雨のまぼろし

 



1

「ツキちゃん」  昼休みの終わりがけ、学内書店から出てきたところで聞こえた声に、私は足を止めて振り返った。湿気のために顔の横で跳ねている細い髪が、振り返った拍子に白いブラウスの上で揺れる音がかすかに聞こえた。  私のことをこう呼ぶ人は、この大学内には一人しかいない。振り返った先にいたのは、思ったとおり、高校時代からの友人の紘子ひろこだった。 「なんか、学内で会えるのは久しぶりな気がする。って言っても、一週間ぶりとか?」 「ね。先週、急に一限休講になったもんね」  それから、私たちは邪魔にならないように通路の端のほうに寄って、授業の小テストやレジュメについてのプチ情報交換会を始めた。ツキちゃんはお昼これから? と紘子が聞くので、三限の空きコマの間にサークルの子たちと食べる予定だよ、と答えると、紘子は「そっか。あ、今日の日替わりランチ美味しかったよ。チキンのトマト煮。ズッキーニとか入ってるやつ」とおすすめしてくれた。私もつられて「おいしそう。じゃあ、今日は私もそれにしようかな」と笑う。 「……あ、やば、三限始まる。じゃあ、またね。近いうちにまた話そう。メールする」  腕時計にちらりと目を遣って、紘子は慌ただしく地下食堂の出口の階段を上がって行ってしまった。「うん。また」と手を振っていると、ちょうど入れ替わりで、アーチェリーサークル所属の一年生二人、二年生と三年生が一人ずつの計四人が連れ立って食堂への階段を下りてくるのが見えた。  六月中旬。ニュースで梅雨入りが報じられて、今日でちょうど一週間が経つ。今日も空は一日じゅう鼠色の雲に覆われていて、食堂の窓ガラスには雨の雫が絶えず滴っていた。テーブルに頬杖をついて外の景色に目を遣り、長く細い溜息をつく。そのとき、隣の席に座っていた一年生の女子が、対角線上の隅に座っている同学年の男子に話しかけた声で、私は食堂の中へと意識を引き戻された。 「渡瀬、なんか元気なくない?」 「あー。おれ、雨の日ってちょっと苦手で」  一年生の渡瀬という学生は、軽く笑って頭を掻いた。彼に話しかけた女子がすぐに相槌を打つ。 「確かに、傘で常に片手塞がってるのも不便だし、どこへ行くにも濡れるし、憂鬱だよねえ」 「そういえば、一年生組はふたりとも下宿だったよね。洗濯物を外に干してきた日に限って途中で雨降ってくるとか、あるあるじゃない?」 「それ、めっちゃ分かります」  話に入ってきた三年生も交えて、食卓は雨の日がいかにうんざりするものかという話題で盛り上がり始めた。いつもなら、私も共感して話に交ざりに行くところだ。けれど、今日はどうしてかそんな気分になれなかった。さっきの一年生ふたりの会話に、どこか引っかかるものを感じた。  ――どうしてだろう。渡瀬くんのあの表情って、単に雨の日は不便だから嫌いとか、そういう感じではない気がする。  私は鶏のトマト煮にフォークを立てて口へ運びながら、そのあとしばらくじっと彼の顔を見つめていた。  どうして渡瀬くんの反応が気になったのかと言えば、私自身も雨の日が嫌いだからだ。サークルの友人にも、伊吹いぶきはいつも雨の日になるとテンションが低くなる、とよく言われる。  私の耳には、雨が降るたびに“声”が聞こえる。その声はいつでも私を容易に暗い暗い闇のなかへと連れ戻してしまう。私はお喋りに興じているサークル仲間には分からないように眉間に皺を寄せ、さりげなく片手で耳を覆った。  昼食後のお喋りのあとは、四限と五限の講義を経て帰路についた。下宿先に帰ったら、作り置きの惣菜で簡単な夕食にして、課題のレポートを進めて、選択第二外国語の小テスト対策をして、明日のバイトのために早めに寝て……。相変わらず止む気配の無い雨のなか、明日までのスムーズな行動をシミュレーションし始める。地味な紺色の傘に雨粒が当たっては弾けて、時折小さな飛沫が飛んだ。  大きめの交差点の信号が変わるのを待っている途中、何の気無しにふと顔を上げてみる。そのとき、妙なものを見つけた。私の視線は一瞬にして、自分の斜め前に立っている人物に釘付けになる。  ――あの子……。  セーラー服を着た、中学生くらいに見える女の子だった。何が妙なのかというと、今日は傘をたたく雨粒の音が煩いほどの結構な本降りなのに、その子は傘を差していないどころか、頭に手を翳して降ってくる雨を避けるような仕草すらしていない。更に、足元に目を落としてみると、この天気にもかかわらず、彼女は長靴はおろか、普通の靴すら履いていなかった。女の子は靴下のままふらふらと歩道を進み、赤信号を無視してあっさりと車道のほうに出て行った。  周りからの制止の声は掛からない。明らかに危険な行動をしているその女の子のことを、私以外の周りの通行人は誰一人として目で追っていなかった。彼女の存在に気付いてすらいないのだろう。  私も、危ない、轢かれるよ、と話しかけたり彼女の後を追いかけたりする気にはなれなかった。なぜなら、私には分かったからだ。  ――あれは、生きている人間じゃない。『この世に残ってしまった何か』だ。  そう直感した瞬間、まるでその考えが彼女にも伝わってしまったかのように、少女がふと後ろを振り返った。知らんふりをする間もなく目が合ってしまう。可愛らしい顔立ちをした少女は、意外に幽霊らしくない血色の良い頬をしており、私を見て驚き顔で丸い目を瞬いていた。  私は彼女と長くは見つめ合わず、密かに息を止めて、なるべく自然に見えるように、そっと彼女から目を逸らした。それでもやはり気になって、青信号に変わった横断歩道を渡る前に、もう一度斜め前へと目線を移してみる。すると、そこにセーラー服の女の子など最初から居なかったかのように、彼女の姿は跡形も無く消えていた。 「…………」  横断歩道を渡りながら、俯いて考え続ける。三分ほど脳内会議を続けた結果、私は先ほどの出来事を一旦忘れることにした。気分を切り替えるためにひとつ小さく息をつく。  下宿先の手前のスーパーマーケットで必要最低限の日用品を調達し、アパートの階段を三階まで上る。部屋の扉の前で壁に傘を立てかけ、鞄から鍵を出している途中で、不意に視線を感じた。思わず勢いをつけて振り返る。すると、今まさに階段の一番上の段に足を掛けようとしている人影が見えた。  ――まただ。  その人影とは十歩か十五歩ぶんくらいの距離があったので、宵闇も相俟って顔ははっきりとは分からなかったけれど、それでも、私はその影の主がさっきと同じ人物だと直感した。よく目を凝らしてみると、やはりその人影は中学生くらいの身長で、セーラー服を身に着けた女の子で、そして、当然のように靴を履いていなかった。奇妙なことは、彼女はさっきも傘を差さずにそのまま雨に濡れていて、濁った水たまりだらけの道路を靴下のまま歩いていたにも関わらず、髪も服もひとつも濡れていないし、白い三つ折りの靴下にも泥らしき汚れが少しも付いていないことだった。  セーラー服の少女は、どうやら様子を見ながらおずおずと私のほうに近付いてこようとしているようだった。それが分かった瞬間、背中に怖気が走る。気付けば、ほとんど叫ぶような声で彼女に向かって言い捨てていた。 「――やめて。来ないでよ。私に近付いてこないで」  すると、少女は意外なことに、驚いたようにびくっと肩を震わせて、気まずそうに斜め下へ目を伏せ、それ以上近付いてこようとはしなかった。よく見ると硝子玉のような真ん丸い目が、捨てられた人懐こい子犬のように揺れている。それでも、私は態度を変えるつもりはなかった。急いで鍵を探して部屋の扉を開け、逃げるようにワンルームの室内へ飛び込んで、かすかに震える手でチェーンロックを掛けた。 『……いぶきちゃんてさー、嘘つきだよね。ユウレイが見えるとか、テキトーなことばっかり言ってさ。ただみんなに注目されたいだけなんじゃないの?』 『なあに、伊吹。そこに何か居るだなんて、やめてよ。大っ嫌いな私のお父さんの、気持ちの悪い霊感とやらが遺伝したんじゃないでしょうね? もしそうなら、ママ、こんな気味の悪い家からは出て行くからね』  それらの“声”は好き勝手に増幅したり、不快に歪んだり重なったりしながら私の頭の中に木霊する。耐えがたい不協和音が耳元で鳴り響く。これが雨の日にしばしば私を苛む“声”の正体だった。耳を塞ごうが何をしようが、自分の内から聞こえてくるその声を遮断することなんて出来やしないと分かっているのに、それでも私は震える両手できつく耳を塞いで、しばらく肩で浅い息をしながらその場に蹲っていた。  結局、夕食の箸は進まなかったし、課題のレポートもほとんど手につかなかった。私は気の抜けたような溜息をつく。せめて小テスト対策のおさらいだけは済ませて、今日は早々に寝てしまうことにしよう。  いつの間にか、窓越しに聞こえてくる雨音はだいぶ落ち着いていた。小雨程度になったのだろうか。私は湯船に湯を張る前に一度外の様子を見ようと窓を開けてみた。  予想どおり、外は弱い雨がぱらつく程度になっていた。ただ、テレビによると、雨雲はこのまま夜中までこの地方にかかり続け、明け方に少しの時間だけ雨が止むかどうか、との予報だった。  狭いベランダの足元のほうにふと目を遣る。すると、視界の斜め下のほうに、色素の薄いさらさらの髪を持った人間の頭部が見えた。ぎょっとして再度よく見てみると、先ほどのセーラー服の女の子が窓を背にして座り込み、自分の膝を抱いて顔を伏せていることが分かった。 「…………」  私が言葉を失ってそのまま動けずにいるうちに、視線に気付いたのか、少女が顔を上げる。硝子玉のような丸い目が私を捉える。その瞬間、私の目には、彼女の姿と中学生の頃の自分の姿が薄く二重写しになって見えた。そのまぼろしは、ひどく怯えた目をしている。  私は軽く頭を振ってその幻影を振り払い、ひとつ息をついて、あらためてセーラー服の少女に話しかけた。 「……さっきはごめん。とりあえず、入ったら?」  少女はベランダの窓から、遠慮がちにそろそろと部屋の中に入ってきた。彼女が歩いた後に、泥や水分の混ざった足跡はついていなかった。彼女は部屋の中をぐるりと一周見回してから、机の上のノートパソコンを片付けようとしている私と目を合わせて口を開いた。通りの良い涼やかな声だった。 『あの……。ありがとう、おねえさん』 「喋れるんじゃん。あなた、名前は?」  少女は斜め上に視線を遣って、『えーっと……』としばらく考え込む。 『多分、タカガキ ミヤコ。お宮の子って書いて、宮子みやこ』 「多分?」  私がそう尋ね返すと、彼女――宮子は『分からないの』と不安げに視線を彷徨わせて首を振った。 『あたし、気付いたらこの町にいて。雨の中を歩いていたら、名前だけはぼんやり思い出せたんだけど、どうして死んじゃったのかも思い出せないし、この町の景色にも全然見覚えがないし、誰もあたしに気付かないし……途方に暮れてたの。あたしのことが見えたの、多分おねえさんが初めてだったと思う』 「……伊吹」 『え?』 「月島伊吹。私の名前」  簡潔にそう答える。宮子は呆けたような表情で私を見ていたが、一秒遅れてその意味を理解した途端、分かりやすく顔を輝かせた。 『イブキさん……イブちゃん?』 「クリスマスイブじゃないんだから……」  私がそう小声でぼやいたのを聞いているのかいないのか、宮子は『イブちゃん、かわいい響き』と楽しそうに繰り返していた。どうやらたった今、私のあだ名はイブちゃんに決定したらしい。まあ何でもいいけど、と私が半ば諦めて溜息をついていると、宮子はまた表情を変えて、うーんと考え込み始めた。 『それにしても、なにか思い出せないかなあ。中学校に通ってた記憶はふんわりあるんだけど、他のことがなかなか……』  言いながら、宮子は小さく欠伸をして目を擦り始める。どうやら、あまり一度に多くのことを思い出そうとすると、脳に負荷がかかって眠くなるようだ。私はそれを見て、一応宮子のぶんの客用布団を出してきてカーペットに敷いてやった。幽霊に布団での睡眠が必要なのかは定かでないが、客観的な見え方として、仮にも成人している自分が中学生くらいに見える女の子をそのまま床に転がしておくのはいかがなものかと思ったからだ。  入浴と就寝準備を済ませてワンルームの居間に戻ってくると、宮子は行儀よく布団にくるまって既に寝息を立てていた。こうしていると、本当に生きている人間と変わりないように見える。私は夏用の薄い掛布団からはみ出ている宮子の手にそっと指を近付けてみた。すると、どういう仕組みなのか、彼女の手に触れること自体は出来たが、当然のように体温は無く、ただ氷のようにひんやりとした柔らかい物体がそこに在るだけだった。その夜、私は眠気が訪れるまでのあいだ、間接照明で薄暗くした部屋の中で宮子の寝顔を何となくじっと見つめていた。  翌朝目を覚ますと、宮子の姿はどこにも無かった。カーテン越しにおよそ一週間ぶりの朝日が差し込んでおり、窓の外では小鳥が鳴いている。天気予報どおり、雨は夜中のうちに上がったようだ。  この日は梅雨真っ只中にしては好天を保っていたが、やはり夕方近くになると分厚い雲が増えてきて、サークル活動を終えて帰路に着く頃にはついに雨がぱらつき始めていた。今日は夕食も学食で済ませたし、買い物は明日にまわそう。私は傘を腕に挟んで時計に目を遣り、地面の水たまりを避けながら下宿先を目指した。  傘についた水滴を軽く払い、どれだけ気をつけても踏み込むたびに軋むような音が鳴るアパートの階段を上る。一番上の段に右足を置いたところで、私は自分の部屋の前に誰かが座り込んでいることに気付いた。紺色のセーラー服に肩までのさらさらの髪、学校指定なのであろう白い三つ折りの靴下。宮子だった。彼女の横顔はどこか不安そうだ。その横顔をじっと見つめていると、やがて彼女は私の視線に気付き、また分かりやすく顔を輝かせて立ち上がった。 『イブちゃん』  人好きのする笑顔でそう話しかけられ、私は溜息をつきながらも宮子を部屋の中へと促した。  次の日は、朝になっても宮子が姿を消すことはなかった。宮子は客用布団をきれいに片付けて、窓の外に目を遣りながら『今日も雨だね』と呟いた。  私は薄々感付き始めていた。たぶん、宮子は雨が降っているときにしかこの世に現れることができないのだ。だから、私自身も梅雨に入ってから宮子の存在に気付いた。明日は梅雨の晴れ間になりそうだと天気予報で言っていたから、おそらく彼女は現れないだろう。  また次の日。今日は一日じゅう曇りか薄曇りだったが、雨は降らなかったため、予想どおり、宮子は何時になっても姿を現さなかった。  そのまた次の日は、今にも雨が降りそうな曇り。起き抜けのまだ回らない頭で洗面台の前に立って顔を洗っているとき、私は宮子の魂をなるべく自然な形で天へ送ってやる方法を最近の自分が無意識に頭の隅で考え続けていることに気付いた。  そういえば、姉の友人が神職に就いているという話をいつだったか聞いたことがあるけれど、今回のケースの場合、必ずしもそういった方法で成仏させるのが最適な選択肢とも言えない気がする。本人の「この世への心残り」をきちんと解消してやることができなければ、きっといつまでも同じことが繰り返されるに違いない。  もちろん、「梅雨が明けて雨が降らなくなってしまえば良い」というのも違う。それは次に雨が降る日まで問題を先送りするだけだ。根本的な解決のためには、そもそも彼女がなぜ雨の日にだけ現れるのか、その理由を紐解いて行く必要がある。そして、そのためには、彼女が若くして命を失ってしまった経緯を知ることも不可欠になるだろう。  フェイスタオルで水滴を拭って、洗面台の鏡の中の自分を見つめてみる。そして、何となくそうしたくなって、鏡の向こうの自分の視線から逃げるようにふいと目を逸らした。  その日の夜、掛け持ちの家庭教師のアルバイトを終えて雨傘を手に帰宅すると、宮子が部屋のドアの前で待っていた。外ではやはり雨が降り続いている。宮子を部屋の中へと促しながら、私はふと気になって、雑談がてら、雨が降っていないときの記憶はあるのかと尋ねてみた。宮子はすぐに首を横に振る。雨が上がった時点から次に雨が降ってきた時点までがぶつりとカットされて、それらが雑に繋ぎ合わされている感じだそうだ。  翌日は土曜日だった。今日の予定はアルバイトだけなので、比較的時間に余裕がある。家を出るまでのあいだは、薄く音楽を流しながら大学の課題のレポートを進めることにした。宮子は私の近くに座り込み、背後の本棚の中身を興味深そうに眺めている。  レポートを書き始めてしばらく経った頃、少し前にヒットした日本のコーラスグループの代表曲がパソコンから聞こえてきた。音楽アプリにCDを取り込んで、全曲をシャッフル再生する設定にしてあるので、古い洋楽の名曲に交じって、昔からよく聴いているお気に入りの邦楽もときどき流れてくるのだ。 『あ。“リーグル”?』 「そう。知ってる?」  宮子は、この曲は知ってる、と頷いた。そういえば最近出た曲も買ったよ、と言って私が壁掛けのCDラックを目で示すと、宮子はその最新曲のCDジャケットを手に取ってみて、あれ、と声を上げた。 『なんか、あたしの知らない人がいる? でも、確か六人グループだったよね。女の人四人と、男の人ふたりの』 「そうそう。リーダーの人が健康の問題で休養になって、その前後に、サポートメンバーだった人が加入したんだよ」 『そうなんだ……』  健康の問題と聞いたからだろう、宮子はしゅんとして睫毛を伏せた。そして、音楽が契機となって生前の記憶を少し思い出したのか、大サビに差し掛かっている楽曲に耳を傾けながら何気なく呟きを漏らす。 『綺麗な歌。この曲、ほんとに流行ってたよね。小学校の卒業の時のお別れ会で流れてた気がする』  ああ、私の小学校もそんな感じだったかも。そう相槌を打とうとして、私ははたと動きを止め、目を見開いた。確かにこの曲は、私が小学校六年生か中学一年生か、そのくらいの時期によく聴いた曲だ。 「……ちょっと待って」  セーラー服姿の中学生という先入観から、私は今まで宮子のことを、今年か去年か、とにかくつい最近亡くなってしまった、年下の少女だとばかり思い込んでいた。でも、当時のヒット曲の話が私とこんなにぴったり合うということは……。 「あなた、もしかして本来は私と同年代だったんじゃない?」  唐突にそう言われた宮子のほうは、丸い目を真ん丸にして私を見つめ、ゆっくりひとつ瞬きをした。

2

 幽霊になってしまった宮子の生まれ年は、実は私と同じくらいなのではないか。私は次の月曜日から、その仮定をもとに、それとなく周囲から情報を集めていくことにした。  今日も雨が降っている。家を出るとき、宮子が置いて行かれる子犬のような目をしていたので、一緒に大学に来てみる? とつい声を掛けてしまい、雨が降っているあいだは宮子も大学の授業に付き合うことになった。宮子はいつも私の後ろをふわふわとついてきて、講義中は、何やら難しい顔をしながら、私の隣で大人しく教授の話を聞いていた。  あれから、宮子のほうでも思い出したことがあるらしい。やはり生前の宮子は中学校に通っていて、でも三年生の頃の記憶は全く存在しないそうだ。二年生の途中までの記憶しか無いということは、記憶を喪失しているのでなければ、彼女が亡くなってしまったのは中学二年生の頃である可能性が高いだろう。ちなみに、彼女の制服のスカーフの結び目のところをよく見ると、画数が多いほうのさくらという文字が書かれた花の形のエンブレムらしきものが刺繍されていた。櫻中学校? 櫻ヶ丘中学校? やはり出身地が分からないと、候補が多すぎてとても絞り込めそうにない。  学校に関することについては少しずつ記憶が戻ってきた一方で、地元の町や家庭のことは相変わらずひとつも思い出せない、と彼女は残念そうに首を振った。一度「ご家族は?」と聞いてみたときには、『全然思い出せないけど、一人っ子だった気はする』と答えて、白い左手で自らの右腕をそっと抑えていた。私は幽霊である宮子の服装の季節感についてこれまであまり気にしてこなかったけれど、そのとき初めて、彼女が六月末になってもずっと冬服らしき長袖の制服を着ていることに気付いた。それ以降、こちらから家族のことに言及するのはやめた。それでなくても、これから辛いことを思い出してもらわなければいけないかもしれないのだから、本人を暗い顔にさせる話をわざわざ積極的に根掘り葉掘り聞き出すことは無い。  三限の講義室でそのまま行われる四限の講義は、紘子と一緒だった。講義が始まる前、ひょっとしたら元々の知り合いを自分が忘れているだけかと思って「ねえ、ミヤコっていう子知ってる? 高校の同級生とかにいたっけ?」と左隣に腰掛けた紘子にも小声で尋ねてみたが、紘子は聞いたことないよ、と目を丸くして首を振るばかりだった。そっか、と頷いて、私の右隣の空席に行儀良く足を揃えて座っている宮子の様子をそっと窺う。宮子は片耳に手を当てて、静かに窓の外の雨を眺めているようだった。  ――宮子はおそらく私の元々の知り合いではないし、私と出身地が同じなわけでもない。それならこの子は、どうしてこの町に現れるようになったんだろう。  四限の講義が終わったあと、私は考え込みながら講義棟のラウンジを歩いていた。人がある程度はけるのを待ってから講義室から出てきたため、幸い、ラウンジの人影は疎らだ。宮子を大学に連れてくるようになってから身に染みて分かったことだが、当然宮子の声は私にしか聞こえていないので、一人で会話している怪しい奴に見えないように学内で宮子とコミュニケーションをとるのは、地味に骨が折れることだった。私は念のため周りに人がいないことを確認して、「今日の講義、面白かった? なにか思い出したこととかある?」と宮子に話しかけてみる。宮子は少し考えてから、さっき車が走る音が気になって、それが耳に残っていると答えた。 「車?」  確かに、先ほどまで私たちがいた講義室は道路に面しているから、濡れた路面を走る車の音がときどき遠くに聞こえていた気もする。でも、雨のために窓が閉まっていて、教授の声も聞こえているという環境下では、普通に考えればそんなに印象に残るほど大きな音ではなかったはずだ。今日は教授がずっと口頭で説明するタイプの講義だったし、車が出てくる映像を見る時間があったわけでもない。  それでも、宮子は車の音が妙に気になったと言う。それこそ、耳に手を遣って音を遮断したくなるくらいに。それなら……もしかして、亡くなる直前に聞いた音が車の音だったのかもしれない。  ――例えば、雨の日の交通事故とか?  有り得そうな話だ。確か、十代の死亡者数は、病気よりも事故のほうが多かったはず……。そこまで考えて、私は北側の扉から講義棟を出るのをやめ、急に立ち止まって進行方向を変える。 『イブちゃん、どこ行くの?』  宮子の声にちらりと振り返って、すぐに着くよ、と小声で答えた。  私が向かったのは、講義棟の南側の隣にある学内の図書館だった。適当にピックアップして借りてきた新聞のアーカイブを両手いっぱいに抱え、資料室の長机に腰掛ける。  宮子が私と同じくらいの生まれ年であれば、一番ヒットする可能性が高いのは、私が中学生だった頃……五年前から七年前くらいの記事だ。私は更に情報を絞り込むために、声を小さくして「宮子、そういえばお誕生日って覚えてる?」と質問した。机の上に広げられた新聞を興味深そうに眺めていた宮子は、斜め上に視線を遣って考え始める。 『えーっと。確か小学校の頃のクラスメイトの子が、宮子ちゃんはクリスマスとお誕生日のお祝いを一緒に出来るんだねー、って……』 「なるほど。ってことは、十二月二十四日とか、二十五日とか、その前後だね」  私にイブちゃんというあだ名をつけておきながら、実際は宮子のほうがイブ生まれだったのかも。そう考えながら、紙面をめくっていく。中学二年生の記憶が途中までしか無いという話から、宮子が亡くなったのが夏か秋頃までのどこかの時点であると仮定すると、まだ誕生日を迎える前なので十三歳ということになる。 「タカガキミヤコさん、当時十三歳、死亡記事……」  目を皿のようにして探しても、全国紙にはそれらしき事故または事件の記事は見当たらなかった。次は地方紙だ。私は宮子の出身地を絞り込むために何か質問を重ねようとしたが、そのとき、たまたま一番上にあった地方の新聞の一面に、小さく顔写真が載っているのが目に入った。今から六年前の二〇〇七年六月二十七日、T県○×市。雨によるスリップが原因の自動車事故に、下校途中の女子中学生が巻き込まれる。被害者は、櫻町中学校に通う高垣たかがき宮子みやこさん(13)。速やかに病院に搬送されたが、間もなく死亡を確認――。  私は間違いが無いように、記事の内容を何度も読み返した。宮子も横から同じ記事を覗き込んでいる。そっと隣を窺ってみると、自分の死亡を知らせる記事を読んでいるわりには、宮子の表情は意外に冷静だった。動揺を無理に抑え込んだり我慢したりしているという風にも見えない。きっと、命が無くなってしまったことそのものに対しては、もう気持ちの整理がついて受け入れられているのだろう。強いな、と内心で思っていると、宮子はどこか茫洋とした声で一言だけ呟いた。 『そっか。T県か……』  事実を確認しても、自分の出身地には今ひとつピンときていないようだ。それもそのはず、T県からこの町まで来るには、四百キロメートルをゆうに超えるほどの大移動をしなければならない。加えて、宮子自身はこの町には縁もゆかりも無いという。念のため私もこれまでの記憶を探ってみたが、祖父母の田舎なども含めて、T県○×市という地名に特に心当たりは無かった。地図などではおそらく目にしたことがあるだろうが、意識して名前を聞くのは初めてだ。それなのに、宮子の魂は何故か地元のT県ではなくこの町に引き寄せられ、あの日、私の前に現れた。その理由がどうしても分からなかった。幽霊である宮子の姿を知覚することができる人間が私しかいなかったから、というのもおかしい。霊感を持っている人間という条件だけであれば、それこそ日本中どこにでもいるだろう。  新聞記事の中の白黒写真に収まって笑っている、本当は私と同い年の高垣宮子さんと見つめ合い、この町にやってきた理由を心の中で尋ねてみる。当然、返事は無い。……この手詰まり感は、もう少し別の方向から調べてみないと打破できないかもしれない。そう考えて小さく嘆息したとき、隣で宮子がはっと息を呑む気配がした。 「宮子? どうし……」  一点に固定された宮子の視線を追った先に居た人物を見て、私は思わずああ、と呟いた。その人物がよく知った顔だったからだ。ふと彼と目が合ったので、視線だけで軽く挨拶する。彼が長机のほうに近付いてくるのを見計らい、私はここが図書室であることを考慮して「お疲れ」と静かに声を掛けた。 「渡瀬くんも調べもの?」 「月島先輩。どうも」  そうなんです、レポートの締め切りが近くて。一年生って思ったよりめっちゃ授業詰まってますね。渡瀬くんはひととおりそんな話をしてから、じゃあまたサークルで、と片手を上げて、用事があるらしい向こうの書棚のほうに向かって行った。  軽い雑談を終えたあと、私はあれ、と違和感に気付く。確かにこのあいだサークル活動はあったけれど、あの日は一日じゅう曇りで、宮子はいなかったはずだ。彼女は雨の日以外の記憶は無いと言っていたから、晴れているときや曇っているときに起こった出来事を宮子は知ることができない。それなのに、どうしてサークル活動でしか接点の無い渡瀬くんのことを……。  その疑問を声に出す前に、隣にいる宮子がいきなり私の腕を引いた。強引ではないが、なんだか助けを求めているような切実さを感じる引っ張りかただった。 「ちょっと、宮子?」  小声で宮子に話しかけながらも、彼女の様子にただならぬものを感じて、私はそのまま宮子が自分を連れて行きたい方向に任せることにした。宮子は走り出しそうなくらいの早足でどんどん歩を進めた。  宮子が私を連れてきたのは、二階の視聴覚室に上がる階段の裏側、デッドスペースになっている薄暗い空間だった。なるほど、ここなら目立ちにくいし、会話の声で読書をしている他の学生の邪魔をしてしまうこともなさそうだ。この空間は図書館のエントランスから資料室までの一本道から見える位置にあるため、宮子もさっき図書館に入るときに目にしていたのだろう。  暗い照明の下で宮子が振り返ると、彼女の大きな硝子玉のような目のふちに涙が溜まっていた。私の腕からそっと離した手の先も震えているように見える。 「大丈夫? どうしたの」  私はひとまず宮子の背を撫で続け、文字どおり氷のように冷たい彼女の手を出来るだけ優しく握った。しばらくすると宮子の呼吸も徐々に落ち着いてきて、話し始めるための心の準備もある程度出来たようだった。彼女はまるで涙を振り払うように首を横に振った。 『違うの。大丈夫。悲しいとかじゃない。ただ、ちょっと、びっくりして……』  宮子の説明によると、さっきあまりにも多くのことを急に思い出しすぎたので、咄嗟に処理できなかったぶんが涙に形を変えて溢れてきてしまったということらしい。さっきというのは、私が違和感を覚えたとおり、渡瀬くんと偶然会ったときのことに違いない。もしかして彼と元々知り合いなの、とこちらから訊くまでもなく、宮子は睫毛を伏せてそっと呟いた。 『さっき会った人――渡瀬くんね、同級生なの。中学校の』

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 そっか、そっちか……と呻き、私は納得しながらも頭を抱えた。 「そうだ、渡瀬くんって私と同い年だ。ああ、それに、いま思えば、新歓のときにT県出身だって言ってた気がする……」  よく話す同学年のサークル仲間の数人には、練習の合間にそれとなく宮子のことを訊いてみてはいたけれど、ひとつ下の学年の渡瀬くんは完全に盲点だった。高校までならともかく、大学の一年生はほぼ全員が十八歳というわけではないし、一度社会人を経験してから大学に入り直した学生もいる。同じサークルの同学年のあの子やあの子もそういえば実年齢は一個上だけれど、普段は特にそれを意識して接したりはしない。あまりに意識しないがゆえに、その可能性が頭から抜けていた。  ともあれ、これで宮子がこの町に現れた理由も、ついでに昨年の梅雨には姿が見えなかった理由も判明した。特に私やこの町との接点があったわけではなく、今年渡瀬くんがこの町の大学に入学して下宿をし始めたから、現在彼が居る町に現れたということなのだろう。それで、たまたま彼の周辺に居て霊感を持っている人間という条件を満たした私と目が合ったのだ。 『渡瀬くんとは、中二のときに同じクラスでね。それで……結局最後まで伝えられなかったことがあるから、それを伝えたいんだ』 「伝えられなかったこと?」  尋ねると、宮子は元から私以外の誰にも姿が見えないし声も聞こえていないというのに、急にきょろきょろと忙しなく辺りを見回し始めて、内緒話をするときのように手を口の横に当てて私に耳打ちした。 『あの……ね、放課後にコクハク? してくれて。あたしは当たり前に明日も会えると思ってたから、明日返事するねって言ってその日は別れたんだけど、ちょうどその日の下校途中に車に轢かれちゃったの』 「そっか……」  それは確かに心残りだったことだろう。宮子が何年も彷徨って渡瀬くんを探していた理由に納得し、私は目を伏せて頷いた。同時に、あの雨の日のランチのときに渡瀬くんが暗い顔をしていたことにも合点が行った。好きな子の命が永遠に奪われてしまったことと紐づいている“雨の日”に良い印象を持てというほうが無理な話だ。  そのあと、私は宮子と何度か相談を重ねた上で、近々渡瀬くんと学内で待ち合わせをする予定を取り付けた。私たちはふたりとも金曜の四限が空きコマで、ちょうど渡瀬くんが三限の講義を受けている少人数用の講義室が空きそうだということだったので、そこを使わせてもらうことにした。私にとって、渡瀬くんはサークル内でよく話すグループの一人ではあるけれど、彼と二人だけで長く話したことはあまりない。そんな関係性の私から突然誘いの声をかけられて、彼も最初こそ不思議そうにしていたものの、「実は、高垣宮子ちゃんのことで話したいことがあって」と理由を説明すると、神妙な顔で「分かりました」と頷いてくれた。  概ね天気予報どおり、金曜は朝から雨だった。夕方から夜にかけては雨が弱まったり止んだりする可能性もあるとのことだ。私はいつものように宮子と一緒に三限の講義の受講を終えると、その足で隣の講義棟の突き当たりの空き講義室へと向かった。  既に四限の講義が始まっている講義棟の中は、しんと静まり返っていた。開けるね、と隣の宮子に短いアイコンタクトをして、講義室のドアノブを引く。渡瀬くんは既に講義ノートか何かを眺めながら待っていた。  待たせてごめん、と声をかけると、彼はわざわざ立ち上がって、「いえ全然。お疲れ様です」と軽く頭を下げた。私もなんとなく立ったままで彼と向かい合う。先に話し始めたのは渡瀬くんだった。 「あの、それで……おれ、不思議に思ってたんですけど、さっそく聞いてもいいですか? なんで高垣のことを知ってたのかって。先輩は確か、全然別の地方の出身ですよね」  私はうん、と相槌を打つ。彼にしてみれば当然の疑問だ。 「そのことなんだけど。実は、ここに……」  その先を続けようとして、三秒躊躇った。 『――嘘つき』 『気持ち悪い』  頭の中で“声”が鳴り響く。今やらなければならないことは分かっている。宮子の思いを叶えて彼女を天へ送ってやるためには、私が霊感を持っていて高垣宮子の幽霊が今まさにここにいることを、まずは目の前の人間に信じてもらわなければならない。分かっていても、頭の中で聞こえる“声”が私の喉から声を出すことを阻んだ。 「……もしかして、居る、ってこと? 高垣が」  室内を包む静寂のなか、半信半疑のような口調ながらも、それを先に言葉にしたのは渡瀬くんのほうだった。私は目を見開いてはっと顔を上げ、ゆっくりとひとつ頷く。 「信じてくれる?」 「いや、信じたいですけど、うーーん……」  渡瀬くんは戸惑うように顎に手を遣って考え込んでしまった。それはそうだろう。彼の気持ちも十分わかるが、私のほうも、どうすれば宮子がここに居ることを客観的に証明できるのかが分からず、途方に暮れた思いだった。  そのとき、横からじっと私を見つめる視線を感じた。隣にいる宮子の視線だ。ただ、宮子は私の目や顔というよりも、肩の下まで伸びている私の髪に注目しているようだった。それを不思議に思って、思わず宮子のほうを振り向く。すると、宮子は純粋な好奇心の滲むのんびりとした声で私に提案した。 『ねえ、イブちゃん。髪、三つ編みにしていい?』 「は?」  突拍子もないことを言い出す宮子にそう訊き返すと、彼女は『柔らかくてきれいな髪だから、ヘアアレンジしやすそうだなと思って』と続けて理由を説明したが、いま欲しいのはそういう説明ではない。私がそう口を開く前に、宮子は既に私の髪の左側半分を持ち上げて、二つ括りの三つ編みをつくろうとしていた。 「もう、自由なんだから……」  色々な意味で説得を諦めて渡瀬くんのほうに向き直ると、彼は豆鉄砲を食った鳩のように目を丸くして私を見つめていた。正確には、私の髪の先の辺りを見ている。私はそこでやっと思い出した。今この光景は、彼の目線では「目の前の人間の髪がひとりでに持ち上がって三つ編みされていく様子」に見えているはずだ。 「ほんとに、高垣……?」  彼の声は心なしか震えている。それを聞いて、宮子は私の髪からそっと手を離し、『うん。そうだよ』と微笑んで頷いた。私はひとまず、「うん、って返事してる」と宮子の言動をそのまま彼に伝える。  けれど、ここからは、ただ宮子の言葉を私の口から伝えるだけでは足りないだろう。私は胡散臭い霊能者のようには見えないように、慎重に言葉を選んで説明した。 「えっと、そしたら、宮子ちゃん自身に話してもらうね。少しの時間だけだったら、人の身体を使って話せるってことだったから」  隣にいる宮子と目を合わせて頷き合う。渡瀬くんがまだ少し戸惑い気味に頷くのを待って、私はその場で目を閉じた。あとは、宮子が私の意識の中に入ってきてくれるそうだ。しばらくそのまま待っていると、妙な浮遊感とともに、だんだん意識が遠のいてきた。  宮子から事前に聞いた話によると、彼女が私の身体を動かしているあいだ、私の意識は残るのか残らないのかよく分からないということだったけれど、結果的には、月島伊吹としての自我はうっすらと残ったようだ。私はずっと意識に薄い紗がかかっているような感覚に若干の居心地の悪さを感じながらも、遠くのほうで小さく聞こえる自分の声――今は“宮子の声”に耳を傾けた。宮子と渡瀬くんの二人きりの会話を聞いてしまうのは悪いかと思ったが、自分の思い通りに身体を動かせない状況である以上、耳を塞いだり声を聞かないように意識を逸らしたりすることも難しかった。ちなみに、視界は真っ暗で、宮子の耳には聞こえているのであろう渡瀬くんの声は私には聞こえなかったので、本当に宮子が話していることだけが一方的に聞こえてくる状態だ。  頭の中の声はときどきぼやけたり途切れたりしており、聞き取りやすいとは言えなかったが、それでも、聞こえてきた宮子の話は概ねこんなふうだった。 『久しぶりだね』 『あんまり長居するとイブちゃんの身体に負担が掛かっちゃうから、言いたいことだけ短く言うね』 『渡瀬くん。あの、改めて……あの日ね、声をかけてくれて、ああいうふうに言ってもらえて嬉しかった。なんていうか……あたし自身のことを初めて見つけてもらえた気がしたの。存在意義って言うのかな。生きてる意味あるんだって、生きていて良いんだって言ってもらえた感じ。あたし、お家でいろいろあって。そのことを、友達にも先生にも、誰にもずっと相談できないでいたから』 『でも、あのときはその気持ちをうまく言えなくて、返事を翌日に後回しにして逃げちゃった。そのことが心残りだったの』 『あと、タイミングがタイミングだったから、渡瀬くん、自分のせいかもとか気にしてたりしないかなって、ずっと心配だった。あたしのことを思い出してくれるたびに、ザイアクカンみたいなものを感じさせているとしたら、それは絶対嫌だったから。だから、あたしは多分、これを言いたくて、この世に残っていたんだと思う。あの日の事故のことは、単にあたしがドジだっただけなんだから、本当に気にしないでね』 『ありがとう。また遠い未来に、あっちで待ってるね。……ばいばい』  私はゆっくりと目を開けた。目はちゃんと開いているはずなのに、まだ視界が濡れてぼやけている。頬に触れてみると、目から雫が流れてきて指先が濡れた。これは宮子の涙ではない。話を聞いていた私自身の涙だ。  目覚めた途端にひとりでに流れていた涙に戸惑っていると、急に足から力が抜けて、私はその場に尻餅をついた。身体を動かす主体が宮子から私に切り替わった反動のようだ。渡瀬くんと宮子が慌てて両側から手を引いて私を立ち上がらせてくれた。私はもう一度手で涙を拭った。渡瀬くんは、困ったような、けれど半分くらい共感するような目をして、それを静かに見守っている。  涙はなかなか止まらなかった。いま、宮子の話に共鳴しているのは、きっと十四歳の頃の私だ。母からの拒絶。周囲からの不信と、私を遠巻きに伺う視線。誰もいない吹きさらしの外階段に腰掛けて一人で昼食のパンを齧っていた日――。それらの記憶の欠片が頭の中に順に浮かび上がっては雪のように解けて消えていった。  啜り泣きだけが響く時間がしばらく続いたあと、私の呼吸があらかた落ち着くのを待って、渡瀬くんははにかんだ微笑とともに軽く頭を下げた。 「あの、先輩、ありがとうございました。高垣ともう一度話をさせてくれて」  それから、場の空気を和ませようとしてくれているのか、どこか宮子と似たのんびりとした調子で、思い出したように付け足す。 「さっき、本当に高垣が話してたみたいでしたよ。不思議な時間でした」 「ほんと? 話しかたとか雰囲気とか、全然違ったでしょ」 「ああ、まあ、話しかたは確かに。でも、声が……」 「え?」  私は目を瞬く。渡瀬くんは頭の後ろに片手を遣って続けた。 「おれが高垣のことをよく思い出すようになったの、大学に入ってからなんです。で、そのきっかけっていうのが……実は、先輩の声が記憶の中の高垣の声質とちょっと似てて」 「そうなの?」『そうなの?』  私と宮子の声が輪唱のように遅れて重なる。渡瀬くんは「先輩が高めの声で話すと、わりとまんまですね」と少し笑って頷いた。自分の耳に聞こえている声と周りに聞こえている声は異なると言うから、私はふたりの声の類似性に今まで全く気付いていなかったし、同じ反応をしたところを見ると、おそらく私と同じ理由で、宮子のほうも気付いていなかったのだろう。私は、「今年渡瀬くんがこの町の大学に入学して下宿をし始めたから、宮子の魂が幽霊になって、現在彼が居る町に現れた」という当初の予想を頭の中で少し修正しなければならなかった。実際は、私の声を聞いて渡瀬くんが宮子のことを思い出し、宮子はきっと渡瀬くんに思い出されたから、この町に現れることができたのだ。  話しているうちに、いつの間にか涙も収まって、講義室の窓の外から聞こえる雨音もごく小さいものになっていた。  私と宮子は、講義棟と講義棟の間の中庭に設けられた休憩スペースに移動し、緑の蔓を伸ばす藤棚の下で互いに向かい合った。雨は既に小雨程度に落ち着いており、傘は必要なかった。 『イブちゃん。色々助けてくれて、本当にありがとう』  ううん、と微笑んで首を振る。私はそこで初めて、宮子の服装が変化していることに気付いた。櫻町中学校の制服というところは同じだが、紺色の冬服から白基調の夏服に変わっている。一体いつ変わったのか、改めて正面から彼女の服装を目にするまで気付かなかった。半袖から伸びる宮子の白い腕には、痛々しい打ち身の痣や、煙草を押し付けられたような火傷の跡がいくつもついていた。  私はふた呼吸ぶん躊躇ったあと、出来るだけ明るく聞こえるように、「ねえ」と宮子に話しかけた。 「今こんなこと言ったって仕方ないし、叶わないことだけどさ。私、中学生のときにあなたと出会って、友達になっていたかったな」  すると、宮子は硝子玉のような丸い目をもっと丸くしたあと、少し考えて、また突拍子もないことを言った。 『イブちゃんが通ってた中学校って、どこらへん?』 「え? なんでそんなこと……」  それでも、S県の△△町っていうところだけど、と私が一応答えると、宮子は満足そうに頷く。 『じゃあ、あたしの魂が天国にのぼるまでにもし時間があったら、そこまでびゅーんと飛んでいって、あたしと同じ中学二年生の頃のイブちゃんを見つけて、友達になろうって言いに行くよ。だいすきだから、お友達になってください、って』  そう言って笑みを深めた宮子の隣に、一瞬、十四歳の頃の私自身の姿が二重写しになって見えた。あの日、怯えるような目をしていた彼女は、今は穏やかな笑顔を浮かべている。けれど、もっとよく見ようと目を凝らした途端、そのまぼろしは霧雨のなかに溶けるように音も無く消えてしまった。  私は一度ゆっくりと瞬きをしてから、あらためて宮子に「うん」と微笑む。宮子はふと斜め上を向いて空を仰ぎ、雨の様子を確認した。空には光が差してきており、霧のような雨ももうじき上がりそうだ。宮子はそれで“時間が来た”ことを察したようで、私のほうに向き直って、名残惜しそうに小さく手を振った。 『それじゃあ、行くね』  寂しげな微笑だったが、最初の日にベランダで目が合ったときのように、悲しそうではなかった。私は約六年の時を超えて出来た新しい友人に、親愛を込めて「さよなら」と呟く。次に瞬きをしたとき、既に宮子の姿はどこにもなかった。雨が上がったのだ。  私は藤棚の端まで移動して、先端に水滴を湛えた藤の葉越しに空を見上げた。南東の空は雲交じりの白藍色で、雨上がりの薄明るい光が辺りに満ちている。ふと東のほうに目を投じると、空のこちら側とあちら側との境界線を引くように、淡い色の虹がかかっていた。私は久しぶりに明るい空を仰いだ眩しさに目を眇め、そして、東の空の虹がやがて消えてしまうまで、いつまでもいつまでもその景色を眺めていた。 *  それから週末を二度挟んでの月曜日。私はまた三限の空きコマを利用して、サークル仲間と一緒に食堂で昼食を摂っていた。ムードメーカーの三年生が、カレーライスをスプーンで掬いながらがっかりしたような口調で嘆いた。 「あーあ。このあいだニュースで梅雨が明けたって言ってたのに、今日また雨だね」  約ひと月前のあの日と同じ光景だ。集まった面々も、洗濯物が乾かないとか、自転車が使えないからバスで移動しなきゃならないとか、雨に対する愚痴を口々に言い合っている。  そのなかで、私と同じ二年生の女子が、ふと気付いたように私の脇腹を小突いた。 「伊吹、何かあったの。あんたも雨のたびに嫌そうな顔してたのに、今日はそんなことないじゃない」  私は咄嗟のことに声を詰まらせつつも、一拍置いて目元を緩めた。 「……うん。雨もたまにはいいかな、って」  食卓の面々を見渡したときに、渡瀬くんと自然に目が合った。彼もわずかに微笑んで、頷きで同意を返してくれた。  今日は朝から雨が降っていたが、宮子は私のもとに現れなかった。この先の雨の日も、来年の梅雨になっても、もう彼女がこの世に現れることはないだろう。全く寂しくないと言ったら嘘になるけれど、それでも、きっと、そのほうがいい。  他にひと月前から変わったことと言えば、あの日以来、私は渡瀬くんとしばしば二人で話すようになった。それから、雨が降るたびに聞こえていた“声”に悩まされることもいつの間にかなくなっていた。  食事を終えてめいめい傘を開き、次の講義へ向かう。その途中で私は一度立ち止まり、傘を少し傾けて空を振り仰いでみた。――雨が降るたびにあの子のことを思い出せるのなら、たまにはこんな天気も悪くはない。  空には薄灰色の雲が広がり、しずかに小雨が降り続いていた。
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