのっ……」  もう魔術師という存在を気味悪がられたことなんて気にしている場合ではなかった。アリエスは隣に悠然と腰掛けている魔術師のほうに向き直り、話しかけようとする。すると、魔術師はアリエスを横目に一瞥して片眉を吊り上げ、徐に腰を浮かせて椅子から立ち上がった。そして、その流れで、何を思ったか山高帽を脱ぎ、隣のアリエスの頭に無造作に被せた。 「え……」  アリエスが戸惑っているうちに、立ち上がって破落戸に相対した魔術師はいつの間にか懐から杖を取り出し、まっすぐ相手に向けていた。攻撃するための魔術に疎いアリエスでも、その魔術師の様子と、拳を温めて準備運動をしている破落戸の男を交互に見れば、これからここで本格的に乱闘が始まろうとしていることは容易に分かった。 「アリエス、こっちだ。巻き込まれるな」  リゲルが危険を察知してアリエスの腕を引き、自分のほうに引き寄せる。 「うん……」  アリエスは頷きつつも、ここで店外に逃げたら山高帽を魔術師の男性に返却する機会を失ってしまう気がして、一度だけ魔術師のほうを振り返った。しかし、ここはまず身を守ることを優先しなければならないと思い直し、リゲルについて出口へ向かう。人の流れに揉まれながらも、二人は何とか店外に出た。特に出口付近は人の流れが滞留するため、ほとんど動けないような状態になる。アリエスとリゲルはやっとの思いで人混みから抜け出し、人通りの少ない道の端に一時避難した。往来はまだ先ほど店の外に出てきた客と通行人が合流してごった返していた。  そのとき、人混みのほうを眺めていたリゲルが、何かを見つけて急に顔色を変え、息を呑んだ。「まさか……」と呟いたのが口の形だけで分かった。 「ちょっと、ここにいてくれ。すぐ戻る」  アリエスに向かってそれだけ言い残し、リゲルはまた人混みの中に戻っていった。アリエスは何が何だか分からず瞬きを繰り返しながら、肩からずり落ちそうになった皮袋かばんを抱え直した。 *  リゲルが人混みを眺めていたとき、ふと目についた姿があった。その人物は骨格から考えるとおそらく女性だろうが、外套の頭巾フードが騒ぎの中で外れたらしく、肩までで不自然に切られた茶色の巻き髪が無造作に頭巾フードの上に被さっている。リゲルが何となく少しの間それを目で追っていると、店の奥のほうの様子を窺おうとしたのか、その人物が不意に振り返った。  リゲルはその人物の横顔を見て息を呑んだ。アリエスにすぐ戻ると伝え、やっと抜け出てきたばかりの人混みの中に逆戻りする。何とか流れに逆らって人混みを掻き分け、リゲルは漸くその人物の手首を掴んだ。驚くほど細い手首だった。その人物――彼女ははっと声にならない声を上げ、機敏にリゲルを振り返る。リゲルは不審に思われないうちに彼女と目を合わせ、高揚と安堵とが綯い交ぜになって声が揺れるのも構わずに一息で言い切った。 「見つけた。お探ししました。――ハルス王女」

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 彼女――ハルス王女は、リゲルの声を聞くなり目を見開き、片手で口許を覆った。 「あのときの――」  その反応に、リゲルは内心胸を撫で下ろした。リゲルは王宮内でハルス王女とさほど頻繁に交流があったわけではないし、あの夜はハルス側からリゲルの姿は見えていなかったはずなので、自分のことを忘れられている可能性も十分あった。ハルス王女はヘラス王宮の中でも聡明な人物との評判だったが、どうやら記憶力も良い人物のようだ。  二人は一旦人流の邪魔にならない路肩に移動する。よく見ればひどく汚れた外套に身を包んだハルス王女は、人目を気にしてか、頭巾フードをあらためて目深に被り直した。 「……驚きました。話したいことは様々ありますが、その前に、まずは連れと落ち合わなければ。おそらく、そう遠くには行っていないはず……」  王女が辺りをうかがってそう言いかけたところに、ちょうどハルス王女と同じ外套に身を包んだ細身の若者が現れた。リゲルはその人物にも見覚えがあった。と言っても、彼と話したことがあるわけではなく、彼が王宮を訪問した際に警固に当たったのが自分だったという程度のことだ。彼の名は、確か……。 「……シャウラの、メイヴィス王子?」  身を潜めて王宮に向かうためにはどう考えても衆目を集めてはいけない場面であると判断し、意識して声を低める。名を呼ばれたメイヴィス王子のほうは、母親のカペラ女王と同じ薄花色の丸い目を見開き、外套の頭巾フード越しに、無言で隣のハルス王女と目を見合わせた。 *  宣言どおり、リゲルはいくらも待たないうちにアリエスの元へと戻ってきた。ただ、アリエスにとって予想外だったのは、彼が揃いの外套を身に着けた男女二人の旅人らしき人物を連れてきたことだった。二人とも、アリエスよりも少し年上――つまりリゲルと同じ年くらいに見えた。リゲルの隣にいる女性のほうは、頭巾フードを深く被っているせいで顔色は幾分暗く見えるものの、美しいアーモンド形の目を持っており、纏う雰囲気もやはり華やかでありながらも儚いアーモンドの花を思わせた。その隣の男性は涼やかで柔和な顔立ちをしていて、優しそうな青灰色の目の端が少し垂れ下がっている。この国ではあまり見られない銀と鼠色の中間のような髪の色が、隣の女性とちょうど反対色のように対照的だった。  しかし、もっと驚くのはここからだった。リゲルは周りには聞こえないように声を小さくして、アリエスに彼らのことを紹介した。 「ハルス王女様と、南の国のメイヴィス王子様……!?」  思わず声が大きくなりそうになって、慌てて両手で押さえ込む。目を丸くして瞬きを繰り返すアリエスに、メイヴィス王子は「きみが、協力者の魔術師さんだね。頼りにしてる」と微笑んで握手を求めた。ハルス王女とも握手を終えたところで、メイヴィス王子が横目で辺りを気にしながら小声で三人に提案した。 「ここから先は、店内で話そうか。往来よりは誰かに話を聞かれる確率が下がるし、あの騒ぎがあった後だからね。店内に残っている客も今は少ないだろう。比較的落ち着いて話せそうだ」 「そうだわ、この帽子も返さないといけないから、どのみち店内には戻らないと……」  アリエスがはたと気付いて、あの魔術師の男性から借りたままの山高帽に手を遣ると、メイヴィス王子とハルス王女が揃って目を丸くした。 「え、その帽子、きみのじゃなかったの?」 「似合っているから、てっきりあなたのかと思った」  王子様と王女様というから雲の上の人なのではないかと緊張していたが、二人とも思った以上に気さくな人物のようだ。あまりにも反応が同じだったので、今度はアリエスが目を丸くして、二人の王子と王女を交互に見比べた。 *  もしかしたらもう魔術師の男性は店を去ってしまっているのではないかと心配していたが、彼は変わらず同じ席で葡萄酒を少しずつ嗜んでいた。アリエスは客入りの疎らになった店内を横切り、真っ直ぐ彼の許へ向かう。 「魔術師さん。これを」  山高帽を差し出す。彼はアリエスを一瞥しただけで「ああ」と小声で呟き、山高帽を受け取って、またすぐに視線を目の前の葡萄酒に戻してしまった。 「あの……実は私たち、ある目的のために首都に向かっているんです。良かったら、力を……」  アリエスがそう言いかけると、彼はまた紅玉のような瞳でアリエスを横目に捉え、話を遮るように溜息をついた。 「また、王宮の手の者か?」 「え? ちが……」  アリエスが必死で首を横に振っても、魔術師は聞く耳を持とうとしない。 「私を魔術師と呼ぶのは、大抵は王宮の手の者だ。お前たちのような国軍の手先が、私を懐柔しようと何度もこの村を訪ねてきた。共に王宮に来ないか、とな。――確かに私の魔術の実力は国内でも随一だろう。だが、裏にどんな魂胆があるのかは知らんが、何人頭数を揃えて何度訪ねて来ようと、私は王宮などに協力する気は端から無い」 「そんな。まずは話を……」 「話を聞くまでもなく、お断りだ」 「…………」  俯いてしまったアリエスを見てリゲルが重ねて言い募ろうとしたそのとき、突然店内に火が付いたような子どもの泣き声が響いた。不穏な空気を敏感に感じ取ったのか、近くの席の婦人が抱いていた子どもが泣き始めてしまったようだ。婦人は「どうしましょう、肌着も替えたばかりだし、食事もお昼寝も済ませて、ついさっきまでご機嫌だったのに……」と困り果ててしまい、子どもを落ち着かせるために店内を歩き回り始めた。アリエスはそれを目で追っていたが、あることを思いついて子どもと婦人に近付いた。 「あの、すみません」  はい、とその場で立ち止まった婦人に向かって軽く微笑み、アリエスは子どもの顔を覗き込んで話しかける。 「ねえ、お姉ちゃんの手を見て。おもしろいものが出てくるよ」  アリエスは一度手を開いて見せて、その手をきつく閉じると、簡単な魔術を発動させる。子どもは泣くのをやめて、アリエスの手に注目している。アリエスが再び手を開いたとき、その掌の上には白い小ぶりなマルメロの花が一輪載っていた。更に、その花を中心に緩く風が巻き起こって、周囲に白い花弁の雨を降らせた。  樹木の精霊に力を借りる魔術は、アリエスが小さい頃から安定して得意としている数少ない魔術だった。子どもはみるみる目を輝かせて舞い落ちる花弁を追い、それを手に取ろうと、ふっくりとした小さな手を一生懸命空中に伸ばしていた。  アリエスがマルメロの花を子どもの手に握らせてやると、子どもは楽しそうに花を持った手を振って笑い声を立て始めた。それを見ていた婦人も、やっと安堵したというようにひとつ息をつき、優しい声で子どもに話しかける。 「お姉ちゃんにいいもの貰ったの。よかったね」  婦人は子どもが手を振っているうちに手放してしまった花の茎を持って、小さな白い花で子どもをあやし始めた。そして、お世話をかけました、とアリエスたちにお辞儀をして、子どもの機嫌が良いうちにと、急いで店主に銅貨を支払って店を出て行った。  アリエスが振り返ると、山高帽の魔術師が紅い瞳でじっと自分を見つめていた。 「……似ているな」 「え?」  アリエスは瞬きをして訊き返したが、魔術師は視線を床に散った白い花弁へと移し、それをしばらくただ無言で見つめていた。代わりにリゲルがその魔術師のほうに一歩踏み出す。 「会ったばかりで不躾なのは承知の上だが、協力してほしい。あんたの力が必要なんだ。おれたちは、あんたと同じ“魔術師”を倒すために王宮までの旅をしてる」  魔術師は訝しげに柳眉を吊り上げてリゲルを見遣る。やがて、根負けしたとでも言うように溜息をついて、背の高い男性特有の低い声で告げた。 「……二日後だ。二日後の同じ時間にこの店に来る。見当たらなかった場合、店主に『レムダ』と尋ねれば通じる筈だ」  レムダと名乗った魔術師は、それだけ伝えると早々と銀貨を卓に置き、店を出て行ってしまった。

3

 その夜、アリエスら四名は、ひとまず旅の資金を出し合って近場で宿をとり、互いが知っている情報を交換することにした。 「王女は、今度のことはどこまで?」  リゲルがそう尋ねると、ハルス王女は残念そうに首を振った。 「実は、渦中に在りながら、わたしも確証のある情報をほとんど持っていない状態です。勿論、ここまでの放浪の旅の中で“例の噂”は何度となく耳にしましたが、わたしを目撃したとか接触したという話が出回ることを恐れて、町の人にそれ以上のことを重ねて訊くのは控えていました。わたしを襲ってきたのは普通の短剣を持った男だったので、今回の件に魔術師が絡んでいるということすら、先ほどのあなたの話を聞いて初めて知りました」  だから国軍は他の魔術師を懐柔して反乱分子を摘み取るため、魔術師も同時に探していたんですね。王女はそう言って、軽く握った手を顎に宛てた。リゲルはええ、と頷く。 「首謀者または首謀者から命令を受けた実行犯にあたる人物は、間違いなくルーデスという魔術師です。おれは実際に見ました。ルーデスが、ディオクレイス王に向かって攻撃魔術を発動するところを」  ルーデスという名前を出したところでアリエスが少し反応を見せたが、リゲルは敢えてその点には触れないことにした。 「それで、あのかた……ディオクレイス様は」 「ルーデスは、王宮の北端の物見の塔に王を連れて行くように部下に指示していました。だから、少なくともひと月前の時点では、ディオクレイス様はそこに幽閉されていた可能性が高い。しかし、今は……分かりません」  リゲルがそう答えると、王女は「そうですか……」と息をついて軽く目を伏せた。 「おれたちはこれから王宮に向かい、ルーデスがやっていることを止めなきゃならない。だから、真実を証明する鍵である貴女をお探しする傍ら、魔術師ルーデスに魔術で対抗できる戦力を集めていました。まあ……今は魔術師の数も少ないので、唯一、この村に強力な魔術師がいるという話を頼りに、この“最果ての村”を訪れたわけですが」  なるほどね、と今度はメイヴィス王子が相槌を打った。彼はディオクレイス王への婚礼の貢ぎ物を運んでいる道中で偶然ハルス王女を見つけ、まずは情報を集めるために東の国への港を目指すことにしたが、その道中で崖崩れを避けて北側に大回りしたところこの村を見つけたので、情報収集と資金の調達を兼ねて数日滞在することにしたのだと話した。 「ともかく、そのルーデスという魔術師に対抗するには、より強力な戦力が必要だから、この村ではまず、レムダと名乗ったあの山高帽の魔術師を何とかして仲間に引き入れたい、ということかな」 「彼は我々に協力してくださるでしょうか。随分と意思が固い人物のようでしたが……」  王女が口にした懸念は、この場のみなが思っていることだった。リゲルが軽く息をついて首を横に振る。 「分かりません。でも、策を巡らせるのは性に合わない。二日後、正直にこれまでの経緯を話してみましょう。考えるのは、その反応を見てからだ」  一行は翌日一日を資金と物資の調達に充てることにした。リゲルとアリエスはリゲルが作った膏薬を売りに行き、代わりにメイヴィスとハルスは全員分の物資を調達する。メイヴィスらが保存用の木の実菓子の店に立ち寄ったとき、菓子店の主人らしき老婦がメイヴィスたちの顔を見て「おや」と何かに気付いたように話しかけてきた。 「あんたたち、もしかして、昨日レムダと話していた若造の仲間かね」  メイヴィスは慎重にハルスと目配せし合い、即答はせずに訊き返した。 「……それって、村の中で噂に?」 「いいや、ただアタシが昨日あの店に調理酒を仕入れに行ったときに見かけたってだけだよ。あの魔術師の坊主の人間嫌いは、ここいらでは有名だからね。あの坊主がこの村に棲みついてかれこれ十五年になるが、あいつが笑顔を見せるどころか、長く会話が続いた人間すらほとんどいないだろうね」 「レムダどのは、十五年前からずっとこの村で暮らしているんですね」  蜂蜜菓子の袋を受け取りながらハルスが相槌を打つと、老婦は片方の眉を上げて答えた。 「ああ。まだほんの子どもだったが、その頃から村の外れで一人暮らしをしていたらしいね。あやつはいつもわざと人目を避けて一人になりたがるような、偏屈な奴さ。まあ、うちにもずっとアーモンドの糖衣菓子を買いに来てくれるんで、そう悪くは言えないんだけどね」  店を離れると、手に入れたばかりの木の実菓子を袋から摘み食いしながらメイヴィスが呟いた。 「彼は、どうしていつも人との交流を避けているんだろう。単に、一人でいるほうが好きな人なんだろうか」 「どうでしょう……」  ハルスはレムダの鋭い眼差しを思い出し、微かな引っ掛かりを感じて考え込んだ。彼は誰かと似ているような気がする。以前、遠い昔に会ったことのある誰かに。いや、彼は自分とそれほど年齢が離れているようにも見えないから、気のせいなのだろうか。ハルスは何となしに、胸元に収めてある小さな麻袋を旅装の上からそっと触ってみた。  翌日の午前中、ハルスとアリエスは連れ立って、追加の生活用品を調達しに市場に出た。リゲルとメイヴィスも後から合流して、そのままレムダと待ち合わせをしているあの店に四人で向かうことになっている。  アリエスが空を見上げてみると、もうすぐ空の頂上付近に太陽が差し掛かろうとするところだった。太陽の周りを、二羽の巨大な鳥が相変わらず不気味に旋回している。この町の人々は、あの鳥のことを『魔鳥』と口々に呼んでいた。 「アリエス。あちらの店に……」  通りの反対側の店を眺めていたハルスに話しかけられて、アリエスが振り返ろうとしたときだった。重そうな積荷を持った作業員に偶然ぶつかってしまい、その衝撃で前によろけた。 「大丈夫?」  駆け寄って来てくれたハルスに、アリエスははい、と頷いたが、首元に違和感を覚えた。首飾りを衣の下から取り出して検める。見ると、旅の間に劣化してしまっていた鎖のひとつが切れてしまっていた。念のため確認したところ、貴石ほうせきは割れたり欠けたりはしていないようだったので、アリエスはほっと安堵の息をついた。 「壊れてはいない……よかった。でも、どうしようかな。出来ればこの鎖、直しておきたいですけど……」  首飾りの貴石ほうせきを身に着けていなくても魔術を行使できなくはないが、魔力の消耗率には大きく影響する。アリエスは一旦邪魔にならない場所に寄り、鎖の箇所を矯めつ眇めつして元に戻せないかと試みた。首飾りの中心に嵌まっているオリーブの葉の色の石が、陽光を反射してほんの一瞬だけ輝いた。――そのときだった。二人の下に素早く影が下りてきたかと思うと、次いで耳障りなほどの音圧の羽音がして、異常を認識する暇もなく、あっという間にアリエスの体は宙に浮いていた。いつの間にか巨大な鳥が下りてきて、アリエスの衣の後ろの紐を咥えて飛び上がったのだ。 「――いけない。アリエス」  ハルスが焦って手を伸ばしたが、指一本分間に合わなかった。そのときちょうどハルスの後ろにリゲルとメイヴィスも駆けつける。ハルスの声から、只事ではないと察して様子を見に来てくれたようだ。  だが、三人が揃ったところで、上空に連れ去られてしまっては為す術が無い。三人は恨めしく上空を見上げることしかできなかった。 「あれは……」 「“魔鳥”と呼ばれていた。おそらく王宮の手先だ。油断した」  リゲルは歯噛みする。そうしている間にも、魔鳥は巨大な嘴にアリエスを銜えたまま東の山を越え、ついに見えなくなってしまった。

4

 リゲルは息を切らして葡萄の形の看板の店を目指し、扉を勢いよく開けて店内を見渡した。約束の時間にはまだ早かったが、幸い、魔術師レムダは既に店内で葡萄酒を嗜んでいた。そこに近付く時間すらもどかしいと言うように、リゲルは大股で彼のもとに向かう。 「レムダ」 「何だ。葡萄酒を楽しむ貴重な時間の邪魔をするな」  レムダは葡萄酒の器のほうに目を落としており、リゲルのほうを見もしなかった。 「状況が変わった。助けてくれ。アリエスが――おれたちの仲間が魔鳥に攫われたんだ。行き先はおそらく王宮だ」  魔術師の数が減っている現在のこの国では、魔鳥を常時操れるほどの魔力を持つ魔術師はそう多くないだろう。リゲルの考えでは、今目の前にいるレムダ以外は、それこそルーデスくらいしか候補が思い当たらなかった。であれば、鳥が飛び去った方角も考え合わせると、やはりあの魔鳥は真っ直ぐ王宮に戻るように訓練されている可能性が高い。 「私には関係の無いことだ。態々わざわざこの村を出て私が出向く必要性は無い」 「そんなことを言ってる場合じゃない。頼む」 「王宮など願い下げだと言っている。兄を奪った・・・・・王宮になど――その地を踏むことすら忌々しい」 「え……?」  いつの間にかメイヴィスとハルスもリゲルの背後に追いついて話を聞いていた。レムダは口が滑った、と言わんばかりに秀麗な顔を歪ませ、決まり悪そうに視線を外す。 「……あんた、自分はこの国随一の魔術師だって言ってたな。だけど、おれはあんた以外にもう一人、強力な魔力を持つ魔術師を知ってる。それが王宮にいるルーデスだ。なあ、知りたくはないか。あんたとルーデス、一体どちらの魔術が上なのか。それを証明するためには、王宮に行って直接対決するのが一番簡単なんじゃないのか」 「…………」  レムダの片眉が上がった。リゲルの話をまだ怪しんでいるらしい。紅玉の瞳がリゲルをじっと見据える。そのまま十か二十を数えた頃、レムダはついに腰を上げた。 「私は力比べなどに興味は無いが……良いだろう。今回限りだ」 「ああ。恩に着るよ」  そうと決まってからは早かった。レムダは外套を翻し、さっそく店の裏手に集まるよう三人に指示した。 「……こんなところに来て、どんな魔術を?」  メイヴィスが辺りを見渡して訊くと、レムダが王子を一瞥して答える。 「特段、ここである必然性は無かったが、こういった場所ならば“居る”可能性が高いからな」 「“居る”? 誰が……」  リゲルが尋ねる前に、レムダはそこらの塀の上をのんびりと歩いていた白い烏を鋭い目で見遣る。そして躊躇無くそれを掴まえ、反対の手で素早く杖を取り出して何事かを呟いた。すると、三人が見ている前で白い烏の体が一回りも二回りも大きくなり、ついには魔鳥と同じくらいの大きさになった。この大きさの鳥であれば、背中に人間二人くらいは乗せられそうだ。 「まさかとは思うが……空路か?」  あまりに突飛な展開に、リゲルの声が少し裏返った。 「そのまさかだ。……但し、その魔術師とやらが本当に私に比肩するほどの実力の持ち主であれば、この手札を切れるのはおそらく一度きりだ。二度は通用せん。空から攻めてこられる可能性を示してしまえば、相手は必ず対策を講じてくるだろうからな」  それはリゲルも同感だった。あの国軍のことだ、今まで以上に王宮上空の防備を固めてくるに違いない。だが、その不利益を飲み込んだ上で、それでもリゲルらには躊躇っている暇は無かった。 「……分かった。行こう」  相談の結果、いくらアリエスを奪還するためとはいえ、流石に現時点でハルス王女が王宮に近寄るのは危険性が高すぎるという判断から、リゲルとレムダ、メイヴィスとハルスで別行動をとることになった。メイヴィスらはこの村で馬を借りて陸路で東へ向かいながら情報を集め、またこの村で集合する算段だ。  リゲルは魔術をかけられた巨大な白い烏に近付き、「王宮まで頼むよ」と首筋をひと撫でした。 *  アリエスは最初は恐怖で声が出せなかったが、しばらくして慣れてくると、周りを観察する余裕も生まれてきた。おそるおそる頭上の鳥の頭を見上げ、物は試しにと、彼または彼女に話しかけてみる。 「……ねえ。まさかこの状況で無理に逃げたりはしないから、せめて背中とかに乗せてくれない?」  何処に連れて行かれるのか分からないという不安も然ることながら、それよりも先ほどから衣の背中側の紐をずっと銜えられているので、流石に腹部の圧迫がそろそろ限界だった。大きな鷲のような鳥は言葉こそ喋らなかったものの、人間の言うことは通じているのか、金色の鋭い目で大変面倒くさそうにアリエスを一瞥し、いきなり梃子の原理で嘴を振って、彼女の要望通り背中に乗せてくれた。少々雑な扱いではあったが。  鳥の羽毛の上でしばらく体勢を整え、慣れた頃に再度辺りを見回してみると、秋の短い日はもう完全に沈んでしまって、早くも宵闇が迫っていることに気付いた。アリエスは落ちないように気をつけながら眼下の町を見下ろしてみた。フォーマルハウト村とは比べ物にならないほど住居や店の数が多いところを見ると、相当に栄えた町のようだが、辺りが暗くなり始めても、魔鳥を警戒してか、常夜灯を点けている家はただの一軒も見当たらなかった。町や村に灯りが点っていないということは、どんなにか寂しいことだろうとアリエスは考えた。  それからほどなくして、今まで見たことがないほど大きく立派な建物が行く手にどんどん近付いてきたかと思うと、巨大な鷲はアリエスをその中の一室に窓から直接放り込んだ。予備動作も何も無い突然のことだったので反応が遅れ、アリエスは石造りの冷たい床に反射的に手をついた拍子に、手首をおかしな方向に捻ってしまった。 「痛……」  手首を反対側の手で庇って撫でながら、窓の外の鳥を見上げる。彼または彼女はアリエスの抗議も意に介さず、そのまま素っ気ない態度で何処かへ飛んで行ってしまった。  アリエスはやっと立ち上がり、開いたままの窓の縁に取り付いて下を眺めてみた。よく手入れされているように見える立派な煉瓦づくりの地面が遥か下のほうに見えた。ここは自分が今いる建物の中でも相当な上階に位置するらしいと仮説を立てる。  次に、小さな冷たい部屋の中を見回してみた。窓の反対側に、錆びた鉄の扉がひとつ。真っ先に鍵の有無を確認したが、やはりと言うべきか、扉には厳重に鍵がかかっており、その鍵もこの部屋の中には見当たらなかった。  つまり、ここから脱出しようと思うと、この小さな窓からということになる。アリエスは思案した。もし怪我が無い状態であれば、自分自身に風の魔術をかけて壁づたいに少しずつ少しずつ降りてここから脱出することはおそらく不可能ではない。ただ、その最中に誰かに見つからない保証など無いし、その前に、腕で体の重さを支えなければならない場面ではどうしても腕や手首に負担がかかる。となると、現状、それは無茶な話だ。痛めた手首をさすりながら、アリエスは溜息をつくしかなかった。  右手に見える錆びついた冷たい扉を横目で見遣る。きっと、いくらもしないうちに、あの鳥にアリエスを攫わせた人間があの扉から入ってきて、アリエスに対して囚人同様の扱いをするのだろう。敵の目的が何であれ、拷問を受けたり殺されたりしないという保証はどこにもない。そう考えると、この突飛な状況への驚きと戸惑いに押し隠されていた恐怖が急に襲ってきた。無事なほうの右手で反対の二の腕をさすると、自分の体がすっかり冷え切っていることに気付いた。  アリエスは部屋の隅に積んであったくすんだ藁色の襤褸布を肩に羽織り、膝を山型に折って、硬い壁を背凭れ代わりに座り込んだ。窓の向こうに、人が点しているらしい松明の灯りがいくつか揺れている。この部屋に放り投げられる前に一瞬見えた建物の壮麗さと、その周囲の庭園の広大さから、ここがおそらく王宮か、またはその近隣の土地であろうことはアリエスにも予想がついた。 「……それなら、もしかすると、師匠ルーデスもこの建物のどこかにいたりするのかしら……」  せめて自分の声でも聞いて少しでも不安を拭おうと、思わず独り言を零す。すると、思ってもいなかったことが起こった。アリエスが背を凭せかけている石壁の向こうから、大きめの物音が聞こえたのだ。アリエスは思わず飛び上がった。 「誰。誰かいるんですか」  心臓が跳ねるのを抑えながら、震える声でそちらの方向に話しかけてみる。 『ああ、すまないね。怖がらせてしまったかな。思いがけず友人の名が聞こえたものだから、驚いて湯呑みを落としてしまったんだ』  どこか親しみとあたたかさを感じる男性の声だった。まだ若い――とはいっても、アリエスよりは年上の大人の男性だろうが――青年の声のように聞こえた。 「……あなたは、誰?」  アリエスは声を小さくしたまま、重ねて尋ねた。隣の部屋の青年はたっぷり十を数えるほど押し黙った後、『……答えられない』と申し訳なさそうに返して寄越した。アリエスには寧ろその答えが何よりも雄弁に青年の正体を語っているように思えてならなかった。 『きみは、彼を知っているのかい。魔術師ルーデスを』 「……只の知り合いです。昔、少しだけ交流があったの」  隣の部屋の声の主がアリエスの予想どおりの人物である確証は無いし、また、自分たち以外の誰がどこで聞き耳を立てているか知れない以上、早合点で迂闊なことは喋らないほうがいいだろう。その懸念がアリエスの言葉選びを一層慎重にさせていた。声の主は『そうか』とだけ答えた。 『ルーデスは、私の友人だったんだ。……そう思っていた。ふた月ほど前まではね』  青年の声は、ルーデスのことを過去形で語った。アリエスが何も答えられずに黙っていると、青年はそのまま話を続けた。 『私が愚かだったんだ。彼が強力な魔術師であることをすっかり忘れて、本来あるべき警戒を怠った。それだけだ』  本気で自嘲しているような響きだった。 『お嬢さん。ついさっきここに連れて来られたということは、それまでは外に?』  アリエスはええ、と頷く。 『それなら、もしかして、紅鳶色の巻き毛に琥珀色の瞳の若い女性が今どこでどうしているかを知らないだろうか。私の婚約者なんだ』  看守の中に協力的な者がいて、今のところ王宮内や町の様子については断片的に情報を仕入れることができているが、彼女の足取りだけが未だに掴めずにいる――彼は切実な声色でそう説明した。  アリエスの脳裏に、ある女性の姿が即座に思い浮かんだ。彼女の髪は紅鳶色よりももっと濃い茶色に近いように見えたが、確か、今は髪の色を少しでも隠せるように草木染めをしていると言っていなかったか。それなら、もしかしたら彼女の元々の髪の色は紅鳶色に近いかもしれない。そして、彼女の瞳は少し榛の混じった琥珀色だ。  アリエスは、動揺して指が震えているのを相手に悟られないように努力せねばならなかった。初めは仮説でしか無かった予想が、だんだん真実味を帯びているのを感じていた。 「あの……」  そう言いかけたところで、アリエスの耳に羽音が届いた。随分大きな羽音だ。さすがに尋常でないものを感じ、アリエスは反射的に立ち上がって窓のところに駆け寄る。 「リ……」  思わず叫びそうになり、慌てて両手で口を押さえた。窓の外に見えたのは、魔術をかけられたのだろうとひと目で分かる巨大な烏と、その背中に乗っているリゲルの姿だった。烏の羽根は、宵闇によく映える純白だ。 「よかった。やっぱりここだったか」  リゲルはそう言いながらアリエスに向かって片手を伸ばし、烏の背に上がってくるように促した。アリエスははっとして「待って」とリゲルに一言断ると、小部屋の左側に駆け寄って壁に片手を当て、隣の部屋の青年に話しかける。 「……彼女は無事です。今、私たちと一緒に行動しているの。彼女と一緒に、必ずあなたを助けに来ます。だから、また会えるって、信じていてください」  薄い壁の向こうで、青年が息を呑む気配がした。 『きみは……』  アリエスはそれには答えずに、簡単な挨拶をして窓のほうへと駆け出す。そのまま助走をつけて窓の縁に飛び乗り、リゲルの手を固く握った。もう躊躇いは無かった。リゲルはそのままアリエスの体を引き寄せ、白い烏の上で均衡を失わぬように慎重に体勢を整える。そうしながらも、アリエスは反射的に後ろを振り返ってみた。あの青年の声が言っていた通り、アリエスがいた部屋の隣室にあたる場所には窓は無いようだった。リゲルが烏の首筋を二度叩いて宥めようとしながら言った。 「急ごう。レムダが先にこの烏こいつから下りて、下で見張り役をしてくれてる。ついでにルーデスを探しに行くんだと」 「レムダ……あの魔術師さんが?」 「ああ。――詳しい話は後だ。見張りの奴らが気付く前に、王宮の警備の手が及ばないところまで飛ばなきゃならない」  白い烏は二人の会話を理解しているかのように懸命に羽を羽ばたかせ、俄かに飛行速度を上げた。アリエスはリゲルに掴まったまま、下を見下ろしてみた。リゲルもつられて下を覗き込む。すると、目につく人影があることに気付いた。最初はレムダかと思ったが、その人物はレムダのような目立つ金の髪ではなく、肩までで切り揃えた深い茶色の髪を持っていた。なぜその人物に目が行ったのかというと、兵士たちのような鎧を身に着けておらず、長衣に紫色の上衣ヒマティオンという、王宮の官吏としか思えない格好をしていたからだ。見るからに身分の高そうなその男性は、ちょうどこちらを振り返り、上空の巨大な白い烏を目で追っているように見えた。 「カリオン大臣……?」  リゲルが訝しげに呟いた。 「大臣?」 「先々代――オルクス様の時代からのヘラスの重鎮のひとりだ。前王ケイロス様の時代には、実質的に内政における王の右腕と呼ばれるところまで上り詰めたらしい。……そんなお偉方が、なんでこんな時間にこの塔の付近にいるんだ?」 「……もしかして、見張っているの? 王様を……」  アリエスは自分でも知らないうちに、リゲルにともカリオン大臣にともつかない疑問を口にしていた。その声はちょうど風の音と羽音に掻き消されて届かなかったらしく、リゲルからの返答は無かった。二人を乗せた烏は一層速度を上げて、そのまま全速力で空を泳ぎ始めた。 *  レムダは王宮内の目立たない木陰から空を見上げ、少女の奪還が叶ったことを察すると、手近な黒い烏に魔術を施し、人知れずその背に乗って飛び立った。眼下には、自分に対して眉を顰めさせるのに十分な場所――忌々しき壮麗な王宮、そのほぼ全容が広がっている。  力比べをする気はない。そうリゲルに語った言葉はレムダの本音だった。ただ、少しだけ興味が湧いた。自分に匹敵すると評されるほどの魔力を持つ男はどんな人物なのか。どんな目をしているのか、自ら確かめたいと思った。しかし、そのルーデスはちょうど今日地方の視察に出発したと見張りの兵士たちが話していたのを聞いた。  ――縁が無かったのであればそれまでか。これ以上の深追いは止そう。そも、今更他者に興味を抱くなど、私らしくもない……。  レムダは長い溜息をつき、上空の白い烏を見失わぬように紅い瞳で鋭く見据えた。 *  白い烏は闇夜の中を真っ直ぐ正確に飛び続けて、真夜中に差し掛かる前には“最果ての村”まで辿り着いた。白い烏が飲み屋の前にゆっくりと着陸したあと、少し遅れて、黒い烏の背に乗ったレムダが無事着陸した。  烏たちにかけた魔術を解いてやっている途中で、ちょうどメイヴィスとハルスも現れた。馬を借りて東のほうに調査に出ていたが、馬を返してきたところらしい。ハルス王女はアリエスの姿を見つけると息を呑み、外套ごとアリエスを抱き寄せた。 「おかえりなさい。無事で本当によかった……」  ハルスはアリエスよりもほぼ頭ひとつ分背が高いので、抱きしめられるとアリエスの耳のところにハルスの緩く巻いた毛の先が当たって、少し擽ったかった。そうしているうちに、アリエスはハルス王女に真っ先に伝えなければならないことを急に思い出し、彼女の耳元で囁いた。 「……私が囚われた王宮の塔のなかに、王様がいらっしゃいました。お声だけしか聞くことができなかったのだけど、たぶん、確かだと思います。少なくとも、話が出来ないほどの大きなお怪我などは無さそうで……それで、あなたの身をいたく案じていらっしゃいました」  ハルスははっとしてアリエスから身体を離し、「本当に?」と一言だけ尋ねた。アリエスが王女の琥珀色の目を見上げて大きく頷くと、彼女は両手で顔を覆い、足に力が入らなくなってしまったのか、その場でゆっくりと両膝をついて座り込んだ。アリエスもハルスの腕に手を伸ばしてその場にしゃがみ込む。隣にいたメイヴィス王子が、宥めるように王女の背を軽く撫でた。アリエスも、何だか綱渡りだった今日一日の緊張の糸がやっと解けたような気持ちになり、ほっと息をついてメイヴィス王子と微笑み合った。  ふと、アリエスの背後に誰かが近付いてくるのを感じた。立ち上がって振り返ってみると、そこに立っていたのは松明の灯りを携えたレムダだった。彼は相変わらずの無表情でアリエスの手元の辺りを見遣り、次の瞬間、大きな冷たい掌で彼女の左腕を掴んだ。 「見せてみろ」  言われるがままに胸の辺りまで左手を掲げてみて、アリエス自身が一番驚いた。思ったよりも酷く捻っていたらしく、手首の一部分がいつの間にか赤紫色に変色して腫れ上がっている。傍で見ていたリゲルも異変に気付き、レムダに掴まれたままのアリエスの手首に触れた。 「これは……なるべく動かさないように添え木をしたほうがいいな」  すると、レムダはリゲルの意見に珍しく素直に同意して、次の瞬間、驚くべきことに、「ついて来るといい」と外套を翻した。アリエスたちは最初、何を言われたのか分からず、そこから動けなかった。レムダは呆けたように自分を見つめている四人を怪訝な目で見返し、聞こえなかったのかと言わんばかりの表情で大変面倒そうに説明を続ける。 「怪我人の手当ても兼ねて、今夜の仮眠用の寝床くらいは用意してやる。……但し、お前たちに関わるのは今夜で最後だ。空路の選択肢が潰された以上、陸路の長旅になる。それに付き合ってやるほど暇ではないのでな」  一方的にそれだけ言うと、レムダは先頭に立ち、早足で西の山のほうへと歩き始めた。

5

 村の西側の鬱蒼とした森を抜けた先にたった一軒佇んでいるのが、魔術師レムダの住処だった。その家は一人暮らしのわりには部屋数が多く、見ようによっては邸宅と呼んでも差し支えないのではないかと思われた。四人が皮袋かばんの中身を整理して就寝の準備をしているうちに、レムダは簡単な粥を作ってくれた。具は少なくて味付けも薄かったが、温かいものを振る舞ってもらえるというだけでこの上なく有難かった。アリエスは食卓の席について人心地つくと、あらためて助けに来てくれたことへの感謝を重ねた。  就寝前の軽い食事の席での主な話題は、やはり今日一日――正確には半日ほどの間に起こった出来事についてだった。 「それにしても、どうしてアリエスが狙われたんだろう。特に目立つ格好をしていたわけでもないだろうに」 「攫われる前後に、何か変わったことはあったか」  細長い匙で粥を少しずつ口に運びながらレムダが尋ねた。 「変わったこと……」 「そういえば、首飾りを確認していなかった?」  ハルスから水を向けられ、アリエスは「そうだったわ」と言って、懐から鎖の切れた首飾りを取り出して掌に載せた。 「人とぶつかってしまったから、貴石ほうせきが割れていないかどうか、念のため確認していたんです」  その途端、話を聞いていたリゲルとレムダがはっとして顔を見合わせた。 「……光りもの?」 「魔術を込める貴石ほうせき。それが狙いか」  メイヴィスもそれで話の筋が読めたらしく、匙を動かす手を止めて沈思した。 「そうか。鳥が光りものに反応する性質を利用して、光る石を目印に人間を攫ってくるように調教していた?」 「ということは、魔鳥が探していたのは魔術師だな。たまたま貴石ほうせきを取り出した一瞬の隙を突かれたってわけだ」  リゲルは最初に立ち寄った町の人たちが話していたことを思い出して得心した。“裕福な婦人ばかり狙われる”というのは、日常的に宝石を身に着けているような人物が狙われていたということなのだ。  では同じ魔術師のレムダは今まで狙われなかったのかとアリエスが尋ねると、レムダは魔力を扱いやすくする貴石ほうせきを使っていないとの返答だった。彼が懐から取り出して見せてくれた杖には、先端付近に貴石ほうせきを嵌めるための窪みが設けられていたが、確かに今はそこには何も嵌め込まれていなかった。  リゲルが湯気の立つ粥を大口で頬張りながら、そういえば、と思い出したように次の話題を投じた。 「烏に乗って塔から飛び立つときに、妙なものを見た。内務官のカリオン大臣だ。あんな高官が、どうしてあんな時間にわざわざあんなところに一人で居る必要があったんだ?」  それを聞いてアリエスもそのときの光景を思い出し、改めて自分の考えを伝えてみる。 「……大臣は、王様があの塔にいらっしゃることをご存知なんじゃないかしら。そして、それはごく少数の共犯者しか知らないことだから、部下に命じるのではなく、自分で監視に行くしかなかったとか」 「そう考えるのが自然か。確か、ルーデスは派閥で言うとカリオン派だ。“時空のうろ”の対策でルーデスが王宮に召集されたときに後見人としてカリオンに世話になって以来の縁らしいって、古参の衛士しごとなかまから聞いたことがある」  リゲルがそう言って頷いたところで、別行動をしていたメイヴィスも、思い出した、と言って口を開いた。 「ヘラス王宮絡みの不審なことと言うと、こちらでも情報があったよ。馬で東の山を抜けて港のほうに向かおうとしたんだけれど、すれ違った老人が忠告してくれたんだ。なんでも、港の付近できな臭い動きがあって、調査のために焔の国ラダニエからの船が港に入れないように閉港措置をしているから、港には近付かないほうが良いって。念のため、隣の村まで足を伸ばして人に聞いてみたんだけど、大体同じ答えだったね。今はエフィルス様とセルバンテス大臣が外交のためにラダニエに渡っていらっしゃって、婚礼に合わせて帰国する予定だったけれど、それが出来なくなりそうで、国際問題に発展しかけているらしい」 「エフィルス様とセルバンテス様が……?」  リゲルは考え込んだ。エフィルスは前王ケイロスの弟にあたり、近年はディオクレイスの後見人として特に外交の分野で存在感を示した官吏である。セルバンテスはヘラス古参の大臣だ。ディオクレイスがまだ若い時分には、王子を支えて実質的な政の実権を執っていたのがこの二人とカリオン大臣だった。しかも、確かに冬が近づけば航海が危険になるため港は閉鎖される場合が多いが、まだその時期ではないことは明らかだった。 「そう聞くとますます怪しいな。調査中なんていうもっともらしい理由を付けてまで彼らを足止めするってことは、今お二方が帰国なされたらまずいと言っているようなものだ。そして、カリオン大臣は東の港を一時閉港するだけの権力を十分に持っている」  ふむ、とメイヴィスが相槌を打つ。 「だいぶ全貌が見えてきたね。王を捕えるのも、魔鳥を放つのも、その大臣がルーデスに命じていたことと考えれば納得がいく。あとは、魔鳥に攫われてあちら側陣営に有利な領域に持ち込まれるのを避けながら、シャウラの使節団が待つ林の中まで辿り着ければ……」  そこまで話がまとまったところで、空腹が満たされたのと安心感で流石にぽつぽつと皆の欠伸が多くなり、めいめい就寝準備をして寝床に向かうことにした。  ハルスは明け方近くの時間になって目が覚めてしまい、水を貰いにそっと厨のほうへ下りて来た。その途上で人影を見つけた気がして立ち止まる。小さな灯りしか点していないにもかかわらず、薄闇にも映える淡い金の髪。レムダだった。ハルスは声を掛けるかどうか迷ったが、ハルスが立てたわずかな物音と視線の気配でか、レムダはあっさりとこちらを振り向いた。  レムダは自分のぶん以外に取っ手付きの器をもうひとつ持ってきてハルスの前に置き、そこに薄い蜂蜜湯を注いでくれた。ハルスは礼を伝えて器に口をつける。薄めてあるとはいえ、液体の熱さも相俟って、灼けるような甘さが喉を通り過ぎていった。その甘さを十分味わってから、意を決してひとつ息をつき、懐から麻の小袋を取り出した。 「……あなたに、渡したいものが」  そう言って、卓の対面のレムダに麻の小袋を手渡す。自分でも分かるほど指が震えていた。袋を渡すときに一瞬触れたレムダの指は、氷のように冷たかった。  レムダは片眉を上げて訝しみながらもわりあい素直に小袋を受け取り、中身を検めた。袋に入っているのは、親指の先ほどの大きさの紅い貴石ほうせきだった。レムダと瞳と同じ色の――。 「今日の昼間、アリエスから聞いたんです。魔術師は大体みんな、魔力を扱いやすくするために、自らの瞳と同じ色の貴石ほうせきを持っているものなんだって。……それで、確信しました。これはきっと、あなたのものだったんだと。それなら、お返ししなければと思って」  聞きながら、レムダは紅い貴石ほうせきを灯りに透かして矯めつ眇めつし、それから杖を取り出して、その先端の窪みに嵌め込んだ。貴石ほうせきは誂えたように――いや、実際、この石の形に合うように誂えたのだろうが――隙間なくぴったりと嵌まっていた。 「何故だ」  レムダは短く訊いた。ハルスは蜂蜜湯をひとくち飲んで軽く唇をしめしてから話し始めた。 「十二年前、わたしがまだほんの子どもの頃のことです。故国ラダニエの王宮に何者かが侵入し、当時の王が弑されるという事件がありました」  言うまでもなく、ハルスの父にあたるデモクラトス王のことだ。レムダも同じ人物を思い浮かべているらしく、特に疑問も差し挟まずに、蜂蜜湯を一口分飲み込んで無言で頷いた。 「その夜、騒ぎで目が覚めてしまって、どうすればよいか分からずに王城内を徘徊していたわたしは、急に腕を引かれて物陰に引っ張り込まれました。見上げると、見たことのない装束の青年がわたしを背後から抱きかかえていました」  ――彼は言った。『まだ人間が残っていたのか……。あちらには行かないことだ』  彼が目線で示した先は、確かに既に炎がまわっていて、いつ壁や天井が崩れ落ちるかも分からないような状態だった。まだ七歳だったハルスは、黙って素直に頷いた。 『おにいさん、誰?』  そう訊いても青年は名乗らなかったが、しばらくの沈黙ののち、どこか諦観と自嘲の滲む低い掠れ声で、ぽつぽつと雨粒を落とすようにハルスに語った。 『俺は……許されないことを為そうとしている愚かな男だ。ただ、個人的な復讐のためにな。……こう言っても、お前の年齢ではまだ解らないだろうが』  ハルスは難しい顔をしてアーモンド形の目で青年を見上げ、彼の言葉を咀嚼しようと試みた。それを見ていた青年は、ふと何か思いついたように懐に手を入れて、ハルスの白い手に小さな麻袋を握らせた。それは子どもの小さな手に収まるほどの大きさで、使い込まれているためか袋の表面がざらざらしていた。  ハルスがいくつか瞬きしてまた青年を見上げると、青年は唇の片端だけを僅かに上げた。 『これも縁だな。護身守の代わりにでも持っておくといい。俺にはもう、それを持っている資格が無い。幼い弟が俺の無事を祈って託してくれたそれを持つ資格が』 『…………』  ハルスが何か問おうと口を開く前に、青年は立ち上がって、滑るように物陰から出て行ってしまった。彼がゆっくりと歩いていった方角は、ハルスの記憶が確かであれば、国王の寝所・・・・・――今しがた青年自身が危険だとハルスに忠告した、炎の燃え盛る一角だった。 「……その青年は、我々の国ラダニエには珍しい、銀の髪に青い瞳。あなたと同じように驚くほど美しく、驚くほど長身で……そして、あなたとそっくりな切れ長の鋭い目が特徴的でした」  ハルスは目の前の金の髪の青年の紅い瞳を見つめて、そう話を終えた。  レムダは掠れた声で「そうか」とだけ答えた。 「……のちに、その青年が王を弑した犯人で、王と相討ちになって命を落としたと聞きました」  ハルスの声音はどうしても硬くなった。デモクラトス殺しの犯人の青年を恨んでいるからではない。目の前に座っている人間にとって大事な人が亡くなったときの話をしなければならないからだ。その内心を知ってか知らずか、レムダは逆に声の調子を和らげ、昔を懐かしむように遥か遠くを見つめて応えた。 「私は、歳の離れた兄に育てられた。親代わりのようなものだった」  たった一言だった。その言いかただけで、レムダがどれほど兄を慕っていたかが解った気がした。ハルスは目の前の青年の横顔を見つめ、黙って頷いた。実を言うとハルスには、デモクラトスが自分の父親だったという実感があまり無い。直接話をする機会すら、数えるほどだった。肉親を亡くしたという一点だけを抜き出せばハルスとレムダの境遇は似通っているとも言えるのだろうが、家族の死を当たり前に悲しむことができるレムダと自分はやはり違うのだとハルスは思わざるをえなかった。  ハルスはまるで懺悔のような気分で、蜂蜜湯の器に視線を落として続ける。声が細く小さくなっていくのを感じた。 「あなたがあの青年の肉親だと悟ったとき、貴石ほうせきを渡してこの話をすることを躊躇いました。あなたの兄上の命を奪った人間の娘として、恨まれているだろうかと」  すると、レムダはしばらく沈黙したのち、脇息に腕を預けて頬杖をつき、切れ長の目を僅かに細めて苦笑した。 「そうやって、自分自身の責任ではない事にまで罪悪感を覚えて生きるつもりか。さぞ、息が詰まるだろうに」 「…………」  その言葉どおり、息が喉の奥に詰まってしまいそうだった。ハルスは自分でも初めてそれを認識した。  目を白黒させて彼を見つめているハルスを余所に、レムダは立ち上がって、木の棚の上の小物入れから小さな装飾玩具を取り出す。桃色の砂糖菓子を模したそれを、戯れに掌の中で転がしてみた。 「……まじないというのも、なかなか馬鹿にできないものだな」  自分にしか聞こえない大きさの声でそう呟くと、五年前の記憶の中のあの妙な格好をした少女が、満面の笑顔で「ね、そうでしょう?」とレムダに話しかけているような気がした。  部屋の東の高窓に目を遣っていた王女が、夜が明ける、と呟いた。秋の遅い朝のほの明るい朝陽は、ハルスの緩く巻いた赤銅色の髪と琥珀色の瞳を、レムダの金の髪と白い肌を、簡素な木の卓と蜂蜜湯の入った器を順に照らしていった。ふたりは揃って同じ方向を向いて、しばらく窓の外を眺めていた。  朝陽がすっかり昇りきった頃、最初に支度を済ませて寝所から出て来たのはアリエスだった。おはようございます、と言うと、起きてきたか、とレムダからの声が返る。アリエスは朝支度を続けるレムダをしばらく見つめ、もう一度だけと念押しで声をかけてみた。 「ねえ、レムダ。昨夜、私たちに協力するのはこれが最後って言っていたでしょう。本当に、私たちと一緒に来る気はない?」  それを聞いて、レムダは感情の読めない切れ長の目をアリエスに向ける。そして、彼女の質問には答えず、目を伏せて独り言のように呟いた。 「『神力しんりょくは血に宿り、魔力は才覚に宿る』」  思ってもいなかった一言にアリエスは目を見開く。しかし、すぐにルーデスから教えられた言い伝えを思い出し、神妙に頷いた。 「聞いたことはあります。私は魔術師が多い村で生まれたらしいから、もしかしたら父か母が魔術師だったのかもしれないけれど……一般的には、魔力の発現は血筋とは関係ない突然変異に近いものだって」 「突然変異、か。……私がそうだった。私と十歳上の兄は、共に神と人との混ざり子、半神だ。だが、魔力が発現したのは私だけだった。神力しんりょくによって魔力が異常増幅された結果、私は子どもの頃から、他のどんな魔術師でも敵わぬほどの膨大な魔力を操ることができた」  アリエスは旅装を留める肩の飾りピンフィビュラに遣った手を無意識に止めて、レムダの話に耳を傾けている。 「だが、魔力は私にとって幸福な贈り物ではなかった。強すぎる神力しんりょくの影響で、私は食事も睡眠も他の人間と比べればほとんど必要としない。他の大多数の人間に共感できたことはなかった。私と似た人間は誰もいなかった」  レムダはそう言うと、外出用の山高帽を徐に手に取り、あの三日前の出会いのときのように、軽い動作でアリエスの頭に被せる。そして、取り出した杖の先でごく軽く帽子に触れた。杖の先の窪みには、いつの間にか彼の瞳と同じ紅い石が嵌まっていて、その石が一瞬淡く光った。すると、アリエスの身体は音も無く消え始め、とうとう腕も足も完全に透明になってしまった。けれど、意識ははっきりしていて、物を見ることも音を聞くこともできるのが不思議だった。 「この帽子にはこのような機能がある。現在はよほどのことが無ければ発動させないが、子どもの頃はよく使ったものだ」  アリエスを奪還する際に見張り役を引き受けたのも、もし役割を逆にした場合にリゲルがその場から逃げる手段が失われてしまうという点が大きいが、この隠れ帽子が有利に働くことも理由のひとつだったとレムダは語った。なるほど、このように姿を隠す術があれば、誰にも気付かれずに情報を得たり対象者を見張ったりすることが可能になる。そこまで考えて、アリエスはふと頭に浮かんだ言葉をぽつりとそのまま口に出した。 「……子どもの頃のあなたは、誰にも気付かれない存在になりたかったのかな」  レムダは答えなかった。それが答えだった。言葉を発する代わりに、もう一度帽子に杖で触れて魔術を解く。アリエスが自分の腕や足を確認しているうちに、一体どこから聞いていたのか、いつの間にか談話室の入口にリゲルがいることに気付いた。アリエスはリゲルの姿を見た瞬間、あのフォーマルハウト村の外れの森で彼に告白したことを思い出し、意を決して深呼吸してからレムダに話しかけた。 「私の魔術の師匠は、ルーデス・エヴィアです。……と言っても、ほとんど魔術の制御方法しか教わっていないようなものだけど。でも、私は彼の弟子です。だから、彼が間違ったことをしているなら、止めに行きたいの。一緒に来てくれませんか」  レムダの瞳がアリエスの丸い瞳を捉えた。これほど長い時間目が合ったのは初めてだった。やがて彼は無表情のまま細く長い息を吐き、二人に背を向けて奥の部屋に向かおうとする。アリエスとリゲルがそれを引き留めようとしたところで、レムダは急に振り返ってこう告げた。 「旅支度を整えねばならない。――出発は正午過ぎ。他の二人にも伝えておけ」  アリエスとリゲルは同時に息を呑み、顔を見合わせた。リゲルはレムダの背中に向かって言いかけた。 「レムダ。あの店で、あんたの力が必要だって言ったけど、取り消すよ。おれたちには、あんたが必要だ」  レムダは一瞬視線だけで振り返り、微かに鼻を鳴らして、扉も閉めずに奥の部屋へ退ってしまった。

第四章:ルーデス・エヴィア

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 魔術師レムダを加えた一行は、魔鳥や国軍の兵士に見つかることを避けるため、敢えて森の深い道を選んで旅を続けた。人通りの無さそうな街道を通過するときは馬や驢馬を借りて距離を稼ぐこともあったが、極力繁華街は避け、森の中の獣道を選んだ。  森の中では、五人の中で最もヘラス内の地理に詳しいリゲルが先頭に立って道を切り開き、その後ろにつくメイヴィスがアリエスとハルスを振り返ってこまめに確認しながら進む。ハルスは暫くの間左手首を庇って行動せねばならないアリエスを気遣い、一列に並ぶ必要がある細い道以外では常にアリエスの左側に付いていてくれた。殿は、魔術で不測の事態に対応しやすいレムダが務めた。  木の根が曲がりくねって草の間に隆起している足場の悪い箇所に差し掛かったとき、足元で高く短い鳴き声がしたので、メイヴィスは思わず足をどけて確認した。そこにいたのは小さな栗鼠だった。栗鼠は人間と目が合うと、はっとして軽く飛び上がり、たちまち巣の中に戻って行ってしまった。メイヴィスは思わず小さく笑い声を漏らした。それをきっかけとしてある人物を思い出し、斜め後ろを歩くハルスたちに話しかける。 「そういえば、ヘラスの王宮内に水の国シャウラ出身の知り合いがいてね。女性の留学生なんだけど、もしかしたらハルスは会ったことがあるかな」 「シャウラからの留学というと、セルバンテス大臣のご令孫のエレアどのでしょうか。確か、彼女はちょうど事件が起こるひと月ほど前――大臣とエフィルス様が焔の国ラダニエに発たれる直前の頃に学舎を出て、王宮の女官として配属されたはずです。ディオクレイス様は特に教育に力を入れていらして、よく学舎の見回りをされていたので、わたしもそこに数回同行したことがあります。そのときに何度か挨拶を。とても聡明そうなご令嬢でした」  ハルスはエレアの利発さと、湖のような澄んだ瞳を思い出して微笑んだ。メイヴィスも「そうか。元気にしているのならよかった」と目元を緩める。 「ああ、でも、今はヘラス王宮の内部が混乱しているのではないかな。彼女、無事でうまくやっていると良いんだけど……」 *  彼女は塔の階段を一段ずつ確かめるようにのぼっていった。王宮の北端に位置する尖塔、その最上階近くのとある窓の無い小部屋が目的地だ。入口の格子越しには、今日も変わらず右側の壁を見つめる“彼”の姿があった。ただ、前日から変わらないのは彼が座っている体勢だけであり、十分な栄養を摂れていないために彼が日に日に瘦せ細っていっていることは明らかだった。けれど、彼女の立場ではどうすることもできない。その事実からは目を背けたまま、極力柔らかい声で彼に話しかける。 「……近頃、ずっとそちらの壁を御覧になっていらっしゃいますね?」 「ああ。少し考え事をね」  彼――ディオクレイスは女官のほうに顔を向けた。緩く一つに束ねた金茶色の巻き毛が肩から背中側に流れた。  彼が囚われている房の隣の部屋には、ルーデスが魔術で強化して手懐けたのであろう魔鳥がときどき人間を運んできた。年代はさまざまだったが、それはほとんど女性だった。一人目は、彼が何か話しかける前に看守によって何処かに連れ去られてしまった。二人目と三人目は、半狂乱に陥ってあまりにも休み無く騒ぎ続けていたので、彼が口を挟む隙もなかった。四人目から先は、もう覚えていない。  あの少女は九人目だった。ハルスと共に行動していると、彼女は無事だと言った。この狭い房でただ日が登ってまた沈むのを数えるしかない彼にとって、その言葉だけが希望だった。 「ディオクレイス様。今日も王宮内の様子は、悪い意味で変わりございません。カリオン大臣は執務室に籠もりきりで、東の港の閉港措置への抗議も聞こえぬ振り。相変わらず、お祖父様セルバンテス大臣とエフィルス様からの便りも届いていないそうです」  給仕係の女官エレアは、ディオクレイスのために用意された粗末な食事を扉の隙間から室の中に並べながら、いつも通りに王宮内の様子を報告していった。ディオクレイスはふとこの女官が何故いつも痩せ細ってゆく自分に同情の目を向け、寄り添うような態度を見せるのかが気になって、掠れる声で尋ねてみることにした。 「……エレア。きみは何故私に協力を? 背信があの男・・・に知られれば、ただでは済まないだろうに」 「それは……」  若い女官は困ったように視線を彷徨わせて言い淀んだ。ディオクレイスは優しく苦笑して首を振る。 「答えられないか。では、別の話をしよう。きみはどうしてこの国に留学に?」  そう話題を変えると、エレアは今度は顔を明るくして楽しそうに話し始めた。 「母方のお祖父様のゆかりということもあるのですが、シャウラ王宮の書庫でよくお見かけするかたがいたんです。そのかたに、ヘラス王宮の書庫はシャウラよりももっと大規模で充実しているから、そんなに書物が好きなら留学してみないかと言っていただいて」 「そうか。それで、実際にヘラスの書庫を見た感想を聞いても?」 「はい、それはもう、素晴らしかったです。一生かけても読みきれない量の論文がところ狭しと並んでいて。そのなかでも特に興味を引かれたのが……」  エレアが目を輝かせてそう答えようとしたとき、ちょうど階下から別の足音が聞こえた。石造りのこの塔の中では、内部の物音が増幅されてよく響く。  エレアは素早く支度を整えて一礼をし、新たな来訪者と入れ替わりにその場を辞した。エレアとすれ違った来訪者は、彼女を一瞥すらしなかった。  カリオン大臣は慇懃無礼に囚われの王を見下ろし、歪んだ笑みで目の下の皺を更に深くした。 「ご機嫌いかがですかな、ディオクレイス様」  ディオクレイスはその挨拶に応えない。大臣のほうに顔も向けずに、冷たい声で問いかけた。 「そなたの目的は何だ? 私の命か。であれば、もとよりこのような回りくどいことはするまいが」  それを聞いたカリオンは思わずといった様子で天を仰ぎ、年齢のわりにはしわがれた独特の声で哄笑した。 「まさか! ヘラス王室の繁栄、ひいては国の繁栄がわたくしの衷心からの願いでございます。それが実現できる準備が整い次第、こんな暗い房からはすぐに解放して差し上げますとも。……若しくは、あの東の国の王女など婚約者でも何でもないと一言頂ければ、すぐにでも」  最後のほうは氷のように冷たく低い声へと変化し、表情もまた石の壁のように温度を失ってゆく。 「……狙いは彼女のほうか」 「何度も進言差し上げました。あのような者は、我がヘラスの王妃には相応しくないと」 「その件に関しては、彼女自身の咎ではないと何度も言ったはずだ」  ディオクレイスがそう反論した途端、カリオン大臣は表情を変えた。そして長い息を吐き、冷たい目で王を一瞥する。 「まあ、構いません。何をどう言おうと、そう遠くないうちに、あの王女の亡骸が発見されることになりますからな」 「な……」 「そして、貴方には証言・・をしていただくのです。“王女は異国の王宮の煩わしいしきたりに耐えられず、貴方と二人だけで生きていくために貴方を唆して王宮を抜け出したが、貴方を巻き込んだという罪の大きさを自覚して自ら死を選んだようだ”――とね」  その言葉を聞いた瞬間、ディオクレイスの胸の裡が灼けつきそうに熱い黒泥で塗り潰されてゆく。粘つくその泥は、彼の憎悪であり、焦燥であり、また、結果的にこのような専横を許すことになった自分への憤怒でもあった。ディオクレイスは王族の誇りにかけてそれを決して表には出さぬように努め、声を低くして大臣に問うた。 「……それが、そなたらの描いた筋書きか。私がそれに応じなければどうするつもりだ」 「そのときは……発見される亡骸が二つに増えることになりますな」  カリオン大臣は本人を目の前にして軽々とそう言ってのけた。つまり、ディオクレイスとハルスが王宮からの逃亡の末に命を落としたことにして、王の首ごと挿げ替えようとしているのだ。 「私としても、出来ればそれは避けたいところです。貴方自身に恨みがあるわけではないですからな。あの女狐のような女を伴侶に選んでしまわれたことを除けば。……どうか、賢明なご判断を期待していますよ」  それだけ一方的に告げて、カリオン大臣はディオクレイスの前を辞した。また同じように石づくりの階段を悠然と下りていく。そのちょうど死角になるところにエレアが身を隠して話を聞いていたが、大臣はそれに気付かずに長衣の裾を翻して歩き去った。 *  カリオン大臣は北端の塔の視察を終え、真っ直ぐ王城内の私室に戻った。仕切り布をくぐると、既に室内には腹心の部下の姿があった。予定よりも早く首都に戻って来られたようだ。 「やあ、ルーデス。疲れているだろうに、地方視察から帰ったその足で呼び立ててすまないね。首尾はどうだ」  大臣は室の空気には不釣り合いなほど朗らかな声で部下の労をねぎらう。ルーデスは軽く目礼をすると、いつもどおりの低い声で簡潔に地方視察の成果を報告した。 「東の港のほうには、王女が立ち寄った形跡はありません。故国の支援ははなから諦めているのか、何か別の計画で動いているのか」  ふむ、とカリオンは斜め上に視線を投じて軽く息をつく。 「若しくは、既に事切れていて、なきがらだけが見つかっていないのか……。いや、それは希望的観測に過ぎるな。あれが動いているということは、ハルス王女という切り札を手に入れた可能性が高い」  独り言のようにそう続けると、ルーデスはどういうことだとでも言いたげに片眉を上げる。カリオン大臣は椅子から立ち上がり、へやの中をゆったりと歩き回りながら説明し始めた。 「先日、魔鳥があの塔に十三人目を運んできたときのことだ。すぐに看守を向かわせたが、看守がその房の扉を開ける直前に、明らかに魔術で強化したと判る巨大な白い烏に獲物・・を奪われた。その烏の背に乗って飛び去ったのは、背信者として現在国軍に追わせている兵士リゲル・デルフィスと、黒髪の若い女だった。女のほうの身元は不明だが、少なくともあちらは一人以上の魔術師を味方につけたと考えられる。……ルーデスおまえに対抗しようとするのであれば、当然の行動であろうな」  そう言ってルーデスを振り返り、唇の端を僅かに引き上げる。すると、ルーデスは茫洋とした声で「……魔術師、か」と小さく呟いた。カリオン大臣が眉を上げて訝しむと、ルーデスは「いえ」と軽く首を振り、改めて臣下の礼をとる。カリオンは満足気に頷き、気を取り直してどこか演説めいた口調で話し続けた。 「……ともかくだ。王女は既にリゲル・デルフィスらと行動を共にしていると考えるのが自然だ。そこで、私は改めてリゲルという兵士の身元を洗わせた。……なあ、ルーデスよ。次に奴らが真っ先に立ち寄りそうなところ、頼りそうな先はどこだと思う」  問われたルーデスが返答に窮して俯くのを楽しそうに横目で見遣って、カリオンは事も無げに解を提示する。 「奴の実家だ。ここに薬師の女が一人で住んでいる。獲物はここに立ち寄る可能性が高い。そこでだ。帰ってきたばかりで悪いが、少数の手勢を率いて、この付近を見張ってほしい。気取られぬように、一定の距離を保ってな。おそらく、高確率で罠にかかるはずだ」  大臣の声は落ち着いているが、愉悦を隠しきれない様子だった。一旦ルーデスに背を向け、出窓の桟にゆったりと手を置いて王城の様子を睥睨しながら呟く。 「そろそろ決着をつけねばならぬ。邪魔な奴らが何か勘付いて、この王城へ帰還する前にな」 「……仰せのままに。我が君」  そう応える魔術師ルーデスの声は、相変わらず海のように暗く深かった。 * 「ああー、何なのだ、調査中、確認中、今は答えられないなどと! もう何日ここに足止めされていると思っておるのか」  同時刻、東の港。既に七日ほども港の至近の襤褸宿に実質軟禁されているセルバンテス大臣は、ぎしぎし鳴る木板の床を右に左に徘徊しながら苛立ちを露わにした。エフィルスは簡素な椅子に脚を組んで座って卓に頬杖をつき、そうですねえ、と困ったように答えながら隣の老爺を見遣る。大臣は重量挙げが趣味であることで有名で、その筋肉の付き方たるや、とても六十を越えた老人には見えなかった。 「そういえば、大臣。ここ最近は、書簡が届きませんね? あなたの愛しい孫娘どのからの書簡です」  エフィルスはヘラスの港からラダニエへと出港する前、セルバンテス大臣が「ああ、エレアよ、目に入れても痛くないほど愛らしい孫娘よ。どうか、儂が隣国を訪ねている最中、鳩で書簡を寄越してくれぬか。せめて書簡ででもおまえと交流できなければ、じじいは寂しくて死んでしまうからな」とエレアに頬ずりしながら頼んでいる現場を目撃していた。というか、セルバンテスの声があまりによく通って目立つので、ディオクレイス王もカリオン大臣も他の官吏も当然のように知っているはずだ。だから、よく訓練された白い鳩が王宮の高窓から飛び立って行くのを阻んだ者がいるとは思えない。セルバンテス自身も、眉間に皺を刻んで不服そうに頷いた。 「ああ。エレアには、王宮内で何か変わったことがないか定期的に書簡を寄越すように伝えてある。よく訓練した鳩の脚にパピルス紙を括りつけてな」  だが、と不敵に笑って、古豪の知将は鼻の下を擦る。 「それが無くなったということは、相当な非常事態である可能性が高い。そろそろ、本気で・・・この港を突破せねばならんようだな」  大臣のその言い回しに、冷静な「話し合いでの交渉」程度では済まないような何かが含まれている気がしてならず、穏健派のエフィルスは笑顔を引きつらせながら無意識に椅子を動かして、味方であるはずの彼と少しばかりの距離をとった。 *  エレアの話題が一段落したあと、ハルスはおやと小さな疑問を覚えて、メイヴィスに尋ねてみた。 「ちなみに、なぜ栗鼠を見て彼女を思い出されたんです?」  すると、メイヴィスは振り返りながら、ああ、と楽しそうに答える。 「彼女の好物が木の実らしくて、書物を広げながら栗鼠のように少しずつ木の実をかじっているのをときどき書庫で見かけていたから、それが印象に残ってしまって……」 「なるほど……?」  予想の斜め上の理由に、ハルスは思わず瞬きを繰り返してアリエスと顔を見合わせた。

2

 アリエスら一行は、“最果ての村”から首都までのほぼ半分の距離にあたる中央平原付近の森に差し掛かった。半分とは言えど、ここからは馬も驢馬も通りづらい道が大半なので、実質、ここまでにかかった日数の二倍は要するだろうと予想された。  この頃になると、アリエスの手首の腫れと変色も概ね快復し、皆も野営生活に慣れてきた。近くに町が見えるときは物資と資金調達のために一時的に立ち寄ることもあったが、食糧の調達に関しては、森の中で野生動物を仕留めることも多々あった。さすがは現役の兵士と言うべきか、動き回る鹿や兎を弓矢で素早く仕留めるのは主にリゲルの役目だった。王族の嗜みとして弓矢の鍛錬を重ねてきたというメイヴィスとハルスも、背の高い樹木に生っている果実などをたびたび射ち落とした。彼らの腕前は、リゲルも「あんな小さな的に当てるなんて大したものだ」と舌を巻くほどだった。レムダは弓はそれほど得手ではないらしく、魔術を駆使して獲物を追い込むなど、アリエスとともにリゲルの支援にまわった。今日も獲物の鹿が水辺のほうへ逃げてしまおうとするところで、レムダが魔術で小さな雷のような光の柱を落として行く手を遮り、鹿が怯んだところへ、リゲルの矢が正確に首元を捉えて止めを刺した。 「すごい……」  出る幕のなかったアリエスは、叢の中に倒れる鹿を見て呆然と呟く。それが聞こえたのか聞こえなかったのか、隣にいたレムダは僅かに片眉を上げたのみで、あとは粛々と獲物の回収に向かったのだった。  その日の昼下がり、夕餉のための下拵えを早々に終えたアリエスは、切り株に腰掛けて杖の手入れをしていたレムダのもとに駆け寄った。 「ねえ、レムダ。改めて、私に魔術を教えてほしいんです。もうだいぶ怪我も治ってきたし、少しでも皆の役に立ちたいの」  アリエスは添え木も外れてほぼ元通りに戻った左手首をレムダの前に掲げた。すると、レムダはそのままアリエスの左手をとると、「これを」と言って彼女に金属の鎖のようなものを握らせた。掌を開いたアリエスは、最初それが何だか分からなかったが、鎖の中心にオリーブ色の石が嵌まっているのを見つけるとすぐに諒解した。魔術を行使するのに用いる、貴石ほうせきの嵌まった首飾りだ。怪我に気を取られていたこともあり、魔鳥騒ぎの混乱のなかで首飾りを一旦レムダに預かってもらっていたことをすっかり忘れていた。 「ありがとう。鎖、直してくれたのね」  一度切れた鎖の部分にひとつだけ種類が違う銀色の大きめの輪が挟まっていて少々いびつではあるけれども、首にかけて衣の中に隠すぶんには十分すぎる出来上がりだった。しかし、レムダは首飾りを渡しながらも、いや、と軽く首を振った。 「私は預かっただけだ。メイヴィス王子が、偶々持ち合わせていた装飾品の鎖をひとつ切り取って、首飾りの鎖のひとつとして補填したと言っていた。鎖の色が一部違うのもそのせいだろう」  言われてみれば、メイヴィス王子は休憩時間にも、このほうが落ち着くからと言って、何か細かい手作業をしていることが多い気がする。アリエスは目を丸くして、そうだったのね、と応え、髪を持ち上げて首飾りを首にかけた。以前はこの重みが自分の秘密の重さを表しているようで少し煩わしいと感じたこともあったけれども、自分が魔術師であることを仲間に隠していないからか、それとも同じ魔術師が隣にいるからか、もう今はそう感じなくなっていることにアリエスは気付いた。アリエスの胸元で、自分の瞳と同じ色をした貴石ほうせきが木漏れ日を受けて時折静かに輝いている。  その日から、さっそく魔術の訓練が始まった。ルーデスに教わったときはまだ子どもだったから手加減されていたということも多分にあるのだろうが、それを割り引いても、レムダの教えかたは非常に端的で、単刀直入で、そして容赦が無かった。少しでも勘所を掴んでいなければ「違う」と一蹴するが、その分、うまく出来たときの褒め方にも嘘や世辞が無い。アリエスはレムダに師事したことで、魔術師ごとに得意な魔術に明確な偏りがあることをほとんど初めて認識した。レムダは攻撃力の高い雷を操る魔術を殊に得意としていて、アリエスはそれが最も苦手だった。ルーデスはどうだっただろうかと、アリエスは幼い頃の記憶を手繰った。彼は水を操る魔術が得意だったような気もする。ただ、ひとつだけ覚えていることがある。確か、自分の魔術は独学だから、魔術のかけ方に癖があると言っていた。 「…………」  アリエスはそれを思い出した瞬間、集中を切らして魔力を操る手を止めてしまった。レムダから教えを受けられるのはこの上なく有難いことだとは思っているが、どうしてもルーデスと過ごした日々を思い出さざるをえないことだけが、たびたび彼女を複雑な気持ちにさせるのだった。  ある日、泉が湧き出る好条件の広場を見つけた一行は、翌日まで泉のほとりに腰を落ち着けることになった。アリエスはその日も訓練の一環で、掌の上に植物を発生させる実験を行っていた。レムダの教えどおり、深呼吸をして魔力の流れを読むことに意識を集中させる。すると、アリエスの掌から可愛らしい黄緑色の双葉が生まれて、時間を早送りするように緑色の蔓をどんどん伸ばし、最後には見上げるほどの高さになった。 「……ふむ。植物を操る魔術だけは合格点だな」 「“だけ”……」  アリエスは肩を落としたが、それは実際そのとおりだった。ルーデスと共に暮らしていた頃、何を思ったか、家の外壁を花で埋め尽くしたいとせがんだことがあった。ルーデスは困惑しながらもアリエスに樹木の精霊の声を聴くコツを伝授してくれて、その通りに試してみたら、その魔術がたまたまアリエスの肌に合っていたようで、意外にうまくできたのだ。  用途は限られるが、こんな初級の魔術だって、動物をおびき出すときなど、何かしらの役には立てるだろう。鍛錬が一段落してアリエスがひとつ息をついたとき、ちょうどハルスが、夕餉の準備の前に泉で水浴びをしておこうとアリエスを誘いに来た。  アリエスは透きとおる泉の中におそるおそる足を入れた。泉の水は少々冷たかったが、久しぶりの水浴びのこころよさのほうが上回った。少し遅れて、衣を木の枝に掛け終えたハルスがアリエスの隣に腰掛けた。今日は空気が乾燥していること以外は申し分の無い秋晴れの好天で、泉の周囲では様々な小鳥の声が控えめに響いていた。  こんなときにこういうことを言うのは呑気すぎるかもしれないけれど、と前置きをして、ハルスはこの国の自然は豊かで美しいと思う、とアリエスに話した。 「わたしの祖国はだいぶ開墾が進んだとはいえ、栄養分の少ない赤土の土地が多いために、まだまだ荒れ地が多くて。ほら、あの鳥なんて、ほぼこの国でしか見られない珍しい色を……」  ハルスは重なった葉の陰になっている鳥の姿をよく見るためにか、半身をアリエスとは逆方向へ捻った。ハルスが指差す先を追おうとしたアリエスは、その前にハルス王女の背にふと見慣れないものを見つけて、そして言葉を失った。王女の白い背には大小さまざまな痛々しい傷が無数に走っていた。小刀で切りつけられたような傷跡も、殴られたようなものも、鞭で打たれたように見えるものもあった。アリエスが目を離せないでいると、彼女が黙ってしまったことを不思議に思ったハルスがこちらを振り向き、何のことかをすぐ理解して、アリエスを安心させるように微笑んだ。アリエスは迷った末に、ただ、痛くはないかと尋ねた。 「ええ。リゲルに分けて貰った膏薬のお陰で」  それを聞いて、アリエスはひとまず胸を撫で下ろす。同時に胸の裡に複雑な気持ちが沸き起こるのを感じた。皆の話を総合すると、間接的にせよ、いま自分の隣にいる王女にこの無数の傷をつけて追い詰めたのは自分の師匠だ。幼少期に自分を守ってくれた彼の姿が、今は苦々しく思い出された。  気付けば、アリエスはいま素直に思ったことをそのまま声に出して呟いていた。 「……私も、何かあなたの助けになれればいいのに」 「え?」  王女を助けたリゲルはもちろん、メイヴィス王子はアリエスたちと合流する以前から王女を守りながら旅をしてきたし、レムダの強力な魔術も心強い。それに比べて自分だけが何も王女の助けになれていない気がして、アリエスはそんな自分に落胆していた。  その胸のうちを聞くと、ハルスは「その気持ちだけで十分嬉しいのだけれど」と前置きしたうえで、美しいアーモンド形の目を細めて微笑んだ。 「それなら……この先わたしたちがヘラスの王宮に辿り着いて、ディオクレイス様をきっと無事に塔から助け出して差し上げて、色々なことが解決した後も、あなたさえよければ、ときどきわたしの話し相手になってくれる? もし距離が遠ければ、書簡のやりとりだって構わない。わたしが幼少期を過ごしたラダニエの王宮の女官たちは、その……父からの命令もあって、みなあまり気安くは接してくれなかったものだから。同性の友人がどういうものなのか、未だによく分からなくて」  王女は少し困ったように笑って目を伏せる。アリエスは返答を考えるまでもなく、目元を緩めて「もちろんです」と頷いた。

3

 中央平原の脇を抜けると、森の中の獣道はいっそう厳しさを増した。それでなくても、ひと月近くも続く長旅だ。細かい傷の手当てを続けながらどれだけ慎重に進んでも、否が応にも疲労は蓄積していく。なかでも最も強い危機を感じたのは、森の奥で大蛇に遭遇したときだった。あまりに大きいので魔術で巨大化されたことを疑ったが、単に森の奥で育ちすぎた個体のようだと結論づけた。腕に噛みついてこようとしたので弓矢と雷の魔術で威嚇したところ、かえって闘争本能を刺激してしまい、結局は蛇が追ってこないところまで命からがら逃げるしかなかった。全員の無事を確認したときには、皆どこかしら擦り傷や切り傷を拵えていた。  アリエスは、旅を続けるごとにハルス王女の食が日に日に細くなり、夜もあまり眠れていない様子なのが心配でならなかった。アリエスの隣を歩いている途中で、足にうまく力が入らずに躓きかけることも増えた。それでも、王女はアリエスが今まで出会った人間の中で一番と断言しても良いほど見上げて我慢強く、皆の前では一度も弱音を零さなかった。  そんなさなか、首都まであと二割ほどの距離まで来たところで、一行はある中規模の港町に立ち寄った。ここまで来れば、目的の王宮まではあとひと息と言って良いだろう。ただ、人目を避けて大回りで首都へ入らなければならない以上、腰を落ち着けてより綿密な相談が求められる局面でもあった。 「さてと。往来の人通りもなかなか多いし、まずは今日の宿を探しておいたほうが良さそうかな」 「それと、矢も補充しないといけないですね。このあいだの大蛇の件のときに、だいぶ消費してしまいましたから」 「確かあの通りの向こうに、弓矢職人の工房が……」  リゲルがメイヴィスとハルスに頷いて指差した先には、明らかに兵士と思われる重装備の男たちが何人も配備されて工房を見張っているのが見えた。一行は慌てて死角の路地に身を隠す。 「国軍の兵士か……。突っ切るのは難しそうだね」  リゲルもそれに同意して首を振った。 「仕方ない。今日のところは、町外れまで退避しましょう」 「他に何処か当てが?」  メイヴィスが尋ねると、リゲルは「ええ、まあ……」と微妙な表情で曖昧な返事を寄越した。 *  薬師のミラ・デルフィスは、今日の分の薬の仕込みを終えて、取っ手付きの器に満たした蘭の粉湯サレピをひとくちぶん口に運んだ。――近頃市井の噂になっている、国王とその婚約者の失踪事件。その事件に関する情報を、ミラはかねてから親交のある義足の男を通して断片的に仕入れている。だが、断片は断片であり、それらをどう並べ替えてどう貼り合わせてみても、ひと続きの筋道立った結論には辿り着かない。知らないうちに、また・・大変なことになっていなければ良いけれど――。彼女が眉間に皺を寄せて十三年前の一件を思い出しかけていたところに、玄関の戸が叩かれた。この叩き方は、家族の間で取り決めた特別な符牒だ。さらに、ミラの住処は町からだいぶ外れたひっそりとした林の中にあるので、滅多なことではこんな時間に来客は無い。  戸を開けると、果たして、そこに立っていたのは腕や足に小さな傷をいくつも拵えた息子だった。 「リゲル。その傷はどうしたの」  彼はミラの実子ではなく、十三年前に“時空のうろ”による災害に巻き込まれて孤児になった彼をミラが養子として引き取ったのだった。五年前に国軍の兵士として王宮に送り出して以来、休暇のたびに顔を見せてはいたが、これほど傷だらけで帰ってくるのは初めてだった。  彼が言うには、わけあって国軍に追われながら旅をしているから、同行しているハルス王女だけでもひと晩匿ってくれないか、とのことだった。ハルス王女と言えば、まさにいま国軍が血眼になって探しているという国王の婚約者その人だ。ミラは一瞬で大まかな事情を類推し、敢えてそれ以上は深く尋ねずに、リゲルら一行を玄関の内側へと促して素早く扉を閉じた。  ミラとリゲルで手分けして順に皆の傷の手当てをしている最中、リゲルはミラに此度の事情を掻い摘んで話した。その話の内容とミラが元々聞いていた内容を総合することで、ミラの中で無事に点と点が線になって繋がった気がした。ミラはもう少し皆が回復するまで数日ここで休んでいくことを勧めたが、ハルス王女をはじめとした面々は、ディオクレイス王の救出を急がねばならないからと、最小限の滞在に留めてまた早々に出発するつもりらしかった。ミラは包帯だらけの一行の様子を見て素直に首に縦を振る気にはなれなかったが、さりとて、事情が事情だけに、ミラの立場からあまり強く引き留めるわけにもいかなかった。  めいめい食材を出し合って簡単な夕餉を摂ったあと、一行は卓にパピルス紙の地図を広げて、この先の道順の確認を始めた。ここから西南西にほぼ一直線、最も歩きやすい道を通ればほどなくして王宮まで辿り着けるが、その道中で出来る限り国軍に出くわす可能性を低くするために、北側に大回りする経路で王宮に近付く計画だ。メイヴィス王子によると、先に王宮近くに到着したシャウラの使節団は王宮の手前の森に身を隠していて、王宮に入る直前で合流する手筈になっているという。 「安全を考えると、遠回りにはなりますが、この大樹の北側……ここからこう行って、こう抜けるのが良いでしょう」  リゲルが地図を指でなぞって大まかな経路を示す。すると、地図をじっと見つめていたハルスがふと何かに気付き、リゲルが示した経路よりも南寄りの、ごく細い直線の道のように見える箇所を指差した。 「ここは細い道のようですが、通り抜けられなさそうですか」 「確かにこちらの道であれば距離を短縮できるように見えるんですが、道幅が細いうえに崖が近くて危険です。王女あなたを無事に王宮まで送り届けることが、我々の第一目的ですから」  リゲルの説明を聞いて、ハルス王女は「崖があるんですね。なるほど……」と顎に手を遣って首肯し、すぐにリゲルの案に同意した。ただそれだけのやりとりだったが、リゲルは目を伏せたハルス王女の目元に落ちた影がいつもよりも濃く見える気がして、しばらく羽根ペンを持ったまま彼女の様子をじっと眺めていた。  その夜、自室に置いてあった予備の矢を回収してきたリゲルは、玄関に向かう途中でちょうどすれ違ったハルス王女を呼び止めた。そして、近頃調子はどうかと彼女に尋ねる代わりに、麻袋に包んだ小さな蜂蜜菓子を手渡す。 「……近頃、あまり食べ物が喉を通っていないみたいだって、アリエスが心配してました」  ハルスははっとしてリゲルを見上げ、眉を下げて蜂蜜菓子を受け取った。 「すみません。協力してもらっているうえに、心配までかけてしまうなんて」  そして、目を伏せてひととき逡巡するように押し黙った後、おそるおそるといった風に唇を開いた。 「……このところ、毎日夢を見るんです。わたしがほんの一歩、ほんの一時いっときだけ王宮へあのかたを助けに向かうのが遅れて、そのせいで、自分の目の前であのかたが処刑されてしまう夢を」  リゲルは何も言えず、ただ頷いた。王女と全く同じ立場には立てないながらも、焦る気持ちはよく解った。 「明日は天気もよくないみたいですし、とりあえず夕方頃までは、この家に隠れて休んでいてください。物資の買い出しは、おれたちで手分けして行ってきます」  リゲルがそう伝えると、ハルスは申し訳なさそうに「ありがとう」と頭を下げた。彼女の声はまだ語尾に力が無かったが、先ほどよりは幾分表情が和らいだ気がして、リゲルはひとまず安心した。 *  ミラの家に身を寄せたことでひとまず体力はある程度回復できたが、ある程度の規模の町に滞在しているうちに、この先の旅のための物資を調達しておかねばならない。翌日、四名は二手に分かれて市場に買い物に出ることにした。リゲルとレムダは食糧、アリエスとメイヴィスはこまごまとした道具や生活用品の調達を担当する。人目を避けながらになるので、自由に買い物をするよりは時間がかかってしまったものの、昼下がりに差し掛かる頃には、アリエスとメイヴィスは粗方目的を達成した。 「少し早いですけど、そろそろ戻ったほうが良いでしょうか」 「そうだね。それか、町に立ち寄れる数少ない機会だから、もう少しこの辺りで情報を集めて行ってもいいかもしれない」  そう話し合いながら横並びで歩いていると、アリエスはふと目を遣った先に古ぼけた案内板を見つけ、なにげなく思ったことをそのまま呟いた。 「この道を越えると、隣町になるんですね」 「本当だね。国境ならぬ町境といったところか。なになに、隣町の名前は……エヴィアと言うんだね」  メイヴィスのその一言で、思いがけずアリエスの足は止まった。この国には、出身地を名前ファーストネームの後に付けて個人を区別する慣習がある。アリエスであれば、アリエス・フォーマルハウト……つまりは“フォーマルハウト出身のアリエス”といった具合だ。リゲルはリゲル・デルフィスと言うそうだが、それは育ての母であるミラがデルフィの村の出身だからだと聞いた。更に付け足すと、王族だけは例外的にヘラスの国名自体を名前の後に戴くことが許されているらしい。今代の国王であればディオクレイス・ヘレニア、そして、アリエスは言い伝えでしか聞いたことのない先代の王は、ケイロス・ヘレニアと呼ばれていたはずだ。  その法則に当てはめると、おそらくルーデス・エヴィアはこのエヴィアという土地の出身ということになる。アリエスは自分の心臓が俄かに早鐘を打ち始めるのを感じた。狼狽をなるべく表に出さないように徐々に歩く速度を落として立ち止まり、しばらく逡巡して、やはり諦めきれずに申し出た。 「あの、私、あちらを見てきてもいいですか? 危なそうだったら、すぐ引き返してきますから」  メイヴィスは目を丸くしたが、アリエスの様子から何かそうしなければならない事情があるものと汲み取ってくれたらしく、すんなりと彼女の提案を了承した。 「構わないよ。私はさっきの小間物屋の主人に、国軍の動きについて何か知っていることはないか、もう少し話を聞いてくるから、しばらくしたらここで落ち合おうか」  アリエスは頷いた。メイヴィスは、何か異変があったらすぐに迎えに行くからね、と念押しして、元来た道を戻っていった。その背中を見送って、アリエスはひとつ深呼吸をしてから、エヴィアの地に足を踏み入れた。辺りには今のところ、何の変哲もない草原が広がっているように見える。  草原のなかを進んでいる途中、丈の長い草の先がサンダルの間から何度もアリエスの脛を撫でた。アリエスは辺りを見回した。案内板が立っていた箇所を見失わないようにしなければならない。一応、魔鳥も警戒して、外套の頭巾フードを忘れずに被るようにした。  さらにしばらく進んで行くと、ちょっとした花畑のような場所が見えてきて、薄紫のうさぎ草シクラメンや秋咲きの白い水仙がちょうど満開の頃合いのようだった。いつの間にか、辺りには夕暮れの気配が忍び寄っていた。  花畑の向こうに視線を投じると、白や灰色のきちんと磨かれた大きな石が等間隔で並んでいるのが見えた。住居も店舗も無いと思ったら、どうやらここは墓地だったらしい。知らなかったとはいえ、勝手に足を踏み入れてしまったことに若干の後ろめたさを覚えたアリエスは、そのまま回れ右をしてその場を去ろうとした。  振り返ったときに、ふと視界に入ったものがあった。先ほど、ひとつだけ他の墓石からだいぶ離れたところに目立たないように置かれていることを認識してそのまま通り過ぎた白い墓石だ。アリエスはそのままの流れで目に入ってきた文字列を見て、思わず歩みを止めた。よく見えるように思わず頭巾フードを脱いで何度も読み直してみたが、読み間違いなどではない。その墓石に刻まれていた名は――ルーデス・エヴィア。 「どういうこと……?」  声が震えた。辺りが橙色に染まり始めるなか、アリエスは墓石の前で呆然と立ち尽くした。背の低い水仙が秋風に吹かれて隣の花弁と擦れ合い、かすかな音を立てていた。

4

 町外れのミラの家で今日一日待機することになったハルスは、寝台の上でゆっくりと起き上がった。腕や足首に触れてみて、疲労が粗方軽快していることを確認する。久方ぶりのあたたかい寝台と、昨日ミラが煎じてくれた薬湯のお陰に違いなかった。  何か家の仕事を手伝おうと、ハルスは何か用事が無いかを家主のミラに訊きに行った。ミラが作業をしている部屋に顔を出すと、ミラが水差しから器に水を注いでいるところで、ちょうど水差しが空になったように見えたので、ハルスは水差しを示して「水を汲みに行きましょうか」と声を掛けた。ミラは「気にしなくてもいいのよ」と苦笑して首を振ったが、それでも「匿っていただいたお礼に、せめて何かしていたくて」とハルスが言うので、それなら、と水汲み用の壺をハルスに手渡した。 「水源は裏の井戸に引いてあるわ。家の裏手の林は昼間でも薄暗いから、足元に気をつけてね」  ハルスは頷き、さっそく壺を抱えて家の裏手の井戸に向かった。なるほど、森の中の一軒家らしく、井戸の周りには日の光を遮ってしまうほど多くの常緑樹が犇めいていた。秋の日暮れは早い。葉の隙間から差してくる木漏れ日の色を見るに、早くも夕暮れが近付いている時分のようだった。  ハルスが井戸の中の水の様子を見るために、井戸の縁に手を掛けて中を覗き込もうと身を屈めたときだった。何かが低い音を発して彼女の耳の横を掠め、目の前の樹木の太い幹に突き刺さった。――矢だ。そう認識して、ハルスは弾かれたように振り返った。見ると、ミラの家の方角から兵士が二人ほどハルスに向けて矢をつがえている。  ――今は、護身用の短剣以外の武器を持っていない。おそらく、膂力でも敵わない。  瞬時にそう判断し、ハルスは壺をその場に置いて林の中へと走り出した。家の中に戻ると、兵士に近付いていくことになってしまい、わざわざ自分という的を当たりやすくしに行くだけだ。それに、ハルスも旅のなかで実際に経験してきたことではあるが、林の中であれば林立する木の幹が邪魔になって、多少は矢が当たりづらくなる。そう考えての行動だった。  ハルスはときどき後ろを振り返りつつ走り続けた。右に左に蛇行して射手を攪乱しながら走った結果、ミラの家からはそう遠ざからなかったが、射手は容赦なく矢を射掛けてくる。やがて、ついにその中の一本がハルスの腿辺りを掠め、ハルスは強い痛みと衝撃を覚えて、それ以上走るのを諦めざるをえなかった。息を整えようと努めながら、その場に膝をついて座り込む。彼女に矢を射掛けてきた射手を振り返ると、目の前に立っていたのは、ハルスがヘラス王宮で幾度となく顔を合わせた人物――即ち、魔術師であり、ヘラス王宮のいち官吏でもあるルーデス・エヴィアその人だった。 *  満開の花々と黄色みが強くなってきた草が冷たい秋風にざわめくなか、アリエスは“ルーデス・エヴィア”と刻まれた墓石の前で長いこと立ち尽くしていた。多くの疑問が彼女の胸を去来した。――ただの人違いかもしれない。何かの間違いかもしれない。……いや、一般的にルーデスという名はそれほどありふれた名前だろうか。それなら、リゲルが話していたルーデス・エヴィアというのは? そもそも、リゲルが最初からずっと嘘をついていた可能性は?  そこまで考えたとき、遠くから近付いてくる馬の蹄の音がアリエスの思考を断ち切った。アリエスが首を巡らしてみると、馬を駆っていたのは他ならぬメイヴィス王子だった。けれど、彼にしてはやけに表情が硬く、何やらひどく焦っているように見えた。 「アリエス。早く乗って。話は後だ」  珍しく有無を言わせぬ様子にただならぬものを感じ、アリエスはすぐに頷いてメイヴィスの手を取る。葦毛の馬はメイヴィスに急かされて、アリエスがメイヴィスの後ろに座るやいなや、すぐに全速力で駆け始めた。この方角はミラの家だ。 「どうし……」  アリエスが言い切る前に、メイヴィスは硬い声で話し始めた。 「小間物屋の主人に聞いたんだ。『近頃、何の任務か知らないけれど、王宮の偉い魔術師さんの一行がしばらく町外れに滞留しているようだ』――って」  アリエスは墓石のことが気になって、後ろ髪を引かれる気持ちで一瞬だけ振り返ってみたが、今は思索に耽っている場合ではない。アリエスは首を振って未練を振りほどき、揺れる馬上でしっかりとメイヴィスに掴まって、町外れのミラの家へと急いだ。 * 「何故……」  ハルスの口から自然に零れ落ちたのはその一言だった。走った直後であることと傷の痛みのために息が弾んでなかなか声が整わないことがもどかしかった。それでもハルスは言わずにはおれなかった。 「わたしが知る限り、あなたは王に最も信頼されている友人だったはずです。それなのに、なぜこんなことを?」  厳しい口調で詰問しても、ルーデスは氷のように冷たい表情を変えず、眉ひとつ動かさなかった。彼が常に携えている三叉の鉾、その先端がゆっくりとハルス王女の鼻先に突き付けられる。 「……それは、そなたが知る必要の無いことだ」  地の底を這うような低い声とともに、ルーデスは薄い唇の片端だけをわずかに引き上げた。彼が鉾を振り上げると、それに呼応するように彼の額飾りの中心に嵌まっている深い藍色の石が淡い光を放つ。ハルスはレムダやアリエスが魔術を使うところを何度も見ていたので、それが魔術が発動する合図であることがすぐに分かった。  ――ああ。これで、全て終わってしまう。  自分に向かって致死的な魔術が放たれることを本能的に察知し、ハルスは絶望的な気持ちで頭を垂れて目蓋を閉じた。死への恐怖よりも、ディオクレイスの無実を晴らす機会が永遠に失われてしまうことへの口惜しさがまさった。  ――だが、鉾が自分に向かって振り下ろされる音がする前に、ハルスは自分の脇の樹木の幹に矢が勢いよく突き立つ音を聞いた。明らかに、ルーデスの動きを妨害する目的で放たれた矢だと分かった。とすると、この矢はルーデスが引き連れてきた兵士が放ったものではない。ハルスははっと目を開いて上体を起こした。  彼女の目に飛び込んできたのは、息を弾ませながらもしっかりとルーデスに狙いをつけて矢をつがえるリゲルの姿だった。その後ろに、杖を構えたレムダの姿を捉えかけたところで、ハルスは自分の視界がぼやけて人の像を捉えられなくなってきていることに気付いた。リゲルが何か話しかけてくれていることはかろうじて認識できるが、その声もまるで水の中で聞いているかのように輪郭が曖昧になってゆく。意識が飛ぼうとしているのだ。ハルスは抗おうとしたが、結局は泉の底に沈むように昏い闇がハルスの思考を覆いつくしていった。  リゲルは弓を限界近くまで引いてルーデスの心臓にぴたりと狙いをつけたまま、「動くな」と命令した。こちらを振り返ったルーデスは、驚くでもなく怒りを表すでもなく、ただ興味が無さそうに昏い目でリゲルを見つめている。言葉を発しないルーデスの代わりに、リゲルの横から一歩踏み出したのはレムダだった。 「漸く相まみえたか。ここで相手陣営の魔力の要であろうお前を潰しておくというのも悪くない」  レムダの持つ杖には白い雷が蛇のようにとぐろを巻いており、今にもそれがルーデスに向けて放たれようとしていた。だが、しばらくの膠着状態ののち、先に得物を納めたのはルーデスのほうだった。ルーデスは小さく息をつき、獲物を仕留め損ねた落胆と不服とを隠そうともせずに一言だけ低く呟いた。 「……一対二では、分が悪いようだな。出直そう」  そして、その言葉のとおり、二人の部下にも弓を下げさせ、外套の裾を翻してあっという間に森の奥へと歩き去ってしまった。  アリエスとメイヴィスがミラの家の裏手の林に合流したのは、リゲルとレムダがハルスに駆け寄って、まずは息があることを確かめ、血が流れ続けている腿の辺りの傷口を診ていたときだった。 「何があった?」 「ルーデスだ。彼か彼の部下が放った矢が当たったようだ」  リゲルが手短に説明した。ひと目見れば、これが矢による傷であることは判る。 「だが……」  リゲルは歯噛みした。この傷がただの傷である保証は無い。国軍が目的を達成する為ならば、鏃に毒を塗るくらいのことはするだろうと予測できた。毒であれば、傷の治療とはまた別の処置が必要になる。  そう考えていたとき、騒ぎを察したミラも家の裏の林に駆け付けた。ミラとリゲルが何かを早口で話し合い、しばらくしてミラが暗緑色の液体を器に入れて戻ってきた。薬を煎じてきたのだ。ハルスの体を自分に凭せ掛けていたメイヴィスがそれを受け取って彼女に飲ませ、リゲルが適切に止血をしてやると、ハルスの呼吸は一旦落ち着いたように見えたが、どういうわけか、それから様子を見ていても彼女の顔色には一向に血色が戻らず、それどころか、ついに完全に貌を伏せ、メイヴィスの腕の中で身体をますます深く折ってしまった。喉の奥から苦しそうな呻き声が細く絞り出されるのが聞こえた。 「毒、じゃないとすると――」  リゲルが眉間の皺を深くして呟いたとき、横からレムダが一歩進み出て、その場に膝をついた。 「……呪いのたぐいか」  レムダは素早く傷口の上に手を翳し、何かを調べるような仕草をしたかと思うと、すぐに納得したと言うように頷いた。 「なるほど、複雑だが解ける。掛かっている呪を逆から解いてゆけばよい」  そう言って、ハルスの手を握っているアリエスのほうを見遣る。 「“元”師匠の思考の癖を読むことくらいは出来るだろう?」 「私が? そんなこと――」  試したことがない、と言いかけたとき、繋いだ手にハルスが力を込めたのが分かった。アリエスはそれで一つ息を呑み、ううん、と首を横に振ってレムダを仰ぎ見た。 「……やります。やらなきゃ」  レムダは後ろからアリエスの手に自分の手を重ね、彼女の耳元で一つずつ言い聞かせていった。糸玉の結び目を柔らかくしてほどくようなものだと思えばよい。あるいは、碑文を右から左に逆回しで読んでいくようなものだと。 「私の術の流れを読んで、その上に重ね合わせろ」  レムダの言うとおり、力が流れていく脈のようなものを探し当ててからは早かった。アリエスは集中力を切らさぬように必死で呪の流れを読み、重ね掛けされていたそれらを、順序をたがえぬように慎重に解いていった。あまりにも強力な呪に飲み込まれそうになったときは、意識を持って行かれぬよう、それ以上の強さでレムダが引き留めてくれた。 「これで、最後……」  思わずアリエスが口に出したそのとき、傷口から黒い塊が滲み出てきて、水中の気泡のように宙に浮いた。その黒い気泡は、次の瞬間、驚くような勢いでひと息に燃え上がり、あっという間に消し炭となって、あたりの草の間に音も無く消えてしまった。 「……随分と、勢いよく燃やしたものだ」  アリエスの頭上で声が聞こえた。振り仰ぐと、レムダが愉快そうにこっちを見ていた。アリエスはそれで、いま呪いの塊を無意識に自分が燃やしたことを初めて知った。ハルスの呼吸はもう落ち着いていて、唇にも本来の色が戻っていた。  その夜、リゲルはハルスの治療を終えて、外の空気を吸うために手燭を持って家の表の庭に出てきた。目の前の暗闇のなかに白い衣が見える。近付いてみると、横倒しになった丸太に腰掛けたアリエスだった。リゲルは何も言わずに彼女の隣に腰掛けた。リゲルの気配に気付いたアリエスと目が合う。彼女が口を開く前に、リゲルが先回りして王女の容態を報告した。 「大丈夫だ。彼女は傷を癒すためによく眠ってる。ミラの見立てだと、数日でよくなるってさ」 「そう。よかった……」  アリエスは胸を撫で下ろした。それから、二人は何を話すでもなく、しばらく黙って木々のざわめきを聞いていた。 「私ね、自分に腹が立っているの。実際に仲間の一人が刃を向けられて酷い傷を負わされるまで、心のどこかで少しでもあの人のことを信じようとしていた自分に。でも、今度のことで、ようやくはっきりと分かったわ。あの人は――ルーデス・エヴィアは、私にとって敵よ。必ず、私が倒さなくちゃならない」  アリエスはただ唇を引き結び、まっすぐ前を向いてそう宣言した。リゲルは手燭の薄明るい光越しにアリエスの横顔を見た。まだあどけなさの残る少女の横顔は、だが今までよりもずっと大人びていて、深いオリーブの色の瞳が手燭の光を映して時折光っていた。

第五章:黄金の羊

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 一行はハルス王女の回復を待って、メイヴィスが頼み込んで借りていた馬をあるべきところに返し、数日後に港町を出発した。怪我の功名と言うべきか、数日を身体の回復に充てたことで、皆の疲れもだいぶ軽快しており、足を休めるための休憩時間などにはちょっとした雑談をする気力も戻ってきた。  首都近くの小さな町に差し掛かったときには、久しぶりにリゲルを探していると思しき国軍の兵士と行き合った。資金調達のために町で膏薬を売っていたアリエスとリゲルは兵士に気付くなり、慌てて物陰に身を潜める。しばらくして兵士が遠ざかっていくのを見届けたあと、リゲルはぼやくように呟いた。 「ああ、今の奴、国王軍で顔を見た覚えがある。でも上衣に国軍の紋章が付いてるから、国王軍の奴までこっちに駆り出してきたってことだな」 「どういうこと?」  そういえば、リゲルの元の所属は国軍ではなく国王軍だと言っていた。国軍と国王軍は違うのかと尋ねると、リゲルは頷いた。 「国王軍はその名のとおり国王直属の近衛軍で、王の権限がないと動けない。国王軍で有名な将は、当時のオルクス王の右腕となり、軍神の再来って呼ばれたニケフォロス様や、“時空のうろ”の問題解決にケイロス王とともに尽力したっていうゼルト様とかだな」 「へえ……」 「一方、国軍は王か高位の官吏が動かせる。王が不在の今は国軍しか動けないはずだが、国王軍が手持ち無沙汰になってるのを利用して、国軍の兵士として動かしてるんだろう。あっちもそこまでして人員を搔き集めなきゃならないくらい必死ってことだ。同時に、そんなことができる権限を持つ人物っていうと、高位の官吏の中でも更に限られてくる。国王の後見人であるエフィルス様、セルバンテス大臣、カリオン大臣、あと数人ってところだな。つまり、こんな大胆な手に出るってことは、おれたちが相手取るお偉いさんは、いよいよ正体を隠す余裕が無くなってきたらしい」  それは、決戦の日が近づいているということを意味している。アリエスはひとつ深呼吸をして、もう一度振り返り、国軍の兵士が去ったあとの大通りをじっと見つめてみた。  首都の北側に聳える山を迂回して越えると、首都はもうすぐそこだった。ここからは隠れて進める樹林帯は無いため、外套の頭巾フードで顔を隠しながら街の中を進むことになる。  首都に入るか入らないかの頃、一行は目立たぬように三人と二人に分かれ、露天が立ち並ぶ街道を粛々と進んでいた。太陽が中天に上る頃、樵が木を切って行った後なのか、ちょうど腰掛けられそうな切り株が路肩に点在していたので、アリエスとハルス、レムダの三人は疲労軽減のために座って間食を摂ることにした。一行が携帯している間食は、木の実と穀物の粉を水で練って薄焼きにしたものだ。粉っぽさを飲み物で補いながら少しずつ摂取していく。この後調達すべきものや宿について三人で相談していたとき、不意にアリエスが言葉を切った。誰かに旅装の裾を引かれた気がしたのだ。一瞬国軍の兵士に見つかったかと考えて思わず肩が跳ねたが、念のために顔が判別しづらくなるように頭巾フードを深く被り直しながらそちらを振り向いてみると、意外なことに、そこに居たのはやっと十になるかならないかの歳の頃に見える少年だった。アリエスは隣のハルスと一度顔を見合わせ、それから少年に話しかけてみる。 「どうしたの? 迷子?」  少年は答えない。代わりに、アリエスの知らない言葉で何かを話し始めた。 「え?」  アリエスが戸惑っているうちに、ハルスとレムダもアリエスが腰掛けている切り株の周りに近付いてきた。その間にも、少年はしきりにアリエスに何かを話しかけてくる。アリエスが答えられずに困り果てていると、いつの間にか横に立っていたレムダが突然口を開いた。 「『自分を下働きとして雇ってほしい』。そう言っているようだ」  アリエスは目を丸くしてレムダを見た。どうして分かるのかと訊きたかったが、今はこの子に答えてあげるのが先だ。 「ええと、ごめんね。私たち、あなたを買えるくらいの資金は無くて……それに、危ないことに巻き込むわけにはいかないわ」  なるべく話の内容を周囲に聞かれないように気を付けながら小声で答える。レムダがそのまま通訳して伝えると、少年はあからさまにがっかりしたというように肩を落とし、それからアリエスの膝の上の携帯食料にふと目を留めた。途端に、少年の腹の辺りから小動物の鳴き声のような長い音が聞こえる。きっとしばらく何も食べていないのだろう。アリエスは目を丸くして何度か瞬きをしたが、しかしほとんど躊躇うことなく、三枚しか無い携帯食のうちの一枚を彼に手渡してやった。  少年はおそらくお礼らしき言葉を一言アリエスに告げ、頭を下げて向こうに駆けて行ってしまった。それを見送ってふと視線を落とすと、膝の上に広げた携帯食料がいつの間にか増えていることに気付く。ハルスが自分のものを半分に割って分けてくれたのだ。ハルスを振り返って礼を言う前に、レムダの呆れた目が視界に入る。 「貴重な食料を。どこまでお人好しなんだ」  レムダは首を振って溜息をついたが、アリエスはただハルスと顔を見合わせてわずかに微笑み合った。  間食を終えて帰路を行く途中に、アリエスは前を歩くレムダに「さっきの子どもは、言葉が通じないくらい遠い国に住む外国人だったの? 外見ではよく判らなかったけれど」と話しかけてみた。レムダは、そうではない、と説明した。 「私とだけ話が通じたところを見るに、あれはおそらく異界人いかいじんだ。我々のように神の血を引く者の中には、異界人とこの世界の言葉を両方自然に理解できる能力を持つ者が存在する。これは魔力ではなく、神力しんりょく由来の能力だ」  異界人というのは、しばらく前まで大きな社会問題になっていたという“時空のうろ”に巻き込まれてこちらの世界に迷い込んでしまった異界の者のことだ。流石に辺境の村で育ったアリエスでもそのくらいのことは知っているのを承知で、レムダは解説を省略したのだろう。異界人との意思疎通が魔力ではなく神の血統に由来する能力だと知って、アリエスは自分が少年の言葉を理解できなかった理由に納得した。なるほどと頷くアリエスを見て、レムダは「まあ、私もこの能力に気付いたのは、五年ほど前に偶然異界人と話す機会を得たときだが」と独り言のように付け足した。 「しかし、異界人に出会うようになったということは、やはり首都が近いという証だろうな。異界人は首都近くに集中しやすい。というよりは、周りに人の気配が無い場所に放り出された異界人は、そのまま誰にも見つからず、そう遠くないうちに命を終える確率が高まると言ったほうが正しいか」  レムダは相変わらず淡々とそう説明したが、アリエスは最後の言葉で一瞬喉が詰まった気がした。辺境に住んでいた自分がこれまで異界人に出会ったことがなかった理由が分かってしまったからだった。  夕暮れが近い。アリエスの隣を歩くハルスは、興味深げにレムダの話に耳を傾けていた。  その夜は、結局国軍の目を潜り抜けられそうな適当な宿が見つからず、一行は人目に付かない森の中で野営をすることになった。今日の出来事を共有する話の流れで、何となしに異界人の少年に出会ったことを報告すると、意外なことにリゲルが――正確には育ての母のミラが、一時期異界人と縁が深かったらしいという情報が得られた。 「ちょうどおれを引き取る前後くらいの時期まで、異界人の親しい友人が居たんだってさ。互いに意思疎通の問題は無かったって言ってたから、レムダと同じように神力しんりょくを持っている異界人だったのかもな」  それは初耳だ、とレムダが反応した。ハルスは何だか少し寂しそうな表情でリゲルの話を聞いている。アリエスはその後リゲルとレムダが追加の薪を取りに席を外したのを契機にハルスに話しかけてみようかと口を開きかけたが、メイヴィス王子も同じことが気になっていたらしく、ハルス王女に「何かあった?」と水を向けた。すると、ハルスはいいえ、と微笑して首を横に振る。 「母と兄が、特に異界人の救済と保護に熱心な人だったことを思い出したんです。わたしは父親似で、母の面影はひとつもないとよく言われるから、鏡を見ても母には会えない気がして。だから、この機会に思い出せてよかった」 「そうか。アステル様とリベルタス王子が……」  そう納得したように呟くメイヴィスと同じく、アリエスもそうだったのかという思いを込めて小さく頷くのみに留めた。ラダニエのアステル妃は十年ほど前に、リベルタス王子は七年前に流行り病で亡くなった。そんな噂をいつか聞いた覚えがある。  しばらくしてリゲルたちも席に戻ってきた。アステルはあらためて四人の顔を見回してみる。昼間にレムダが言及していたように、もう何日もしないうちに首都に入ることになるだろう。真実を証明する好機は実質一度きりだ。  けれど、不思議と不安は無い。容易なことではないのは間違いないが、この仲間が居ればきっとうまく行く気がする。アリエスは今、素直にそう思うことができた。 *  その夜、ハルスは夜更けに仮の天幕から抜け出して、ひとり月を見上げていた。今夜は満月だ。  ハルスは元々七人きょうだいだったと周りの人間から聞いている。けれど、七人のうち幼少期を越えられたのは、兄と、二人の姉と、ハルスの四人だけだった。その兄と姉らも、ハルスが水の国シャウラに留学しているうちに大流行した疫病で、相次いで亡くなった。国王を務めていたハルスの兄が急死したので、留学から帰ると、王位継承の順番が回ってきた従兄が王位を継いでいた。  十七になったハルスは、ある日、従兄である新王から呼び出され、我が国と隣国ヘラスとの国交をより強固にするために、お前をディオクレイス王の婚約者に推薦することになった、と告げられた。新王は王宮内で孤立しがちだったハルスを何かと気にかけ、よくしてくれていたので、ハルスは王となったこの従兄の人となりを十分信用している。その従兄の頼みで、母の故郷であるヘラスとの外交においての重要な駒になれることは誇らしかった。 「……あの日も、満月だった」  長かったここまでの旅路を思い返し、彼女は誰に聞かれることもない独り言を呟いた。

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 一行はそこから概ね予定通りの北寄りの行路をとって、五日後にはついに首都に入った。ここからは、道中相談したとおりに動くことになる。  まずは、王宮の前の人目に付きにくい林の中で、待ち構えていた水の国シャウラの使節団と無事に合流した。先行してメイヴィス王子が合流を伝えに行き、アリエスたちが息を潜めてしばらく待っていると、メイヴィスの代わりに、彼と背格好の似通った若い男性が戻ってきて、入れ替わりが成功したと四人に伝えた。フェクダと名乗った彼は、野生動物のように俊敏に草を掻き分け、豪奢な五連の馬車のもとへ四人を案内した。  ここから、さも今しがた使節団が到着したかのように、メイヴィスは正式な賓客として、そして他の四人は外套と目深に被った頭巾フードでシャウラの使節団に変装の上で、堂々と正門から王宮内に入り込む。そこからメイヴィスとハルスはそのまま王城の大広間に進み、メイヴィスがカリオン大臣らの注意を引き付けている間に、他の三人は途中で分かれて王宮北端の尖塔へと向かう。言うまでもなく、ディオクレイス王を牢から解放するためだ。これが彼らの立てた計画だった。 「警備の厚さは……想定の範囲内だな。尖塔に近付けそうか」 「ああ。騒ぎにならないうちに、短期決戦で行く」  早足で北側の棟へと急ぎながら、レムダとリゲルが小声で端的な会話を交わす。王宮北東の庭の脇を通り過ぎようとするとき、不審に思ったらしい二人組の兵士に話しかけられた。三人は素直に立ち止まって話に応じるふりをして、深く被った頭巾フードの下で目線を交わして頷き合い、次の瞬間、二人と一人に別れてそれぞれ別の方向へと走り始めた。一度目に声を掛けられたときは極力騒ぎを起こさないため、更に二手に別れて、まずは黙って逃げる。これも事前に話し合っておいたことだ。ディオクレイス王の救出を第一目的とするアリエスとリゲルはまっすぐ王宮北端の尖塔へ、レムダは必ず妨害しに来るであろうルーデスを探し出して足止めするために、敢えて警備の兵士が多く控える北西方面へと走り出す。  ――どうか、無事で。  自分とは別の方向に走り去るレムダの背中を頭巾フード越しに一瞬だけ垣間見て、アリエスは祈るような気持ちで彼を見送った。  レムダは二人が無事に北塔のほうへ逃げていくのを横目に見送ってから、ひとつ息をついて行動を開始した。手始めに詠唱無しで次々と威嚇のための雷を落とし、周りに集まってきた兵士を含めた一気に五人ほどを蹴散らす。兵士らが怯んだところで中庭を一気に横切り、北端の塔に向かおうとする兵士たちの足止めにかかった。  そのとき、背後から砂を踏む足音がして、レムダは立ち止まった。振り返ると、濃色の長衣を風に翻した一人の男が立っている。華奢なつくりの額飾りに付いている藍色の石が、陽光を反射して一瞬光を放つ。あの日と同じ三叉の鉾を携え、レムダの行く手を阻もうとするように立っているのは、誰あろう、ルーデス・エヴィアその人だった。初めてまともに目を合わせて、レムダは自分でも不思議なことに、腹の底から笑いが込み上げてきた。なぜと言って、この世の全てに絶望したようなその昏い目に、レムダは見覚えがあったからだ。それは、彼らと出会う前の――いや、正確に言えば、あの妙な異界人と出会う前にふと鏡の中に見つけた自分自身の瞳とよく似ていた。  ひとしきり哄笑を響かせて、レムダは紅い貴石ほうせきのついた杖をまっすぐルーデスの心臓に向けた。遊歩道を挟んで、まるでそれと鏡映しになるように、ルーデスもゆっくりと鉾をレムダに向ける。 「――ようやく、お前と一対一の“対話”ができる」  それ以上の言葉は必要無かった。レムダは唇の片端を引き上げて、杖に纏わせた白金色に輝く雷を一直線にルーデスへと放つ。時を同じくして、鉾の先端から突如激しい水流が湧き起こり、蛇行しながらレムダを飲み込まんとしてこちらに向かってくる。規格外の力を持つ二人の魔力は、二人が立つ場所の丁度真ん中で激しくぶつかり合い、とぐろを巻く白と黒の蛇の形となって、互いに競い合うように空へと昇っていった。 *  走り続けるアリエスとリゲルの目に、ようやく尖塔が見えてきた。このまま塔の中まで突っ切れるかと希望を持ったそのとき、やはり背後から鋭い衛士の声がかかる。 「そこの二人、待て。止まれ」  足音からして、走って追ってきているに違いなかった。リゲルはその場で立ち止まって振り返り、牽制のために矢を立て続けに数本放つ。状況を俯瞰してみると、二人組の衛士の後ろに更に五人か六人の援軍が見える。逃げながら相手をするには骨が折れる人数だ。 「……アリエス、先に行け。すぐに追いつく」  リゲルは次の矢を弓につがえながら首を捻り、背後のアリエスに向かって簡潔に伝えた。アリエスは一瞬躊躇したが、本来の目的を思い出したのだろう、覚悟を決めたというように力強く頷き、そのまま旅装の外套を翻して駆けていった。  アリエスは走って、走って、走り続けて、そこここに配備されていた衛士たちの目をうまく搔い潜り、ついに北端の尖塔の前に辿り着いた。地上から見上げると、塔は烏に乗って上空から見ていたときよりも遥かに高く見え、何階建てなのか数えることもできないほどだった。この中のどこかの部屋に王が囚われている。だが、「上階層に位置する、窓の無い部屋」という情報をもとに当たりをつけようとしても、候補が多すぎてとても絞り込めそうになかった。  このまま塔の中に入って、全ての部屋を確認して回ってディオクレイス王を探す?――いや、そんなに時間をかけていては、さっきの兵士たちがまた捕まえにくる。リゲルがこうして足止めしてくれている間に、最短で王様がいる階を特定しなければならない。でも、どうやって……。アリエスは視線を彷徨わせて立ち竦んだ。こうしている間にも、刻一刻と時間は進んでいく。  そのとき、アリエスの頭の中に蘇った言葉があった。『――だけは合格点だな』。  ――そうだ。私が唯一得意な魔術。あの方法を使えば、もしかしたら……。  アリエスはさっそく魔力の流れを意識して掌に集中させる。精霊の声を聴き、空気中に思い描く。瞳の色と同じ、オリーブの葉の色をした貴石ほうせきが呼応する。そして力を一気に解放すると、みるみるうちに変化は起こった。アリエスの掌から緑が芽吹き、その蔓があっという間に尖塔の周囲を取り囲んで、そのまま天へと一気に成長してゆく。ほどなくして、灰色の石造りだった尖塔の表面はすっかり緑の葉と蔓に覆われてしまった。  アリエスは掌を掲げたまま塔を見上げ、敢えて声に出して植物の精霊に呼びかけた。 「教えて。私たちが助けるべき人はどこにいるのか」  すると、上階層のある箇所だけが光苔のように薄ぼんやりと光り始めた。窓がある部屋の左隣の一室。アリエスは塔の中に囚われたときのことの記憶と照らし合わせてひとり頷いた。――間違いない。あそこだ。  そのとき、ちょうど息を弾ませながらリゲルが合流した。見ると、やはり衣のところどころが切れたり汚れたりはしているものの、行動に支障が出るほどの怪我は無いようだ。 「無事か?」 「うん。王様はあの部屋にいるわ」  アリエスが指差した先を目線で追って、リゲルもすぐに頷く。また追手が追いついてこないうちにと、二人は尖塔の入口へと急いだ。 *  メイヴィスはそれと悟られぬように、密かに背後の扉へ視線を遣った。今回のことの真相を暴くには、ハルス王女は勿論、リゲルとディオクレイス王の証言も不可欠だ。だが、ディオクレイスの解放には時間がかかる。それを見越して、メイヴィスはしばらく当たり障りのない話で時間を稼いでおく算段だった。だが、内務官の代表として応対に出たカリオン大臣は、想定よりも早く“本題”に入った。 「いやはや、遠いところをご足労いただいて申し訳ないが、事情あって、まだ婚礼の準備が進んでおりませんで……」  それなら、こちらも応えざるをえない。メイヴィスは自分の胸の音が大きくなっていくのを聞きながら、しかしそれを欠片も見せぬよう、平静を装って切り出した。 「ああ、大臣。そのことについてなのですが、道中、ある人物・・・・と偶然再会しましてね。その人物は私の古い友人なのですが、話を聞いてみると、妙なことが多々あったのです」 「ほう。妙なこと、ですか」  カリオン大臣は唇の片側をわずかに引き攣らせる。しかし、まだ比較的穏やかな微笑を保っていた。メイヴィスはわざと困ったように眉を下げて言葉を継ぐ。 「ええ。まず、その人物は約ひと月もひとりきりで放浪の旅を強いられていたらしく、私と再会したときには、少しでも追手の目を攪乱するために髪を短く切り落とし、衣服などは襤褸同然の状態にまでなっていました。更に、なぜそのような状態になったのかを尋ねると、このヘラス王宮で何者かに暗殺されかけ、からくもこうして逃げ延びてきたというのです。本来ならば、その人物は今頃忙しく婚礼の準備を進めているものとばかり私は思っておりましたので、この現実に直面して大変驚きました」 「何……。まさか」  大臣の顔色が明確に変わった。メイヴィスはそれに気付かなったふりをして、あくまで自分の話す速さを乱さないように留意しながら、落ち着いた口調で話し続ける。 「私はこの件についてヘラス王宮の皆様に事実をおうかがいせねばならないと考え、その人物を――彼女をここまで連れてまいりました。まさか、余計なこととはお思いにならないでしょうね? 彼女は貴国にとっても大切な大切な、王の婚約者・・・・・であるはずですから」  メイヴィスがそっと斜め後ろに視線を送ったのを合図に、外套の頭巾フードを深く被って顔を伏せていた控えの使節がひとり静かに立ち上がる。その人物はゆっくりと頭巾フードを脱ぎ、琥珀色の瞳でひたとカリオン大臣を捉えた。肩を少し越えるところで男性のように切られた紅鳶色の巻き毛が彼女の顔の横に掛かって、頭巾フードの上を滑り落ちる。 「お前は……」  カリオン大臣は思わず椅子から立ち上がり、顔色を失くして震える声でそう呟いた。

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 アリエスとリゲルは息が切れるのも構わず、光苔が示してくれた箇所を時折現れる窓越しに確認しながら、永遠とも思える石の階段を上り続けた。全てが石造りの塔の中では、足音が何倍にも増幅されて大きく反響する。当然、警備の者に全く見つからないというわけにもいかなかったが、リゲルが短剣でうまく攻撃をかわし、その隙にアリエスが先へ進む道を探るということを何度か繰り返すうちに、ついにディオクレイス王が囚われている房の前に辿り着いた。格子状の扉に隔てられた牢の中から、襤褸のような衣を纏っているがそれでも気品を感じる青年が、目の前に現れた二人を驚き顔で見つめている。 「リゲルか。それに、きみは……」  少し声が嗄れてはいるが、あのとき壁越しに聞いた声と確かに同じだと思った。アリエスは扉に駆け寄り、金茶色の豊かな巻き毛を持つ青年に微笑んで手を差し伸べた。 「約束どおり、助けに来ました」  その一言で、青年――ディオクレイス王もアリエスのことを思い出したらしい。彼はただ「ありがとう」と言って牢の扉に近付き、そして――扉に手を掛けるのを一瞬躊躇った。 「……ディオクレイス様?」  アリエスとリゲルは顔を見合わせる。ちょうどそのとき、階下から何人分かの足音が近付いてくるのが聞こえた。下の階で撒いた追手が追いついてきたらしい。この扉の鍵を壊す時間も含めて計算すると、もう本当に時間の猶予が無い。リゲルは開けますね、とひと声掛けて、力いっぱい牢の扉を引いた。すると、次の瞬間、リゲルは拍子抜けした。 「――え」  牢の扉はそのままあっさりと外側に開いていた。元から鍵はかかっていなかったのだ。 「これは、どういう……」  アリエスは戸惑ったが、立ち止まっている暇は無い。 「行きましょう」  埃や煤ですっかり黒くなってしまっているディオクレイス王の痩せた手を取り、アリエスとリゲルは来た道を戻り始めた。すぐにカリオン大臣の命令を受けているらしき警備の者の妨害に遭ったが、リゲルはもちろん、ディオクレイスも萎えた体を自ら叱咤するようにして応戦した。不敬にも最初に王に襲い掛かってきた警備の者から警棒を取り上げ、それを武器にして階下への道を切り拓いてゆく。ディオクレイス王はアリエスとリゲルに支えられ、ふらつく足取りで階段を下りながら二人に話した。 「……私も牢の扉を開けようとしたことがあったんだ。もちろん、鍵が掛かっていないことにも気付いた。だから、逆に危険だと思った」 「危険、ですか」  何だか嫌な予感がして、アリエスは続きを促すように王に尋ね返した。 「ああ。私をここに閉じ込めたのは他でもないルーデスだ。彼なら、扉が開けられたら何か起こるように魔術で細工をしているのではないかと思ってね。だが、杞憂だったのなら良かっ――」  ディオクレイスがそう言いかけたときだった。突如、背後の壁に小さな亀裂が入り、小さな砂の塊が天井から次々と落ちてきた。そこからはまるで雪崩のように早かった。地面が揺れ、石の壁が割れ始め、どこからか低い音が近付いてくる。 「牢の扉が開けられたら、この塔ごと崩れるように魔術が掛けてあったのか。――崩壊するぞ」  リゲルが叫んで、二人を全速力で走るように促した。アリエスは扉に掛けてあった魔術の残滓を読み取れなかったことを悔やんだが、一方で、もし読み取れたとしても、どのみち自分は扉を開けて王を助け出しただろうとも思った。  尖塔は自重に耐え切れず、人が走るのよりも遥かに迅速に崩壊を始める。三人はからくも瓦礫に圧し潰される前に塔の出入口近くまで辿り着いた。だが、ほんの一歩の差で、リゲルの後ろについていたディオクレイス王とアリエスの間に大きな石が落ちてきた。アリエスはその場から動けず、しばらくその場に立ち尽くす。リゲルが大きな石を退かそうとしているうちに、また瓦礫が崩壊する音がして、アリエスの頭めがけて石が落ちてきた。 「――危ない」  リゲルの声とほぼ同時に、アリエスの背後から一本の手が伸びてきて、瓦礫の中に彼女を連れ去っていくのをリゲルは見た。あれは確かに成人の男の手だった。塔の警備についていた兵士か、それとも――。  リゲルとディオクレイスは瓦礫を退かそうとしたが、重い石はそこからびくともしなかった。そうしているうちに、中からくぐもった少女の声が聞こえた。 「私は大丈夫。酷い怪我も無いわ。――行って」  それを聞いて、リゲルはひとまず胸を撫で下ろした。次いで、行くべきかこのまま残るべきか、ひととき逡巡する。しかし、いや、とすぐに思い直した。このあとリゲルは王を連れてメイヴィス王子らが待つ大広間に戻り、多くの官吏たちの前で真実を証言しなければならない。リゲルは苦虫を嚙み潰すような思いで「すぐに戻る」と言い残し、ディオクレイス王を大広間のほうへと促した。 *  賓客であるシャウラのメイヴィス王子を歓待するために大広間に集っていた官吏たちの間に、徐々に困惑とざわめきが広がり始めていた。シャウラの使節の衣装を脱いで長衣姿となったその女性の顔と名前を知らぬ者はこの場にいない。まさに、ディオクレイス王の正式な婚約者たるラダニエのハルス王女その人だった。彼女の向かい側で、カリオン大臣だけが指先を震わせ、瞳孔を大きく開いて冷や汗を流している。 「いや、これは……。まさか、メイヴィス殿とご一緒だったとは」  カリオン大臣は上ずる声でそう喉の奥から絞り出すのが精一杯だった。 「でも、おかしいですよね。市井の噂では、ディオクレイス王が婚約者のハルス王女に唆され、職務を放棄して王宮から逃げ出したということになっているようでした。どなたがそのような噂を流したのかは存じませんが」  メイヴィス王子は薄花色の冷たい瞳でカリオン大臣をじっと見つめて話し続ける。 「ですが、彼女はディオクレイス様と一緒に行動してはいなかった。それどころか、殺されかけて一人で王宮から逃げてきたと言っています」  そう言って、斜め後ろのハルス王女に続きを視線で促す。ハルスもそれを受けてひとつ頷くと、長い睫毛に縁取られた目を伏せ、自身が経験したことを語り始めた。 「……ええ。あれは、秋風が吹き始めた頃の満月の夜でございました。夜半を少し過ぎた時分に、わたくしがお借りしていたへやに来客があり……」  訥々とした語り口だった。広間は水を打ったように静まり返り、しばらくは彼女の落ち着いた声だけが響いていたが、彼女が話を終える前に、我慢ならないとばかりにカリオン大臣が大声で彼女の話を遮った。 「妄言だ。そんな話は、この女が自分に有利になるように勝手に捏造した作り話に過ぎない。その証拠に、ディオクレイス様は今この場の何処にもいらっしゃらないじゃないか。噂どおり、王はお前に唆されて姿をくらまされたのだ。さあ、我らがディオクレイス王を返してもらおうか!」 「…………」  ハルス王女は何も言い返さず、表情も動かさずにただカリオン大臣を見つめている。その姿は、髪を振り乱し、息を荒げて大声を上げるカリオン大臣とは誠に対照的に思えた。  メイヴィスは気付かれぬように密かに背後の入口に目を遣った。リゲルないしはリゲルとレムダの二人がディオクレイス王を連れて現れるとしたら、あの北側の入口からだろう。  ――間に合わなかったか。  時間稼ぎに話を引き伸ばし続けるのにも限界はある。メイヴィスが半ば諦めかけて正面に向き直ったそのとき、北側の入口の外が俄かに騒がしくなり、衛士の困ったような制止の声が広間の中にまで聞こえてきた。 「何だ……?」  広間に集まった官吏らのざわめきが大きくなる。やがてついに入口の仕切り幕が上がり、薄汚れたとしか形容できない二人の人物が堂々と広間に足を踏み入れた。 「浮浪者じゃないのか」 「衛生兵はなぜあのような者をここに入れた? 隣国の王子のための歓待の場だぞ」 「いや……よく見ろ。あれは……」  気付いた者から順に立ち上がって膝をつき、最敬礼の姿勢をとる。二人の男性のうち、赤みがかった茶色の髪のほうは、国王軍所属のリゲル・デルフィス。そして、緩く巻いた金茶色の髪を背中に流しているその人こそが、国軍が血眼になって国じゅうを探し回っていた人物であった。彼は、体が固まってしまったかのように両手で口許を覆って彼を見つめている女性と真っ先に目を合わせた。 「ハルス」  ここに辿り着くまでに萎えた体に無茶を強いたのであろう反動か、彼はリゲルに肩を借りてやっと歩いているような状態で、声も幾分掠れてはいたが、それでも、ハルスにとってはこの数か月の間ずっと聞きたかった声だった。  彼女は一度メイヴィスと目を合わせ、微笑んで頷き合うと、迷わず彼――ディオクレイス王のもとへ駆け寄った。王はリゲルの肩を離れ、ひとりで数歩前へ進んで彼女を抱き寄せる。 「よかった……」  ディオクレイスが耳元で聞いたハルスの声はわずかに震えていた。彼は婚約者を安心させるように彼女の背を優しく撫でて、それから彼女を腕の中に守るように抱き寄せた。そして、淡い茶色の目をリゲルに向けて彼と頷き合う。リゲルはディオクレイスの合図を受け、この場に集まった官吏たちにもよく聞こえるように周りを見回しながら告げた。 「先ほど、仕切り幕の向こうまでハルス王女の話が聞こえてきました。彼女の主張に裏付けが無いと仰るなら、おれが第三者として証言できます。おれはあの夜、確かに見ました。後ろ手に剣を隠し持って王女の部屋を訪ねる見知らぬ兵士を。そして、その兵士と揉み合いになって逃げているうちに、今度はディオクレイス様が捕らえられる現場を偶然目撃したんです。カリオン大臣、あなたの部下であるルーデス・エヴィアが、魔術で気を失った王を北端の尖塔に幽閉しようとしているところを」  官吏らのざわめきがひときわ大きくなった。魚のように口をしきりに開け閉めしているカリオンに、ディオクレイスは静かに一言だけ問いかけた。 「カリオン大臣。牢の中でもそなたに尋ねたことがあるが、同じことを今もう一度問おう。そなたはなぜ、このようなことをする必要があったのだ」  その冷静な声を契機として、カリオン大臣は指先を震わせながら突然声を張り上げた。 「――陰謀だ。これこそ奸計だ。王はあの女狐や国王軍の部下と口裏を合わせて、この私を追い落とそうとしている! みな、そうは思わぬか」  カリオン大臣は焦りのあまり半笑いになって官吏らを見回したが、みなカリオンの視線から逃げるように目を背けるか、目を合わせたくないと言うように深く俯くばかりだった。  この反応が火に油を注いだらしく、ますます逆上したカリオン大臣は王の腕の中のハルス王女を堂々と指差し、一方的な糾弾を始めた。 「お前の――お前のせいだ。お前が最初に大人しく殺されていれば、王を閉じ込める必要は無かった。そう――お前のせいで、当初の計画に変更が生じた。お前の行動が、巡り巡って王に責め苦を与えることになったのだ」  メイヴィスは王女の表情が凍り付いたのを見た。そして、そのままの流れでカリオン大臣を冷たく睨みつける。カリオン大臣といえば、特に前王ケイロス・ヘレニアのもとで内政の手腕を発揮した能吏として南の国シャウラでも知られた存在である。なるほど、責任を転嫁して言い訳を並べ立てるための頭と口だけはよく回るようだ。彼の頭の回転の速さが善い方向に発揮されていたのがケイロス王の御代だったのだろうとメイヴィスは想像し、嘆息せずにはいられなかった。これまでは部外者として極力静観に徹していたが、動揺して黙り込んでしまった王女の代わりに助け舟を出そうと、「それは……」と口を挟みかける。だが、その前に、カリオン大臣の背後にあたる南側の入口のほうで動きがあった。仕切り幕の向こうが騒がしくなったかと思うと、あっという間に衛士が道を開け、立派な身なりをした二人の男性が堂々と広間に姿を現した。 「――そこまでだな。カリオン大臣」  加齢のために幾分しわがれてはいるが、未だ豪放磊落を絵に描いたような太い声でカリオン大臣を牽制したのは、セルバンテス大臣。対して、艶のある金の髪を持つなよやかな面差しの美丈夫は、ディオクレイスの叔父にあたるエフィルスだ。エフィルスは甥のディオクレイスの姿をみとめると、セルバンテスの横をするりとすり抜け、音も無く王の横に付いて身体を支えた。 「……セルバンテス。何故……」  カリオン大臣が奥歯を噛む音がこちらにまで聞こえるようだった。 「何故、ときたか。白々しいにもほどがあるな。わざわざ我々が王宮に辿り着けないように港を閉鎖しようとしたのはお前さんだろうに」  そう言いながらセルバンテスは立派な口髭を指先で整え、呆れたように溜息をついた。 「だが、こちらには聡明で可愛い可愛い孫娘の協力があったものでな。知っての通り、わしは定期的に王宮内の近況を記した手紙を寄越すように彼女に頼んでおいたが、彼女はあるときを境に、わざと手紙を寄越さない・・・・・ことで異常を伝えてくれたのだ。異常事態と分かれば話は早い。あとは、ちょいと港の警備員にお願い・・・をして、強行突破させてもらった」  セルバンテス大臣がエフィルスに向けて片目を閉じると、エフィルスも同意するように嫋やかな笑みを浮かべ、周囲の官吏とディオクレイスに頷いた。  一方、カリオン大臣はもはやセルバンテスの話など耳から耳へと抜けて行っているようで、ひたすら憎悪のこもった目でハルス王女を睨みつけていた。ハルスが瞬きをしてカリオン大臣を見つめ返すと、カリオンは我慢ならないといった様子でハルスに向かって喚き散らした。 「――その目だ。その目で私を見るな。私の敬愛するケイロス様は、無実の罪で、その目を持つ男に処刑された。我々の目の前でだ!」  カリオン大臣は鬼気迫る形相で一歩前に進み出て、今にも王女の首を絞めかねない勢いだった。その前に、カリオンの前にはセルバンテスが、王女の前にはメイヴィスが一歩進み出て彼女を護った。  ここまで事態を静観していたメイヴィスだが、ことここに至っては、流石に口を開かずにはいられなかった。自分でも分かるほど、思ったよりも冷たく硬い声が響いた。 「部外者が出過ぎたことを申しますが。カリオン大臣ほどのかたが、本当にそのような非論理的な理由で、大の大人が複数人で寄ってたかって、王の監禁という大きな問題を起こしてまで、まだ二十にもならないたった一人の女性を追い落とそうとなさったと仰るのですか」  メイヴィスは公的な使節としての立場を弁えた大人なので、“恥ずかしくはないのか”とは流石に口には出さずにおいたが、実質ほぼそう言ったも同然だった。案の定、セルバンテス大臣が前に進み出てきて取りなすように言った。 「まあ、メイヴィス王子。誠にご指摘のとおりでお恥ずかしい限りだが、カリオン大臣は、本当にケイロス様を深く慕っていたのだ。――だが、だからといって、此度の所業が許されるということには当然なるまいな。カリオン大臣。そなたは、十三年前の前王処刑の折に、立ち尽くしているだけで何もできなかった自分を許せなかったのだろう。その悔恨から来る怒りを、デモクラトス王を思い起こさせるという理由をつけて、ハルス王女に転嫁していたのだな」  セルバンテスの冷静な分析を片耳で聞きながら、ハルスは眉間に深く皺を刻んだカリオン大臣を改めて見つめた。『自分自身の責任ではない事にまで罪悪感を覚えて生きるのは、息が詰まるだろう』――レムダに言われた言葉が頭の中に蘇る。その言葉について、このひと月あまりの旅の間、ずっと考えてきた。ハルスは自分の立場も、自分が外交の駒でしかないことも十分に理解している。そのうえで、父がこの国の当時の王に――ディオクレイスの叔父に行ったこととどう向き合い、どう振る舞うべきかを考えた。  けれど、考えたところで答えは出ない。――それなら、ただ、今この瞬間の自分の心に沿って行動するだけだ。  ハルスは深く頭を下げた。だいぶ染色の落ちた紅鳶色の髪がひと房滑り落ちて顔の横に掛かった。 「わたくしは、父の所業を擁護する気も言い訳する気もございません。この国にとってわたくしが邪魔な存在であれば、ラダニエに送り返すなり、どうぞ然るべきご対応を。ただ、わたくしは貴方個人ではなく、ディオクレイス陛下のご決断に従うのみでございます」  あの襲撃の日に感じた混乱と恐怖はもう無い。長い旅の間に溶けて消えてしまったのだろうと思った。いま彼女の心は不思議なほど静かに凪いでおり、ただ目の前の男に対しての憐れみだけがあった。ハルス王女は緊迫したこの場にそぐわないとすら言える穏やかな微笑みを浮かべ、落ち着いた声で続けた。 「わたくしはディオクレイス様のお人柄を深く尊敬しております。もしこのまま妃としてヘラス王室にお迎えいただけるのであれば、ヘラスとラダニエ両国の和平の構築と維持のために生涯を捧げる所存でございます。この旅の間に、本当に多くの助けを受け、美しい国土を目にしてきましたから」  孤独な逃避行の日々と、それから、仲間とのこれまでの旅を思い出す。視界の端で、メイヴィス王子が微笑んだのが分かった。  ハルスが言葉を切ってから二呼吸後に、周囲の官僚の声がひとつ、ふたつとその場に広がり、やがてそれらは大きなうねりとなって広間じゅうに満ち満ちた。そのほとんどすべてがカリオン大臣を糾弾し、その随従であった魔術師を糾弾し、この国の真の王の帰還を言祝ぐものであった。  その熱気のなかで、メイヴィス王子は喧騒から一歩引いた場所へと静かに移動し、そっと安堵の息をついた。

4

 王宮北端の尖塔――いや、先刻まで塔だったものの残骸の周囲は、あれほどの轟音が嘘だったかのように静寂に包まれていた。それは塔の崩壊が終わったことを示している。そして、アリエスは細かい砂がかつて天井だった瓦礫から時折音もなく降ってくるのを呆然と眺めていた。身動きはとれなかった。高位の官吏であることを示す濃色の長衣を纏った人物が、アリエスを守るように覆い被さっていたからだ。その人物が持つ黒い髪が重力に従って肩口から流れ、アリエスの顔の上に掛かってそのまま地面に投げ出されている。  やがて、彼は低い呻き声を上げ、やっと力を振り絞るようにして、自身の背に載っていた大きく鋭利な岩を地面に落とした。それが地面に落ちたときの音から、どれだけ重い岩だったかがアリエスにも分かった。  彼が緩慢に顔を上げた。顔色は蒼白、高級そうな長衣は大きく裂けており、たとえ立ち上がったとしても地面を擦って歩くことになるだろう。更に、彼の脇腹辺りは赤黒く変色した血で染まっていた。彼は痛みに歯を食い縛りながらも、何とか瓦礫に背を預けて楽な体勢で座り込もうとしているようだったが、左の脚の膝から下は力が入っていないように投げ出されていた。脚の骨が折れてしまっているのだろうとアリエスは冷静な頭で考えた。  アリエスは彼を知っている。彼がアリエスの方を向くと、彼が身に着けている唯一の装飾品である銀の額飾りがかすかに音を立てた。その中心に嵌まっている石は、彼の瞳と同じ深い藍色だ。――忘れるはずもない。 「師匠せんせい。……どうして」  彼もいま目の前に居るのが弟子であることには気付いていたはずだが、それでもルーデスはアリエスの声を聞くとはっと反応を見せた。アリエスは怒りと混乱のために震える声で続けた。 「どうして私を庇ったの。あなたにとって私は敵よ。私は、あなたたちが排除したがっていた王女様と王様の身を守るためにここにいる。彼らの無実を証明するためにここまで来たんだもの」  そう話しているうちにも、ルーデスは時折目を開いたり閉じたりして、間欠的な細い呼吸を繰り返しており、おそらくは血を流しすぎたために気を失いかけているのであろうことが分かった。彼がここまでの状態になったのが、今アリエスを庇ったためなのか、それとも足止めをしたレムダの攻撃魔術のためなのかはもう分からない。アリエスに分かるのは、おそらく彼の命がもう長くはたないということだけだった。けれども、このまま目を逸らさずに見届けなければいけないとも思った。  ルーデスは答えなかった。代わりに、彼の目線の先の瓦礫の縁にちょうど絡みついていた植物の蔓に目を遣った。アリエスが先ほどディオクレイス王を探すために使った魔術の残骸だ。それを見ると、ルーデスはふと唇の端だけで笑って「懐かしいな」と呟いた。 「私はほとんど魔力の制御方法しか教えなかったが、それでもおまえが自然に学びたがった魔術のなかで最も出来がよかったのが、植物を操る魔術だった」 「……昔話をしに来たんじゃないわ」  アリエスは緩く首を横に振ってそう言うのが精一杯だった。ルーデスは震える唇の片端をやっと引き上げて、掠れた声で答えた。 「では、架空の話・・・・をひとつ聞いてくれるか。私がずっと誰にも話さず、胸のうちに留めていた話だ」  こんなときに何を――とアリエスが言い出す前に、彼は掠れた声で途切れ途切れに話し始めた。 「――今から二十余年前、あるところに、何処にも行く当ての無いひとりの子どもがいた。その子どもは、こことは別の世界から偶然迷い込んだ人間だった。いわゆる異界人だ。異界人は通常、この世界の言葉を知らない状態で迷い込む。その子どももそうだった。今でこそ、“クロノス事件”を経て異界人はほとんど流入してこなくなったが、当時は年間に相当の異界人が時空のうろを通ってこの世界に迷い込み、社会問題になっていた。異界人を管理する団体の人間は、言葉の通じないその子どもには取り急ぎ保護者が必要だと判断し、手近なところに住んでいたとある老夫婦に子どもを預けた。  息子や娘を持たない老夫婦は、初めのうちはその子どもを可愛がった。しかし、子どもを引き取ってしばらく経つと、奇妙なことが起こるようになった。締め切っている部屋の中で突風が吹いたり、火付け石も使わないのに薪に急に炎がついたり、食器がひとりでに浮いたり、異常の種類はさまざまだった。奇妙な現象は、決まって子どもがその場にいるときに起こった。――そうだ。その子どもは魔術の才を発揮し始めていた。だが、まだ四つになったばかりだったその子どもは、有り余る自身の魔力を制御するすべなど知るはずがなかった。  老夫婦は次第にその子どもを避けるようになった。食事は残飯や野菜の切れ端のみを渡し、狭く不衛生な小屋のような場所にその子どもを隔離して放置した。  その生活が続いてしばらく経った頃、決定的なことが起こった。ある日の夜遅く、その子どもは厠に行くために密かに小屋を出た。厠に向かうには、老夫婦が暮らす母屋の団欒室の傍を通る必要がある。そのとき、子どもは聞いてしまった。『あの子は気味が悪い。あの子がいるとおかしなことばかり起こる』『裏手の森に捨ててこよう。何かの事故か病で死んだと言っておけば、誰も疑うまい』と老夫婦が話し合う声を。  老夫婦は子どもが偶然話を聞いていることを知らなかったし、よしんば聞いていたとしても、徹底的に無視して暮らしているのだから、この世界の言葉なんて分かりやしないと高をくくっていたのだろう。だが、幸か不幸か、語学の才があったその子どもは、既に老夫婦の喋る言葉を独力で読み解き、ほとんど理解できるまでになっていた。そして、そのことは――老夫婦にとっては明確に不幸なことだが――子どもの魔力が抑えきれずに爆発する切欠を作ってしまった。  その子どもの強すぎる魔力は感情の制御を失い、留まることなく暴走した。その力は刃となって老夫婦の心臓を貫いた。子どもが我に返ったときに目にしたのは、血塗れで横たわる老爺だったものと老婆だったものの残骸だった。  その子どもは気が動転してそこから逃げ出した。逃げて、逃げて――元いた村からどこまで来たのか自分でも分からなくなった頃、立派な身なりをした親切な青年たちに声をかけられた。青年たちは子どもに名を尋ねた。――その子どもは、ルーデス・エヴィアと名乗ることにした。かつて自分が殺した老人の名・・・・・・・・・・だ」  アリエスは息を呑んだ。話を聞いているうちに、彼の語るこの話が架空の話などではないことは彼女にも解った。エヴィア村の墓地で見つけた、“ルーデス・エヴィア”の名が刻まれた墓石。その墓石の前で立ち尽くしていたときの光景が脳裏に蘇る。あれは、いまアリエスが対峙している彼自身の名前ではない。子どもだった彼を引き取った老爺の名前だったのだ。 「……それから、私は強力な魔術の腕を買われてカリオン大臣の養子に迎えられ、時の王に重用されて日々を過ごした。だが、“クロノス事件”の数年後、官吏の一人として魔術師の村に視察に向かったときだった。その村は焼き討ちに遭った直後で、酷く荒廃していた。  私は孤児が集まる広場のような場所に案内された。そこで、丸い目で私を見上げてくる子どもと目が合った。私がこの世界に迷い込み、孤児になったときとそう変わらない歳の頃の子どもだった」  彼の深海の色をした瞳はしばらく虚空を彷徨っていたが、再びアリエスを捉えた。アリエスは息もできずに、生来の丸い目・・・をさらに丸く見開いて、彼の話を少しも聞き逃すまいとしていた。 「それで、私は気紛れにその子どもに名を尋ねた。子どもは首を振るばかりで答えなかった。案内してくれた兵士に尋ねてみると、この子どもは魔術の才があるようだが、両親を亡くした心の傷が深く、両親との思い出も自らの名前も思い出せなくなってしまったのだという」 「…………」 「だから私は、名を無くしたその子どもに、十二年前に捨てた自分の名前をつけてやった。もう私が誰からも呼ばれることのない、その名前を」  アリエスは震える手で口許を覆って首を振る。続きを聞きたいのに聞きたくなかった。 「その子どもがおまえだ。アリエス」  ルーデスの――ルーデスという名を自ら背負った人間の乾いた唇から、真実が告げられる。どうして、という呟きは言葉にならなかった。  彼は薄く笑った。実際は、それは顔の筋肉を少しばかり動かしただけのひどくいびつな笑みであった。けれど、そのなかに彼なりの優しさが隠されていることがアリエスにだけは分かっていた。 「その名前は、穢れを知る前の、血のにおいを知る前の、まだ無垢だった私の姿をかたどったものだ。だから、勝手なことだとは承知しながらも、お前にそれを持っていてほしいと願った。それが、お前に魔術師として生きろと言えなかった理由だ」  低い掠れた声とともに、無数の傷がついた枯れ木のような腕がアリエスの方へと伸びてきて、その指先がかすかに彼女の頬に触れる。 「まさか、このような形で再会するとは思っていなかったが。――大きくなったな」  昔馴染みとの再会を喜ぶために、ここまで旅をしてきたわけではない。国王や大事な友人を傷つけたこの人を止めることが目的だったはずだ。それなのに、彼の指先がアリエスの頬を軽く撫でた瞬間、彼女の目から涙が一粒零れ、砂と瓦礫で汚れた手の甲に落ちて小さな音を立てた。アリエスは涙を止めることができないまま、それでも震える声で尋ねる。 「師匠せんせい。あなたは、どうしてこんなことを? カリオン大臣の命令がそんなに大事?」  すると、彼はアリエスの頬を撫でるのをやめ、破れた黒い衣の上に力無く腕を投げ出した。そのままうつろな目で斜め上の虚空を眺めて、何かを諦めたような声音で呟くように応える。 「……あのかたは、本来お優しいかただ。王宮の者に保護された私をわざわざ養子に迎え、初めて居場所をつくってくれたのがあのかただった。だから、他の誰に否定されようとも、自分だけは最後まであのかたの味方でいなければならなかった」  アリエスは何も言えなかった。ルーデスが息をしづらそうにして、二度三度と俄かに咳込んだ。気付けばアリエスの喉の奥にも息苦しさが纏わりついていた。泣いたせいもあるが、空気の通らない狭い場所でずっと話していたために、酸素が少なくなってきているのだ。無意識に首を巡らせて瓦礫の隙間を観察する。どこか崩せそうなところは無いか、脱出できそうな間隙は無いか――。  そのとき、土と瓦礫が崩れる音がして、アリエスは反射的に音がした方角を振り返った。辺りを確認するまでもなく、何が起こったのかはすぐに分かった。 「アリエス。無事か」  瓦礫が取り除かれて、夕陽が鋭く目を刺す。夕映えを背にするようにこちらを覗き込んでいたのはリゲルだった。約束どおり、助けに来てくれたのだ。 「ここはじきに崩れる。早くこっちへ」  リゲルの言う通りだった。塔の崩壊は絶妙な均衡を保って一時的に止まっていたが、いまリゲル達がアリエスらを助けるために瓦礫を大きく動かした衝撃で、また崩壊が始まろうとしていた。 「この人も一緒に……」  アリエスがルーデスのほうに目を遣って思わずそう言いかけると、リゲルは黒い血に染まったルーデスの腹部と脚の様子を一瞥して、すぐに残念そうに首を横に振った。 「あとで戻ってくることはできる。ただ、まずはおれたちがここを出るのが先だ」  アリエスは躊躇ったが、首を縦に振るしかなかった。最後にもう一度ルーデスを振り返ると、彼は唇の端を動かして僅かに微笑む。そして、藍色の石が付いた銀の額飾りを外し、震える指でなんとかアリエスにそれを握らせた。 「私の元の名は、力強く天を駆ける黄金の羊のように人生を切り拓いて行け、という願いを込めて付けられる名前だったらしい。幼い頃に別れた両親の顔はもう思い出せないが、不思議と、そう教わったことだけは覚えている」  精緻な彫刻が施された額飾りは、やけに涼やかな音を立ててアリエスの掌へと滑り落ちる。アリエスは何か言おうと口を開きかけたが、声にはならなかった。代わりにルーデスが口を開いた。まるで終止符を打つように。 「アリエス。幸せになれ」  その一言は「さよなら」と同義であることがアリエスにはもう分かっていた。収まったと思っていた涙がまた溢れ出して頬を滑り落ちた。  それからどうしたかは、よく憶えていない。確か、リゲルがアリエスの手を引いてくれて、二人はすんでのところで塔の崩壊に巻き込まれるのを回避することができたのだったと思う。後に残されたのは、砂埃に覆われた石がいびつに重なった瓦礫の山だけ。それはまるで、ひとつの巨大な墓標のようにも見えた。

終章:灯火

 数日後、ディオクレイス王とハルス王女の婚礼の儀が無事に執り行われた。国王軍所属のリゲルはともかく、アリエスには元々祭儀への参加資格は与えられていなかったが、王と新王妃の計らいにより、レムダらとともに二人の婚礼を見届けることとなった。  王の婚礼は一種の祭儀と位置づけられ、夕暮れから夜間にかけて執り行われるならいとなっている。祭壇に見立てられた円形劇場の舞台へ、豪奢な月桂冠を戴いた王と王妃が厳かに進み出てきた。二人は舞台の中央まで進むと、歩みを止めて向かい合い、しきたりにならって指環を交換する。王から王妃に贈られる指環は銀の環に橄欖石を嵌め込んだもの、王妃から王へと贈られる指環は金の環にラダニエの赤土を表す柘榴石を散りばめたものだ。互いの指に指環を嵌め、顔を上げた二人が微笑み合うのが、一番遠くのアリエスの席からでも確認できた。  厳粛な祭儀が終わると、一転して華やかな祝宴が始まる。この宴は夜通し続く。アリエスがふと周りを見回すと、先ほどまで一緒にいたはずのレムダは、祭儀だけ見届けて早々とどこかへ消えてしまったようだった。 「もう……」  アリエスのほうも、こういった場に慣れているわけではない。着慣れない濃染めの長衣の裾が絡まらないように注意しながら、燭台や豪華なご馳走が載った卓の間をすり抜け、談笑する官僚らの横をそっとすり抜けて、とりあえず人の少なそうな会場の端を目指すことにした。その途上で国王軍の兵士たちの集まりと行き合い、正装して警護用の弓矢を携えたリゲルとふと目が合った。すると、リゲルは軽く目を見開いて、隣の兵士に何か一言話しかけると、彼に弓矢を預けてアリエスのほうに向かってくる。 「ここに居たのか。このお祭り騒ぎだからな、主役のハルス様や賓客扱いのメイヴィス様にはなかなか話しかけられなくて退屈だろ。ちょっと抜け出そう」  それだけ言うと、リゲルは悪戯っぽく笑って、返事も待たずにアリエスの手を引く。アリエスは「えっ、どこへ……」と戸惑いながらも、リゲルと手を繋いだまま、宴の灯りが届かない夜の森の中へと駆け出した。  リゲルに連れ出されたのは、王宮の北西の端に位置する神殿の裏の小高い丘の上だった。森の中が暗かったので、アリエスは丘の上に出ても暗いままかと思っていたが、辺りは不思議とほのかに明るかった。月と星の明かりのためばかりではない。リゲルが指差す北西の方向を遠望すると、城下町の家々に、そのまた先の町や村に、点々と灯りがともっているのが分かった。 「さっき、こっちのほうの警固に当たってたときに、この丘から町の灯りがついてるのが見えるって気付いたんだ。だから、あんたにもこの光景を見せたかった」  以前、魔鳥に捕まって上空から町を眺めたときは、灯りはひとつも点っていなかったのに。魔鳥の脅威が去ったことが城下町にまで伝わり、竈に火を入れて夜には灯りを点す日常が戻ってきたのだろう。その灯りはひとつふたつと連なって、遥か北西のフォーマルハウト村の方にまで続いている。それは、アリエスにとっては故郷への帰り道の標となる灯火だった。 「……十三番目の女神、か」 「え?」  アリエスが思わず訊き返すと、リゲルは人好きのする茶色の目を細め、「感謝してるのさ」と歯を見せて笑った。 「今回のことはこの国の歴史に残るんだろうけど、ディオクレイス王やハルス王女のことは記録に残っても、あんたの名前はきっと表には出ない。でも、表に出ないからといって、偉大なことを成し遂げなかったということではない。そう思ったら、神山しんざんの十二神に数えられていない竈の女神を思い出してさ。ほら、魔術で松明を灯したときに、あの少年ニコスに言われただろう。竈の女神みたいだって」  アリエスは目を丸くしてリゲルを見つめる。それから、リゲルの笑みにつられる形で微笑んだ。 「それは、あなたやレムダも同じよ。……ありがとう。私をここまで連れて来てくれて」  アリエスは自然にリゲルのほうへ片手を差し出す。リゲルも、うん、と頷いてその手を取り、二人は美しい月明かりのもとで握手を交わした。そして、互いの手を握ったまま、山々が連なる城下町の夜景に再び目を投じる。家々に点った小さな無数の灯火が、繋がれた二人の手の輪郭を照らしていた。 *  彼は王と王妃らに対するひととおりの挨拶を済ませ、また次の春にでも再会することを約束して、随従らとともにシャウラへの旅支度を始めた。あの大広間での一件からは既に十日近くが経過していた。近いうちに、ヘラスと祖国シャウラとを繋ぐ海道も安全確保のために閉鎖されることになっている。本格的な冬が来るのだ。その前に早々に港へ向かう必要があった。 「メイヴィス様」  名を呼ばれて振り返る。女性の声のようだが、このような声の随従は居ただろうかと思っていたら、振り返った先に立っていたのは女官のエレアだった。聞けば、メイヴィスに皮袋かばんを渡してくるようにフェクダから言いつかったらしい。 「――改めて、お疲れ様。事後対応、大変だったんだって?」  話しやすいように人の行き来の少ない木陰のほうに移動しがてらエレアに尋ねると、彼女は「ええ、まあ」と苦笑した。そして、すぐに表情を仕事用の真剣なものへと変え、落ち着いた声で事の顛末をメイヴィスに報告する。 「カリオン大臣は、ディオクレイス様によって即座に大臣の職を罷免されて地下牢へ。代わりに、魔鳥によって市井から攫ってこられた八人の婦人たちがその地下牢に閉じ込められていたらしいのですが、彼女たちは無事に解放されました」  メイヴィスはヘラス王宮への旅のなかで幾度となく遭遇した魔鳥の姿を思い出しながら、そうか、と相槌を打った。では、もう町の人々が魔鳥を恐れて家の灯りを消し、隠れるように生活する必要は無いのだ。 「それから……崩壊した北端の尖塔の瓦礫の中から、男性の遺体を発見。王宮付きの魔術師、ルーデス・エヴィアのものでした。直接の死因は、瞬間的に大きな魔力の負荷がかかったことによる内臓の損傷だそうです」  メイヴィスは神妙に頷く。エレアもひととき祈りを捧げるように目を伏せ、それから思い出したように首を傾げて続けた。 「けれど、ひとつ妙なのが、彼が魔術を使うためにいつも身に付けていたという貴石ほうせき付きの額飾りだけが見つかっていないらしいです。魔術師が用いるのは希少価値の高い石というわけではなく、どこでも採れる平凡な石にその魔術師固有の魔力を込めたもの。こんなことは今や三国共通の常識ですから、火事場泥棒などでは無いとは思うんですが……だからこそ不思議なんですよね」 「それは……不思議だね」  リゲルやアリエスからその辺りの大まかな事情を既に聞いていたメイヴィスは、目の付け所の鋭いエレアからそっと視線を外しながら若干の棒読みで答えた。エレアはメイヴィスのその反応に軽く首を傾げ、しかしそれ以上は追及しないことにしたのか、斜め上に視線を投じて話題を変えた。 「ああ、額飾りのことは置いておいて……。そうでした、カリオン大臣についての続報があります。法官が言っていたんです。カリオンが今回のことを起こした動機は、あの広間で告白した内容だけではないようだと」  エレアは一旦言葉を切り、二人が今立っている木陰の足元に視線を落とした。そこには大きくうねる樹の根が、互いに絡み合って折り重なるように地面から姿を見せている。 「自身の足元が崩れるのを恐れていたんです。近年、ディオクレイス王は東の村の飢饉や北東地方の竜巻被害への対応として、官吏への褒賞や官吏の数自体の削減を推進していた。そして、ここ十年ほどは、お祖父様――セルバンテス派の官吏がずっと重用されていたそうですから、カリオンはその時勢や天秤の傾き具合を敏感に感じ取って、“自身の立場が危うい”と警戒を強めていた。わざわざディオクレイス王が会いたがっているという名目で魔術師ルーデスを王宮に呼び寄せたのも、切り札としていつでも使えるように傍に置いておきたかったからでしょう。そして、そのさなかに偶然東の国ラダニエの王女とディオクレイス王との婚約の話が持ち上がった」 「成程。結局ハルスは、カリオン大臣が政敵を追い落とす理由を作る為に都合良く利用されたわけだね」  メイヴィスは顎に指を充てて考え込む。エレアも苦い顔をして同意した。 「カリオン自身も、最初の計画ではハルス王女だけを暗殺しようとしていたと言っていましたね。適当な理由をつけて、結婚相手としてハルス様を推したエフィルス様やセルバンテス大臣の責任問題にするのが狙いだったのでしょう」  詳しい話を聞くたびに、メイヴィスの唇から自然と溜息が漏れる。エレアはそれをちらりと見て、付け足すように続けた。 「けれど、ひとつだけ。お祖父様も言っていたように、カリオンの前王ケイロス様への忠誠心自体は、きっと偽りではなかったんだろうと思います。だからこそ、急遽計画を変更してディオクレイス王の拘束という罪を重ねることになっても、王にそれ以上積極的に危害を加えようとはしなかった。ケイロス様が次代の王として守ろうとしていたディオクレイス様の命を取ることまでは出来なかった」  メイヴィスは改めてエレアと目を合わせて頷く。彼も同意見だった。それは単に前王ケイロスの功績というだけではなく、カリオンの中に残っていた忠誠心や良心のおかげというばかりでもなく、きっとディオクレイス自身の日頃からの人徳の要素も大いに影響したのだろう。いつもあたたかい笑みで迎えてくれる、少し年上の誠実な青年王の姿を思い出すと、そう思わざるをえなかった。  此度の騒動を王宮内でずっと観測している立場だったエレアとしても、ディオクレイス王とハルス王女が駆け落ちをしたという噂については最初からおかしいと思ったそうだ。 「だって、私は学舎の訪問に来てくださった何回かしかお会いしたことはなかったですけど、それでも、王宮内の評判を聞くに、王様は誠実であたたかいお人柄で、周囲に慕われていらっしゃいました。王女様も、学舎に立ち寄られると優しく話しかけてくださって、聡明なお方であることがすぐ分かりました。そんなお二方が駆け落ちだなんて、とても信じられなかった。何か別の理由があるはずだと思ったんです。だから、どうしても真相を知りたくて、ディオクレイス様に食事をお持ちするお役目を務めさせてほしいとお願いしました。私は王宮内の派閥などのしがらみの無い新任の外国人ですから、比較的警戒されづらいかと」  そうか、とメイヴィスは頷いて微笑んだ。高官の娘に生まれながら両親を海難事故で早くに亡くし、シャウラ王宮の片隅で慎ましい生活を余儀なくされていたエレアに、祖父のもとに身を寄せるという名目で異例中の異例とも言える留学許可を出したのは、他ならぬメイヴィスだ。彼女の機転と勇気が我がことのように嬉しかった。  この先、故郷シャウラには数日の航海で辿り着く。シャウラに帰ったら、メイヴィスも自国の王位継承問題と向き合わねばならない。メイヴィスのほうは王位など欲していないのに、姉や兄たちによって争いに巻き込まれそうなのだ。――けれど、不思議と何とかなる気がした。肉親から敵意を向けられようとも、シャウラの王宮内にも味方はいる。異国の友人や仲間も出来た。自分の掌の中には沢山の大切にしたいものがある。それだけ分かっていれば、きっと進んで行くことができる。 「報告ありがとう、エレア。私はそろそろ行くよ」 「ええ。お気をつけて」  エレアは、祖父セルバンテスと同じく湖の色をした瞳を細めて、晴れやかに彼を見送った。 *  メイヴィス一行がヘラス王宮を出発した二日後のこと。ヘラス国中央付近の街道を、共も付けていない一頭立ての馬車が粛々と歩を進めていた。アリエスは幌の隙間からそっと外の様子を窺ってみる。  あれから、ハルスとは近いうちにきっと報せを送るという約束を交わし、レムダとも別れる前に少し話ができた。レムダはどういう風の吹き回しか、しばらく王宮に残り、異界人と意思疎通ができる能力を活かして異界人救援の仕事にあたるそうだ。アリエスは、あの日ルーデスと対峙したときにどんな会話を交わしてどんな変化があったのかをレムダにそれとなく訊いてみたが、それはどうやら規格外の力を持つ魔術師同士にしか解らないことのようで、レムダの口からは教えてもらえなかった。でも、それで良いのだとも思った。本人同士だけが解っていれば良いことだ。  馬車の車輪が道の脇の小石か何かに接触したようで、音を立てて左右に揺れた。――もうじきフォーマルハウト村の入口に到着する。魔鳥と国軍の目を避け、森の中へと迂回しながらふた月ほどもかけて進んできた旅路は、大きな街道を馬車で突っ切ればたった五日の道のりだった。 「本当にここまでで構わないのか」 「うん、ありがとう。ここからは歩いて行く」  王宮から借りた馬車はそのまま村の中にまで入って行こうとしたが、アリエスはそれを断って、村の入り口の少し手前で馬車を下りた。リゲルも一旦馬車を下りてアリエスと向かい合う。 「また会おう」  アリエスは目を細めてただ頷いた。 「落ち着いたら、おれの故郷にも遊びに来な。歓迎する」  この馬車はこのまま彼の故郷の町へと向かうことになっている。リゲルは単に、そこからの連想でこう付け足してくれたのだろう。けれど、アリエスが「ありがとう」と頷く前に、彼女の頭の片隅に、村の娘の一人が言っていた言葉が勝手に流れ始めた。『今度僕の村に来なよ、って言われたんですって。それって――』。  心なしか頬の辺りが熱くなるのを感じながら、慌てて頭の中の声をかき消す。やがてリゲルがなかなか返事をしないアリエスに首を傾げてしまったので、取り繕うように「ううん、なんでもないの」と頭を振った。  アリエスはリゲルを見送り、自分の足でフォーマルハウト村へと歩き始めた。彼女が抱えて歩く皮袋かばんの閉じ口には、目の覚めるような藍色の石が括りつけられている。かつてはとある魔術師の額飾りとして使われていたその装飾品は、柔らかい麻の色をした皮袋かばんと合わせると少々浮いてしまっている。それに、外套の裾も急拵えで繕ったものがまたほつれかけているし、首飾りの鎖の一部には異なる金属が使われていて、微妙に左右の均衡が取れていない。でも、このままでいいと思った。これが私たちの旅の証しだから、このままがいい。  村への一本道に入る手前で、見知らぬ老女が困った様子で背の高い樹を見上げているのが目に入った。声を掛けて事情を聞いてみると、帽子ペタソスが飛ばされて木の枝に引っかかってしまったらしい。  人前で魔術を使うことへの躊躇はもう無い。アリエスは大丈夫、と頷いて、風の精霊の力を借り、帽子だけを浮かせて老女のもとに返してやった。首飾りの中央についているオリーブの葉の色の石が、魔術を発動させている間だけ淡い光を放って、また何事も無かったように元通りの石に戻る。老女はその一連の出来事に驚きつつも、喜んでアリエスから帽子を受け取った。 「まあ。有難う。あなたは……」 「魔術師です。まだほんのひよっ子の」  考える前に、口をついてその言葉が出た。――そうだ。私は、フォーマルハウト村のアリエス。尊敬する二人の魔術師から魔術の手ほどきを受けた、辺境の魔術師だ。村に到着して友人たちと再会したときにも、今度は隠したり誤魔化したりせずに、胸を張ってそう言える気がした。  アリエスが老女を見送って踵を返した拍子に、皮袋かばんの紐に括りつけた銀の鎖が揺れる。その中心に嵌まった深い藍色の石がまるでアリエスに返事をするように、小春日和のあたたかい日差しを反射して、ほんの一瞬、輝いて見えた。 《終》
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