ステュクスを
渡るまえに

MYTHINGシリーズ

「ステュクスを渡るまえに、
わたしは懐かしい場所を訪れた。」

ある女性の幼少期からステュクス河に辿り着くまでの足跡を辿る連作掌編集。
※表紙イラストにのみ生成AIを使用しております。

目次

第一話「向日葵」

 ステュクスを渡るまえに、わたしはとある田舎の草原を訪れた。  懐かしい景色だった。ここはわたしが育ったヘラス北方の田舎町だ。わたしは首を巡らせて辺りを見回してみた。草原に風が吹き渡って、結い上げずそのまま背に流しているわたしの長い髪をさらっていった。  遠くのほうで子どもたちが笑い合っているのが聞こえる。そちらに目を遣ってみると、ふたりの少女が手を繋いで草原を楽しそうに歩いていくのが見えた。あれは――十二歳の頃の“わたし”だ。そうだとすれば、わたしの隣にいるのが誰なのかもおのずと導き出せる。栗色の長い巻き毛に薔薇色のまるい頬、おっとりとした品の良い所作、優しげな瞳。わたしの幼馴染のアステルという女の子だ。今となっては事実を確認しようもないが、当時の親の話や使用人たちの話を総合するに、わたしの家とアステルの家の格は“同格”だったらしい。家同士の交流も、何代も前から続いてきたそうだ。そういった縁で、わたしとアステルは自然と一緒に遊ぶようになった。アステルはわたしとは違って、よく笑い、涙もろく、心の優しい子だった。庭に珍しい花が咲いたときや、厩で仔馬が産まれたときには、表情を明るく輝かせて、それを見たときに自分がどんなにすてきな気持ちになったかを嬉しそうによく話してくれた。鷹にやられて死んだ小鳥を見つけたときには、なきがらをそっと手で包んで土に埋めてやり、小さな墓の前でしずかに涙を流していた。  わたしは、自分が居る地点から少し離れた場所を横切って行く十二歳の“わたし”とアステルに目を遣った。わずかに見えた十二歳の頃のわたしの瞳は、白に近い極く淡い黄金色だった。そうだ。その頃、わたしの瞳はまだ現在のような色ではなかった。アステルはよくわたしの瞳を覗き込んで、夜空に浮かぶ満月のような色だと言ってくれた。彼女がそう言って微笑むたびに、わたしはそれまで特に好きでも嫌いでもなかった自分の瞳の色を少しだけ好きになれた。  ところが、しばらくするとわたしの瞳の色は変わり始めた。色味が暗くなり、濁りが多くなり、ある日完全に紫色になったところでその変化は止まった。  両親はわたしが外出せねばならないとき、常に目隠しをさせるようになった。御丁寧に、「この子は目を怪我してしまって、今はちょっと治療中なものだから」なんて周りの人に嘘までついて。なぜなら、成長途中で瞳の色が変化するのは魔術師の特徴だからだ。両親はわたしが魔術を使う者であることを周囲に悟られるのを恐れていた。  当然、アステルと会うときも目隠しをさせられた。心優しい彼女は、わたしと顔を合わせた途端にはっと息を呑み、「目を怪我したの? ひどく痛む?」と心配してくれた。わたしが首を振って経緯を話すと、気質の穏やかな彼女にしては珍しいことに、憤りの滲む声でわたしの両親の方針に異を唱えてくれた。 「そんな理由で目隠しをさせるのはおかしいわ。魔術が使える人だと分かったからって、それによってあなたがあなたであることがどう変わるっていうの?」  アステルはわたしの頭の後ろに優しく手を回して目隠しの布を取り去り、柔らかな目でわたしの瞳を覗き込んで微笑んだ。 「それにね、私はこの瞳の色もすてきだと思うわ。月が出ていなくて、そのぶん星明かりがよく見える静かな夜空の色みたい」  その日から、わたしはアステルと会うときだけは、隙をみてこっそり目隠しを外すようになった。そのうちに、わたしの瞳の色に違和感を持つ者は誰もいなくなり、わたしはやっと堂々と目隠しを外すことを許された。 「お嬢様、旦那様のお許しが出て良うございましたね。どこへ行くにも目隠しをして供をつけねばならないというのは、さぞ窮屈だったでしょう」  ある日、わたしの髪を器用に結い上げながら、使用人の男が言った。その頃になると、ほかの使用人はみな得体の知れない術を使うわたしを敬遠して遠巻きに様子をうかがうばかりで、以前と同じようにわたしと世間話をしてくれる使用人は彼しかいなくなっていた。彼は異界人いかいじんだった。そもそも魔術師が存在しない世界から来たので、魔術師への偏見も無いのだろう。  彼がわたしのことを怖がらない唯一の使用人だからという理由だけでなく、彼は実際に手先がとても器用で髪結いも上手だったので、わたしは普段からよく髪を結うのを彼に頼んでいた。「お嬢様は、いつもおれを指名してくださいますね」と彼は嬉しそうに言った。通常、異界人はこの世界の言葉を習得するのに時間を要すると聞いたことがあるが、彼は耳が良いらしく、上達が早いほうだった。発音ももうこの国に生まれた人間と遜色無い。  彼はエラントと名乗っていた。彼が唯一覚えている母国での言葉だという。放浪者という意味だそうだ。そんな自虐的な呼びかたでいいの、と尋ねてみたところ、「いいんです、おれはまさしく放浪者でしたから」と答えた。彼は生まれたばかりの頃に親に捨てられ、養護院で育ち、親戚の家に預けられたが邪険にされてすぐ家を出て、新しい仕事と住処を探していたところ、偶然この世界に迷い込んでしまったのだという。いつも居場所を転々としていた人生だから、放浪者エラント。親から付けられたほんとうの名前は、誰にも呼ばれなくなったからいつの間にか忘れてしまったらしい。いや、名前を付けられさえしなかったのかもしれない。  彼はわたしの両親の目を盗んで、家事の合間に屋敷の裏口からどこかへと出掛け、わたしが欲しがった魔術に関する書物をこっそり調達してきてくれた。わたしはその書物に書かれていた情報を頼りに、魔力の制御の仕方や薬草術と魔術の関わりについて少しずつ学び始めた。いつも書物の調達を頼んでごめんね、とわたしが伝えると、彼は「おれがお嬢様のお役に立てるのはこのくらいですから」と首を振って笑った。屋敷の中で、彼だけがわたしの味方だった。わたしが屋敷の中で心を許せたのは、父の隣でもなく、母の隣でもなく、唯一、彼の隣だけだった。  けれど、ある日異変が起こった。髪結いの最中に、わたしの髪を触る彼の手が急に止まり、櫛が落ちる音がした。わたしが櫛を拾ってふと顔を上げたとき、彼は蒼白な顔色をして自分の手首の辺りを押さえていた。指がうまく動かないらしい。俯く彼の顔を覗き込むと、彼の目の下に驚くほど深い隈ができているのが分かった。  その日から、彼はたびたび休みをとり、使用人の宿舎で一日を過ごすようになった。異界人の平均寿命は短い。それこそ神の血でも入っていない限り、どうしてもこの世界の空気に完全に身体を慣らすことは難しいそうだ。それを知識としては知ってはいても、実際にこうして身近な人間が弱っていくのを目の当たりにするのは、想像していたよりもずっとつらいことだった。 「…………」  彼の代わりに別の使用人が無言で淡々とわたしの髪を結ってくれているとき、わたしはあることを思いついた。そして、その日から、その研究の構想を一人で練り始めた。  エラントが勤めを休みがちになってからしばらく経ったある日のこと。わたしは書物を手にして草原の真ん中に座り込み、書物に描いてある絵と実際の草を見比べて、使えそうな薬草が無いかを探していた。 「……こんなことをしていて、いつか本当に研究を完成させられるのかしら」  自分が立てた計画のあまりの遠大さに眩暈を覚え、わたしは思わず俯いてそう零した。すると、思ってもいなかった方向から「何の話?」と返答があった。顔を上げると、隣でアステルがわたしの顔を覗き込んでいた。どうやら下ばかり向いて考えに耽るあまり、アステルが近付いてきたことにも気付かないでいたらしい。  わたしはアステルにエラントのことを話した。心の優しい彼女は、わたしよりも悲しそうな表情で胸の辺りをそっと手で押さえた。 「そう……。何か苦痛を取り除く方法があるといいわね」  わたしはそうね、と頷いた。わたしが考えていた研究というのも、まさに魔術と薬草術を組み合わせて体の衰弱を遅らせたり痛みを取り除いたりする方策の確立だった。この数年のあいだ、魔術や薬草については書物でずいぶん勉強した。それを活かしてきっと何かできるはずだと思いたかったし、何より、このまま何もせずにただ彼が弱っていくのを見ていることしかできないのは嫌だった。  次の日から、わたしはさっそく実験を開始した。薬を調合する実験を屋内で行うとどうしても使用人の目に付いてしまうし、組み合わせによっては有毒な煙も発生しかねないということは既に分かっていたので、実験は小さな鍋を持ち出して屋外で行うことにした。アステルも主に薬草探しなどの役目を担い、わたしの研究に協力してくれた。  研究というものは、えてして結果が実を結ぶまでに膨大な時間を要するものだ。それが分かっている今にして思えば当然のことではあるが、実験を始めてから十日あまりが経っても、特にこれといった成果を得ることはできなかった。わたしは失敗作の調合薬が入った鍋を前にして深い溜息をついた。それを見て、アステルは両手で包み込むようにわたしの手をとった。実験を重ねるうちに、わたしの手は小さな火傷の跡で埋め尽くされるようになっていた。 「……ねえ、ベルタ。焦る気持ちは分かるけれど、たまには息抜きもしたほうが良いんじゃないかしら」  心配そうにわたしを見つめるアステルの目を見つめ返して、わたしはそうかもね、と頷いた。思えばこの十日間、起きている間はずっと研究のことで頭の中がいっぱいになっていた気がする。  わたしは息抜きも兼ねて、薬の調合と全く関係の無い魔術を久しぶりに使ってみたくなり、片手の指先をおもむろに空中へ翳した。次の瞬間、わたしの手の中には一輪の黄色い花があった。それを見てアステルが歓声を上げる。わたしはその向日葵の花をアステルに差し出した。 「もしかして、知っていたの? 私がこの花を好きだってこと」  実際は半ば無意識だったが、それでも樹木の精霊の力を借りて花を出現させるときに向日葵を真っ先に思い浮かべたことも事実だ。わたしは微笑んで頷いた。 「うん。お屋敷のなかであなたのへやがある辺りにだけ向日葵が咲いていたから、きっと好きなんだろうと思ったの」  それを聞いて、アステルも嬉しそうに目元を緩ませた。そして、良いことを思いついたと言わんばかりに、オリーブ色の衣の裾を引いて立ち上がる。 「そうだわ。私、あっちの丘の向こうに向日葵畑があるって聞いたことがあるの。これから行ってみない? 綺麗な景色を見たら気分転換になって、良い考えも浮かびやすくなるかもしれないわ」  アステルが指差した丘の向こうには、確かにわたしも行ったことがない。まだ見ぬ景色に好奇心をくすぐられ、その日、わたしたちは二人でちょっとした冒険の旅に出ることを決めた。  初めのほう、旅は順調だった。ところが、切り立った崖の近くに差し掛かったときだった。地面に落ちていた細い枝にアステルの編み上げサンダルが引っ掛かり、そのまま足を滑らせて崖の下に落ちそうになった。わたしは咄嗟に風の精霊の助けを借り、慎重に彼女の身体を浮かせて崖の上へと引き戻した。さいわいアステルに怪我は無かったが、彼女の衣はずいぶん汚れてしまった。この一件で、わたしたちは更に先に進むのは危険だと判断し、向日葵畑を探すことを諦めて引き返すことにした。家に帰る途中、アステルは落ち込んだ様子で、ごめんね、と何度もわたしに言った。わたしは首を振り、あなたに怪我が無くてよかった、と答えた。  正直、厳格なことで有名なアステルの父親に何かお咎めをもらうことは覚悟せねばならないだろうと思っていたが、その日の件については、アステルもわたしもひとまずお咎め無しとなった。子どもたちだけで勝手に危ないところに近付いたのは褒められたことではないが、結果的に怪我が無かったことと、「冒険を提案したのは自分で、ベルタはそれに付き合ってくれただけ」とアステル自身が強調して両親に説明してくれたことが大きかったらしい。  けれど、その約半年後に決定的なことは起こった。その日もアステルはいつもどおり、わたしの実験の手伝いをしてくれていた。ところが、ほんの一瞬集中力を切らしてしまった拍子に、まだ制御が完全ではなかったわたしの魔力に乱れが生じ、鍋の中でぐつぐつ煮立っていた薬液がアステルの腕に跳ねて火傷を負わせてしまったのだ。すぐに水の魔術で患部を冷やしたが、それでも、彼女の傷が元どおりに治るまで衣服で隠しきるのは難しそうだった。  わたしはアステルの家を訪い、正直に経緯を説明して頭を下げた。アステルの父上から賜ったのは、「私たちの前に二度と顔を見せるな」、その一言だけだった。そして、アステルの父は従者に何事かを言いつけた。執事らしき男性は屋敷の中に退り、やがて一輪の花を持ってきた。わたしはそれに見覚えがある。あの日わたしの魔術で作り上げた向日葵の花だ。アステルはそれを見て顔色を変え、ほとんど叫ぶように言った。 「お父様、何をするの。それはベルタがくれた、大切な……」  言い終わる前に、従者からその花を受け取ったアステルの父は、その場で向日葵をわざと床に落とし、沓で踏みつけた。そして、わたしに冷たい一瞥をくれて、去り際の挨拶も無く踵を返して行ってしまった。アステルはその場に座り込んで一生懸命向日葵の花弁を搔き集め、ごめんなさい、と俯いて涙を零している。わたしは首を振り、「おじさまがお怒りになるのも無理はないわ。わたしがうまく魔力を制御できなかったのがいけなかったのよ」と答えて、アステルの手の上に自分の手を添えた。  わたしはアステルの父が踏みつけてしまった向日葵を拾い上げ、それを持ち帰らせてもらうことにした。この向日葵の花の残骸をまたアステルが自室に持ち帰ってしまったら、彼女がまた父親から「もう関わるなと言っただろう」と叱られかねないと思ったからだ。今度こそ本当に彼女とは二度と会えなくなってしまうのだろうと予感しながら、わたしは彼女の住まう屋敷を辞した。  その翌日、追い打ちをかけるように、エラントが屋敷から去ることになったという話を聞いた。療養のために、この町よりも更に田舎のほうに居を移すことになったとのことだ。  わたしはひとりになった。まだ十五にもならない子どもには広すぎる静かなへやの中で頬杖をつき、卓に飾った一輪の花を見遣る。その花は花弁が不格好に千切れて左右非対称になっていたが、魔力が注がれた花はもともと丈夫に出来ており、踏みつけられても簡単には萎れなかった。  わたしは気紛れに、その向日葵の花の前に指を翳し、花に込めた魔力を抜き取った。すると、花はみるみるうちに色を失い、水分が抜けて萎れていった。わたしの目の前に残されたのは、生気を失って花瓶の中で深く俯いている一輪の茶色の枯れ花だけだった。

第二話「放浪者」

 ステュクスを渡るまえに、わたしは大きな門が聳える大豪邸の前にやってきた。既に日が落ちてからだいぶ時間が経っているようで、屋敷には松明があかあかと焚かれていた。  勿論、ここにも覚えがある。ここは、わたしがたった数日間だけの“結婚生活”を送った屋敷だ。わたしが立派な門構えの屋敷を見上げていると、正門の脇の小さな通用門から音を立てずに出てきた人影があった。――十六歳の頃の“わたし”だった。松明の火影が彼女の頬を照らし、伏せられた紫色の瞳に揺らめく炎がちらちらと反射していた。“わたし”は後ろを振り返りもせず、少しばかりの積荷とともに粛々と屋敷から去って行った。  十六の誕生日を迎えた頃、療養先でエラントが亡くなったという話を人づてに聞いた。それを聞いて、わたしは薬草を煎じるための鉄鍋を物置き部屋の奥のほうに仕舞い込んだ。彼の他にもこの国に大勢いる、まだ面識の無い異界人たちのためにわたしが研究を再開するには、しばらくのあいだ時間を置くことが必要だと思った。  時を同じくして、わたしは父にわざわざへやに来るよう言いつけられた。 「ベルタ、喜べ。お前に縁談を持ってきてやったぞ。相手は、かの有名な……」  父は一方的に説明した。当然、わたしに拒否権は無い。縁談はあっという間に進み、わたしという存在は先方への供物として差し出されることになった。  ところが、わたしが嫁入り道具とともに相手の屋敷に移り住んでから数日後、夫となった人が病に倒れ、そのまま五日後に亡くなった。言うまでもなく、屋敷の中は騒然となった。やがて、使用人の一人が言い出した。 「この女の実家の使用人として働いていた私の身内から聞いたんだ。この女はあるときから瞳の色が別人のようにすっかり変わって、そのことが使用人の間で噂になっていた、ってね。この女は魔女だ。怪しげな魔術とやらで、旦那様を呪い殺したに決まっている」  魔術師ではない人間たちにとって、魔女であるという告発の威力は絶大だった。わたし自身も世間の魔術師への偏見をよく知っていたからこそ、アステルなどの信頼できる人間以外には魔術を使えることを隠していたのだ。ともかく、この告発によって、非難の矛先は一気にわたしへ向いた。当然、わたしは夫である彼に対して何の魔術も使っていない。出会って数日しか経っておらず、まだまともに顔を合わせたこともない相手に対して、殺したいほどの恨みなど持ちようもない。けれど、こうなってしまってはもはやどんな弁解にも耳を貸してくれる者はいないだろうということも身に染みて分かっていた。空虚な諦観だけが、天から降ってくるベールのようにゆっくりとわたしを包んだ。  結局、わたしは夫の葬儀を終えた二日後に屋敷から追い出された。  ――これから、どこへ行こう。実家へ戻ってみようか。  嫁入り道具の一部が入った重い布袋かばんを背負い、わたしは三日かけて実家の前に戻ってきた。実家の玄関には変わらず灯りがともっていた。わたしは衛兵に挨拶し、屋敷に足を踏み入れようとした。そして、その歩みを途中で止めた。部屋の仕切り幕越しに、両親の会話が聞こえてきたからだ。 「それにしても、ベルタが出て行ってくれてせいせいしたわよね」 「まったくだ。怪しげな術を使う気味の悪い魔女など、高貴なる我が一族の面汚し以外の何ものでもない。まあ、知恵だけは多少回るようだから、あちらでもせいぜい魔術のことをうまく隠し通してほしいものだが」  わたしは踵を返して、戸惑う衛兵に布袋かばんを半ば無理やり預け、そのまま屋敷の門を出た。そして、先方の家から持たされた申し訳程度の手切れ金だけを握りしめて、人の気配の無い森の奥へ向かうことを決めた。命を絶つためではない。極力誰とも関わらずにひとりで生きてゆくための決断だった。  ――ねえ、わたし、あなたのことを放浪者エラントと呼んでいたけれど、今はわたしのほうが“放浪者”ね。  わたしは心のなかで彼に語りかけた。返事は無い。星の見えない夜よりも暗い森の玄関が、わたしの目の前で大きく口を開けていた。わたしは森の中に入る前に一度立ち止まり、結い上げていた髪を解いて軽く頭を振った。緩く巻いた黒髪がわたしの背に束をつくって流れ落ち、衣と擦れ合ってかすかな音を立てた。

第三話「白鳥は森の中」※性暴力を題材として扱っております。

 ステュクスを渡るまえに、わたしが訪れたのは森の中の小さな家だった。そこは小屋と呼んでも差し支えないほど粗末な住まいだったが、わたしにとっては大切な住処だ。  立て付けの悪い木戸を軋ませて、小さな家の中から“わたし”が出てきた。町へ買い出しに出るようだ。立派な屋敷に住んでいた頃とは違い、この頃は既に髪を全て下ろして後ろに流すか、紐で軽く一つに結うだけになっていた。  元配偶者の家を追い出されてから二年が経過し、わたしは十八歳になっていた。いかに魔術の助けがあるとは言え、ひとりで自給自足ができるだけの農業の知識その他諸々がまだ十代の小娘である自分に備わっていないことは流石に解っていたので、定期的に山の麓の小さな町へ買い出しに出て、そのほかの日は森の中で魔術と薬草学の研究をしながらひっそりと暮らす形に落ち着いた。二年も経てば、質素ながらもそれなりに安定した生活を送れるようになってきた。何より、両親の顔色をうかがうことなく自分の責任で全てを決められることが嬉しかった。実家にいた頃よりも、森の奥で暮らし始めてからのほうが格段に息がしやすかった。  その両親は、数年前から流行り始めた恐ろしい病によって相次いで亡くなったと風の噂で聞いた。王宮のお妃様も同じ病らしき症状で亡くなったそうだ。 「……怖いわねえ。今度の流行病は、大人のほうが症状が重いらしいわ。お妃様も、ひと月しないうちに亡くなられたんですって」 「医者によると、どうやら血が急速に悪くなっていくということらしいな。症状の特徴は……」  町中で人々がその流行り病の特徴を話すのを聞いている途中で、わたしは思わず足を止めた。“血が悪くなり、顔色は土気色を呈し、腹に水が溜まり、やがて死に至る”――。人々が口にしているそれらの症状には心当たりがあった。謎の病を発症してあっという間に亡くなってしまった、わたしの元夫の症状と酷似している気がする。わたしは話をもっとよく聞こうと彼らのほうを振り向いたが、立ち話をしていた人たちは既に居なくなってしまっていた。代わりに、本来の進行方向への振り返り際に、ふと普段と違う気配を感じた。ほんの一瞬のことだったので気のせいかしらと思ったけれど、間違いない。わたしと今しがたすれ違った人に、水の精霊の気配が纏わりついていた。わたしは急いで辺りを見回し、雑踏の中から水の精霊の気配を纏った人を探し出そうとした。けれど、もう彼または彼女がどこにいるのか、人混みに紛れてすっかり分からなくなってしまった。わたしは首を傾げ、仕方なくそのまま帰路につくことにした。  その日は珍しく、もうひとつ変わったことがあった。買い物袋を抱えて森の中の家まで辿り着いたとき、家の前から十歩分ほど離れた地面の上に、何か異物が落ちていることに気付いた。その異物は大きかった。慎重に近付いてみると、一人の人間が四肢を投げ出して草の上に倒れていることが分かった。わたしよりも随分身長が高そうな男性だ。彼は白に近い白銀色の細い髪を緩く編んで背中に流しており、ひと目で位が高いと分かる豪奢な刺繍が入った長衣は、無惨に引き裂かれて赤黒い血に塗れていた。周囲にはわたしの他に誰もいない。男性の指先が僅かに動いた。まだ息はあるが、これだけ血を流していては、手当てが遅れればおそらく命に関わるだろう。そして、わたしは独学ながら薬草学の研究をしている身だ。わたしはやむなく彼に肩を貸して家まで運び、傷の手当てをしてやることにした。  男性はしばらく高熱に魘されていたが、傷口を清潔にして薬を塗り込み、濡らした布でこまめに体の熱を冷ましてやると、幸い、ほどなくして快方に向かった。喘鳴混じりだった呼吸も徐々に穏やかになった。改めてよく見てみると、彼の顔立ちは恐ろしく整っており、本当は魔術で動いている彫刻か何かなのではないかと疑ったほどだった。白銀の豊かな髪の優雅さと楚々とした細面も相俟って、彼はどこか白鳥を思わせる雰囲気を持っていた。  わたしは自分が彼の美貌に驚いて思わず見入ってしまっていたことにはっと気付いて首を振り、体が冷えないようにと彼の肩口に寝具を掛けてやった。そして、へやの灯りを落とし、自分は居間の長椅子に横になって寝むことにした。  自分でも知らないうちに気を張っていたらしく、その夜はほとんど眠れず、明け方に目が覚めてしまった。まだよく頭が回らないまま、怪我人の介抱をしなければという朧気な使命感だけを頼りに寝室へ向かう。けれど、寝室に入ると、わたしの予想に反して、彼は寝台の上で既に身体を起こしていた。わたしは彼の人並外れた回復力に驚いて目を瞠ったが、それ以上に何故か彼のほうがわたしを見て驚いているように見えた。わたし、この人と以前会ったことがあるのかしら。もし、こんなに目立つ美しい顔立ちの人と会ったことがあるなら、たぶん忘れようがないと思うけれど。わたしが首を傾げながらも彼の身体を拭くための布を替えてやっていると、彼が先に口を開いた。 「あなたが助けてくれたのか」  わたしは彼が持つ有無を言わせぬ雰囲気に気圧されて、「はい」と神妙に答えた。 「……でも、良かった。一時は危なかったんですよ。熱も下がったようだし、念のためもう少しだけ安静にしていれば、明日には動けるようにな――」  盆の上で布を絞っている途中で、急に手を引かれた。金属の盆が耳障りな音を立てて床に転がり、中の水が零れてわたしの衣の裾を濡らした。  気付けば、わたしの肩は寝台に押し付けられ、両の手首をまとめて押さえられて動きを封じられていた。自分が組み敷かれたのだと理解するのに、ふた呼吸ぶんほどの時間が必要だった。痩躯ではあるが女のわたしにとっては大きな男性の身体が、自分の上に覆い被さっている。彼の白銀色の髪の先が、まるで白鳥の羽根のようにわたしの頬に触れた。  ――まさか、あの大怪我をしていた人間が、ひと晩でこれほど動けるまでに回復するなんて予想もできなかった。わたしは信じられない思いで彼の目を見上げる。彼の目は僅かに緑がかった翡翠の色。その目は色彩の鮮やかさに反して、深い闇と哀しみを湛えているように見えた。彼はおそらく傷の痛み以外の理由で、その秀麗な眉を歪ませている。 「私を受け入れろ」  決して否とは言わせないという強固な意志の籠もった囁き声だった。その声で、わたしはこれから何が行われるのかを悟った。絶望がわたしの目の前を覆い尽くした。抵抗したとしても、これほどの体格差と力の差がある人間のもとから逃げられるはずがないことは分かっていた。恐怖で唇が震える。それなのに、相手はわたしよりもよほど辛そうな表情をしている。そのことがわたしをいっそう混乱させた。 「やめて。誰か――」  その精一杯の叫び声が小屋の外に届く前に、猿轡代わりの麻布の塊を口の中に詰め込まれた。真っ白になった頭で、わたしは耐えることを選択した。そうするしかなかった。抵抗して殺されることが最も恐ろしかった。わたしには、まだ生きて為さねばならないことがある。  そのあと、わたしは気を失ったらしい。翌日目覚めたのは、既に陽も傾き始める頃だった。気が付いたとき、わたしは寝台の上でひとりだった。寝具を検めてみると、足元のほうに赤黒く変色した血痕が点々と続いている。それを見つめながら、この血液は彼の怪我によるものか、それともわたしのものかと、まだ十分に働かない頭で考えた。  寝台から下りようとしたとき、ちょうど寝室の仕切り幕が上がる音がした。そちらに目を遣ると、白銀の髪の男がわたしを見つめている。ただし、その目には昨夜のような悲哀は見られない。代わりにその瞳の奥に灯っていたのは明確な怒りだった。彼の片手には、居間の書棚に収められていた、魔術に関する巻物が握られている。 「……おまえは、魔術を扱う者か」  威厳を纏った硬い声で問われる。どのみち、昨晩の治療には薬草だけでなく魔術も併用しているのだから、そこを掘り下げられたら言い逃れは出来ない。わたしは「はい」と正直に答えた。すると、その瞬間、相手の顔色が変わった。端正な顔が怒りで歪み、突然背後に蒼い炎が燃え上がるのが見えるようだった。 「私を騙したな。また・・、私を欺き愚弄するつもりか。無辜の民の宿敵、邪悪なる魔女め!」  彼はわたしの顔に巻物を思いきり投げつけ、わたしを睨みつけた。巻物の端がわたしの頬を掠めて擦り傷をつくったが、わたしはそれには構わずに、彼の翡翠の色の目をただ睨み返した。  わたしとまともに見つめ合うと、意外なことに、彼ははっとその顔色を怒りから恐怖へと塗り変えて、所在無げにひととき視線を彷徨わせた。そして、そのまま長衣の裾を翻し、何も言わずに家から出て行ってしまった。  それからしばらく経った頃、わたしは体調に変化を感じた。何が起こったのかを悟り、わたしは少なからず動揺しながらも自分の下腹部をそっと撫でた。  からだの中に宿った命を産み落とすことを一瞬たりとも躊躇わなかったと言えば嘘になる。けれど、結局、わたしは独りで子どもを産むことを選んだ。  この頃にはだいぶ薬学の知識がついていたこともあり、魔術の助けも借りて、出産は無事に乗り越えた。生まれたのは娘だった。この子の父親にわたしがどんな感情を抱いていようが、目の前にあるやわらかな命は無条件に愛おしかった。彼女は、父親とは微妙に異なる爽やかな若草色の瞳を持っていた。漆黒の髪はわたしの遺伝子を感じさせた。  森の奥の小さな家の中で、しばらくは娘の笑顔に癒される幸せな時間が流れていた。しかし、娘が一歳を迎える頃、俄かに家の扉が乱暴なやり方で叩かれた。わたしは娘を守るように抱き、怪訝な表情で応対に出た。扉の向こうに立っていたのは、立派な身なりをした二人の男だった。 「我らが陛下・・・・・、キュクノス王からの命令である。我々はこの襤褸小屋を数年前から監視していた」 「生まれた子どもを渡せ。邪悪な魔女などに育てられては、どのような悪影響があるか分かったものではない」  男たちは一方的にそう告げて、わたしから娘を取り上げた。産後の傷がまだ癒えておらず、魔術も本調子ではない状態のわたしに出来ることは無かった。泣き叫ぶ幼い娘の声を聞きながら、わたしは絶望的な気分で、ひどく軋む木の床の上に力無く座り込んだ。  キュクノス王の伴侶――亡くなったお妃様がわたしと同じ深い紫色の瞳を持つ女性だったことを町の噂で知ったのは、それからずっとあとのことだった。

第四話「ベルタ」

 ステュクスを渡るまえに、わたしはとある町を訪れた。わたしが暮らしていた森の隣に位置する小さな町だ。わたしが懐かしさとともに通りを行き交う人々を眺めていると、この町唯一の書物庫の中から“わたし”が姿を現した。娘がわたしの元から奪われてから、既に五年ほどが経過していた。  そう――書物庫から出てきたということは、この頃は既にとある研究に取り組んでいた時期だ。わたしは当時のことを思い出した。娘を奪われてから、しばらく何も口にする気が起きず、勿論研究を再開する気力も無く、生気の無い貌で亡霊のように過ごしていた頃のことだ。それでも生きるためには物資を調達せねばならないと考えるだけの精神力はかろうじて残っていたので、その日、わたしは覚束ない足取りで町へ下りてきた。  必要最低限の買い物を済ませ、森の奥の家へ戻るために露店が並ぶ通りまで引き返してきたときのことだった。わたしはまた人混みの中から水の精霊の気配を感じた。その気配はわたしに過去の記憶を思い起こさせた。  ――また、この気配。あのときと同じだ。  今度は決して見失うまいと、わたしは苦労して人波をかき分け、ついに水の精霊の気配を纏った人物の腕を掴んだ。 「あの……」 「はい?」  腕を掴まれて振り返ったのは、五十がらみの婦人だった。怪訝な目で見つめられ、わたしはその先に続けるべき言葉を見失ってしまった。精霊の声は魔術師にしか聞こえず、従って、精霊の気配を感じ取ることができるのも魔術師だけだ。ここで精霊の話題を口にすることは、自分が魔術師であるという告白にほぼ等しい。そのことがわたしを一瞬躊躇わせた。わたしが何も言えずにいるうちに、この状況を不審に思ったらしい老女が「あんた、そのご婦人に何か用かい。ここの三軒隣の果物屋の奥さんだろう」と声をかけてきた。周囲の人々も少しずつわたしたちに注目し始めている。わたしはもう、この場で婦人に何かを伝えることを断念せざるをえなかった。 「……いえ。すみませんでした」  掴んだままだった彼女の腕を離し、頭を下げてその場を去る。幸い、往来のざわめきがそれ以上大きくなることはなく、町の様子は普段通りに戻ったようだった。  ところが、それからしばらくして、またわたしが食糧を調達するために町へ下りてきたときのことだった。乾燥豆を売る露店の前を通りかかると、店主の女性が客の一人と話している声が聞こえてきた。 「ねえ、聞いた? あそこの果物屋の奥さん、例の流行病で昨夜亡くなったんですって」 「ええっ。数日前まであんなにお元気そうだったじゃない」 「そうなのよ。だから私も耳を疑っちゃったわ。なかなか流行が収まらないわねえ……」  わたしは一瞬で背筋が冷えた気がして立ち止まった。そして同時に、水の精霊の気配の意味にようやく気付いた。おそらく数年前のあのときも、そして今回も、流行病の原因を精霊が教えてくれていたのだ。  古来より、町は水辺で栄えるものだ。この町にも、南北を貫くように小川が流れている。その川の水質に問題があるとしたら……。このときの閃きが、わたしを再び研究に向かわせた。両親あのひとたちが同じ流行病で命を落としたことは、研究を再開する動機にさほど関係していない、と思いたい。それよりも、婚姻から十日も経たずに若くして命を終えた元夫が不憫でならなかった。彼のためにも、流行病の原因を突き止め、できればこれ以上の犠牲が出ないようにしてやりたいと思った。  その日、森の奥の家に帰り着いてから、わたしは早速研究の準備を始めた。この古い小屋には随分前から鼠が棲みついている。わたしは野良猫を手懐けてその鼠を取らせ、川の水を飲ませた鼠の半数に試作品の薬を与えて経過を観察するという実験を繰り返した。無心で研究に没頭している間だけは、娘を失った寂しさをいくらか紛らわせることができた。  ある日、手懐けた猫が夕方ふらりと散歩に出て行き、そしてそれきり帰ってこなかった。気ままに生きたかったのか、それとも散歩の途中で狼にでも食われてしまったか。何にせよ、実験用の鼠はもう少し必要だから、また町で野良猫を探して来ようか――そう考えていたちょうどそのとき、急に家の木戸が二度三度と叩かれた。 「……すみません。だれかいませんか」  子どもの声だ。  ――まさか、あの猫が口を利けるようになって戻ってきたのかしら。  有り得ない発想に自分で苦笑しながら、わたしは古い椅子から立ち上がって木戸のほうに向かった。  扉の向こうに立っていたのは、襤褸を纏った少女だった。ちょうど娘と同じくらいの年の頃に見える。わたしは彼女の話を聞いて、この身寄りの無い少女が魔術師の卵であると判断し、自分の弟子としてこの森の中で匿うことに決めた。  彼女に魔術を教えることは、我が子を育てる楽しさや苦労とはまた別種のものだったが、それでも彼女の存在が生きる希望のひとつになったことは間違いなかった。彼女は予想以上の速さで魔術を覚え、魔力制御の精度も日を追うごとにみるみる向上していった。  けれど、それを手放しで喜んでばかりもいられなかった。キュクノス王の政策により、魔術師――とりわけ民衆が“魔女”と呼ぶ女性魔術師への風当たりは年々強くなるばかりだった。「王様は“魔女”に騙されてお妃様を亡くされたから、それ以来、魔術を使う者が諸悪の根源だっていうお考えみたいよ」――町に買い出しに出たときにそんな噂を聞いた。この状況では、あの子が成長したときに“魔女”と後ろ指をさされて不当に迫害されかねない。わたしはともかく、あの子だけは護ってやりたい。そのために、わたしは人づてにしか聞いたことのない“魔術師の村”についての情報を集め始めた。  一方で、流行病の治療薬の研究は大詰めに入ろうとしていた。これまでの実験の結果と考察を論考としてパピルス紙にまとめ、治療薬の試作品を丸薬に加工する。そこまで終わったとき、わたしははたと気付いた。この成果をどこに持ち込んでどのように薬を広めれば良いのかが分からない。それで仕方なく、買い出しに出たときに町なかで「先生」と呼ばれていた医者らしき男性に話しかけることにした。  彼は最初のほうはわたしに親切に応対し、論考にも丁寧に目を通してくれた。ところが、わたしが魔術師であるという秘密をやむを得ず明かした途端に、あからさまに態度を一変させた。あの白銀色の髪の男のように。  ただ、やはり研究結果自体は医療者として興味深く思ってくれたようで、実験結果や薬の効能について説明している間は真剣に話を聞いてくれた。 「……なるほどね。まあ、“魔女”が書いたもののわりには、一定の筋は通っている。それで、この論考をどうしてほしいと?」  わたしは一瞬言葉に詰まったが、「流行病の治療に役立てられないでしょうか」とだけ答えた。医者は片方の眉を上げて、わたしの姿をあらためて頭から足先まで品定めするように眺めた。そして面倒臭そうに息をついて、わたしが掌に載せていた試作品の丸薬を何の断りもなく勝手に取り上げた。 「良いだろう。ある程度試して効果があれば、使ってやらんこともない。ただ、論考の名義は私の名前に書き換えてもらう」 「え?」 「だって、そうだろう。まだ効果が実証されていない試作品段階の薬。そのうえ“魔女”なんかが関わっているとなれば、そんな薬を誰が使いたいと思う? これは親切心からの提案だよ。私の名前でこの薬を広めてやると言っているのさ」  その医者は唇の片端だけを上げて歪んだ笑みを見せた。この人は、もしこの薬が人体に効かなかったら、論考を“魔女”であるわたしの名前で発表するつもりなのだろうと直感した。けれど、それでも構わない。わたしの目的は名前を売ることではなく、流行病で亡くなる人を減らすことであり、魔術を人のために役立てることだ。わたしは無表情のままで医者の顔を見つめ返し、彼の提案を了承した。  その夜から、わたしは試薬の改良と並行して、さっそく新しい研究を始めた。新しいと言っても、遠い昔に中断することになってしまった研究を再開するというだけのことだ。当面はまさにいま流行している病に対処するための薬の開発を優先していたが、それが一区切りついたので、ようやく異界人向けの薬の開発に着手できる。わたしは異界人についてこの十数年のあいだに進んだ研究の内容を頭に入れるため、まずは自宅に何年もかけて溜め込んだ膨大な数の書物に夜ごと目を通した。  一方で、何かあった場合に弟子を逃がしてやる件については、何とか“魔術師の村”の村長と連絡をとることに成功し、まだ幼い彼女だけでも迎えに来て匿ってくれないかと頼み込んだ。この頃、“魔女”は無条件で駆除してよいとする法まで出来て、わたしたちの立場は更に難しいものになりつつあった。聞くところによると、危険な存在である魔女を根絶やしにせよという声も既に国のあちこちで上がっているらしい。――おそらくもう時間が無い。わたしは魔術師の村の長の到着を待ちながらも、新しい薬の研究を細々と進める日々を過ごしていた。  ある日、町の書物庫で異界人関連の書物を探していたとき、偶然あの医者と再会した。彼は流行病の薬の提供に対して改めて礼を述べたあと、今は何の研究をしているのかとわたしに尋ねてきた。わたしは警戒しながらも、差し当たって今すぐに何か危害を加えられることは無さそうだと判断し、正直に異界人向けの薬の研究のことを話した。すると、医者は「確かに異界人の救済は大きな問題のひとつだ」と共感を示し、「私の伝手で、もっと詳しい研究資料を手に入れられるように働きかけてやっても構わないが」とわたしに提案した。わたしはしばらく返事に迷った。この医者とまた関わるのは正直気が進まないけれど、魔女への弾圧が日に日に激しくなるなかで、わたしの生涯をかけたこの研究がいつまで続けられるかは分からない。それなら、研究を少しでも前に進めておくためにも、詳しい研究資料は確かに欲しい。わたしは躊躇いながらもその医者の提案に首肯した。  数日後から、その医者は約束どおり貴重な研究資料の書物をどこかから融通してきてくれた。それを受け取るために、わたしは以前よりも頻繁に町へ下りていくようになった。意外なことに、医者は予想以上に協力的だった。研究が進むごとに態度が軟化していくような気がしたのも、きっと気のせいではないだろう。そのうちに、わたしたちはしばしば研究についての意見交換さえするようになった。  ただ、研究が順調に進めば進むほど、“魔女”への風当たりはますます強くなっていった。町の中では首都から派遣されてきたと思しき兵士たちが睨みを利かせるようになり、兵士の数も日を追うごとに増えた。彼らは研究のために頻繁に町に下りてくるようになったわたしに、速やかにこの町から去るようにと命令した。隣にいた医者は、「これでも私の研究仲間なのだ」と庇うようなことを言ってくれたが、兵士たちは鼻白んでわたしたちを睥睨し、「今に、暗い暗い森の中の家のありかを突き止めてやる。危険な魔女の家など、取り壊してしまったほうが世のためだ」と脅しとも取れる台詞を吐き捨てた。そこまで言われては、流石にわたしも「誰にも危害を加えず静かに生活しているだけでそんな脅しを受ける理由はありません」と反論せざるをえなかった。 「分かりました。この研究が終わったら、この町から出て行きます。それで構わないでしょう」  その頃には“魔術師の村”から村長が到着し、あの子も安全なところに避難できているに違いない。この条件なら、困るのはわたしだけだ。わたしのせいで、あの子に――弟子にまで累が及ぶことだけは何としても避けたかった。 「研究が終わったら、というのは、具体的にいつのことかね」  兵士は大いに迷惑そうな顔をしてわたしに質問した。具体的に研究が終わる日はいつか、なんて、それが事前に分かれば苦労はしない。と、おそらく隣にいる医者も思ったことだろう。 「……はっきりとはお伝えできません。でも、必ず出て行きます。その代わり、家には手を出さないで」  この交渉に兵士は難色を示したが、医者が口添えしてくれたこともあり、最終的には渋々条件を飲んでわたしと約束を交わし、そそくさと書物庫を出て行った。  けれど、それから幾日も経たないうちに、王宮の兵士はいとも簡単にその約束を反故にした。あろうことか、まだ小さい弟子がひとりで留守番をしているときに、勝手に我が家を訪ねてきたのだ。その日は弟子が兵士を家に入れてしまう前に気付くことができたので、勿論すぐに兵士を追い返した。ただ、家を知られてしまった以上、いよいよ今後の去就を現実的に考えねばならない。わたしは覚悟を決めて、もしものときにあなただけでも逃げられるように準備を進めている、と弟子に伝えた。彼女は神妙な顔をしてわたしの話を聞いたあと、わたしに何か尋ねたそうにしていたが、わたしは敢えてそれに気付かなかったふりをした。  そして、そのたった数日後、ついにその時はやって来た。ここ最近は研究よりも弟子の安全を優先して極力家を空けないようにしていたが、その日は生活に必要な物資がついに尽きてしまったので、仕方なく町へ下りてきた。その道中で、何だか町の中が普段と違ってざわめいていることに気付いた。 「おい、ついにやったぞ」 「邪悪な魔女を根絶やしにするんだ」  男たちが興奮気味にそう言い合っているのを聞いて、わたしは足を止め、すぐさま荷物をその場に置いて家へと引き返した。歩き慣れた獣道のはずなのに、そのときばかりは家までの道のりが妙に遠く感じた。早く、早く。どうか、間に合って――。  息を切らして我が家に辿り着くと、思ったとおり、木でつくられた小さな家はあかあかと燃えて黒煙を吐き出していた。その家の前に、十になるかならないかくらいの女の子――わたしの弟子が駆け寄ろうとしている。わたしは最悪の事態を免れたことに安心して、思わず彼女を抱き寄せた。 「本当によかった、あなたが家の中にいなくて……」  そして、山のふもとで待っている老女――魔術師の村の村長を頼るように彼女によく言い聞かせた。一緒に暮らし始めた頃よりもだいぶ大きくなったとはいえ、まだまだあどけなさの残る子どもである彼女は、首を横に振って「師匠も一緒に行こう」と泣き叫んだ。わたしはその望みを叶えてあげられない代わりに、一言ひとこと彼女の心に染み込ませるように話しかけた。 「……サーリア。これからどんなことがあっても、どんな仕打ちを受けても、希望を失わないで。魔術は誰かのために役立てるものだって、わたしは信じているから。あなたを信じてくれる人は、この先必ず現れる。だから、その人たちのために、善い魔術師でありなさい」  たとえこれから自分が殺される可能性が高いと分かっていても、わたしはもう絶望しない。この世は決して敵ばかりではないことを知っているからだ。研究という共通の目的を通じて味方を得られる場合もあるし、わたしが魔女だと知っても変わらずあたたかく接してくれたアステルやエラントのように、この世を生きる支えになってくれるような人間だって、必ず世界のどこかにいる。そのことを、できれば弟子のサーリアにも伝えたかった。口数の少ないわたしがどこまでうまく伝えられたかは、分からないけれど。  異界人のための薬の研究を引き継いでほしい、とは言わなかった。彼女の人生は彼女のものだ。心から人生を捧げたいと思える何かに、彼女が自分で出会わなければ意味が無い。わたしの言葉で具体的な彼女の行動を縛りたくはなかった。  わたしは別れの挨拶の代わりに、サーリアが身に着けている腕環に軽く触れた。腕環は彼女の肘のあたりで止まっている。わたしが彼女にこれを贈った当時よりも彼女の体が成長していることが改めて分かって嬉しかった。  “わたし”の姿が炎のなかに消えていくのとほぼ同時に、わたしは目を閉じた。わたしの名を呼ぶサーリアの声だけが、いつまでも耳の奥に響いていた。

第五話「コレー」

 ステュクスを渡るまえに、わたしはとある家の目の前に立っていた。森の中の小さな一軒家という趣だ。今回はこれまでと違って、全く見覚えの無い景色だった。  ここはどこだろうと考えているうちに、わたしの横を誰かがすり抜けて、扉を二、三度叩いた後に「お邪魔します」と木戸を開けた。わたしもさりげなく彼女の後ろにつき、彼女と一緒にそっと木戸の内側に身を滑り込ませた。  家を訪れた女性のほうには見覚えがある。おそらく十年以上が経過しているのに、ひと目で分かった。わたしの唯一の弟子であるサーリアだ。彼女の瞳と同じ菖蒲色の石が嵌まった華奢な腕環が、彼女の手首で輝いていた。あの頃は二の腕の上のほうまで腕環がずり上がってしまっていたことを思うと、何だか感慨深かった。  対して、サーリアの応対に出たこの家の家主らしき女性のほうには見覚えがなかった。わたしと同じくらいの背丈で、すっきりとした顔立ち。黒い豊かな髪をまとめており、若草色の瞳を持っている。黒い髪に若草色の瞳――。わたしは僅かな引っ掛かりを覚えながらも、ひとまず黙って二人の会話を聞くことにした。 「ありがとう、サーリア。この薬草はこの辺りの土地では育ちにくいから助かるわ。これはね、二日かけてじっくり煎じると、よく効く痛み止めになるの」 「どういたしまして。私こそ、いつも魔術の材料を融通してもらえて有難いわ。私にはどうやら薬学の才能が無いようだから、薬草はどうもうまく扱えなくて。師匠は魔術だけじゃなくて薬学も大得意だったんだけど、弟子である私は、そこだけは伸びなかったわねえ……」  サーリアは心なしか遠い目をして残念そうに言った。自分について言及されたことに気付いたわたしは、思わず自分で自分を指差して確認する。きっとサーリアには、この仕草も見えてはいないだろうに。  友人関係に近いように見える二人は、その後もしばらく近況を話し合っていた。そろそろ、とサーリアが立ち上がった拍子に、彼女の持っていた小物入れが長衣から滑り落ち、麻布の袋の中身が床に転がってしまった。背の高い黒髪の女性の足元にまで転がってきたそれを、彼女は拾い上げる。そしてそれをサーリアに差し出しながら、おや、という顔をして素朴な疑問を口にした。 「綺麗な留めピンね。いつも持ち歩いているの?」  彼女が疑問に思ったのも当然だ。普通、衣を留めるピンの予備を外出時にまで肌身離さず持ち歩いたりはしない。 「あ、うん……。お守りなの」  サーリアは歯切れ悪くそう答えた。そのとき、わたしが立っている角度からちょうどフィビュラの柄が見えた。あれは……。あの火事でいっしょに燃えてしまったかとばかり思っていた。サーリアが持っていてくれたのだ。改めて見比べてみると、フィビュラの中心の宝石の色と、サーリアの対面で話している背の高い女性の瞳の色は、やはり全く同じだった。  サーリアは、少し考える素振りを見せたあと、「あの、これ……」と相手の女性に言いかけた。若草色の瞳を持つ女性が、うん、と目を瞬いて続きを促す。けれど、結局サーリアは「ううん、なんでもない。ありがとう」と首を振ってフィビュラを受け取った。  サーリアが扉を開けるのに合わせて、わたしも女性の家から外に出た。名残惜しくなり、その場で振り返る。きっと彼女には聞こえていないのに、それでも話しかけずにはいられなかった。 「愛しい娘コレー。会えてよかった」  すると、彼女は「いま、何か聞こえた?」と言いたそうに、開いたままの扉のほうに目を遣って首を傾げた。彼女の視線の先には実体の無いわたしが立っている。わたしが微笑んだとき、ちょうど彼女と目が合った気がした。けれど、もちろんそんなことは有り得ない。次の瞬間には、玄関の木戸はわずかにきしむ音を立てて静かに閉じられた。

最終話「月の無い夜」

 ステュクスを渡るまえに、わたしは山間の小さな村にやってきた。今回も辺りの景色に見覚えは無い。ただ、その村の状況が平穏ないつも通りの日常とはかけ離れていることはすぐに分かった。 「助けて――」 「こっちは駄目だ。早く川のほうに逃げろ」  民家の庭に炎がゆらめき、村のあちこちで赤い火柱が上がっているのが見える。村人たちは恐慌を来して逃げ惑い、助けを求める悲鳴が右から左から際限無く響いている。 「何ということだ。長いこと続いた“魔術師の村”もこれで終わりだ……」  脚を引きずって川のほうに向かいながらわたしとすれ違った男性がそう嘆いていた。それで、わたしはこの村が生前足を運ぶことは叶わなかった“魔術師の村”であることを知った。――それなら、この村には“彼女”がいるはずだ。わたしは嫌な予感を無視できないまま、炎の中を歩き回った。  探し始めていくらもしないうちに、わたしは彼女を見つけた。見間違いであってほしかったが、残念ながらそうではなかった。村の外れの小さな円形広場の石畳の上に、一人の女性が倒れ込んでいる。 「……サーリア」  熱風に胸の中を灼かれたのだろう、サーリアは苦しそうに喘鳴交じりの息を吐いており、皮膚は斑に赤くなって爛れていた。わたしは彼女のもとに駆け寄ろうとしたが、彼女が誰かと話していることに気付いて足を止めた。それは、背が高く、無造作に肩の辺りまで流れる黒髪を持った、片足が義足の男性だった。わたしは彼のことを知らない。ただ、横顔にほんの少し面影があった。忘れもしない、あの白銀の髪を持つ“白鳥”の面影が。  サーリアとその男性は友人同士のようにも見えず、かといって恋人や夫婦といった関係にも見えなかった。有り得るとすれば、そう……上司と部下のような関係だろうか。サーリアは身体を地面に横たえたまま、煙と灰を吸い込みすぎたために掠れた声で、それでも必死に彼に何かを伝えようとしていた。 「……娘は、無事でしょうか。今年五歳になったばかりです。黒い髪の子で、瞳は最近深い緑色に変わってきていて……」  瞳の色が変わってきたということは、魔力が染み出してきた証だ。彼女の娘にもきっと魔術師の素質があるのだろう。男性はサーリアの煤だらけになった手を握り、静かな力強さの篭った低い声でサーリアに話しかけた。 「ああ。その子どもなら、先ほど国王軍の兵士に引き渡して保護させた。安心しろ」  それを聞いて、サーリアが安堵の息を吐いたのが分かった。それから彼女は最後の力を振り絞るようにして懐を探り、掌に載る程度の何か平たくて丸いものを取り出した。金色の月の意匠の装飾のなかに若草色の石が嵌め込まれたそれは、彼女がお守り代わりにしてくれていたフィビュラだった。 「それと……これを、――に渡してくれますか」  名前の部分は、ちょうど瓦礫が倒れる轟音にかき消されて、わたしの耳には聞こえなかった。しかし、すぐ近くでサーリアの言葉を聞いていた男性には通じたようだ。黒髪の男性は頷いてフィビュラを受け取る。サーリアは茫洋とした声で、そのまま独り言のように続けた。 「こんなことになるなら、もっと早く彼女に託しておけばよかったかな。これはもともと彼女のために作られたものに違いないもの。証拠は無くても、話を聞く限り、彼女はきっと、ベルタの……」  そこでまた燃えた建物の柱がひとつふたつと倒れ、耳を塞ぎたくなるようなひどい音が響いた。男性が「サーリア。もう話さなくていい」と緩やかに首を振っている。それを最後に、周囲の瓦礫が彼らとわたしとの間に次々と倒れはじめ、二人の姿は炎と煙に紛れてすっかり見えなくなってしまった。  気付けば、また周りの風景が変わっていた。今度は牢のような場所で、こちらに背を向けた女官らしき飴色の髪の娘と、緩く巻いた金茶色の髪を束ねた青年が話していた。牢の中に入っているのは青年のほうだ。わたしはその二人ともと面識が無い。……と思う。それを確かめるために、牢の入口側からまじまじと青年を見つめてみた。すると、わたしの視線に気付いたのか、ふと彼と目が合った気がした。わたしは思わず会釈をしたが、そこまでは感じ取れなかったようで、礼儀正しそうな青年は何の反応も示さずにわたしから視線を外した。 「……それで、昨日は邪魔が入って話せなかったことについて、今日も引き続き聞こうか。王城の書庫で、何か引っかかる書物を見つけたって?」 「そうなんです。この国では四十年近く前に、東の国では七年前に流行した伝染病があったでしょう。その病の抗生剤についての論考なんですけど……」 「なるほど。引っかかるというのは、どんなふうに?」  わたしの疑問を青年が代弁してくれた。わたしは青年と女官の顔が両方見えるような位置にさりげなく移動する。 「その論考の著者は、ヘラス北方出身の偉い研究者さんなんですが、この論考だけ、彼の他の論考と明らかに筆跡も文体も違うんです。これ、女性の筆跡じゃないかしら。あ、著者が女性というのはただの私の想像ですが、筆跡が他の論考と違うというのは確かなことです」  他の人が書いた論考をただ書き写したものという可能性も無くはないですけど、それなら普通はその旨が冒頭か末尾に書かれていますよね。若い女官らしき女性はそう続けたあと、指を顎に遣って考え込んだ。 「つまり、その研究者は何らかの経緯で、別の人物が書いた論考を自分の名前で発表することになったと?」 「と、思ったんですけど……」  確たる自信は無いのか、女官の声は尻すぼみになる。 「でも、何にせよ、この論考の内容が素晴らしいことは間違いありません。ヘラスだけでなく、遅れて伝染病が流行した焔の国ラダニエでも、多くの人の命を救った技術に繋がったのですもの」  澄んだ湖の色をした女官の瞳が輝いているのが見える。わたしは目を見開き、ひとつ頷いて、決して届かない「ありがとう」の言葉とともに微笑んだ。――記憶はそこでおしまいだった。  わたしがここまでの旅で見てきた物事は、本当にあったことかもしれないし、そうではないかもしれない。真実であることを証明してくれるものも無ければ、嘘であることを証明するものも無い。  けれど、それで良いと思った。もとより、人間の思考というものは、勝手な願望・憶測・偏見、そのほかありとあらゆる夢まぼろしのたぐいを含む、曖昧で不確かなものだ。それでも、この世の誰にも否定できない確かなものがひとつある。わたしは思い出を持っている。アステルと一緒に歩いた草原に揺れていた草の匂いも、放浪者と名乗っていた彼の笑顔のあたたかさも、初めて触れた娘の小さな小さな掌の柔らかさも、愛弟子が初めて魔術を使えたときの喜びと誇らしさも、別れのときに拭った涙の雫の温度だって、すべて憶えている。それだけでわたしには十分だった。 「……さようなら」  わたしは誰にともなくそう呟いて空を見上げた。いつの間にか夕暮れが去って、宵の口が訪れていた。わたしの瞳に似た深い色の、月の無い夜空だった。  わたしの声を聞く者はもういない。わたしは姿の見えない月を振り返ってひととき微笑み、静かなせせらぎの音を湛えるステュクスの河口のほうへと歩き始めた。
Page Top