ベルタ

MYTHINGシリーズ



 私が彼女と出会ったのは、私がまだ五つか六つの頃だった。私が生まれた小さな村を出て、曲がりくねった川を二本越えて、なだらかではあるが子どもの脚には堪える程度の山道を丸二日も歩き続けた先の、昼間でも薄暗いような鬱蒼とした森の奥の奥にその小さな家はあった。いま思い返せば、家というよりも小屋と呼んだほうがいいような質素な住まいだったけれど、そのときの私には彼女の家の木戸はとてつもなく大きく見えた。何しろ、実に三日振りに人が住んでいる形跡に巡り逢えたのだ。  私は木戸を叩く前に大きくひとつ深呼吸した。体はもうカラカラに渇いていて、空気を吸い込むたびに喉が痛かったのを今でも覚えている。 「……すみません。だれかいませんか」  気付いてもらえるように、出来るだけ大きな音を立てて木戸をたたく。留守だったり、もしかしたら空き家だったりしたらどうしようかという不安が頭を過ったけれど、そういくらも待たないうちに、ひどく軋むような音を立てて木戸が開かれた。  家から出てきたのは──多分この家の主だろう──背の高いほっそりとした女性だった。いや、彼女が本当に他の女性と比べて長身だったのかを知る方法は今となっては存在しない。とにかく、当時の私にとって、大人である彼女は長身に見えたというだけのことだ。  その女性は無言で私を見下ろし、子どもと目線を合わせるでもなく、かと言って拒絶するでもなく、ただ私がここにいるわけを自分から話し始めるのを待っているように見えた。紫水晶のような色の深遠な瞳からは、何の感情も読み取れなかった。  私は勇気を振り絞って、「あの、なにかたべものをわけてくれませんか」と訴えた。もう五日もまともなものを口にしていなかった。女性はそこで初めて私の出で立ちを頭から爪先までしげしげと眺めた。櫛も通らなさそうなほど無秩序に乱れ放題の毛髪、汚れて継ぎ接ぎだらけの衣服、それに壊れかけたぼろぼろの履き物を何とか引き摺るようにして歩いている。掌は煤や土汚れでいつしか真っ黒になっていた。 「……家は?」  彼女は初めて口を開いた。女性にしては低めの、耳触りの良い声だった。私は何と答えて良いか迷い、結局首を横に振った。 「ありません。おとうさんとおかあさんが、私はもうおうちにいらないって。ひとみの色もかわっちゃったし、へんなこえがきこえるっていうし、そんなきみのわるいこはそだてられないって……」  あの日、父と母は木の実を採りに行こうと私をやさしく誘って森の中に連れて来たけれど、ここ数日の彼らの態度から、それが私を連れ出す口実に過ぎないことは薄々感じ取れた。案の定、森の一番深いところに着くと、彼らは「ごめんね。私たち、あなたのきょうだいを育てていくだけで精一杯だから」と言い残し、そのまま二人だけで帰ってしまった。私は彼らを追わず、その後ろ姿をじっと見つめていた。私の兄や姉や弟たちは私みたいにおかしな力を持っていないから、きっとこの先もあの家で大切に育ててもらえるのだろうなとぼんやり考えた。  私の話を聞いていたその女性は、ちょっとびっくりした顔をして、私と目線を合わせるために床に膝をついた。紫水晶のように深く澄んだ二つの瞳が、私の目の中をじっと覗き込んでくる。そして、私が口を開く前に何か納得したように一人で頷き、小さい私の背にそっと片腕を回した。 「分かったわ。中に入っていらっしゃい。あなたが本当は何者なのか、わたしが教えてあげる」  家の中は簡素ではあったが整理されていて、何より清潔だった。彼女は家の裏手の小川で私に水浴びをさせて、髪をくしけずり、少しばかりの野菜と香草の混ざったあたたかい粥を供してくれた。それを私が食べ終えるのを、彼女は食卓の上に肘を置いてじっと観察していた。不思議とすわりが悪いとは感じなかった。  彼女は卓上の古めかしい燭台へと白い指をおもむろに伸ばし、指先で空中に小さな円を描いた。すると、一切手を触れていないのに、燭台の先にあたたかそうな灯りが点った。それに驚いて私が彼女を見上げると、彼女は涼やかな目をちょっとだけ細めて「あなたもできるはずよ。やってみて」と私の目の前の燭台を指差した。 「あなた、『声が聴こえる』と言ったでしょう。それは精霊の声。力を貸してほしいって、火の精霊に心の中で呼びかけるのよ」  彼女は私の手を取って、導くように指で円を描かせた。彼女の言う通りにすると、一瞬だけ指先に熱が集まるような妙な感覚があって、次の瞬間には燭台の先に小さな火が灯っていた。しかし、彼女が手本を見せてくれたときと違って、その火はすぐに弱々しく揺れて音もなく消えてしまった。私がまた彼女を見上げると、彼女は燭台の火がすぐに消えてしまったことなんて気にも留めていないといった様子で、それでいいと私を褒めてくれた。そして、私と目を合わせて、静かなのにどうしてか燭台の火のようにあたたかく聴こえる声でこう言った。 「あなたは気味の悪い子なんかじゃない。わたしと同じ、魔術師よ」  先ほど彼女が灯した燭台の火が、深い紫色の瞳にまだちらちらと映っている。  それから私は、彼女のこのこじんまりした家に弟子という形で置いてもらえることになった。ベルタと名乗った彼女は、はじめの印象の通りに物静かで几帳面で、普段から口数はあまり多くない人だった。それは私に魔術を指導するときも同様で、声を荒げることなどはなく、淡々と要点を説明するという教え方だった。  ある日、彼女が奥の部屋から何か小さなものを持ってきて、それを私の腕に巻きつけた。それは濃灰色の石が嵌まった華奢な腕環だった。子どもの腕では、腕を上げる動作と連動して腕環もずり上がってしまう。その様子を見て、彼女は「本当は手首に付けるのだけど、成長するまでは仕方ないわね」と苦笑した。 「魔術はね、何もなくてもある程度は使えるけれど、こうやって貴石ほうせきに魔力を封じ込めたほうが制御しやすくなって効率的に扱えるの」  彼女はそう言って、自身が左の手首に付けている腕環を指した。それは私がもらった腕環とそっくりだったけれど、中央の石の色が違う。彼女のは、瞳の色と全く同じ美しい紫水晶のように見えた。私が不思議に思ってそれを指摘すると、ベルタは自分の貴石ほうせきに魔力を注ぎ込んで貯めてみるように私に言った。魔術師としての勘なのか、詳しい手順を教わらなくとも、何をすればいいかは分かった。私は魔術を使うときにそうするように、一度目を閉じて一生懸命意識を集中させ、身体の中の魔力の流れを捉えて、それを腕環の貴石ほうせきへと流し込んで行く。それは水差しから器へと注意深く水を注ぐ作業にも似ていた。  腕環をつけた左腕の様子を見てみると、石の色がだんだん変わり始めているのが見て取れた。濃灰色だった石はみるみるうちに澄んで白っぽくなり、それからアーモンドの花のような色に染まって、最終的には私の目の色と全く同じ色になった。ベルタは「それがあなたの魔力の色ね。瞳と貴石ほうせきの色に表れるのよ」と心なしか満足そうに言った。  石に魔力を封じ込めたほうが制御しやすくなるというのはこういうことかと、試しに屋外で植物の蔓を伸ばしてみたときに納得した。もはや魔術を使うことは言葉を扱うことと大差なかった。楽しくなった私はどんどん蔓を伸ばして、外に干してあった敷布を派手に引っ掛けて泥まみれにし、珍しく師匠から冷ややかな声を浴びせられることになった。父も母も怒るときは大声を出す人だったので、むしろこうやって静かに叱られるほうがある意味恐ろしいのかもしれないということをこのとき初めて学習した。  またある日、私が師匠の部屋の拭き掃除をしている途中、化粧台の縁に偶然肘が当たって、何か小さなものが床に落ちる音がした。割れたような音はしなかったけれど壊れたりはしていないだろうかと慌てて拾い上げて見てみると、それは子どもの掌にやっと収まるほどの大きさの衣留めピンフィビュラだった。私にはどうなっているのか到底分からないくらいのすてきな彫刻が施されていて、中心には若草色のきらきら輝く貴石ほうせきが嵌まっている。裏返したり側面を見たりとあれこれ確認してみても、幸い、折れ曲がったり罅が入ったりはしていないようだったので、私はほっと息をついた。  フィビュラを化粧台に戻そうと立ち上がったところで、ちょうど師匠が現れた。彼女と目が合うなり、私は「落としてしまって、ごめんなさい」と正直に告白した。彼女は特に私を責めることはなく、フィビュラを受け取って化粧台の棚の奥に仕舞い直した。それから私を振り返ると、私が何か訊きたげな目をして見つめていることに気付いてふと微笑んだ後、昔を懐かしむような声で話してくれた。 「……あなたと同じ年頃の娘がいたの。生まれてすぐに引き離されてしまったから、娘が今どこでどうしているかを知る術はもう無いのだけれど。このフィビュラは、娘の瞳の色を忘れたくなくて作らせたのよ」  その話を聞いて、私は何も言えなかったけれど、彼女がこのフィビュラを実際に使っている姿を見たことがない理由は何となく分かった。彼女にとってそれは実用品というより、おまもりのようなものなんだろうと思った。 「さあ、少し休憩したら、また訓練の続きに戻りましょうか」  師匠をじっと見上げている私に、彼女は何でもないように笑いかけた。  魔術は人のために役立てるもの。それが彼女の口癖だった。 「悪意をもって魔術を使う人もいるけれど、少なくともわたしはそうしたくないし、あなたにも人を攻撃したり陥れたりするための魔術を教えるつもりはないわ。相手を負かすだけが戦いじゃないって、信じているから」  当時まだ十にもならない私は、師匠の言葉の深い意味まではよく分からないながらも、とりあえず神妙に頷いていた。  それから春が来て夏が過ぎ、私が師匠と出会った季節がまた巡ってきた。たしか四度目か五度目だったと思う。その頃には私はもうすっかり魔術の基礎を習得していて、前のおうちにいたときのように魔力を暴走させて迷惑をかけることもなくなっていた。師匠の家には彼女が趣味も兼ねて研究しているという薬草の壺がたくさん並んでいて、彼女は魔術の指導の合間に薬の種類や効果を一つずつ詳細に説明してくれたけれど、残念ながら私には薬学の才能は無かったようで、そちらはいまいち身についたとは言い難かった。  師匠は近頃、たびたび山の麓の町へ出掛けるようになった。今までにも彼女が家を空けることはあったけれど、それは生活に必要な最低限のものを調達してくるためであり、決して最近のように頻繁ではなかった。私は外出の理由を彼女に尋ねようかと思ったが、やめた。一度、夜中に目が覚めてしまって水をもらおうと厨に向かう途中で、何やら文字がびっしり書かれているパピルス紙を真剣な表情で読んでいる彼女の横顔を見たからだった。その瞬間、子どもながらに、これは自分が口を出してはいけないことなんだろうなと直感した。私は彼女の邪魔をしないように、なるべく静かに部屋へ戻った。  その数日後の夕刻前、師匠と共に庭へ出て、薬づくりに必要な薬草を摘んでいたときのことだった。前庭のほうに回って夢中で草を見分けていた私の頭上に突然暗い影が落ちて、知らない男の人の声が降ってきた。 「子どもか。お母様はどこにいるかな」  優しい言い方だったけれど、どうしてかその声に対して“怖い”と思ったことを今でも鮮明に覚えている。声のほうを見上げてみると、髭を生やした恰幅の良いおじさんと、痩せぎすのお兄さんが膝を曲げて私を見下ろしていた。 「師匠は……」  警戒しながらも一応答えようとしたところで、庭の向こうのほうへ草を摘みに行っていた師匠がそれを遮って、私を自分の後ろに隠した。 「わたしが家主ですが。弟子が何か失礼を?」  冷静で控えめだが、決然とした意思を感じる声音だった。 「家にまでは来ないという約束だったはずです」  師匠は「あなたは家の中に入っていなさい」と私の背を軽く押して誘導したが、私はなぜか体が動かなかった。そうしているうちに、恰幅の良い男性のほうが私の存在を無視して勝手に喋り始めた。 「あんたがなかなか良い返事をくれないもんでね。あの件について、そろそろ決断してもらわんと、こちらも困るんだよ」 「わたしは只、人目につきにくいところでこうして静かに暮らしているだけ。あなたがたに危害は加えません。これまで何度もそう言ったはずです」 「そうは言っても、こっちも上の指示でこうして来ているわけでねぇ。そうでなきゃ、好き好んで近寄らないっての。こんな気味の悪い魔女の家なんかに」  痩せぎすの男のほうが薄ら笑いを浮かべてそう吐き出した。師匠はただ、深い紫色の冷たい瞳で黙って男たちを見つめている。  しばらくの睨み合いの後、結局、師匠が「お引き取りください」とすげなく家の扉を閉めてしまったことで事態は一応の決着を見た。  扉が完全に閉まったことを確認してから、私は恐るおそる師匠を見上げた。師匠は一瞬だけ困ったような表情を見せたが、あとはいつも通りの落ち着いた声で順を追って私に説明してくれた。悪い王様の政策で、魔女を排除する活動が激化していること。あの男の人たちは師匠にここからの立ち退きを命じていること。このままここに住み続けることには危険が伴うため、弟子の私が他の地域に逃げられるように手配を進めていること。 「……逃げるって、私だけが? 師匠は一緒に行かないの?」  思わずそう尋ねると、彼女は首を横に振って、「わたしはここに残るわ。やり残したことがあるから」とどこか寂しそうに微笑んだ。やり残したことって何? その疑問が口をついて出かけたけれど、彼女が答えてくれないであろうことを私はわかっていたから、ついに聞けないままに終わった。  数日後、またあの男たちがやって来た。今度は師匠も私も家の中にいるときだったから、男たちが扉を乱暴に叩くのを扉の内側で二人で押さえながら耐えた。男たちはしばらくの間、「出て行け」「得体の知れない、忌まわしい魔女め」としきりに喚き散らしていたが、私たちが何も応えないでいると、やがて諦めたのか、日が暮れる前に山を下りて行ったようだった。彼らが去ってから、私は一緒に逃げようと師匠に訴えたけれど、彼女は決して首を縦に振らなかった。当時まだ十にもならない私が、この事態に対して出来ることはそれ以上何も無かった。  どうしようもない無力感を抱えたまま、ついにそのときは訪れた。その日は師匠が町へ出かけていて、私は煮炊きに使う薪が少なくなったので、少し遠くのほうまで枯れ木を集めに行っていた。  いけない。夢中になりすぎて、遅くなってしまったかも。  私が足早に家へ帰ってきたのは、秋の短い日がだいぶ傾いて、夕暮れが迫ろうとする頃だった。東側の道から見る我が家に、きれいに西日が差している。初めはそのように認識していた。けれど、何かおかしいと気づいたのは、真っ赤に燃える夕焼けのなかに一筋の黒煙を見つけたときだった。  ――家が燃えている。私たちの家が。  私は衝動的に薪をその場に全部落として、家の傍に駆け寄ろうとした。その前に大人の影が立ちはだかって、私が家に近付くのを止めた。師匠だった。息が上がっているところを見ると、用事を中断して駆けつけてくれたのだと分かった。彼女は私を見るなり、安心したようにその場に膝をついて私を抱き寄せた。 「間に合った。本当によかった、あなたが家の中にいなくて……」  彼女の声は震えていた。私はそれを聞きながら、目の前であかあかと燃え続ける家屋を呆然と見上げる。炎の向こうで、「魔女め、出て来い」「みなの前で確実に焼き殺してやる」という男たちの怒号が響いている。彼女はそちらを一瞬見遣ってからもう一度私と向き合い、「聞きなさい」と言って自分と目を合わせるように促す。そして、私に言い聞かせるようにゆっくりと話し始めた。 「この道を辿って山を下りたら、東の小さな村の村長をしているおばあさんが待っているわ。あなたのことを頼んであるから、その人に着いて行きなさい」 「……師匠は」  答えを知っていても、尋ねずにはいられなかった。彼女はやはり微笑んで首を横に振った。 「わたしは、行かなきゃならないわ。そうしないと、あいつらは納得しないでしょうから」  声音には諦観が滲んでいた。それで私は、彼女が町に戻った後にどういう仕打ちを受けるのかを悟った。この人は、その姿を私に見せまいとしているのだろう。 「嫌だ。一緒に行こう」  私はついに泣き叫んだ。けれど、彼女は私を落ち着かせるために頭を撫でるばかりで、結論を変えるつもりはないということが分かった。  男たちの怒号は更に勢いを増し、周りの樹々に燃え移ってひときわ大きくなった炎が小さな家を取り囲んでいた。 「いい? これからどんなことがあっても、どんな仕打ちを受けても、希望を失わないで。魔術は誰かのために役立てるものだって、わたしは信じているから。あなたを信じてくれる人は、この先必ず現れる。だから、その人たちのために、善い魔術師でありなさい」  彼女の白い手が私の頬をなぞって涙を拭い取った。それから彼女は名残惜しそうに、私の腕環に軽く触れた。それが別れの合図だった。  立ち上がってゆっくりと家のほうへと歩き出し、炎のなかに飲み込まれていく彼女の姿を、私は目に焼き付けた。彼女の黒い髪の縁が、炎が揺れるのに合わせてちらちらと美しく輝いていた。  それから私は火が燃え移らないうちに無我夢中で山を駆け下り、師匠の知り合いだという老女に保護されて、遠い村へと身を隠した。そこは比較的多くの魔術師が暮らしている村で、村長である老女の孫も魔術師だった。  私が村に逃げてきて一年も経たないうちに、悪い王様が勇者に打ち倒されて、新しい王様が即位なさったと聞いた。それを境に、少しずつ世間の魔術師への目は変わり始めた。今では、目の前の人間が魔術を使う者であるという理由だけで家に火を放つような輩はいない。少なくとも、表向きは。 「……こうして報告しに来られてよかった。あれから、魔女狩りなんていう御触れは新しい王様によって撤回されました。私も、他の魔術師も元気です」  私は十年振りに訪れた深い森の中、焼け跡となった廃墟に向かって話しかけた。一縷の希望に縋るように辺りを探してみたけれど、彼女の形見となるものは見つからなかった。 「師匠。私、あのときは何も出来なかった自分に苛立ったし、正直に言うと、あなたをあんな目に遭わせた町の人たちを恨みもしました。だけど、私の魔術は、復讐のためじゃなくて、誰かの役に立てるために使います。それが私の戦い方だと思うし、あなたとの約束でもあるから。そうやって生きていたら、いつか、善い魔術師になれるかな」  返事が無いことは分かっている。私は少しだけ微笑んで、焼け跡の前を立ち去ろうとした。そのとき、視界の端で何かが光った。どうやら太陽の光に反射しているようだ。瓦礫を手で除けてその辺りを探ってみると、やがて掌に収まるくらいの大きさの錆びかけた金属の塊が私の指に触れた。若草色の宝石が中央に嵌まった飾りピンフィビュラだった。彼女には私と同い年くらいの娘がいて、その子の瞳を覚えておくために作らせたもの――。確か彼女はそう言っていた。  私はそのフィビュラを両手で包み込み、持ち帰らせてもらうことにした。この品物の意味を知らない者の手に渡って不当に扱われることは避けたかった。  今度こそ踵を返して歩き始めようとしたとき、どこからか私の名を呼ぶ彼女の声が聞こえた気がして、私は振り返った。しかし、それは只の風鳴りの音に過ぎず、実際に私の名を呼んだのは、この旅に同行している夫だった。 「サーリア。そろそろ行くよ」 「ええ。今行くわ、ダビー」  私は駆け出した。初冬の深い深い森の中に、風に吹かれた一枚の枯葉が静かに舞い落ちた。
Page Top