1
「……うさぎ」
向かいの席で弁当を食べていた友人の桜が千紗子をじっと見つめ、脈絡なくそう呟いたので、千紗子は人参スティックを食べ進めるのを中断して「へ?」と瞬きをした。千紗子の隣で携帯電話の画面を見ていた美央が、「どうした急に」と千紗子と桜を見比べる。桜はふふっと笑って弁解した。
「だって、千紗がそうやって野菜をもぐもぐ齧ってると本当にうさちゃんみたいで可愛いと思って。真っ白なうさぎの耳が見えるよ」
本当に、というのは、一年生の時の文化祭でウサ耳をつけて喫茶店のメイドの仮装をしたからだろう。
「毛並みもふわふわだもんね」
重ねて冗談を言う美央に「髪の毛のこと毛並みってゆわないで……」と唇を尖らせながら、千紗子は三本目の人参スティックを摘んだ。
「でもさ、単に野菜が好きっていうだけだよ。にんじんって美味しくない? 茹でたブロッコリーとかも最高。もう、野菜を主食にしたいくらい」
その一言で、千紗子たちのグループに「だから細いんだ」「リアルにうさちゃんじゃん」と笑いが起こった。
「片岡、だからチビなんじゃん?」
たまたま近くを通りかかった男子が千紗子のことをからかっていく。千紗子が頬を膨らませていると、「あいつら、自分が成長期で身長伸びたからってさー。べーっだ」と桜が男子に向かって思いきり舌を出した。彼女は人に対してなかなか強く出られない性格の千紗子に代わって、男子たちにいつも苦言を呈してくれている。
「おっと、ゆっくり食べてたら掃除の時間になっちゃうよ。急がないと」
美央が教室の時計を見上げてそう言ったのをきっかけに、千紗子たちはあわてて弁当箱を片付け始めた。
学校生活は楽しいし、日々一緒に昼食を囲む友人もみんな優しくて良い子たちだ。テストはちょっと嫌だけど、壊滅的に授業についていけないというレベルでもない。それなのに、千紗子は最近帰り道でほぼ毎日溜息をついていた。鉛のように重い足をほとんど引きずるようにして緩慢に歩を進める。それでも普段は家の方向が近い桜と一緒にお喋りをしながら帰るからいくらか気が紛れているのだけれど、今日は委員会が終わる時間の都合で一人での下校だ。家に帰り着く時間をなるべく遅らせたいがために、通学路の途中にある書店でお菓子づくりの本を立ち読みして少し時間を潰してきた。それでも、夏休み間近という時季柄、まだ辺りは十分に明るかった。
コンクリートの地面を踏む自分の靴先を意味も無く目で辿りながら、俯いて歩き続ける。その途中で、ふと歩道の端に光るものを見つけた。光り始めるのが早すぎるホタルではない。小さなガラス片などでもない。もう少し大きな雑貨のようなものに見えた。近付いてみると、それは千紗子の掌の中に収まるほどの大きさの、五芒星を象ったペンダントだった。千紗子は無意識にそれを拾い上げ、金色の細いチェーンの部分を摘んで夕暮れの光に翳してみる。そのペンダントを思わず拾い上げてしまったのは、道路にそのまま落ちていたわりにはあまり雨や泥で汚れていなかったからというのもあるが、何より、それがこの世のものとは思えないほど精緻で美しい工芸品のように見えたからだった。改めて目の高さまで持ち上げて間近でじっと鑑賞してみても、思わず溜め息が漏れるような品だった。
――これ、誰かが趣味で手作りしたとかではないよねぇ。そうだとしたら流石にレベル高すぎるもん。でも、お店に売ってるのでも、こんな素敵なの見たことない……。
誰かの落とし物だろうか。近くの交番に届けたほうが良いかと、千紗子はしばらく立ち止まって考えた。そのとき、「千紗」と後ろから軽く肩を叩かれて、千紗子は文字どおり飛び上がった。振り返ってみると、そこにいたのは桜だった。彼女は千紗子の反応を見て「そんなにびっくりしなくても」と明るい笑い声を立てた。
「委員会、意外と早めに終わったよ。結局追い付いちゃったね」
それから桜はいつものように自然に千紗子の隣に並び、明日までの数学の宿題について話し始めた。それに相槌を打ちながら、千紗子は自分でもほとんど無意識に、右手に握っていた星の形のペンダントを制服のポケットの中へと滑り込ませた。
そのまま桜とのお喋りに夢中になった千紗子は、ペンダントをポケットの中に入れたことをすっかり忘れてしまった。その代わり、自宅が近付いてくるに連れて、あの家に帰りたくないという気持ちがまた頭の中で膨らんできた。もうすぐ桜と別れる街角に差し掛かる。その手前で、千紗子はまた明日、と桜に手を振る前に、何となく立ち止まって桜を呼び止めてみた。
「あ、さくちゃん。あのね……」
「ん?」
振り返った桜は、何だろうと小首を傾げて続きを待っている。あのね、たいしたことじゃないんだけど、ちょっと相談したいことが……。そう言いかけて、千紗子は桜の顔を見つめたまま立ち竦んだ。そして、数秒迷った末に結局軽く息をつき、「やっぱり、なんでもない」と力の無い笑顔を作って首を振る。「そう?」と目を丸くする桜に、千紗子は「また今度話すね」と頷いた。
「そっか。じゃあ、また明日ねー」
「うん。また明日」
いつものように手を振って、桜とは別方向に歩き始める。自宅までは桜と別れてからも十分ほど歩かなければならないが、少しでも友人とお喋りができたお蔭なのか、千紗子の足取りは校門を出たばかりの頃よりは軽くなっていた。
それでも、いざ家の前に着いてドアノブを引こうとすると、やはり自然と溜息が出る。千紗子はなるべく心を無にするように努め、俯いてポケットの中から鍵を探った。そのとき、小さい金属同士が擦れるようなやけに澄んだ音がポケットから聞こえた気がした。聞き慣れない音に違和感を覚えて、指に触れたものを取り出してみた瞬間、思わず声が出る。
「あ。これ……」
帰り道で拾った、金色の星の形のペンダントだった。今の今まで、持って帰ってきてしまったことに気付かなかった。どうしよう、と左右を見回してみても、そこにはぼんやりとした光をともす背の高い街灯が佇んでいるだけだ。いくら日の長い夏とは言っても、今から交番まで往復してきたら、辺りはもっと暗くなってしまうだろう。
「……明日でいいか」
帰りがあんまり遅くなると、また母に小言を言われる。千紗子は諦めて玄関のドアノブを引いた。玄関に入るなり、リビングから何か言い合う声が扉を突き抜けて聞こえてくる。母と姉の声だ。
「枝理、バイトばっかりじゃなくて受験勉強もしなさいよ。あと半年しかないんだから」
「うるさいな。ちゃんとやってるって」
「あんたが××大学を受けること、もうご近所にも話しちゃったんだから。もし失敗でもしたら、お母さん、なんて言えば良いか……」
「何それ。今から失敗とか言うの本当有り得ないし、そもそも私はお母さんの見栄のために受験勉強してるわけじゃないんですけど」
家の中の雰囲気は相変わらずギスギスしている。四つ上の姉が今年受験生で、しかも姉の枝理子は千紗子と違って成績優秀なものだから、どちらかというと姉本人よりも母のほうが受験というものに対して力が入ってしまっているようだった。父から聞いたところによると、母は昔ほんの少しの点数差で希望の学校に入れなかった経験があり、その反動で、大学受験の成功こそが正義であり我が子の幸せであるという思想に傾倒してしまっているところがあるそうだ。このぶんでは、四年半後の千紗子の大学受験の際、そもそも大学進学をそんなに考えていないなんて千紗子が言い出そうものなら、それはもう一方的にすごい剣幕で否定されまくるであろうことは想像に難くなかった。
千紗子は母と姉に気付かれない程度のごく小さな溜息をつき、なるべく気配が薄くなるように足音を殺して階段を上がった。自室のドアを開けて、そっと閉める。後ろ手にひんやりとしたドアノブを握ったまま、背中をドアに軽く凭せかけると、やっと息ができる気がした。
その夜、千紗子は自分の部屋でもう一度星の形のペンダントを取り出し、掌の上に載せて、改めてよく観察してみた。人のものにあまりべたべた触るのは良くないとも思ったが、やはり美しい装飾が入ったこのペンダントには見れば見るほど惹き込まれる魅力があったし、純粋にどういう造りになっているのかを知りたかった。ペンダントトップの五芒星は平面的ではなく、緩いカーブがかかって星の中心部に向かうほど厚みがついており、ちょっとした小物入れのようになっている。中に何か入っていたりして、と思いながら蛍光灯に透かしてみたり、軽く振ってみたりと矯めつ眇めつしていると、そのうちに、ペンダントトップの斜め上の辺りが蝶番になっているらしいことに気付いた。中に写真などを嵌め込んで飾ることができるロケットペンダントのような構造だ。まさかと思って慎重に力を入れてみる。すると、魚を半分におろすような要領で、星のペンダントは前身頃と後身頃に分かれてあっさりと開いた。
そのとき、思ってもいなかったことが起こった。ペンダントの中に誰かの写真が入っていたわけでもなく、ペンダントが急に光り始めたわけでも、びっくり箱のように中から何かが飛び出してきたわけでもない。最初はほんのわずかな変化だった。千紗子の耳に、薄く切れ目の無い音が聞こえ始める。よく耳を澄ましてみると、それはラジオのようなざらついた環境音のようだった。辺りを見回してみても、もちろん部屋の中に変化は無い。その環境音の出どころは、明らかに千紗子の掌の中のペンダントだった。千紗子がそのことに戸惑っているうちに、今度はペンダントの中から人間の声が聞こえてきた。おそらく千紗子と同年代くらいと思われる、学生らしき少年の声だった。
『何だ、これ。何か音が……』
「えっ? 何、何。声が聞こえる。こんにちは……?」
千紗子は驚きのあまりペンダントを机にそっと置いて手を離し、おそるおそるペンダントの向こうに話しかけてみた。すると、二秒ほどの間を置いて、まだ半信半疑で様子を窺っているような少年の声が返ってくる。
『……どうも。えっ、怖……』
「それは本当にこっちの台詞だけど……。ていうか、え、これ会話成立してるよね? 録音とかじゃなくて、リアルタイムで聞こえてるの?」
聞こえてるよ、とペンダントの向こうで相手が頷く気配がした。声変わりを終えたか終えていないかくらいの、どこか硝子を思わせる涼やかな中音域の声だ。
「もしかしてこれって、あなたも同じペンダントに話しかけてるってこと?」
『……星の形の?』
「そう! 装飾がすっごく綺麗で、上下にパカッと開くタイプのやつ」
『ああ。それなら僕のと同じだ。間違いないよ』
その答えを聞いた千紗子は、つい先ほどまでこの奇妙な現象に対して恐れと警戒心を抱いていたことなどすっかり忘れ、手をぱんとひとつ叩いて喜んだ。
「やっぱりそうなんだ。あ、っていうか、あなたも同じのを持ってるってことは、このペンダント、どこかで売ってる商品なのかな。あたしが持ってるのは、その……今日偶然拾ったものなんだけど。あなたのは?」
『あー……僕も、そんな感じ』
相手の返事は曖昧だったが、彼もどこかで自分と同じものを拾ったのかと想像すると、何だか同じアイテムを持っている仲間を見つけたようで嬉しかった。千紗子は躍る心のままに話を続ける。まるで口からひとりでに言葉が滑り出てくるかのようだった。
「そっか。あたし、こんなステキなの見たことないから、最初は手作りの一点モノなのかなとも思ってたの。ほんとに綺麗で好きなんだよね、これ。細かいだけじゃなくて、眺めているだけで、まるで別世界に連れていってくれるみたい。物語を感じるっていうか」
相手からの返事は無かったが、千紗子の話を黙って聞いてくれている雰囲気は伝わってきた。テーブルに頬杖でもついて自分の話を聞いている少年の姿を想像し、千紗子はほんの少し微笑んだ。
「だからかな。不思議なんだけど、あたし今、そんなにアリエナイことが起こってるとは思ってないんだ。こんな魔法みたいな状況も、このペンダントの力かもしれないと思ったら、何だかすんなり納得できちゃう」
『僕も……きみが同じペンダントを持っているって聞いて、十分有り得るなと思ったよ』
「? どういうこと?」
『いや、こっちの話。要は、僕ときみがこんな風に話せてることがだよ』
話の筋はよく分からないながらも、千紗子もそれは同感だったので、確かに、とひとまず同意しておいた。それから、そういえば今夜のこの会話の中でまだ少年の声をそれほど聞けていないことに気付いてはっと我に返り、あわてて付け足した。
「なんか、あたしばっかり話してるね。ごめん。えーと……なんて呼べばいい?」
そう尋ねると、少年はひと呼吸ぶん押し黙って、『呼び名が必要?』と千紗子に尋ね返した。
「え?」
『顔も本名も、どういう背景かも何も知らない者同士だからこそ、逆に話せることってあると思わない?』
その言葉で、千紗子は思い出した。まさに今日、下校中に桜に家庭のことを相談しようか迷ったけれど、結局口に出せなかったのだった。身近な人には逆に話しにくいことというのも、確かにあるのかもしれない。
「……そうだね。そうしよう」
ふたりだけの秘密を共有する相手が出来たことに、今まで感じたことのない種類のちょっとした高揚を感じながら、千紗子は少年の提案を了承した。
2
次の日の同じ時間、千紗子はまたおそるおそるペンダントを開けてみた。すると、だいたい三十秒ほど待ったあと、昨日と同じようにペンダントの中から環境音が薄く流れてきて、まるで電話にでも出るように、少年が『もしもし』と応答した。特に示し合わせたわけでも口約束をしたわけでもないのに、次の日も、その次の日も同じだった。そうしていつの間にか、このペンダントの蓋を開けて少年と話をすることが、千紗子にとっての日課のようになっていた。学校から帰ってきて、夕飯と宿題を済ませたあと、八時半から九時までの三十分間。九時になったら千紗子に入浴の順番が回ってくるので、自然とこの時間になった。もちろん、どちらかが眠そうな声をしている日は無理をせず早めに切り上げるようにしたし、逆に、つい話が弾んで終わりの時間を過ぎてしまい、早く入浴を済ませろと姉に自室のドアをノックされるときもあった。
本名や住んでいるところの話題を出さなくても、他に話したいことなんていくらでもあった。今日返ってきた小テストの成績がいつもより良くて嬉しかったこと。学校で飼育しているニワトリの羽根がクラスメイトの制服にブローチのように可愛らしくくっ付いていたこと。放課後に友達とお喋りをしながら教室のベランダから見上げた夏の青空が綺麗だったこと。
「……それでね。クラスの子があたしのことをチビチビってからかってくるの。そりゃあ男子たちと比べたら背が低いけどさ、ひどくない?」
『それって、小さくてかわいい女の子っていう意味の褒め言葉じゃないの?』
「そうでもないよ。あたしはお姉ちゃんや友達みたいに背が高くて格好いい女の子に憧れるなぁ。自分が持ってないものだからかな。無いものねだりだね、人間って」
千紗子が小さく溜息をつくと、少年は『確かに』と言って笑った。
『でも、僕からしたら、きみの学校生活の話がちょっと羨ましいよ。こっちでは、全然そんなんじゃないから』
どんな感じなのか詳しく聞いてみると、彼は一応学校に通ってはいるが、授業が終わったらすぐに家に帰って修行の日々だそうで、放課後のおしゃべりなんてそれこそ遠い世界の話のように聞こえるとのことだった。
「何の修行?」
『なんて言ったら良いんだろう。ものづくり……って感じかな』
今度は千紗子が「それは範囲が広すぎるよ」と笑った。例えば乗り物の部品を作るのも、薬を製造するのも、陶芸だってものづくりに含まれる。
「でも、修行ってことは、何かの職人さんを目指してるの? すごいね。憧れるなぁ。実はあたしね、まだ誰にも言ってないからちょっと恥ずかしいんだけど、お菓子を作る人になれたらいいなって思ってるの。学校で料理クラブに入ってて、野菜が苦手っていう子がいてね。その子に野菜ペースト入りのクッキーを作ってあげたら、おいしいって喜んで食べてくれたのが嬉しくて。これから、もっと野菜を使ったスイーツにも挑戦できたらいいなって」
少年は千紗子の話に『へえ。いいね』と同意してくれた。顔も知らないのに、彼の微笑んでいる顔が星のペンダント越しに見えるようだった。彼は続けて『きみは野菜好きなの?』と千紗子に尋ねた。
「大好き。ほうれん草のおひたしとか、最高」
『それ、僕らの歳にしては渋くない?』
「にんじんとかセロリとかのシンプルな野菜スティックも好き。それでね、お弁当に毎日いっぱい野菜が入ってるのを見て、このあいだ、とうとう友達にウサギみたいって言われちゃった」
『じゃあ、うさぎのパティシエってことか。良いんじゃない?』
彼も千紗子がうさぎであることは特に否定しなかった。何それ、とお互いにひとしきり笑って、その夜のお喋りはお開きとなった。
七月下旬の昼下がり、夏休みの宿題を進めながら、千紗子は今日何度目か分からない溜息をついた。今日の夕食の席も、きっと空気が冷えきっていて息が詰まるんだろうな。
夏休みに入ると、家の中の雰囲気は輪をかけて険悪になった。こういうときに母よりはだいぶ楽天的な性格の父が居てくれたら、いつも良い具合に空気を中和してくれるのだが、父は支社長補佐を任されたとかで、ちょうど今年の春から単身福岡に赴任している。
千紗子は机の上の目覚まし時計にちらりと目を遣った。……あと四時間。今では夜八時からの少年とのお喋りの時間だけが、一日の中で千紗子の心が唯一ほっと休まる時間だった。その時間を待ち侘びて、千紗子は目覚まし時計の隣に置いてある星のペンダントのほうに視線を移す。一体どういう仕組みなのか、昼間にペンダントを開けようとしたときには何度試しても何故か蝶番が固くてうまくいかず、その代わり、夜になると嘘のようにすんなり開けることができた。普通に考えればおかしなことだが、同じペンダントを持っている相手と会話できるというもっと不可思議な機能を知った今では、「星は夜にしか見えないものだから夜にしか開けられないようになっている」とでも言われればそれで納得できてしまう気がした。
七月末、せっかくの夏休みを満喫しようとの桜の発案で、千紗子は料理クラブの仲間数人と遊びに出かけた。ショッピングモールでランチをして、最近流行りのプリントシール機で写真を撮って、おいしいクレープを分け合って食べる。確かに楽しい時間だった。けれど、夕暮れが近付くに連れてやはり千紗子は憂鬱になった。日が暮れる前に、またあの息が詰まるような殺伐とした空気が漂う我が家に帰らなくてはならない。
帰り道は、やはり家の方向が近い桜と一緒になる。分かれ道に差し掛かったとき、ペンダントを拾ったあの日とは反対に、今度は桜のほうが「千紗、あのさ」と千紗子を呼び止めた。千紗子がなるべく元気そうな顔を繕って「なあに」と訊くと、桜は「えーっと……」とわずかに言い淀んだあと、「ううん、何でもない。今度言うね」と首を振った。
その日、カギを差し込んで玄関のドアを開けると、ちょうど母も姉も出かけているようで、家の中が静まり返っていたので、千紗子はある意味拍子抜けした。手洗いうがいを済ませてから、夕食の前に牛乳でも飲もうかと食器棚からコップを取り出す。
「確か、今日までに飲み切ったほうがいい牛乳があったはず……」
小声で独り言を言いながら冷蔵庫を開けたときだった。うっかりキッチン台の端のほうに置いてしまったコップのふちに、千紗子の肘が軽く当たった。次の瞬間には、ガラス製のコップは床に叩き付けられ、鳥肌が立つような耳障りな音を立てて真っ二つに割れてしまった。コップは千紗子とは反対方向に飛んで行ったので、割れたガラスの破片で怪我をしなかったのは幸いだった。けれど、この可愛いお花の柄が入ったガラスコップは、三月の誕生日に父が千紗子に贈ってくれたものだった。千紗子は頭では「早く片付けて掃除しなくちゃ」と考えながらも、しばらく手足を動かす気になれず、その場にしゃがみ込んでガラスコップの破片をただただ見つめていた。
『なんか今日、元気ないね?』
その日の夜、通信を繋げると、少年は開口一番そう言った。千紗子はそうなの、とペンダントの前でうなだれる。
「ちょっと、大事なコップを割っちゃって……」
今日の夕方までもう一回時間を戻せたら、もっと気をつけるのになぁ。千紗子がぶつぶつと反省していると、宥めようとしてくれたのか、少年が何気なくといった感じでぽつりと呟いた。
『時間を戻せたら、か。僕もそういう気持ちになったことがあるから、なんとなく分かるよ。例えば……宝物を海に流してしまったときとか』
「…………」
宝物って何? 千紗子は少年にそう尋ねようとしたが、どうしてか訊けなかった。根拠は無いけれど、何となく、軽い気持ちで聞いてはいけないような気がした。
3
八月も数週間が過ぎた頃だった。その夜、千紗子は「ペルセウス座流星群?」と今さっき少年が言った言葉を繰り返して、ペンダントの前で目を丸くした。少年がペンダントの向こうで、うん、と頷く気配がした。
『そう。明日の夜にでも見に行けないかなと思って』
千紗子も今朝のニュースで流星群のことは知っていた。なんでも、明日の夜がちょうど一番多くの流れ星が観測できる可能性が高い夜らしい。千紗子は、いいよ、と二つ返事で了承し、ペンダント越しの流星群鑑賞会が開催されることになった。
少年が一緒に何かをしようと誘ってきてくれたのは初めてだったので、千紗子は嬉しかった。通信を終えたばかりの星の形のペンダントを、本当の夜空の星に見立てて部屋の天井近くに掲げてみる。これって、もしかしたら電話デート? みたいなことになるのかな。そう思うと、何だか鼻歌でも歌いたい気分だった。
次の日の夜、千紗子は友達と一緒に近所で星を見てくるからと母に連絡して、夕食を摂ったあとに家から徒歩数分の公園へ向かった。握った掌の中には星のペンダントをしっかりと隠し持っている。ペンダントを持ち出せば屋外でもちゃんと話ができるのかしらと急に不安に思って、夜道を歩きながらペンダントを開いてみたところ、いつものようにしばらく環境音が流れたのち、少年の声が問題なく聞こえることが確認できた。
辺りには、千紗子のように流れ星を鑑賞しに来たらしい人たちが数組。あとは散歩やランニングをしている人の姿がちらほら見える。幸い、開けた場所ということもあって、周りの人がどんな話をしているのかを気にしている人はいないように見えた。千紗子は公園の中で小高い丘のようになっているところに上り、簡易ベンチに腰掛けて星を眺めることにした。
この町は一応都会と呼ばれるわりには背の高いビルも過剰なネオンの明かりも少ないほうなので、天気さえ良ければ十分星が見えるチャンスがある。天を振り仰いでみると、細かい宝石のようにきらきら輝く白い光の粒が、雲ひとつ無い夜空に散りばめられていた。その光景に感嘆の溜息を漏らしているうちに、さっそく視界の右上のほうですいとひとつ星が流れた。
「あ、今の流れ星かも。綺麗」
速すぎてお願い事は言えなかったけど、と付け足すと、少年は楽しそうに相槌を打った。
『本当? こっちでも小さい流れ星が見えたよ。あ、またひとつ流れた』
今日の少年は何だかいつになく饒舌だった。語り口はいつもどおりに柔和で冷静だが、静かな熱意と興奮が隠し切れない様子だ。
「このペルセウス座流星群はね、百二十年ごとに“流星雨”と呼ばれる現象が起こって、そのときにはそれこそ雨が降る如くの大量の流れ星が見られるそうだよ。古くからの記録によると、次の流星雨は五年後なんだって」
千紗子は少年の声が珍しく弾んでいることを微笑ましく思いながら、そうなんだ、と相槌を打った。少年の話を聞いている間にも、また三つか四つくらいの流れ星が天に白い線を引いて、瞬きをする間に消えて行った。千紗子には覚えが無いけれど、朝のニュースでももしかしたら流星雨の話をしていたのかもしれない。頭の片隅でぼんやりそう考えた。
「星、好きなんだね」
そう尋ねると、少年は天体を鑑賞したり星について調べたりするのが小さい頃から好きだったと答えた。千紗子は少年の話を聞きながら、その合間にはまた星が流れたと二人で言い合って、飽きもせずに夏の夜空を見上げ続けた。それはささやかな時間だった。すごく遠くに出かけたわけでもないし、贅を尽くしたごちそうを食べたわけでも、何か大きな成功を収めて名声を得たわけでもない。けれど千紗子にとっては、このひとときこそが、今までの自分の人生の中でいちばん豊かですてきな時間であるように思えてならなかった。
もうすぐ約束の三十分が経つ。どちらからともなくそろそろ帰ろうかと言い出し、千紗子はベンチから腰を上げた。公園から家への数分の帰り道の間、ペンダントを開いたまま、なんとなく二人とも何も話さずにいた。それでも気まずい雰囲気にならないのが不思議だった。
やがて、少年がどこか意を決したような声色で話し始めた。
『星を見ていて、思い出したことがあるんだ。確か、初めて話をしたとき、きみはこの星の形のペンダントのことを褒めてくれたよね。緻密で美しいって』
褒めて“くれた”? 千紗子は少年の言い回しにわずかな引っ掛かりを感じながらも、内容はそのとおりだったので、とりあえずうん、と返事をした。すると、三秒間ほどの沈黙ののち、かすかに息を吸う音が聞こえてきて、静寂に包まれた夜道に澄んだ中音域の少年の声がそっと響いた。
『実はね。このペンダントは、ある細工師が手掛けた一点もの。この世に二つと無い代物なんだ』
千紗子は、え、と呟いてその場で足を止めた。瞬間的に頭に浮かんだ疑問が多すぎて、考えを整理する時間が欲しかったし、この話はきっと歩きながら適当に聞いていてはいけない話だと直感した。千紗子は短い時間の中で色々と考えを巡らせた挙句、ぼんやりとした声音で尋ね返すことしかできなかった。
「“この世に二つと無い”って……」
少年は千紗子の疑問にすぐには答えず、落ち着いた声で淡々と話を続ける。
『きみとこうして遠隔で話ができると知ったとき、僕がどうしてそこまで驚かなかったか分かる? 心当たりがあったからだよ。この星の形のペンダントは、世界に二つしか存在しないものだから』
少年の話からは、まだ全体像が見えてこない。千紗子は難しい顔をして、どういうこと? とペンダントの前で首を傾げた。すると少年は、ペンダントの裏側を見てみてよ、と千紗子に促した。
『僕が持っているこのペンダントの裏側には、T・Hっていう刻印が入ってる。僕自身のイニシャルだ。そして、もうひとつのペンダント――きみが持ってるほうは、僕の父が作ったもの。M・Hって、父のイニシャルの刻印が入ってるだろう』
では、“ある細工師”というのは少年の父親のことで、いつだったか少年が言っていた“ものづくりの修行”というのは、細工師になるための修行ということだったのだ。それを踏まえてそこまでの少年の話を噛み砕いたところで、千紗子は少年がこのペンダントについて“この世に二つと無い”のに“世界に二つしか存在しない”と説明した理由をようやく少し理解できた。つまり、少年と彼の父が作ったペンダントがこの世に二つ存在するが、手作りの工芸品であるがゆえに、同じデザインでもそれぞれ作り手の味が色濃く出ている一点ものだと言いたかったのだろう。
千紗子は少年に言われたとおりペンダントの裏面を確認してみようと思ったが、千紗子が立ち止まった場所は街灯の近くではなかったので、手元が暗くて細かい文字までは見えそうになかった。
「待ってね。今、ちょうど辺りが暗いから、あとで確認する」
そう答え、自宅に向かってまた歩き始める。話題は今更ながら、星の観賞場所についての話に移った。
『きみは山の上にのぼったの?』
「うん。山っていうか、すぐ近所の丘みたいなところだけど。そこが一番見晴らしが良いから」
『僕は海で観たよ。ここらでは、海辺が一番開けていて空が広く見える』
「いいね、素敵。夜の海辺と星空なんて、ロマンチック」
言われてみれば、さっきから少年の背後でときどき穏やかな潮騒らしき音が小さく聞こえていた。千紗子はその音をもっとよく聞こうと耳を澄ませてみる。すると、波音に混ざって、少年ではない誰かの声がペンダントの中から不意に聞こえてきた。ほんの一言か二言だけだったし、声が遠くてはっきりとは聞こえなかったけれど、どうやら大人の男性が少年を呼んでいるようだ。内容が明瞭に聞こえなくても、言語くらいはだいたい判別できる。その男性は、明らかに英語で少年に話しかけていた。
それを聞いて、千紗子は「そっか」とひとり心の中で呟いた。少年が学校に通ってはいるが修行漬けの毎日であることも、「こっちでは」という言い回しをしていたことも、彼が遠い外国にいるのだと推測できた途端に妙に腑に落ちた感じがした。千紗子が再度口を開く前に、『じゃあ、呼ばれたから行くよ』と少年が就寝の挨拶をして、それでこの日のお喋りは終了となった。
ただいま、と玄関の扉を開けるなり、リビングから「おかえり」という母の声がして、「手洗いうがいしてきなさいよ」と続いた。
「はーい……」
リビングを横切って手洗い場に向かう途中で、千紗子は何となく、テレビの画面にちらりと目を遣った。テレビからは、外務大臣が会談のためにヨーロッパのどこかの国を訪問しているというニュースが流れている。
『こちら、現地です。日本とは約八時間の時差がありますので、こちらは今まだ昼間で……』
――時差? その単語に引っ掛かりを覚えながらも、明るいところに着いたら確認するつもりだった星の形のペンダントを母からは見えない角度でこっそり取り出す。確か、このペンダントを作った彼の父親のイニシャルであるM・Hという文字が裏面に刻印されているだろうと彼は言っていた。掌の中でそっとペンダントを裏返してみると、確かに背面の下部に筆記体で小さく刻印が彫られている。ただし――そこに彫られていたのは、彼が言っていた通りのM・Hではなく、『T・H』の文字だった。
「え……?」
T・H。あの少年自身のイニシャルであり、世界でたったひとつ、彼が持っているペンダントにだけ刻印されているはずの文字列。これが事実なら、今この瞬間、全く同じ二つのペンダントが別の場所に同時に存在するということになりはしないか。もしくは、単なる彼の言い間違いか、記憶違いか。でも、世界にたった二つしかない作品であるというところをあんなに強調していた人が、自分または自分の父親が彫った大切なイニシャルについて言い間違いや思い違いをすることなんてあるのだろうか。
千紗子は弾かれたように顔を上げると、ひと息で階段を上りきり、姉の部屋へ向かった。姉の部屋には、父が家で使っていたパソコンが置かれている。千紗子が姉の部屋のドアをノックするまでもなく、ちょうど姉が自室から出て来て、後ろ手にドアを閉めようとするところだった。急に階段を駆け上がったために一時的に息が切れて思うように言葉が出てこないのをもどかしく思いながら、千紗子は慌てて姉を呼び止める。
「お姉ちゃん、ごめん、パソコン使っていい? 調べたいことがあって」
「パソコンで調べ物? 機械音痴のあんたが?」
姉は一つに結った髪を解きながら目を丸くした。
「そ、それは今は関係無いでしょ。あたしだって、たまにはパソコンを使いたい気分のときもあるの」
「ふーん。まあ、今からお風呂に行くからべつに構わないけど。検索終わったらウインドウ閉じておいて。右上のバツマークね」
ありがと、と返事をして、千紗子は階段を下りて行く姉を見送った。姉の部屋に入るとすぐにパソコンの前に座り、検索欄に打ち込む単語を口に出しながらひとつずつ慎重にキーを押していく。
「“ペルセウス座流星群、流星雨、百二十年ごと”……」
表示された検索結果ページをしばらくスクロールしていくと、ほどなくして千紗子の知りたかった情報が得られた。確かに、ペルセウス座流星群の観測においてはおよそ百二十年周期で流星雨と呼ばれる現象が起こることが分かっていて、どの年に流星雨が起こったのかは二千年近く前から記録されているそうだ。文献によると、流星雨が観測された年のうち、一番近いのは今から八年前にあたる一九九一年。その前が一八六一年と六二年。更に遡ると、一七〇〇年代後半になる。
千紗子は心臓の音が大きくなっていくのを感じながら、少年との会話の内容をできるだけ詳細に思い出そうとした。確か、彼はペルセウス座流星群の流星雨が現在から数えて五年後くらいに降ると言っていた。多少誤差はあるかもしれないが、一旦は一九九一年の五年前の一九八六年と仮定してみる。そして、彼はちょうど千紗子と同い年だと言っていたから、そこからざっくり十四を引いて、一九七二年。
「……“せん、きゅうひゃく、ななじゅうにねん生まれ”。あとは、“細工師、留学、日本人、男性”を追加……。……こんな調べ方で本当に出てくるのかな?」
また口に出しながら検索欄に単語を打ち込む。しばらく待つと、白い画面にウェブページの検索結果が並んだ。
「この人も、イニシャルがT・Hじゃない。この人も違う……」
青い文字のリンクをひとつずつクリックしては検索結果ページに戻るという単純作業を繰り返しているうちに、まるで画面から浮き出てくるかのように、ある一人の男性の名前が突然千紗子の目を引き付けた。
「……あ。この人。“平田紬。一九七三年一月生まれの金細工師。△△県出身。幼少期から、同じく金細工師だった父・平田満を追って西ヨーロッパのA国に留学し、職人の道を歩む。その作風は緻密且つ繊細で、主に星をモチーフとして多く採用しており……”」
名前のすぐ下に小さくローマ字読みが付いていたから、名前の読みかたを間違うことはなかった。イニシャルT・H。そして、父親のイニシャルは、彼が言っていたとおりのM・H。勿論どちらも珍しいイニシャルというわけではないから、あの少年が確実に平田紬だという確証が得られたわけではない。けれど、たまたま同じ年くらいの生まれで、同じ職業で、同じような作風と経歴で、本人と父親のイニシャルがT・HとM・Hであるという条件を満たす親子がもう一組存在する可能性は限りなく低いだろうし、何より、きっとこの名前が星のペンダントを通じて自分と話しているあの少年の名前に違いないという確信が何故か千紗子にはあった。紬という字の雰囲気と音の響きは、彼の柔らかい声や話し方にいかにもよく似合っているように思えた。それから、互いに本名を明かさないという前提で始まった関係なのに、二つの地点に同時に存在するペンダントについての疑問を解消するためとはいえ、一方的に相手の名前を探ることになってしまったことに対して、千紗子は少しだけ後ろめたさを覚えた。明日また彼と話すとき、彼の本名をまだ知らないふりをしなければならない。
ともあれ、ペンダントに刻印されていたイニシャルの謎については、一応の答えが得られた。千紗子は今まで何となく、日本のどこかにいる自分と同じくらいの年齢の男の子と通信が繋がっているものだと思い込んでいた。その予想は、“日本のどこか”という点以外は概ね間違っていない。ただ、今まで千紗子がペンダントを通して話していた相手は、一九九九年の今この瞬間の同じ時間を過ごしている少年ではなく、一九八六年八月時点に十四歳だった平田少年だったのだ。だから、本当なら八時間という大きな時差があったにもかかわらず、これまで二人とも時差の存在を意識することはなかった。二つのペンダント――実際は全く同一の品だったわけだが――の間には、十三年と八時間分のずれがあったのだ。だから、千紗子が八月二十二日の午後八時にペンダントで通信をしたとき、同じく八月二十二日の午後八時時点の相手に繋がることになる。違うのは西暦だけだ。
あの少年が持っていた、T・Hのイニシャルが刻印されたペンダントは、おそらくこの先何らかの理由で少年の手を離れることになるのだろう。それが十三年かけて海を渡り、人々の手から手へと渡り、きっと誰かがうっかり道に落として、最終的に千紗子のもとに辿り着いた。そう思うと、ペンダントを持っている手が少し震えた。
千紗子はひとつ息をつき、姉に言われたとおり「×」のマークを押してウインドウを閉じようとした。そのとき、ふと画面の一番下に平田紬の半生を記した略年表のようなものがあることに気付き、何となしに×マークを押すのをやめて、そのままページをスクロールしていった。彼は七二年度生まれで、あたしと十三歳差だから、今現在の平田くん……平田さんは二十六か二十七歳くらいなのかな。ぼんやりとそう考えながら年表に目を滑らせる。ところが、年表の行数は千紗子が予想していたよりも少なく、最後の行は今から六年前の一九九三年で止まっていた。そこに記されていた簡潔すぎる文章を目にした瞬間、急に喉の奥が詰まる。千紗子は口の中だけで呟くように、掠れた声でその文字列を読み上げた。
「……九三年六月、難病によって夭逝。享年、二十歳……」
4
見るんじゃなかった。知らないままのほうが良かった。その晩、千紗子は布団の中で幾度となく自分の行動を後悔した。けれど、いまさらその事実を知らなかった時点にまで時を戻すことはできない。
その日の午後八時、千紗子はペンダントを開けるのを初めて躊躇った。彼と話したいような、話したくないような、複雑な気持ちだった。けれど、結局千紗子はペンダントを開けて、表面上は何事も無かったかのように少年とお喋りを始めた。少年の声色は普段と変わりないように聞こえたが、千紗子の口数が普段よりもだいぶ少ないためか、会話はすぐに途切れてしまう。かすかな環境音だけが聞こえる無言の時間がしばらく続いた。
「あの……」
二人が口火を切ったのはほぼ同時だった。千紗子は時差のことを彼が知っていたのかどうかだけでもそれとなく訊いておこうかと思ったのだが、彼のほうでも何か言いたいことがあるようだ。千紗子は先にどうぞ、と彼に話を促した。
『じゃ、僕から。実は、きみに言わなきゃならないことがある。突然だけど、この時間は今日で最後だ。なんでかって言うと、僕がこのペンダントを手放すことにしたからさ』
「え……」
千紗子の頭の中は一瞬で真っ白になった。かろうじて一言だけ呟くと、少年が優しく頷く気配がした。ペンダントの向こうに、目元を柔らかく緩めた彼の姿が見えるようだった。
『きみのお蔭で、このペンダントを手放す決心がついたんだ。でも、今度は崖の上から投げ捨てるなんてことはしない。きちんとボトルに収めてから海に流すよ』
そうか。あたしがいま持っているこのペンダントは、十三年前に彼がボトルに詰めて海へ流したものだったんだ。千紗子は凪いだ海のように穏やかな少年の声を聞きながら、頭の片隅でぼんやりとそう考えた。彼がどうして自分の作品を海に流してしまうという決断をしたのかは、正直なところ、千紗子にはよく分からない。もしかしたら、それは彼と同じ職人同士の立場でしか分かり合えないことなのかもしれなかった。
ともかく、ペンダントが少年のもとを離れるのだから、彼の言うとおり、この毎日のお喋りの時間が今日で終わってしまうということだけは千紗子にも分かった。それを認識した途端、千紗子の心の中に寂しさがじわじわと染み渡っていった。もしペンダントを失くしたり連絡が途切れたりしたらそれきり永遠に話せなくなってしまう、そんな不確かな関係だと最初から分かっていた。もともと互いの顔も家の電話番号も知らないし、彼といつか直接会える確約なんて無いに等しかったのに、それでも今、確かに千紗子は名残惜しさを感じていた。千紗子はひとまず「うん。……そっか」と答えたあと、わざと明るく聞こえる声をつくってペンダントの向こうに話しかけた。
「あの……良ければ、このペンダント、このままあたしが持っていてもいいかな。もしかしたら落とした人がいたかもしれないと思って、交番に持って行くつもりだったんだけど……あなたの話を聞いてる限り、元の持ち主であるあなたが誰にも売ったりせずに海に流したんだよね?」
少年が以前話していた「海に流してしまった宝物」というのは、きっと彼が崖から投げてしまったという、父親の作品のことなのだろう。ということは、「海に流した」という表現をすれば、千紗子がT・HとM・Hのどちらの刻印が入ったペンダントのことを指していようと矛盾はしない。そう考えたとおり、少年は特に疑問に思う様子もなく、『構わないよ』と千紗子がこのペンダントを所有することを許可してくれた。千紗子はほっとして「ありがとう」と答えたあと、「これを持っていれば、もしかしたら、いつか会えたときの目印にもなるかもしれないね」と付け足した。実際は、彼は現在から数えて六年ほど前に亡くなっているので、二人がこの先の世界で出会える可能性は無いことを千紗子は分かっていた。けれど、その事実を本人の前で口にしたくはなかったし、この先の未来が変わりかねないことを伝えるのはあまり良くないのではないかという危惧もあった。それに、これが事実上彼と話せる最後の機会なら尚更、できるだけ前向きな希望の言葉を口に出していたかった。
もうすぐ三十分が経過する。いつもの「また明日」とは違う、ほんとうのお別れを言う時間だった。千紗子は息を吐いて呼吸を整え、微笑みをつくった。願わくば、声色に乗ってペンダントの向こうまで届くように。
「それじゃ、最後に、名前だけでも言わせてね。あたし、チサコって言うの。カタオカチサコ」
『僕は……ヒラタ ツムグ。ツムグの字は……』
「糸偏に、理由の由っていう字?」
昨夜パソコンの前で綺麗な名前だなと思った記憶があまりにも鮮やかだったので、気付いたときには思わずそう口に出してしまっていた。
『そう。よく分かったね。ま、ツムグって聞いたら、人名としてはその字が一番ポピュラーか』
少年――紬は驚き混じりの声でそう答えたが、幸い、千紗子がもともと自分の名前を知っていたのではないかと疑ってはいないようだった。
『じゃあ、そろそろ切るよ。ありがと、チサコ。元気で』
それを聞いて、また声が詰まりそうになる。千紗子はじゃあね、というお別れの挨拶の後に「紬くんも、身体に気をつけて」と伝えるのが精一杯だった。八時三十分までにはまだ一分か二分くらいの時間が残されていたが、声が揺れるのを相手に悟られないうちに、千紗子はそっとペンダントを閉じた。それきりペンダントは沈黙した。不思議な力を持った通信機から、星の形をしたひとつの工芸品に戻ってしまったようだった。千紗子は学習机の上に置かれたその美しいアクセサリーを改めてじっと眺めてみる。初めてペンダントを開けたあの日と同じように、繊細な金細工のふちが窓からの月の光に照らされて淡い輝きを放っていた。
次の日から、千紗子の日常はまったく今までどおりに戻った。毎晩八時からの三十分間のお喋りの時間が無くなっただけで、千紗子の心にはぽっかりと大きな穴が空いてしまったようだった。残りの夏休みは、無心で宿題を片付けて、ときどき趣味のお菓子作りの練習をするほかは特に外へ遊びに出る気にもならず、だらだらと惰性でテレビを見て過ごした。千紗子と紬が毎晩お喋りしていたことを知っている人は、もちろん当事者である二人以外には誰もいない。“十三年前に外国に留学していた日本人の男の子と、世界に二つしかない不思議なペンダントを通じて毎日話していた”――だなんて、たとえ誰かに打ち明けたとしても信じてもらえるとは到底思えなかった。そのうちに千紗子自身も、あの日々は実は本当にあったことではなく、幻のようなものだったのではないかとさえ思うようになっていた。
そうして、夏休みが終わるまであと数日となったある日のこと。千紗子が簡単な昼食を終えてリビングで扇風機に当たっていると、不意に家の呼び鈴が鳴った。玄関のドアの向こうには、何かのチケットらしき細い紙を胸の前に二枚掲げた桜が立っていた。
「千紗、今から映画でも観に行かない? この新作、面白そうだよねってこの前話してたでしょ」
なんでも、都合が合わなくて行けなくなったからと従姉から譲り受けたペアチケットらしい。ちょうど気分転換がしたいと思っていた千紗子は「行く」と即答して、外出の準備のために急いで自室への階段を上がっていった。
桜が誘ってくれた映画は、壮大なスペースファンタジーだった。映画の中で主人公が『いま見ている星の光は何年も前の光で、いま現在はその星が無くなっているかもしれない』と言っていたところで、図らずも紬のことを思い出して目が潤みそうになったけれど、映画館の暗さのおかげで、隣の桜にはおそらく気付かれずに済んだ。
映画の出来が期待以上だったので、二人は映画館から出たあと、興奮気味に感想を話し合った。自動販売機でオレンジジュースを買い、そのまま映画館の近くの公園のベンチに腰掛けてお喋りを続ける。木陰の涼しさで汗も徐々に引いていき、感想戦もある程度落ち着いたところで、桜が「あのさ」と切り出した。
「千紗、この前料理クラブのみんなで遊んだときに元気なさそうだったでしょ。それってもしかして、夏休みに入る前に言いかけてたことと関係あったりする? もしそうなら、良ければ話聞くよ」
「さくちゃん……」
気付いてくれてたの、と続けると、桜は迷い無く「当たり前じゃん」と答えた。
「でも、千紗の悩みってあたしには話しづらいことなのかなとか、こっちからぐいぐい聞き出したら迷惑かなとか、余計なことばっかり考えちゃって、なかなか言い出せなかったの。だから、二学期が始まる前に、思い切って誘ってみちゃった」
桜は千紗子と目を合わせて、愛嬌たっぷりの照れ笑いをした。千紗子もつられて自然に顔が綻んでいくのを感じる。
「だからさ、嫌なこととか相談とかあったら、これからはいつでも好きなときに話してよ。遠慮なんて無し。友達が何か悩んでるときに何も出来ないでいるなんて、あたしは嫌だもん」
いつも友達を大事に思ってくれる、真っ直ぐな彼女らしい言葉だった。そうだ、あたしこそ、家の中のことなんて相談されても困るかなとか、変に考えすぎなくても良かったんだ。千紗子は心配そうに自分を見ている桜の顔を見つめ返して「うん。ありがと、さくちゃん」と微笑んだ。こんなふうに心から笑顔になれたのは、紬と一緒に流星を見たあの日以来のことだった。
その日、帰宅して夕食を済ませ、自室のドアを開けようとしたところで、珍しく隣の部屋の姉から声を掛けられた。
「ねえ、千紗。このあいだ見てたページの細工師さんのアクセサリー、可愛いね。この代表作なんて、あんた、好きそうなデザインじゃない?」
姉はそう言って千紗を手招きし、パソコンの画面を指差した。千紗子は首を傾げながらも姉の部屋のパソコンに近付いていく。
「あ、言っておくけど、別に最近あんたが何をしてるかを勝手にコソコソ調べ回ったわけじゃないよ。あんた、ページ開きっぱなしにしておくんだもん。だから、次にパソコンを開いたときに、このページが否が応にも最初に目に入っちゃったの」
「あっ……」
確かに、『享年二十歳』の文字を見たくないあまりに、残りのスクロールバーの長さなんて確認もせずにそのままパソコンを閉じてしまった気もする。千紗子は姉にごめん、と小さく呟いて、気まずさのために斜め下へそっと視線を逸らした。ちょうどそのとき、階下のリビングから母が姉を呼ぶ声が聞こえた。
「枝理、ちょっと来てー」
姉はなあにーと返事をしたあと、そのまま部屋の扉を開けて階段を下りていってしまった。千紗子はそれを見送って、また姉の学習机の椅子に座り、パソコンの画面を覗き込む。確かに、そのページには略歴の後ろに作家の代表作紹介コーナーがくっついていて、写真とテキストでかなり細かく解説されているようだった。
姉が先ほど言及していた『平田紬の代表作』というのは、どうやら金細工のブローチらしい。写真を見ると、そのブローチは繊細に彫られた流星の尾の部分に兎が抱きつくように乗っているデザインで、その周りにも細かい星の図案が配されていた。そして、珍しいことに、兎の首元には何かスカーフらしきものが結ばれている。ひと目見て、千紗子にはそれが何なのかすぐに分かった。おそらく――自分の勘違いや早とちりでなければ――これはパティシエの人がよく付けているスカーフタイだ。千紗子は震える手で画面をスクロールしていった。
作品についての解説が続く。このブローチは、若くしてこの世を去った天才細工師が最晩年に取り組んだ作品のひとつということで、その技術の高さも相俟ってかなりの値が付けられているとのことだ。そして、作品写真のすぐ下の説明欄に、作者本人が記したらしいこんな一言が添えられていた。
「“親愛なるC・Kに捧ぐ”……」
それを声に出すうちに視界が滲んでいく。星のペンダントを介して彼と心を通わせたあの時間は、決して幻などではなかった。この星とうさぎのブローチは、あの日々が時を超えた二人の間の思い出としてこの世に残っていたという確かな証だった。千紗子の頬を涙が一粒すべり、手に持っていた星の形のペンダントの上に小さな音を立てて零れ落ちた。
*
あの夏の日からおよそ四年が経った。千紗子は今年、当時の姉と同じ高校三年生になった。着慣れた高校の制服の皺を姿見の前で整えて、よし、と自分に言い聞かせる。今日は、帰宅後に進路のことで母と話をすることになっている。臆せずに真っ直ぐ自分の気持ちを伝えるつもりだ。あたしは製菓に興味があるから、大学よりも製菓の専門学校に行きたいです、って。
「千紗、準備できたの? 学校、遅れるよ」
「はーい」
癖っ毛を梳かしながら、階下からの母の声に応える。ふと、姿見の脇の棚の上に飾られているペンダントが目に入った。星の形をしたペンダントは、今も千紗子の毎日を見守ってくれている。そのペンダントを見つめていると、あの日の少年の涼やかな声と、しずかな潮騒がどこからか聞こえてきて、いつでも千紗子を励ましてくれているような気がした。千紗子は部屋のドアのほうへと踵を返す前にひととき微笑んで、「行ってくるね」と誰にともなく呟いた。