だだっ広い草原に寝転んだあたしは、呆然と空を見上げるしかなかった。ああ、空が綺麗。都会みたいに、広い空を遮る邪魔なものがひとつも無くて……。
そこまで考えて、勢いをつけて飛び起きた。いつまでもこうやって現実逃避をしているわけにはいかない。見たところ、いま自分は現代の日本ではない場所に居る可能性が高いのだから、まずは現状を把握せねばならない。
大体、いったい誰が予想できるだろうか。ある日の放課後、今年入学したばかりの高校の廊下を普通に歩いていたら、偶然廊下の壁に人ひとりが通れそうなくらいの不自然な黒い穴が空いていて、興味本位でちょっと近付いてみただけであっという間にそこに吸い込まれてしまっただなんて。
それきり気を失ったあたしは、気付いたらこの草原にこうして寝転んでいた。倒れ込んでいたと言ったほうが正しいかもしれない。ともかく、学校の廊下を歩いていたときはもう日暮れが近かったはずなのに、目が覚めたら視界の全面に美しい青空が広がっていたので、もし自分がまるまる一日近くここでこのまま気を失っていたのでなければ、日本との時差の概念すら存在しない何処か違う時空に飛ばされてきてしまったのではないかと推測したのだった。或いは、もしこれが夢だったら簡単な話だっただろうけれど、残念ながら、いつの間にかどこかでぶつけたらしい膝小僧の鈍い痛みがそうではないことを示していた。
まずは立ち上がって太陽を探してみる。白く輝く太陽は空の一番高いところよりも少し下にあった。午前十時半くらいか、午後一時半くらいかな。でも、午後特有の少し赤みが混じった陽射しではないようなので、おそらく午前中であろうと推測する。
次に、制服のスカートのポケットに入れてあったはずの携帯電話を探してみる。もしかしたら千紗や美央ちゃんに連絡できたりしないかな。
携帯電話はすぐにポケットの中から見つかったが、画面に表示された「圏外」の二文字によって、一縷の望みは無残にも打ち砕かれた。そうだよね。まず現在地が地球上なのかすら定かでないこの現状で、現代先進国基準の通信基地が整備されてる確率なんてめちゃくちゃ低いよね……。
この携帯電話だって、今後充電がゼロパーセントになったら、出来ることはいよいよ何もなくなってしまう。あたしはひとつ溜息をついて肩を落としたまま、仕方なくとぼとぼと歩き出した。
広大な草原をどこへともなく闇雲に歩き続けていると、ほどなくして、砂っぽい土を平らに均した細い道らしきところに出た。どうせ当て所もない道行きだからと、とりあえず曲がりくねったその道に沿って進んでみる。しばらくすると、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。白い衣を片方の肩に掛けただけの簡素な服装の男性二人組のようだ。開けた一本道だから、当然隠れる場所など無い。どうしようかと右往左往しているうちに、あっという間に彼らと目が合ってしまった。片方の男性が何か話しかけてきたけれど、彼の話す言葉はあたしにはひとつも解らなかった。適当に愛想笑いをして誤魔化すしかない。やがて、男性の逞しい腕が伸びてきて、強引にあたしの肩へと回された。その瞬間、恐怖や不快感とともに、エノコログサで撫でられたような感覚がぞわっと背筋に走る。
「やめっ……」
やめてって言いたい。でも、言葉が通じないなら、身振り手振り以上の伝達手段は無い。どうしたらいい? 頭の中が真っ白になって体が動かないし、声も出せない。あたしがようやく薄く唇を開いて乾いた空気を吸い込んだそのとき、急に第三者の低い声があたしの頭の上に降ってきた。
「何をしている?」
声の主がどんな人物かまだ少しも分からないのに、その瞬間、あたしの心にたちまち安堵が広がっていった。なぜかというと、割って入った男性が話している言葉が、馴染みのある日本語だったからだ。
「――――」
「――――、――――」
あたしの腕を掴んだ男性二人組が、相変わらず知らない言語で日本語話者の男性に何か話している。ところが不思議なことに、日本語を喋っていた男性は、あたしが聞き取れない言語を話す二人組とも難なく言葉が通じているようだった。バイリンガルなのだろうか。
「ああ、お前たちが私の関係ない処で何をしようが、私には如何でも良いことだ。ただ、人の家の敷地内で騒ぐのは止めろと言っている」
いや、違う。この人は二つ以上の言語を使い分けているわけではない。あたしの耳には明らかに日本語にしか聞こえないのに、外国語を話す二人組にはなぜかそのまま通じているのが不思議でたまらなかった。
あたしは日本語を話している青年の様子を横目でこっそり窺った。彼はとんでもなく背が高く、モデルか彫刻のような造形をしていて、白い衣の上に明るい金色のサラサラの髪が流れ落ちていた。陽を反射して紅玉のように光る彼の切れ長の目で強く睨みつけられた二人組の男性は、急に棒でも飲み込んだように何も言えなくなり、すごい速さで回れ右をしてそこから立ち去っていった。
ほうほうのていで逃げていく二人組の背中を薄目で見送って、青年はやれやれと言いたそうに溜息をついた。
「あの、ありがとうございました。あなたは……」
金色の髪の青年を見上げてそう話しかけてみると、彼はあたしのことをさほど興味が無さそうに一瞥し、低い平坦な声で「……特に名乗る必要は無い」とだけ答えて、元来た道へと踵を返した。明らかに帰ろうとしている。
「あーっ、嘘でしょ、待って待って。行かないで。あたし、気付いたらここにいたの。ここはどこなの? どうしてあなたとだけ言葉が通じるの?」
現地の言語がひとつも分からないようなこんな異国の地で言葉の通じる人間に出会える確率はどれほどのものだろう。この場面において、他者と意思疎通ができるか否かはおそらく死活問題だ。あたしは慌てて質問攻め作戦を駆使し、青年の引き留めを試みた。青年は大いに面倒そうな表情でゆっくりと振り返り、それからあたしが身に着けている制服に改めて目を遣って、まるで独り言のように呟いた。
「……イカイジンか。久しぶりに目にする」
「へ? なにって?」
聞き慣れない単語に反応してあたしが訊き返すと、青年はそれには答えず、土の道の向こうに見える石造りのちょっとしたお屋敷のような建物を視線だけで示して言った。
「何にせよ、これ以上ここで騒がれては敵わん。ついて来い」
あたしが育ってきた現代の日本では、知らない人について行くことは基本的に危険なことだと考える必要がある。それは分かっていても、実質、今のあたしには他の選択肢は無い。今の状況から考えて、このまま言葉の通じない世界に一人で放り出されるほうが危険であると思われるからだ。
石造りの屋敷の門をくぐって、広い居間のような空間に通され、取っ手付きの湯呑みらしき器を木製の卓に置かれたとき、あたしはとりあえず今すぐぶたれたり手足を縛られたりはしなさそうだと分かってこっそり胸を撫で下ろした。青年は自分の分の湯呑を卓に置いて椅子に腰掛ける前に、懐から短い木の杖のようなものを取り出し、それを徐に空中へかざした。すると、杖の描いた軌道に沿って薄暗かった室内に灯りが点り、水差しから器へと自動的に水が注がれた。
「……魔法?」
「魔術だ」
あたしが思わず呟くと、青年は即座に訂正した。何が違うのかしらと思い、質問を重ねようとしたところで、青年のほうから別の話を振ってきた。
「“黒い渦”に、心当たりは」
あたしは思わず、担任教師に指名されたときのように片手をまっすぐ天に挙げた。
「あります、魔法使いさん。何だか分からないんだけど、あたしはその渦に吸い込まれてここに来たの」
すると、彼は妙に納得したような素振りで頷いた。
「時空の虚だ。その渦を通って、お前のように他の世界から迷い込んでくる者がいる。それを我々は、何処とも知れぬ異界の者――異界人と呼ぶ」
「いかいじん……」
「八年前のクロノス事件以来、時空の虚の数は大きく減少したと聞いたが、今でも極く稀に、人間が通れる程度の虚が発生することがある」
なるほど、要はそれにあたしがたまたま巻き込まれたというわけだ。そう相槌を打つと、青年も「そういうことだろう」と肯定した。
「それで、どうしてあなただけ言葉が……」
改めてそう質問しようとしたところで、強烈な眠気があたしを襲った。器の中の飲み物を一瞬疑ったが、青年もあたしと同じくらいの量を飲んでいるはずだ。おそらく、屋根と壁のある家に入ってやっと人心地ついたことで無意識下の緊張の糸が切れたんだろう。回らなくなってきた頭でそんな分析をしているうちに、卓の向かいに座っていた青年が立ち上がって、溜息をつきながらもあたしの腕を引き、部屋の隅にあった簡易的な寝台のところへ連れて行ってくれている気配を感じた。寝台への寝かせ方は、何だか“荷物のように転がされた”という表現のほうが似合いそうな少々雑なものだったけれど……。
かすかに藁の匂いのする寝台に横になると、あたしの意識はいよいよ急速に眠りへと落ち始めた。意識が途切れる直前、寝台の横に腰掛けたらしい青年があたしを見つめて一言呟いているのがぼんやりと認識できた。
「……運の良い娘だ。この国広しと言えども、シンリョクと魔力を併せ持っている魔術師は私だけだからな」
「そうなの……? シンリョクって新緑のこと……?」
何のことか分からないながらも、朦朧とする意識のなかでどうにかそれだけを絞り出し、あたしはついに瞼を閉じて意識を手放した。
次に目が覚めたのは、だいぶ日が高くなってからだった。「噓でしょ、あたし一体何時間寝てたの……?」という絶望感の滲む独り言が自然に口をついて出た。
魔術師の青年は、空腹のあたしを見かねて、自分のために作ったらしき香草粥のように見える料理を分けてくれた。あたしにとっては少々舌慣れない味だったものの、あたたかいのと香りがよいので食べやすく、ほぼ丸一日何も固形物を入れていない胃にも優しそうなのが有難かった。
食べながら、どちらからともなく今後の予定についての話を始めた。青年の表情は相変わらずほとんど変化が無いし、話し方も素っ気ないが、とりあえず見捨てずに策を講じてくれるつもりではあると分かったので、あたしはひとまずほっとした。
「このままお前を放置したとて、私は一向に困らないがな。ただ、外に放り出して野垂れ死なれても流石に夢見が悪い。元の世界に帰す魔術を組んでやるから、待っていろ」
「待ってろって、どのくらい?」
「今の気候であれば、材料は揃いやすいほうだ。一日半といったところだな」
「りょーかいデス……」
あたしは粥の最後の一口分を匙で掬ってそれを嚥下し、日本式のごちそうさまの仕草で食事を終えた。
食後に少しの休憩を挟んで、青年はさっそく魔術の準備を始めたようだった。あたしは物珍しさから、なるべく邪魔にはならないように彼の周りをうろちょろして、何をしているのかを観察してみた。彼は特にあたしの存在を気にする素振りもなく、小さな壺から褐色の粉を取り出してとろみのある液体と混ぜ、また棚の奥から何かの干物を取り出して大鍋に放り投げて、淡々と準備を進めている。
そのうち、大鍋で何かがぐつぐつ煮える音だけが聞こえている静かな空間に退屈を覚えたあたしは、青年に話しかけてみることにした。
「……あの、魔法使いさん、名前は? あたしはね、さく……」
「名乗らずとも良い。どのみち、元の世界に帰れば忘れる」
「え?」
どういうこと、とあたしが尋ねる前に、柄の長い木べらで鍋底をかき混ぜながら彼が説明を始めた。
「この魔術の仕組みは、被術者の周囲の大気を切り取り、本人の記憶をよすがとして元の世界へ送り返し、元の世界の肉体に魂を定着させる、というものだ。その際の記憶の混濁により、この世界での出来事は忘却される可能性が高い。記憶の奥底に紛れて、蓋をされるとでも言おうか」
「…………」
あたしが答えられずにいるうちに、彼は突然あたしの手に箸くらいの長さのまっすぐな草を握らせ、屋敷の入口のほうに目を遣った。
「分かったら、これと同じ色をした丈の高い草をそこの庭から二十本取ってきてくれ。仕事もせずに家に帰してやると言った覚えは無いぞ」
あたしは複雑な気分だったけれど、それでも見ているだけよりは何か仕事をするべきという彼の主張はもっともだと思ったので、渋々屋敷の表の広い庭へと向かい、言われたとおりに掌の中の草と同じものを探して、根本から慎重に摘んでいった。
「……これでいいかな」
立ち上がって採取した草の本数を数え始めたとき、ちょうど風が吹いて、庭に植えられている樹々が一斉にざわめいた。それと同時に、あたしの肩口を掠めて何か小さいものがふわりと視界に入ってきた。あたしはそれが飛んできた方角を反射的に振り返る。すると、そこに広がっていた光景は、まるで、あたしの故郷の国の……。
屋敷に戻ってきて青年の後ろ姿を見つけるなり、あたしは扉を閉めるだけのわずかな時間すらもどかしく思いながら、真っ先に彼に話しかけた。
「ねえ。表に綺麗なピンク色の花が咲いてたわ。まさか、この世界にもサク……」
「ああ。アーモンドだ。丁度時期だからな」
言い切る前に、低い平坦な声に遮られる。あたしは一瞬面食らったけれども、気を取り直して、新しい知識に対する感嘆の声を上げた。
「アーモンドなの? ああいう花が咲くのね。知らなかった」
「…………」
返事は無い。その代わりに彼は木べらで鍋底をかき混ぜながら肩越しにあたしを振り返り、片方の眉を少し上げただけだった。
その後の夕方までの時間は、せめて泊めてもらうお礼にと、普段使っていないらしい埃の積もった部屋などの掃除をさせてもらうことにした。休憩中は食卓のある一番大きい部屋に戻って、濁った緑色になってきた大鍋の中身がぐつぐつ煮えるのを眺めながら過ごした。途中でそれに飽きて、吹き抜けになっている高い天井に目を遣る。普段使われていない部屋の多さを知れば知るほど、この屋敷は一人きりで暮らすにはいささか広すぎるのではないかと思わざるをえなかった。
「……あなたは、どうしてここで一人きりで暮らしてるの?」
あたしはふと気になって青年に話しかけてみた。午前中に庭に出たついでに周りを見渡してみたところ、ご近所さんと言える距離に民家は建っていないようだったし、庭の反対側には深い森が広がっていて、昼間でも足を踏み入れるのを躊躇うほど薄暗かったのだ。
「さあな」
会話する気が無いらしい。まあ急に立ち入ったことを聞いてしまったのはこちらのほうだし仕方ないよね、と思いながらも、あたしは彼からは見えないようにこっそり頬を膨らませて口を尖らせた。
「ねえ。魔法使いさんって、笑うことある?」
「……失敬な」
「だって、いつも仏頂面とまでは言わないけど、無表情なことが多い気がして。って言っても、まだ知り合ったばかりだけど」
理由はどうあれ、見ず知らずのあたしのためにこうして魔術の準備をしてくれているくらいだから、たぶん悪い人ではないんだろうということは分かる。だからこそ、人との関わりを避けたがっているような彼の様子が気になった。いや、ただ元々交流を好まない性格というだけのことなのかもしれないけれど、この人は何だかそうじゃないような気がしたのだ。これはただのあたしの勘だけど。
「ワラウカドニハフクキタルって知ってる?」
重ねて尋ねてみると、魔術師は「何だそれは」と言いたげな表情で怪訝そうに眉を寄せた。その慣用句の意味を知らないというよりも、その一連の言葉自体が意味あるものとして聞こえなかったという風に見えた。この世界に元々無い言葉は、そういうふうに聞こえるようになっているのかもしれない。
「えっとね、笑ってると幸せが舞い込んでくるんだよっていう言い伝えやおまじないみたいなもの。生きてたら大変なこともあるけど、でも、思いもしなかった出会いがあったり、綺麗な花を見つけたりすることもあるじゃない。だから、あたしはこの世界を素敵なことで溢れている場所だと思っているけど、あなたにとってはどうなのかなって――楽しめているのかなって、ふと思ったの。それだけ」
って、まだ十何年しか生きてないコウコウセイが人生語るなって感じだけどね。あたしが何も考えずについ癖でそう付け足すと、今度は高校生という単語だけが聞き取れなかったらしく、あたしの話を聞いていた青年はわずかに眉尻を上げた。
「余計なお世話だな」
それだけ言うと、それ以上話す気はないといった風にすげなく視線を逸らす。あたしが肩を竦めたところで、タイミングが良いのか悪いのか、玄関の木戸が控えめに三回叩かれる音がした。来客のようだ。あたしと青年は思わず一瞬目を見合わせたが、青年にはどうやら来客の心当たりがあるようで、躊躇いもなく玄関口に向かって扉を開けた。
あたしの予想に反して、客は玄関口で青年と二言三言言葉を交わしただけで用が済んだようだった。青年の背中を居間から静かに見つめていると、扉の向こう側からしわがれた男性の声がかすかに聞こえて、それを最後に扉が閉まった。会話が一段落ついたところであたしの視線に気付いたのか、青年がこちらを振り返る。その手には薄茶色の羊皮紙の書簡のようなものが見えた。誰かからの手紙だろうか。彼は特に何も言わず、表情も変えずに一瞬だけ手元に目を落とし、そのまま書簡を仕舞うために隣の部屋へと姿を消してしまった。
早めの夕食は楕円の形をした茶色いパンと、子羊の肉が入った野菜スープだった。保存肉を地下倉庫から取ってきて食べやすいように切り分け、香草で味を調節する係は青年が、野菜を切って煮込む係はあたしが担当した。自分で言うのも何だけれど、日頃から高校の料理部で包丁を握っているだけあって、使い慣れていない調理器具でもまあまあ上手く下ごしらえが出来たほうだと思う。
「んん、おいしい。食べたことない味」
スープにごろごろ入っているお肉を匙で掬って噛んだ瞬間、自然と顔が綻んだ。よく煮込まれた羊肉は柔らかく、野菜にもスープの塩味が染み込んでいてさっぱり食べられる。「味つけもちょうど良……」と青年に話しかけようと顔を上げかけたとき、卓の向かいから何やら視線を感じた。そちらに目を遣ってみると、青年が匙を置いて卓に頬杖をつき、じっとあたしを見つめていた。……その赤い瞳が何だか今までよりも柔らかく、口角も僅かに上がっているように見えたのは、あたしの気のせいだろうか。
その日は洗い物を終えて、掃除の続きをしているうちに疲れて早々に床に入った。午前中、魔術の準備をしている合間に「異界人は不調を感じたり疲れやすかったりするのが普通だ。身体がまだこの世界に馴染んでいない状態だからな」と青年が教えてくれたとおりだった。あたしの場合は体の調子が悪いということはないんだけど、眠りに落ちるまでが異様に早くなっているということは自分でも感じていたので、やっぱりじわじわと影響を受けてはいるのだろう。
翌朝目覚めた頃には、既に太陽が中天にかかろうとしていた。無意識に青年の姿を探して辺りを見回してみると、庭のほうから草を踏む音や小さい物音が聞こえた。先に庭に出て魔術の準備を始めているようだ。どうやら、あたしが自然に目覚めるまでそっとしておいてくれていたらしい。
あたしが庭に出てきたことに気付いた青年は、地面に描いたばかりの魔法陣のようなものの前にあたしを誘導した。そのまま特に前置きも無く、いつもの淡々とした声で二・三の注意事項をあたしに説明する。彼の話を要約すると、準備が済んだらあたしはここに立って目を閉じ、ここに来る直前の元いた世界の光景をできるだけ強く鮮明に頭の中に思い浮かべるだけで良いらしい。それくらいなら出来そうだ。あたしが首を縦に振ると、青年も了解、と目だけで応えて、魔術に必要なものを取りに一旦屋敷の中へ戻っていった。
少なくともうちの近所では見たことがない茶色がかった丈の長い草や、鮮やかな緑色の細い葉を互いに絡み合うように広げている植物に覆われた広い庭を見回してみる。風が吹いて草木がさやさやとざわめいた。庭の隅には昨日と同じように、アーモンドの可愛らしい花が薄紅色の花弁を揺らしている。あたしは親指と人差し指を立ててLの字にした両手を近付け、四本の指で写真のフレームを作って、画角の中になるべくアーモンドの木と庭全体の様子が収まるように調整してみた。初めてこの世界に来た日、まだケータイの電源が残っているうちに記録用の写メを撮っておかなかったことが返す返すも悔やまれる。それに早く気付いていたら、もしもこの世界で体験したことを忘れてしまうのだとしても、写真という記録には残せたかもしれないのに。ああ、でも、今から行う魔術で、この世界に来る前の時点にまであたしの時間が巻き戻されるのなら、どのみち、元の世界――現代日本の高校の廊下に戻ったあたしのケータイにこの世界の写真が残っている可能性は低いってことになるのかな。
そんなことをぼんやり考えているうちに、いつの間にか青年が隣に立っていることに気付いた。彼の手には、木の枝のようなものと、木の柄がついた小刀が握られている。
「そ、その小刀はどう使うの」
これから生贄を捧げる儀式でも始まるのだろうかという考えが過ぎり、思わずぎょっとして尋ねると、彼は事も無げに小刀の刃を一瞥して答えた。
「空間転移の魔術は、ここ十年ほどのうちに格段に研究が進んだとは雖も、本来はなかなかに大規模な魔術だからな。発動過程で、神力を増幅剤代わりにする。そのために少し血液を採るだけだ」
「そう……。よかった」
いや、良くはないんだけども……と口の中で続ける。が、ともかく、この小刀は言わば採血のような作業を行うための道具なのだと理解した。
いよいよ魔術発動の準備を始めるらしく、彼はまず短い木の枝のようなものを目の前に掲げた。これは初日にも見た覚えがある。たしか、魔術を使うための杖だと言っていた。あたしはそれを数日ぶりにまじまじと見て、その杖の先端のほうに親指の爪ほどの不自然な窪みがあることに気付いた。まるで、本来あった何かが欠けてしまったかのような……。
あたしが杖を見ていることに気付いた青年は、杖を軽く振りながら説明した。
「魔術師は、石に魔力を流し込んで制御しやすくしてから魔術を使う者が多い。私もかつてはそうしていた。ここには、私の瞳と同じ色の貴石が嵌まっていた」
あたしは頭の中で、まるで血のように紅い小さな石が杖の先の窪みに嵌まっているのを想像した。
「……その宝石は、今は?」
「兄が隣国に旅立つときに、魔除け代わりに譲ってしまった。彼はそのまま帰って来なかったから、私が渡した貴石がその後どうなったかは判らない。定期的に隣国に使いを遣って状況を探らせてはいるが、手掛かりすら掴めない現状では、貴石が手元に戻ってくる可能性は低いだろうな」
「…………」
では、昨日の手紙は、隣国への遣いからの調査報告だったのだろうか。あたしは彼のその話に対して応える言葉を持たなかった。代わりに、少し考えてから制服の胸ポケットに指を入れ、ひんやりとした陶器製の小物を取り出す。
「じゃあ、大切なものが返ってくるようにっていう願掛けと、それが見つかるまでの御守り代わりと、あと、助けてもらったお礼も兼ねて……これあげる。お姉ちゃんの結婚式の時にもらったの。ちょうど昨日アーモンドの花って聞いて思い出した」
差し出したのは、あたしの掌に収まるくらいの淡い桜色の小さなチャームだった。なめらかな楕円型をしていて、表面には白や水色や珊瑚色の小さいビジューが華やかに散りばめられている。
「ドラジェって言ってね、アーモンドのお菓子なの。あ、本物じゃないよ。これはお菓子を模して作られた雑貨」
お菓子のほうもあったんだけど、日持ちするとはいえ賞味期限があるからね、と付け足す。
「ドラジェはね、幸福の種って言われているんだって。だから、あたしを助けてくれた魔法使いさんの身に、これからもたくさん幸せなことが起こるといいな、って。あたしなりのおまじない」
そう言いながら、有無を言わさず彼の大きな掌にドラジェのチャームを載せる。青年はしばらく呆気にとられたように自身の掌を見つめていたが、やがてふと息を吐き出し、ゆっくりと指を閉じて桜色のチャームを握り込んだ。一瞬、唇の端がわずかに上がったように見えた。その真偽に気をとられているうちに、不意に青年から質問が投げられる。
「お前、名は」
「どうせ忘れちゃうから名乗らなくていいって言ったくせに……」
「こちらの世界でお前と関わった人間の記憶からお前の存在が消えるわけではない」
青年は何やらもっともらしい説明をしたが、あたしにとっては、彼が今になってそれを知りたがった理由は何でもよかった。そも、親愛の情を抱いている人間に自分の名前を教えることに、大層な理由なんて必要ないのだから。あたしは微笑んで答える。
「“桜”。あたしの故郷でも、春になると一斉にアーモンドの花とそっくりな薄紅色の花が咲くの。それが、桜。花の名前であり、あたしの名前」
「……覚えておこう」
そのときあたしは、彼が明確に笑う顔を初めて見た気がした。
――ああ、よかった。笑顔が見れた。
それが、この異世界でのあたしの最後の記憶だった。
*
あたしはマナーモードの携帯電話がしきりに震えて着信を伝えていることに気づいて、その場で俄かに飛び上がった。……あれ、あたし、どうして学校の職員室の前にいるんだっけ。思考にはまだ薄い靄がかかっているようだ。直近の自分の行動がうまく思い出せないことに戸惑いを覚えながらも、それでも指だけは自動的に携帯電話の通話ボタンへと伸びる。電話口から聞こえてきたのは友人の声だった。
『もしもし、さくちゃん。今どの辺りにいる?』
「千紗。えっと……」
『先輩たちから聞いたよ。一年生の教室に忘れ物を取りに行くついでに、部室のカギを返却しに行ってくれたって。ね、もうすぐ暗くなりそうだし、正門のところで待ってるから一緒に帰ろう』
「あ……うん。待たせてごめんね。すぐ行くよ」
そうだ。思い出した。あたしは背後の職員室を勢いよく振り返った。入口の扉から見えるキーハンガーには、あたしたちが所属する料理部の鍵がきちんと掛かっている。制服の胸ポケットを確認してみると、教室に忘れてきてしまったものと思っていた電車の通学定期券も元通りに入っていた。
「……あれ?」
あたしは胸ポケットに指を入れたときに違和感を覚えて首を傾げた。違和感の正体にはすぐに気付いた。定期券のほかにもうひとつ、お守り代わりにいつも胸ポケットに欠かさず入れていたピンク色のドラジェ型のチャームが無くなっている。今日ちょうど料理部でおやつにドラジェを作ったときに、話の流れで胸ポケットから取り出すタイミングがあったから、ついさっきまでは確かにあったはずだ。
「なんでだろう……」
そう呟きはしたけれど、あたしはどうしてか、あのドラジェのチャームは単にどこかに落としてしまったのではなく、本当に必要な人の手に渡ったのではないかと思えてならなかった。そう考えたら、大切にしていた物を失くしてしまったというアンハッピーな状況のはずなのに、不思議とそう悪いことでもないような気がした。
ここから学校の正門に向かうには、このまま階段で一階まで下りて東棟の下を斜めに突っ切るルートと、渡り廊下を通って一旦東棟に渡ってから一階に下りるルートがある。あたしは何だか今にも消えそうな夕焼けをなるべく近くで見てみたくなって、さっきまでの予定を翻して後者のルートを選択することにした。
渡り廊下の柵越しに目にする夕焼けは、まるで絵筆で淡い紫とピンク色と橙色を塗りつけたように鮮やかで、どこか優しい色をしていた。それを眺めながら歩いていると、不意に物寂しさを覚える。まるで、ついさっき誰かに永遠のさよならを言ってきたような気分だった。今日はずっと学校で平凡な一日を過ごしていただけなんだから、そんなわけないのに。
あたしは一度立ち止まって、その場で後ろを振り返ってみた。そこには当然誰かが居るわけもなく、黒い渦が出現しているなんていうこともない――。……今、あたし、どうして黒い渦なんていう単語が急に頭に浮かんだんだろう。そんなもの見たこともないし、だいいち学校の中になんて現れるはずが無いのだ。あたしはまだ少しぼんやりしている思考をすっきりさせるために軽く頭を振り、誰もいない空間に向かって、いま何となしに頭に浮かんだ一言をそのまま唇に乗せた。
「さよなら。……またね」