夜の帳が下りるまで



 ミント色の掛け布団に覆われたベッドの上で、端末が二度震えた。紘子ひろこは寝転んだままケータイを開く。 「…………」  “ごめん、研究が忙しいから、今週末のデートはキャンセル”。洋一からのメールを読み上げる気力もなく、紘子はひとつ溜息をついて、ケータイをぽすんとベッドの上に放り投げた。  数ヵ月前、たまたま講義もバイトも無い日に、洋一の所属研究室に遊びに行ったことがある。机の上に散らばった資料には、難しいプログラミングの用語がたくさん踊っていたっけ。やっぱり理系の研究室は大変なんだろうな。それは分かる。分かるけど……。それにしたって、直前のドタキャン、これで五回目。こうなると、そもそも私の存在意義って、洋一にとって何なんだろうな……。高校時代からの学友のツキちゃんに愚痴メールを送って話を聞いてもらおうかとも思ったけれど、送る寸前でやめた。そういえばあの子はパン屋さんで早朝バイトをしているから、この時間はもう床についているはずだ。あ、バイトで思い出したけど、週末の予定無くなったなら、バイトのシフトを増やしてもらおうかな。他にやることもないし。  ……付き合いはじめの頃は、こんなんじゃなかったのにな。紘子はふてくされたまま眠りについた。  次に目が覚めたとき、最初に目に映ったのは見覚えのある真っ白な服だった。以前研究室を訪れたときに洋一が身に着けていた実験用の白衣だ。 「あ、起きた? おはよ」 「おはよ……」  座ったまま机に突っ伏して変な体勢で寝ていたせいか、何だかふくらはぎの辺りがだるい。まだ薄く靄がかかった頭を起こしかけると、机に乱雑に置かれた書類が目に入った。英語の論文のようだ。無意識のうちに単語を拾おうとしたところで、ちょうど洋一の大きな手が書類をどかして、空いた空間に紘子のショルダーバッグを置いた。 「研究室まで来てもらったのに、結局待たせててなんかごめん。やっと実験のキリがついたから、これから外出れるよ。はい、カバン」  バッグを受け取って緩慢に身体を起こす。その拍子に肩から上着が落ちかけたので、慌てて片手で二の腕を押さえた。紘子が持ってきたショート丈のトレンチコートを、居眠りをしている間に洋一が掛けてくれていたらしい。 「うん。……外って、どこに?」 「忘れちゃった? この前言ってたじゃん、いい感じのレトロなカフェ見つけたから今度行ってみようって」  そうだっけ、と答えながら、紘子はトレンチコートに腕を通して立ち上がった。  研究棟から出ると、昼下がりの爽やかな秋晴れが広がっていた。ところでどこに行くつもりなんだろうかと思いつつも、とりあえず洋一の後を追う。電車に乗るなら研究棟からほど近い北側の正門を通って駅に向かうのかと思ったが、彼が向かっているのは南の裏門方面のようだ。学内を北から南へほぼ縦断して辿り着いたのは、南西の端にある学生駐車場だった。県内ナンバーのコンパクトなシルバーの車の前に立ち、洋一はごく自然に紘子を助手席へと誘導する。 「この車、どうしたの?」  聞くと、一拍置いて洋一が答えた。 「研究室の用事で借りたんだ。だけど、夕方までに返せば問題ないから。で、今日はせっかく車があるなら、車でしか行きにくい場所にある店に行きたいなと思ってさ」  確かに中途半端な田舎にあたるこの地域には、電車もバスも本数が無くてアクセスが悪いが車でなら簡単に行けるエリアというものが存在する。紘子は納得して助手席に乗り込んだ。  シートベルトを締めて車が動き出すと、紘子の胸にじわじわと喜びが広がっていった。いつもと違う車でのドライブが新鮮という理由だけではない。洋一が紘子よりもちゃんとデートの約束を覚えていて、今日の外出を心から楽しみにしてくれていたように見えることが何より嬉しかった。  十一月とはいえ、今日は晴れていてぽかぽかしているから、日中は上着を羽織らなくてもいいくらいだった。車内もすぐに日差しで暖められたので、紘子はトレンチコートを脱いで、信号待ちの隙をみて後部座席に置かせてもらった。  大学から南西側の田園地帯のほうにしばらく車を走らせると、ほどなくして目的のカフェに到着した。洋一が言ったとおり、煤けた煉瓦の壁に三角屋根のレトロな雰囲気の店で、カフェというよりも“喫茶店”と表現したくなる佇まいだ。だいぶ年季が入った建物のように見えた。「僕たちの生活圏からちょっと距離があるから今まで知らなかったんだけど、実は随分前から営業してる老舗らしいよ」と洋一が補足した。  店内に入ると、開放的な窓際のソファー席に通された。洋一は、そっちのほうが外がよく見えるからと、日当たりの良いほうの席を勧めてくれた。洒落た木枠に縁取られた窓から、長閑な外の景色がよく見渡せた。既にランチとおやつの間くらいの時間になっていたので、メニュー表のスイーツ・軽食の中から一品ずつ頼んで、お互いに少しずつシェアすることにした。  いくらも待たないうちに、バターの豊かな香りがするパンケーキと、シロップ漬けのさくらんぼが可愛らしくトッピングされたプリンアラモードが運ばれて来た。食べ始める前に、紘子はバッグから丸っこいインスタントカメラを取り出して、洋一とテーブルの上の食べ物を画角に納めた。洋一も「貸して。撮ってあげる」と言ってカメラを受け取り、まず正面で一枚、二人でレンズを覗き込んで一枚分シャッターを切った。紘子は最近、ケータイの写メではなく、このレトロなカメラで写真を撮るのにゆるくハマっている。カフェ巡りをしているうちに見つけた新しい趣味だった。  撮り終わると、カメラの側面からすぐに黒いカード型の写真が出てくる。紘子はそれらをテーブルの脇に一旦置いて、カメラ本体はバッグに仕舞い直し、洋一と声を合わせて「いただきます」と手を合わせた。  ふわふわのパンケーキはやさしい甘さ、昔ながらの喫茶店らしいかためのプリンはカラメルとの相性が抜群で、セットのおすすめコーヒーも含めて、身体中の隅々にまで染み渡るような美味しさだった。紘子は改めて嬉しさを嚙み締めた。こんなふうに洋一とゆっくり過ごせる午後は本当に久しぶりだった。  紘子は途中でお手洗いにと席を外した洋一を待つ間、趣味の良い店内の調度品を眺め、彼もこんないいお店を知っていたんだなと感心した。店内には、お喋りの邪魔にならない程度の音量で昭和時代の歌謡曲が流れ続けている。この点だけは少し意外だった。洋一はどんなに音量が小さくても周りに余計な音があると気になってしまう性質たちだからと、普段は店内に音楽が流れていない店を選ぶことが多かったからだ。  それをきっかけに今までのカフェデートを反芻していると、自然に彼と出会った頃のことが思い出された。そうだ、洋一とは元々、趣味のカフェ巡りの話で意気投合して付き合いが始まったのだった。  紘子と洋一は半年前、学内の学生委員会の繋がりで知り合った。うちの大学における学生委員会とは、一般的な高等学校で言う生徒会のようなものだ。紘子は高校までずっと生徒会に所属していたので、その流れで特に深く考えもせずに学生委員会の門を叩いたのだった。そこで副委員長を務めていたのが二つ上の洋一先輩だった。  お喋りで人好きのするタイプの委員長とは反対に、洋一は一見とっつきにくく、自分の専攻の研究以外のことにはあまり興味が無さそうな雰囲気を醸し出しているタイプではあったが、一度打ち解けてみると、紘子にとっては思った以上に話しやすい人であることが分かった。それに、副委員長の膨大な仕事を粛々とこなす静かな責任感の強さにも惹かれた。そのうえ、意外と甘党で、今は大学周辺のカフェの開拓が密かな趣味だというので、元々カフェ巡りが好きだった紘子と話が盛り上がり、学生委員会の打合せという瞑目で自然に一緒にカフェに行く仲になった。二人だけでカフェ巡り会を開催するようになって三度目の帰り道で交際を申し込まれた。緊張しながらも首をゆっくりと縦に振ったときの心臓の鼓動の速さを、紘子はまだ鮮明に覚えている。  恋人と呼べる相手ができるのは二人とも人生で初めてだった。とはいえ、付き合い始めて変わったことといえば、学生委員会の活動でよく一緒にいるようになったことと、二人でいるときは敬語を外すようになったことくらいだった。二人は時々新しく見つけたカフェを紹介し合ってデートを重ね、週末にはどちらかの下宿先でゆっくり過ごすこともあった。そうそう、洋一の部屋は飾りや置き物のたぐいがひとつも無くて、ものすごくシンプルでいつも綺麗にしてあるんだよね……。  そこまで考えたところで、ちょうど彼が戻ってきたので、紘子はパンケーキを頬張りながら「ねえ」と何気なく話しかけた。 「これ、メープルシロップが掛かってるところもおいしいよ。いい香りがする」  すると、洋一はいつもの穏やかな顔のまま眉だけを少し歪めて、一瞬だけ何とも言えない微妙な表情を浮かべた。けれど、おや、と思っているうちに、彼の表情はもう見慣れたものに戻っていた。 「……メープルシロップ、嫌いだったっけ?」 「あ、ううん、好きだよ。ひと口もらおうかなー」  そう答える声色も全く普段どおりだ。単なる気のせいか、もしくは洋一が何か聞き違えでもしたのかもしれない。紘子はとりあえずそれ以上考えるのをやめて、琥珀色のシロップが染み込んだパンケーキにナイフを入れた。  居心地の良い店内でひとしきりお喋りを楽しんだあと、喫茶店を出る前に紘子もお手洗いに立った。男子のほうはどうだったか分からないが、たまたま女子側の手洗い場の電球が切れてしまっているタイミングだったようで、薄暗かったので少し困った。でもまだ昼間なので、蛇口も見つけられないほどの暗闇にならなかったのは幸いだった。  ハンカチで手を拭き、店員に電球のことを伝えたほうがいいかどうかを考えながら席に戻る途中で、紘子は不意に眠気を覚えて、洋一から見えない角度でこっそり欠伸を押し殺した。いまさら欠伸くらいで亀裂が入る仲ではないと思っているが、紘子は久しぶりのこのデートを心の底から楽しんでいたので、少しでも退屈なのではないかなどと誤解されたくはなかった。  結局、眠気はほどなくして治まった。急に甘いものを摂取したせいかもしれない。そう考えて軽く頭を振り、レジのほうに目を遣ると、既に洋一が支払いを済ませてくれているところだった。 「ありがとう」  支払いをスムーズにするために、店を紹介したほうが一旦会計して、後から約半額を渡してもらう。付き合い始めた頃に二人で決めたルールだった。  紘子はレジから出口の扉へと視線を移す流れで、レジ横の壁に掛けられているカレンダーがふと気になって視線と足を止めた。それは昔ながらの日めくり式のタイプで、昭和レトロな喫茶店の雰囲気によく溶け込んでいた。カレンダーの手前のレジ台の片隅には、デフォルメされたニワトリのキャラクターの置き物が可愛らしくレイアウトされている。 「行くよー」  出口の扉のほうから洋一が呼ぶ声に「うん」と返事をして、紘子はレジ係の店員に「ごちそうさまでした」と頭を下げた。 「次の行き先は決まってる?」 「うん。お寺の前の通りの商店街に向かおうと思って。ここからだと、五分か十分くらい走るかな」 「あ、確か、付き合って初めて行ったところだよね。商店街のすぐ傍のカフェに行って、その流れでブラブラしたの覚えてる」 「そうそう。おいしいお団子屋さんあったでしょ。あと、前回はアクセサリーショップがたまたま閉まってて見れなかったって言ってたから」  雑談をしているうちに、あっという間に商店街が見えてくる。最寄りの駐車場に車を置き、二人は腹ごなしも兼ねて商店街をぐるりと散歩してくることにした。平日ということで人通りも疎らで、食べ歩き用のミニ串団子もさほど並ばずに買うことができた。ただ、田舎の古い商店街ということで、四時を過ぎると早くもちらほらと商店が閉まり始める。いつの間にか建物と建物の間から強い西日が差し込んできていた。  通りの両側を眺めながらのんびり歩いている途中、ふと薬局の店頭チラシが目に留まる。来週からコスメのキャンペーンを予定しているそうだ。そちらに向かおうとしたところで、ちょうど洋一が「あ、ねえ」と紘子に話しかけた。 「あの店かな? 今日は開いてる」  洋一が指差した先を辿ると、確かに前回シャッターが閉まっていたアクセサリーショップの店先に可愛らしいペンダントトップや指輪が並んでいた。雰囲気づくりとアクセサリーの輝きを際立たせる演出のためか、店内は照明がかなり絞られて薄暗くなっている。 「ほんとだ。ちょっと見て行きたいけど、今日は大学まで車を返しに行くなら、きっとそろそろ出ないといけないよね。だから、次回のお楽しみにしようかな。ぶらぶら散歩できただけでだいぶ満足したし」 「……そうだね。また来よう」  また、眉だけをわずかに寄せた、少し寂しそうな表情。でも、今回もそれは一瞬だけだった。紘子は気付かなかったふりをして笑顔をつくり、洋一の横に並んで駐車場へと歩き始めた。  車を下りるときには気が付かなかったが、駐車場で車に乗り込む前にふと地面に伸びている葉陰が気になって見上げてみると、整然と植樹されている銀杏いちょうの木が黄葉して、辺り一面が見事な黄金色に染まっていた。呑気に口を開けてその光景に見入っていたら、風に吹かれた銀杏の葉が一枚舞い落ちてきて、ショルダーバッグの紐を握っていた左手の小指の付け根辺りを掠めていった。紘子はバッグの紐から手を離し、銀杏の葉が当たったところを確認してみる。そして、薄手のニットの袖口をさりげなく指先近くまで引き伸ばして、反対の手で助手席のドアを引いた。  紘子の下宿先はちょうど商店街から大学へのルート上にあったので、洋一は大学に戻るついでにアパートまで送って行くと言ってくれた。秋の日暮れは早い。発車する頃には、助手席から見える西の空は既に真っ赤に染まり、夕日が山の向こうに沈んでいこうとする時分になっていた。  帰りの車内では、二人とも無言だった。紘子は目を灼かれそうな眩しい光が背の低いビルの陰に消えてはまた差し込む様子を飽きもせず静かに眺めていた。途中でちらりと運転席の洋一を窺ってみる。彼の顔の上にも左半分だけ夕日が当たっていて、男性にしては長めの髪の先だけが時折橙色っぽく光っていた。洋一の横顔は少しだけ疲れて見えた。遊び疲れや歩き疲れというわけではなく、違う種類の疲れに見えた。  大通りをひたすら北西に直進し、あとは角をひとつ曲がればアパートが視認できる一本道に入る。けれど、紘子は時間制限駐車区間の標識があるのを横目で確認して、運転席の洋一に話しかけた。 「ごめん、この辺りまででいいよ。もうすぐそこだから、あとは歩いて行く」  洋一はそう? と応え、交差点を抜けてしばらく走ったところで周囲を確認しながら路肩に車を寄せた。紘子を下ろしてから、自分も一旦車を下りて後ろのドアを開き、後部座席から何かを取り出して紘子に渡してくれた。夕方まではずっと上着が必要ない気温だったので紘子自身も忘れかけていた、ショート丈のトレンチコートだった。紘子はお礼を言ってそれを受け取り、代わりにバッグの内ポケットからインスタント写真を取り出して洋一に渡した。喫茶店で撮影したものだ。撮ったばかりのときは真っ黒だったカードに、被写体が鮮明に浮かび上がっている。 「今日はありがとう。本当に楽しかった」 「こちらこそ」 「……なんとなく、分かってるよ。また明日ね、って言えないこと。私の記憶は、ここでおしまいなんでしょう。多分、あの夕日が沈んだら、かな」 「…………」  洋一の顔色が変わった。彼は目を見開いて、唇の色を失くして、それから、トレンチコートを羽織った紘子の肩に、震える指で軽く触れた。 「……少し、歩こうか」  一度車のほうに戻ってパーキングチケットを切り、遠隔操作で車に鍵をかけて、人通りのほとんど無い裏道のほうへと紘子を促す。ここでは人通りも車も多くて、落ち着いて話ができないと思ったのだろう。紘子は素直に頷き、住宅街に繋がる細い道のほうへと足を向けた。  しばらく歩いて人通りが少なくなったところで、洋一はまるで自分自身に問いかけるかのように、遮るもののない一本道の先の大きな夕日を見つめながら「どうして……」と呟いた。紘子はその一言に紘子への問いかけの意味が含まれていることを理解して、彼と同じくらいの声のトーンでぽつりと「カレンダー」とだけ呟いた。 「え?」  洋一が紘子のほうに顔を向ける。紘子も夕闇で少し判別しづらくなった彼の顔を見上げ、その場で立ち止まった。通行人は二人以外誰もおらず、辺りは表通りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。 「喫茶店に日めくりカレンダーがあったでしょ。そこに西暦も大きく印刷してあったの。二〇十七年って」  洋一が息を呑む気配がした。紘子は喫茶店で他愛も無い雑談をしていたときと同じような調子で続ける。 「それまでは気付いてなかったよ。色々と細かい違和感はあったけど、きっと気のせいだろうと思ってた。でも、今が二〇十七年だって分かって、どこか納得がいった。私の中の機械の部分が教えてくれた気がするの。いま活動しているお前は生身の人間じゃない、ってね」  寝落ちする前にケータイの画面で日時を確認したから、はっきり覚えている。昨日――正確には、紘子が昨日だと思っていた日付――は、二〇十二年の十一月八日、木曜日。そして、日めくりカレンダーによれば、現在は二〇十七年の十一月九日、木曜日。月日だけに着目すれば、十一月八日の次の日である十一月九日が訪れただけに見えるから一見違和感は無い。だが、よく考えると木曜日が二度繰り返されていることになるので曜日の辻褄が合っていないし、それ以上に決定的だったのは、西暦が五年も先に進んでいたことだった。今思えば、カレンダーの傍に置かれていたニワトリのオブジェも、今年が酉年であることを示すものだったのだろう。もしかしたら、喫茶店でケータイを開いて操作していたら、何かの拍子にもっと早く西暦のズレに気付いたのかもしれないけれど、今日は二人ともケータイを見る暇も無いほどお喋りに夢中になっていたし、写真もケータイのカメラ機能ではなく、たまたまインスタントカメラで撮ったので、ケータイを取り出す機会すら無かった。 「今ここにいるは、機械なのか、ロボットなのか、それとも、人造人間アンドロイドと呼ばれるものなのかな。仕組みは分からないんだけど、今日、体のどこかからずっと小さなモーター音みたいなものが聞こえてた。車移動を選んだのも、車のエンジン音で少しでもモーター音を誤魔化す意図が含まれていたりする?」  ただ、もし電車移動を選んだとしても電車の音でモーター音が誤魔化されていただろうから、この点は確信にまでは至っていない。けれど、少なくともわざわざ自分のポリシーを曲げてまでBGMのある喫茶店を選んだことは意図的だったのだろうと思った。 「それと、ちょっと距離のある古い喫茶店を選んだのも、わざとだったりするのかな。本当は初デートと全く同じルートを辿りたかったけど、五年の間に大きく様相が変わりづらい昔ながらの商店街はともかく、カフェのほうはこの五年の間にお店自体が無くなってしまったか、そうでなくても、時の流れとともにお店の雰囲気が大きく変わってしまったから、私が違和感を持つ可能性が高かった、とか」  今日、紘子が目覚めてから二人が行った場所は、大学構内、老舗の喫茶店、昔からある古い商店街。どこも五年の間の変化を感じにくい場所だった。喫茶店に西暦入りの日めくりカレンダーがあったことは、きっと調査段階では知り得なかった情報で、洋一の計画の範疇外だったのだろう。 「……あなたは、大学院での研究で培った技術をもとに、この偽物の身体を造り上げた。そして、二〇十二年以前の私の記憶を植え付け、機械の身体に“自分は中村紘子本人である”と思い込ませた。ここまで仮説を立てたとき、具体的な方法云々の前に、どうしてこんなことをする必要があったんだろうって、商店街からここに着くまでの車の中で考えたの。私が知ってるあなたは、何かよっぽどの理由が無い限り、こんな突拍子もないことをする人じゃないと思ったから」  紘子は人差し指を立てて、目覚めてから今に至るまでの半日弱を最初から順を追って回想した。 「まず、大学を北の端から南の駐車場までほぼ突っ切って行ったときも、あなたは特に周りを気にしている様子が無かったし、喫茶店でも商店街でも、何かが露見するのを恐れているみたいな様子ではなかったから、ああ、十九歳の時点から五つ歳をとった二十四歳の生身の私は少なくともこの町にはいないんだなって分かった。ドッペルゲンガーってあるでしょ。あれは超常現象のたぐいだそうだから、百パーセント鵜呑みにしているわけではないにしても、二十四歳の私がもしこの町にいるなら、混乱を避けるために、うっかり出会わないように警戒するくらいのことは洋一ならするだろうなと思ったから。そもそも、もし五年後にあたる今現在も私たちの付き合いが問題なく続いているんだったら、最初から二十四歳の私と一緒に出掛ける約束をすればいいわけだし。そうしないってことは、それが出来ない状況なんだろうなと思った」  紘子の話を黙って聞いていた洋一は、俯いて一度目を閉じ、小さく息をついた。紘子にはそれが肯定の返事を意味していることが分かった。 「じゃあ、なんで出来ないのかっていうと……二十四歳ってことは、一般的には就職する人が多数派ではあるだろうから、例えば、交際は続いているけど私の就職を機に遠距離になってしまったとか。でも、それだと、洋一の性格から考えてしっくりこない。会えなくて寂しいからって偽物まで造ってしまうより、テレビ電話でも何でも駆使して生身の相手とコミュニケーションをとろうとするとか、そういう建設的な方法を選ぶと思う。あと、この五年の間に洋一から別れを切り出して付き合いが終わっていたっていうパターンも同じ。私、洋一のいつも静かに有言実行を自分に課してて言動が一貫してるところが、好きになった理由のひとつだから。自分から別れを切り出した後に、本人の偽物を造ってしまうくらいの強い未練を持つ人だとは思えなかった。ちなみに、洋一は別れるつもりがないのに私のほうから別れを切り出したっていうパターンも考えたけど、このパターンは検討すらしなかった。何年経っても、私から洋一をフることは無いだろうと思ったから」  洋一に笑いかけようとしたが、うまく出来たかは分からない。肺に取り込んだ空気がひんやりと冷たかった。 「それで、こうやっていろんな可能性を切り捨てていったら、何となく解ったの。理由までは分からないけど、多分、この五年の間のどこかのタイミングで、私がこの世からいなくなってしまったんだね。そう考えるのが一番自然だし、もしそうなら、あなたがこんなことをしてしまったのも納得はできる」  一度その結論に行き着いてしまうと、今日の洋一が時折寂しそうな複雑な表情を見せていたことも腑に落ちた。もし、もう二度とこの世で会うことができなくなった恋人が何年か振りに元気な姿で自分の前に現れたら、そして生前と同じように何気ない会話を交わせたとしたら、きっと紘子も同じような反応になるのだろうと予想できた。 「私ね、今日、本当に楽しかった。それに、こんなことをしてしまうほど想ってもらえていたって知れて、少し嬉しくも思った。……でもね、こんなことは今回きりにして。生きてる人の連続した記憶を機械に植え付けて本物そっくりの人間を動かすなんて、正規の手続きを踏んでいるとしたら、たった五年で実用まで辿り着けるはずない。そのくらいは、機械に疎い私でも分かるよ。ってことは、これは洋一だけが隠れて取り組んでる個人的な研究なんでしょう。だから現に、たった数時間の運用でこれだけ綻びが出てる」  紘子は左手を洋一の目線に掲げ、自分の小指の付け根辺りをもう片方の手で指差した。先ほど枯れ葉が一瞬掠めたその箇所だけ、人工皮膚が剥がれて、中身のワイヤーのようなものと銀色の機械が見えかけていた。痛みは無い。痛覚は生物に身の危険を知らせるために備わっている信号だと聞いたことがあるから、生物ではないにはその機能を搭載する必要が無かったのだろう。 「あなたは、どんなに綻びが多くて不完全でも、とにかくある程度の期間で研究に区切りをつけて、計画を実行に移す必要があった。二十一歳と二十六歳くらいなら違和感を持たれにくくても、一般的には六十歳くらいの人を二十一歳だと思わせるのは難しいだろうから。それまで頻繁に顔を合わせていた、近しい間柄であれば尚更ね」  洋一は皮膚が剥がれた紘子の左手を見つめて沈痛な表情を浮かべていたが、紘子が言葉を切ると、ゆっくりと首肯して口を開いた。 「ほぼ、きみの言った通りで合ってる。ちなみに、何の違和感も無く食事が出来たと思うけど、食べた物は強力な酸で溶かして、それでも溶けないものはそのまま体内に沈殿することになってる。元々、一日程度しか稼働しない前提の仕様だ」  まるで何かを諦めたかのようにも聞こえる、淡々とした口調だった。紘子は納得して頷いた。 「そっか。の動力には、太陽光発電みたいなことが関わっていたのかな」  思えば、車内でもガラス越しにずっと日が当たっていたし、洋一は喫茶店でも日当たりの良い席を勧めてくれた。商店街もアーケードが無いタイプだったので、太陽光線の量は普通の道を歩いているのとそう変わらなかったはずだ。 「実はね、喫茶店のお手洗いに行った後だけ、何だか不自然に眠くなったの。それが太陽光に関係しているのか、それとも人工の明かりでも代替可能なのかまでは分からなかったんだけど。でも、ちょっと枯れ葉が触れただけでこうなってしまうくらい脆い皮膚なら、どのみちこの身体は長期稼働を前提として造られたわけではないんだろうなって思った」  “一日程度しか稼働しない前提”。洋一のその見解は、概ね紘子の予想通りではあった。自分が本物の人間のように自然に動けるのは今日一日、太陽の光を浴びていられる時間だけという仮説をもとに、「たぶん、今日のあの夕日が沈んだらお別れなんだろう」という結論を導き出した。そう分かってみると、洋一のほうも、一緒にいられる時間は今日だけだと知っていたからこそ、車を用意したり事前に色々調べたりと、きっと一生懸命準備してくれたのだろう。その様子を想像してみたら、今の自分の心臓は人工の機械に過ぎないはずなのに、胸の奥のほうがちくりと痛んだ気がした。 「車での移動を選んだのは、モーター音をカムフラージュする目的もあったけど、太陽光のことが大きかった。人工の光源でも代用できるように改良するには時間が足りなかった。きみもそれに気付いたから、あのときアクセサリーショップに入ろうとしなかったんだね」  ちなみに、車自体も本当はレンタカーではなく、洋一自身が持っている車だそうだ。昨日まで車を持っていなかったパートナーが納車の話も無しに突然車を買っていたら不自然に思われるに違いないと気付き、咄嗟に誤魔化したのだという。確かに、ちらりと目を遣ったナンバープレートの先頭の平仮名は、貸し出し用の車であることを示す「わ」ではなかった気がする。  商店街のアクセサリーショップに入らなかった理由は、洋一が指摘したとおりだ。紘子は黙って頷いた。もしかしたらまた眠気が襲ってきて、今度こそ意識を失いでもするのではないかと少し心配になったので、照明が絞られている薄暗い店内に入るのを躊躇ったのだった。 「それと、きみはさっき、僕の言動が一貫しているところを好きになったって言ってくれたけど、僕に言わせれば、それは買いかぶりだよ。自分はそんな立派で高潔な人間じゃない。恋人を永遠に失ったときから、あんなに好きで命を捧げていた研究を続ける気力まで失ってしまった、ちっぽけで弱い人間だ」  洋一は眉と唇を歪め、低い声で自分を嘲笑うように言った。 「……だけど、僕がまた研究に戻ろうと思ったきっかけもきみだったんだ。研究室にも顔を出せなくなって、まるで廃人みたいな生活を送るなかで、あるとき思った。自分がずっと続けてきたこの研究を応用すれば、生きていた頃のきみの意識を現在に蘇らせることができるんじゃないかって。そのときから、僕の人生に、きみを蘇らせるという新しい目的が生まれた」  それはもっと大切にするべきだったきみとの時間を少しでも取り戻したいというエゴイズムに過ぎなかったんだろうけれど、とにかく、その目的を持ったときから、もう一度研究室に戻る気力が湧いてきたんだ――洋一はそう話を結んだ。  紘子は洋一との距離を一歩詰めて、片手でそっと彼の頬に触れた。足先から東側に伸びている長い影も、彼女の動作と連動して形を変えた。 「そっか。一人にしてごめんね。傍にいられなくてごめん。でも、私はきっと、さいごの日まで幸せだったよ。洋一が想ってくれていたのと同じくらい、本当に好きだった。この気持ちは、私を模した人工的なプログラムが作り上げたものじゃなくて、私自身の本当の意思なんだって、そう思いたい」  そう言うと、洋一は一歩距離を詰めて、両腕を紘子の背に回して彼女を抱き寄せた。紘子は人工の皮膚が剥がれていないほうの手で洋一の背をゆっくり撫でながら続けた。 「今回のことは、きっと洋一が立ち直るために、また研究に向き合えるようになるために必要な時間だったんだって理解してる。だから、ひとつ約束して。これからは、ときどき立ち止まって後ろを振り返ることはあっても、少しずつでも前を向いて人生を歩いていくって」 「うん。紘子、ごめん。……ごめん……」  肩口で聞こえる洋一の声は震えていた。秋の夕暮れのさみしい風がかすかな音を立てて、二人の重なり合った髪の隙間を吹き抜けていった。  いま、紘子の目には、遠い空を染める橙と桃色が混じった夕焼けの残滓が映っている。――自分はあと何分動いていられるのだろうか。十分か、二十分か、もしかしたらもっと短いかもしれない。けれど、せめて今だけは、きつく抱きしめられているこの感覚と、彼の身体のあたたかさと、すぐにでも宵口の薄藍色に溶けて消えてしまいそうな仄かな残照を目に焼き付けて、できるだけ長い時間覚えていたいと願った。いつか――そう遠くない未来、私が見ている世界に夜の帳が下りるまで。
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