アステルは父にお辞儀をして部屋から出るなり、仕切り幕を背にして深い溜息をついた。つい先ほど聞いたばかりの父の声がぼんやりと頭の中に木霊する。
――アステル、喜べ。ようやくおまえの結婚の準備が整いそうだ。相手はおまえには勿体ないほどのお方だから、くれぐれも粗相の無いように。
アステルは「結婚……」と呟いて俯いた。互いに信じ合い、愛情を確かめ合った相手とであれば、なるほど、結婚というのはきっとすてきなものなのだろう。けれど、まだ言葉を交わしたこともない、人となりも知らない人との結婚を一方的に決められて幸せになれるとはアステルはどうしても思えなかった。
とはいえ、父の言いつけに逆らえるはずもない。昔からずっとそうだった。アステルはせめて今日だけでも父の支配力の象徴たるこの屋敷から出来るだけ離れたくなり、その足で真っ直ぐ屋敷の表玄関へと向かった。ところが、玄関口に着いたところで、ちょうど背後からアステルを呼び止める声がかかった。声の主は分かっている。アステルは反射的に柔らかい微笑みをつくって振り返った。その拍子に、深い栗色の巻き毛がオリーブ色の衣の上に流れ落ちた。
「おねえちゃん、どこに行くの?」
まだ十にもならない少女の可愛らしい目がアステルを見上げている。十歳差の妹は、近頃どこに行くにも姉の後ろにくっついて行動を共にしないと気が済まないようだった。姉としてはその行動を愛おしく思うけれど、今日の行き先と外出の目的を考えると、妹を連れて行くことはできない。アステルは玄関の床に膝をついて妹と視線を合わせ、諭すように言った。
「お姉ちゃんはね、今日は内緒のお出かけなの。メイドのクララにもマリにも言ってはだめよ。日が沈む前には帰ってくるわ」
妹はしばらくぐずっていたが、アステルの意思が固いことを悟ってさすがに諦めたらしく、しぶしぶ姉の後ろ姿を見送った。アステルはひとさじほどの罪悪感を覚えつつも、わざと妹のほうを振り返らないようにして、足早に屋敷を後にした。
アステルが向かったのは、屋敷の裏手に広がる広大なオリーブ畑だった。いわゆる箱入り娘のアステルは、確実に一人きりで誰の目も気にせずに心静かに過ごせる場所を、屋敷の周辺という条件内ではここしか知らなかった。畑の中に入ってしまうと、背の高いオリーブの樹がアステルの姿を隠してくれる。同時に外界のわずらわしさも遮断してくれる気がして、アステルはこの場所が気に入っていた。
ふと、オリーブ畑の更に奥のほうに広がる鬱蒼とした森が目に入った。あの森も一応うちの敷地のはずだが、迷いやすくて危険だから中には入らないようにと、幼少の頃から父にきつく言われている。
――でも、いいわ。お父様の言いつけなんて知らない。
それに、今日のアステルは、眩しいほどに照りつける真昼の太陽の光からすっかり身を隠してしまいたい気分だった。それで、こっそりと左右に目を配って周りに誰もいないことを確認してから、オリーブの葉の色の衣の裾を翻してするりと森の中に入っていった。
森の中は今の季節のわりにはひんやりとしており、驚くほど空気が綺麗で息がしやすかった。かわりに、光が十分に届かないので薄暗かったが、今のアステルにとってはその暗さがむしろ心地よかった。
草を踏み分けながら慎重に歩を進めていくと、やがて小さな広場のような場所に出た。今まで十八年間この土地で育ってきたというのに、こんな場所があったとは知らなかった。アステルは物珍しさから感嘆の声を上げて辺りを見渡した。森の中は快い静寂に満ちていて、時折葉擦れの音と小鳥の声が聞こえるばかりだった。
ところが、しばらくすると、アステルの斜め上にあるひときわ背の高い樹木の中間の枝の辺りで衣擦れのような音が聞こえることに気付いた。枝に掛けた衣が風に揺れて、周囲の葉や枝に当たっているようだ。アステルはたいして深く考えもせず、ふとその樹木のほうを見上げた。
そのとき、一瞬強い風が吹いた。アステルは思わずきつく目を閉じて、手の甲で顔の前を覆った。風がおさまるのを待って、何度も瞬きを繰り返しながら樹木を見上げる。すると、ちょうど風で葉が横に靡いて枝の辺りがひらけ――そこに当然のように腰掛けている若い男性と目が合った。色素の薄い彼の髪が、風に煽られて不規則に揺れているのが見えた。
アステルが戸惑っているうちに、彼は躊躇いもせず軽やかに樹から飛び下りた。飛び下りかたが上手いのか、それとも体重が軽すぎるのか、着地の音はほとんどしなかった。なにしろ、まともに向き合った彼は驚くほど華奢だったのだ。けれど顔色が悪いわけでもないし、心配になるほど不健康そうには見えないのが不思議だった。
彼はアステルと同年代の青年のように見えるので、まさか妹と同じ年の頃の少年のように虫捕りに来たわけではないだろう。手先も土で汚れておらず、道具らしきものも手にしていないところを見ると、たぶん農夫や樵でもない。では何のためにこんなところで樹に上っていたのかしらと、アステルはこんな森の奥までわざわざ足を運んできた自分のことは棚に上げて素朴な疑問を覚えた。アステルがあれこれと考えているあいだにも、彼は何も言わず、表情も変えずにただ彼女を見つめている。そうして見つめ合っているうちに、アステルは自分が本来初対面の人間に人見知りする性分であることをすっかり忘れて、ごく自然に彼に話しかけていた。
「こんにちは。ええと……あなた、いつもあんな高いところに上っているの? 危なくないの」
すると、青年はアステルの声が聞こえてはいるらしく、瞬きをしたり頭を軽く横に振ったりして反応を見せたが、口を開こうとはしなかった。様子を見たところ、こちらを無視しているようには見えない。それなら、アステルが思いつく選択肢はひとつだった。
「あなた、声が出せないのね」
それとも、私に聞こえていないだけかしら。そう思いながらアステルが問いかけてみると、彼は『うん、そうだよ』と言いたそうに首を二度縦に振った。その瞬間、アステルは両親から庇護される者としてでも妹を庇護する者としてでもなく、ただの人間として同年代の若者と意思疎通ができたことが何だかたまらなく嬉しくなって、彼ともっと話をしてみたいという考えが生まれた。
「……ねえ、それなら、文字はどう?」
こちらの話を理解できているのだから、口話の代わりに文字を用いれば疑似的な会話はできるはずだ。そう考えて、「もし文字を知らなくても、私が教えればいいから……」とアステルが続けようとしたそのとき、どこか遠くのほうで聞き慣れた高い声がかすかに聞こえた。
「おねえちゃん。どこー?」
まずい。アステルが森の中に入るのを見ていたのか、それとも只の勘なのかは分からないが、どうやら、妹がアステルを探しに森の中まで入ってきてしまったらしい。アステルは急いで衣の裾に付いた土や草きれを払い、森の出口のほうへと履き物の先を向けながら青年に挨拶した。
「ごめんなさい、もう行かないと。あの……あなたさえ良ければ、また明日の同じ時間にここに来ても構わない?」
そう尋ねてみると、青年は色の薄い目を少し見開いて驚いたような表情をしたが、すぐに微笑んで頷いた。アステルはその返事に安心して、今やるべきこと――つまり、妹を保護して、はぐれないように手を繋いでやり、無事に屋敷まで帰ること――を遂行するために大急ぎで森の出口へと向かった。
次の日からアステルは、ちょうど妹に対してそうしたように、さっそく青年に文字を教えることにした。
「まずはね、これがαで、これがΣ……」
細い枝で土の上に文字を書き、一文字ずつ丁寧に説明していく。青年は覚えは悪くないようで、文字を理解したあと、想像よりだいぶ早く単語を書けるようになった。ときどきいつもの癖で、妹に言い聞かせるような物言いをしてしまい、青年にきょとんとした顔をされることもあったけれど、そんな瞬間もまた楽しかった。
『こうして誰かと話ができたのはしばらくぶりだ』
ある日、青年が楽しそうに筆談でそう言った。アステルも土の上に書かれた整った文字と、その言葉をそのまま表しているかのような彼の表情を見て嬉しかった。
「でも、私ばかり話を聞いてもらっている気がするから、何だか悪いわ。よかったら、あなたの話も聞かせてくれる?」
『僕はもうずっとこの森の中から出ていないから、毎日同じ景色、同じ日々の繰り返しだ。日が昇ってから暗くなるまで、日がな一日何も起こらない。きみとこうして話す時間以外はね。だから、愉快な話は何もできないよ』
青年はそう言って首を振り、毎日アステルの話をよく聞いてくれた。楽しい話ばかり出来たかどうかは分からない。結婚についての悩みや親への小言も多分に混じっていただろうに、それを聞いている青年は、木の葉がそよ風に揺れるときのさざめきのように穏やかな微笑みを絶やさなかった。彼の隣はいつも不思議と居心地が良い。アステルにとって、いつの間にかこの時間は生活に欠かせないものになっていた。
それからひと月ほどが経ったある日のことだった。その日、待ち合わせ場所に着いても青年が姿を見せなかったので、手持無沙汰になったアステルは、木の枯れ枝で土の上に好きな花の絵を描いて遊んでいた。すると、アステルが地面を見下ろしている反対側から白い男性の手が伸びてきて、『その花が好きなの?』と土の上に文字を書いた。アステルは顔を上げる。いつものように、白い長衣を纏った青年がアステルの視線に合わせて地面にしゃがみ込んでいた。
「あら。いつ来たの?」
アステルが笑って尋ねると、青年は困ったように笑ってただ首を横に振った。アステルはまた地面に目を落とし、花の絵について説明した。
「……この花ね、昔は家の庭にたくさん咲いていたんだけれど、あるときから、わけあって種を植えなくなってしまったの。でも、私は本当はこの花が大好きだから、いつか辺り一面にこの花が咲いている光景を見てみたいわ」
結婚して引っ越したらもう自由に出かけられることはなくなるのだろうから、この夢は一生叶わないかもしれないけれど。アステルはそう言って目を伏せ、土の上に絵を描くのをやめた。そうしているあいだ、青年はアステルの話に真剣に耳を傾けて、それから、彼女が描いたつたない花の絵をいつまでもじっと眺めていた。
その日もいつもどおり筆談でお喋りを続けたが、今日はアステルではなくむしろ青年のほうに元気がないように見えた。どうしたの、と尋ねても、青年はどこか悲しそうに首を横に振るだけだ。それ以上強引に話を聞き出すわけにもいかず、アステルは「元気を出してね」と言い置いて、日暮れ前に森を去った。
ところが、次の日も、そのまた次の日も、日を追うごとに青年の笑顔は明らかに少なくなっていった。そしてついに、青年は小さな文字で土の上にこんな言葉を書いた。
『もう、ここには来ないでほしい』
アステルははっと顔を上げた。青年は彼女と目を合わせようとせず、長い睫毛を伏せて、いま自分が書いた文字だけを見つめていた。アステルは「どうして」と尋ねた。返事は無かった。
本当はアステルとのこの時間が彼にとって迷惑だったのか、それとも青年のほうにここを去る予定があるのか、あるいは何か別の理由か。いずれにしても、この様子では、アステルが他に出来ることは無さそうだ。アステルは残念に思いながら、「分かったわ」と寂しい笑顔で頷いて、そのままさよならも言わずに彼に背を向けて森を去った。
次の日からは、めずらしく三日続けて悪天候だった。中庭の雨模様を屋内から眺めながら、アステルは溜息をついた。その音は雨の中に溶けてたちまち消えてしまう。あの森でのお喋りの時間を失った日々は、アステルにとっては、香りを全く感じられない香草茶のようなものだった。
そのうちに、室の入口のほうから軽い足音が近付いてきた。この足音は妹だ。きっと、屋敷の中での一人遊びに飽きてしまったのだろう。
「おねえちゃん、おはなしを読んで。ほら、これ、おとうさまに新しくもらったのよ」
アステルの予想どおり、彼女は子ども向けの物語の読み聞かせを姉にせがみに来たらしい。妹は「わたしの宝物を見せてあげる」とでも言いたそうに、小さな巻物をアステルに手渡した。アステルは良いわよ、と笑って妹を自分の膝の上に乗せてやる。
「ええと……精霊さんの話ね。“あるところに、森の精霊がいました。森の精霊は昔から、森の中でだけは人間と似た姿になって自由に駆け回ることができました”」
後ろ頭しか見えない位置からでも、妹が目を輝かせて物語の続きを知りたがっていることが手に取るように分かった。アステルは声が聞き取りやすいように、文字を辿りながら一語一語をゆっくりと発音していく。
「“けれど、あるとき、精霊のひとりが森の中で見かけた人間に恋をして、その人間を森の中に閉じ込めてしまおうとしました。森の神様はそれに怒って、二度と人間と言葉を交わせないように、森の精霊たちからひとり残らず声を奪い”――」
そこまで読んだところで、パピルス紙を右から左へと巻き取っていたアステルの手は止まった。――この話は、つくりばなしかしら。それとも――。そう考えていると、やがて、アステルが動きを止めてしまったことを不思議に思った妹が「どうしたの」と言いたそうにアステルを振り仰いだので、アステルは「……ううん、何でもないわ」と笑顔をつくり、気を取り直して巻物の続きに目を滑らせた。
「……“それでも人間に恋をしてしまった精霊には、人間の姿を保てずに空気に溶けて消えていくように、強い呪いをかけたのです”」
おはなしはそれで全部だった。妹は満足したのか、おもしろかった、と言ってアステルの膝から飛び下り、巻物を持ったまま向こうの室のほうに走って行ってしまった。けれど、アステルはその後ろ姿を見送る余裕も無く、俯いて長いこと考え込み、まるで自分に言い聞かせでもするように「まさか、ね」と口の中だけで呟いた。
その夜、久しぶりに夢を見た。魔術師である古い友人と精霊の話をしたときの夢だ。
「ねえ、ベルタ。魔術を使うときに精霊の声が聞こえるのって、どんな感覚なの?」
「どう表現したら良いかな。姿の見えない友人とときどき会話ができる、と言えば分かりやすいかしら」
姿は見えないのね、とアステルが言うと、友人は難しい顔になり、指先を顎に宛ててしばらく考え込む。
「そうね。精霊の生態については、魔術師のあいだでもまだよく分かっていないみたいなの。種族によっては、人間と変わらない姿をした精霊もどこかにいると聞いたことがあるけれど、わたしは実際に出会ったことはないわ」
友人が首を横に振り、アステルがまた彼女に相槌を打ったところで夢は終わった。アステルは名残惜しく思いながら、寝台の上で緩慢に体を起こした。雨の音は聞こえない。今日は数日ぶりに晴れたようだ。
「人間の姿をした精霊……」
アステルは夢の中の友人の言葉を掠れた声で繰り返した。
せっかく天気が回復したにもかかわらず、アステルはその日も外に出るのをやめて、一日刺繍をして過ごすことにした。刺繍はとくべつ好きでも嫌いでもないが、何も考えたくないときには打ってつけだ。けれど、陽が傾く頃になっても、刺繍の針はちっとも進んでいなかった。どんなに他のことを考えようとしても、最後に会ったときの彼の顔をどうしても思い出してしまう。あの、悲哀と寂寥と慈愛の混じった複雑な表情を。
まさか、そんなはずはない。でも、もしそうだったら? アステルの心は何度も揺れ動いた。それでも結局、アステルは刺繍をそのまま卓に置いて立ち上がった。既に日暮れまでの時間がわずかしか残されていないと思うと、居ても立っても居られなかった。
四日前、二度と森には来ないでほしいという彼の頼みに対して、アステルは確かに首を縦に振ってしまった。この行動はその約束に背くことだと分かっている。もしそのことについて彼から非難の視線を向けられたり、詰られたりしても構わないと思った。アステルは今、誰の指図も受けず、明確に自らの意思のみに基づいて行動している。それは彼女のこれまでの人生のなかでほとんど初めてと言っても良いほどのことだった。
背の高い草の間をかき分け、進路を塞ぐ樹木の枝を手で慎重に避けて、アステルは森の中を進んだ。決して歩きやすい道とは言えなかったが、あの森の奥の広場が近付くに連れて、歩調は自然と速くなった。とにかく彼の顔をひと目見たかった。また筆談で話がしたかった。彼の声を聴くことは叶わなくとも、彼の整った文字を見ていると、いつも彼の声がそのまま聞こえてきそうな気がした。もうすぐ結婚するという話をしたときに、「結婚するなら、あなたのような人が相手だったら良かったのに」と正直に言ってしまえばよかった。目的地へと一歩ずつ足を進めながら、アステルは今になって後悔を嚙み締めた。
早足で息が切れそうになった頃、アステルはようやく立ち止まった。森の奥の広場の光景は、初めてこの場所を見つけた日と少しも変わらなかった。ただ、ぽっかりと穴が空いてしまったように、彼の姿だけが無かった。もしかしたら彼がまだここで待っていてくれるのではないかと心のどこかで期待していたアステルは、少なからず残念に思って目を伏せた。
そのとき、視界の端に映ったものがあった。それは見慣れない切り株だった。樵が切り倒して行ったばかりらしく、切り株の表面はまだ汚れたり罅割れたりしていない、まっさらで綺麗な状態のままだ。それを見ているうちに、アステルは元々そこにあった樹がどんな樹だったかを思い出した。ここを訪れた最初の日に彼が飛び下りてきた、あのひときわ背の高い樹だ。樵はまさかそんな事情を知っているわけではないのだろうから仕方のないことではあるが、それでもアステルはあの樹が無くなってしまったことを惜しく思った。ひとつ息をつき、その切り株に腰掛けてみようとしたところで、アステルの足は止まった。その切り株の表面に、何か図のようなものが薄く彫ってあることに気付いたからだ。真っ直ぐな線、曲がった線、交差した線。そして、左上の端のほうに、×の印がひとつ。
「……地図?」
この地図の×印が何を表しているのかは分からない。けれど、誰が描いた地図なのかは何となく分かる気がした。この秘密の場所によく来ていたのは彼とアステルだけのはずだし、樵も樹を切り倒したあとの切り株の様子をわざわざ見に来ることなんてないだろう。きっとこの地図を描いた者は、地図が雨で流れて消えてしまうのを防ぐために、土の上ではなく切り株に刻んだのだ。雨が上がったあとに、ここを訪れた誰かが――もしかしたら、特定の人物が――この地図を確実に見つけられるように。
地図のなかから、『ここで待っているよ』という彼の声が聞こえた気がした。アステルはその簡潔な地図の内容を大まかに頭に入れ、地図が指し示すとおり、まだ行ったことのない森の西側のほうへと躊躇い無く足を踏み入れた。
森を抜けて、曲がりくねった獣道を北のほうへと進み、太陽が沈んでゆこうとする頃になってアステルがやっと辿り着いたのは、小高い丘の上だった。この先は切り立った崖になっているから、あの地図で示されていた×印の場所はこの付近である可能性が高い。アステルはそう考えて辺りを見回してみたが、周囲には橙色の夕暮れの気配だけが漂っていて、そのほかには何も無かった。森の中で囀っていた鳥たちも、もう住処に帰ってしまったようだ。もしかしたら間違った場所に来てしまったのかしらと思い、アステルは最後の確認のために崖のふちのほうにもう一歩踏み出して、その先に視線を投じてみた。
アステルは目を見開き、息を呑んだ。眼下に広がっていたのは、花の絨毯だった。辺り一面に大輪の花が隙間無く敷き詰められて、どこまでもどこまでも続いている。アステルがいつか見てみたいとずっと願っていた向日葵畑だ。アステルは息もできないまま、向日葵の一枚一枚の花弁のふちが夕陽を透かして黄金色に照り映えているのを眺めた。そうしているうちに、ふと視界の端に誰かがいることに気付いた。もうすぐ暗くなってしまう夕暮れどきに急に人の気配を感じたというのに、このときばかりはちっとも恐ろしいとは思わなかった。後ろ姿だけで、それが誰なのかが分かったからだ。
青年はアステルの気配に気付いて振り返る。アステルと目が合うと、嬉しそうに目元を緩めた。優しいその目は、『来てくれたんだね』と言っていた。アステルは改めて彼の姿に目を遣った。彼の身体の向こうには、向日葵の花が透けて見える。彼は――既に半分以上消えかけていた。
アステルは彼のほうに駆け寄ろうとした。そのあいだにも、青年の身体はどんどん透けて見えなくなってゆく。そして、アステルの指先が彼の手に触れる直前に、空気に溶けてすっかり消えてしまった。
アステルはオリーブ色の長衣の裾に土が付くのも構わず、急に足の力を失ってしまったようにその場に座り込んだ。あとに残されたのは、赤いあかい夕陽のなかの一面の向日葵畑と、向日葵の葉が西風に揺れるさざめきの音だけだった。