俺は右手に軽く力を入れてドアノブを回し、少し軋む扉を開いた。楽器倉庫兼部室の扱いになっているこの部屋は、相変わらず雑然としている。万が一にも楽器に傷をつけるわけにはいかないので、両側の棚が肩などに触れないように慎重に部屋の奥の窓側へと向かう。そして備え付けのCD棚からいくつか目当ての音源を見繕い、事務作業用の机に広げた。
「……サンチョ・パンサ。サンチョ・パンサなぁ……」
独り言を吐き出しながら、ドイツの有名なオケの音源を選んでCDコンポにセットする。薄いホワイトノイズとともに、冒頭の序奏がごく静かに滑り出すように流れ始めた。CDコンポのすぐ傍のパイプ椅子に腰掛け、雑然とした事務机に頬杖をついて総譜を一ページめくる。俺が確認したいソロ部分はまだ少し先だ。目当ての部分を待つ間に、ふと右手の壁棚を振り返ってみたときだった。
「……ん?」
棚の上から三段目の奥のほうにちらりと見えた謎の物体に目が留まった。それは楽器ではない。いや……打楽器なんかは一見楽器に見えない雑貨まで持ち出してきて手作りの楽器を拵えることもあるくらいだし、楽器ではないと決めつけるのは早計か。とにかく、この楽器庫においては普段見慣れない形状の物質であることは確かだった。
俺は自分の目の高さほどの棚へと指を伸ばし、濃い茶色と黒という渋い色味の機械のように見えるその物体の表面を軽く撫ぜてみた。埃はさほど積もっていない。次に、両手で慎重にその機械を包んで持ち上げ、何かコード等が繋がっていないことを確認しながら事務机に下ろす。そこでその謎の物体と初めてまともに相対した俺は、しばらくそれをまじまじと眺めて、それから瞬きを何度か繰り返した。
「…………」
その機械は正真正銘タイプライターだった。ワープロが登場する前は活字記述ツールの主流だったという、キーをカタカタ押して文章を印字していくアレだ。さほど重くはなかったが、重厚感の漂うアンティークなモデルで、モノとしても随分年季が入っているように見える。
いや、なんでこんなものがここにあるんだ。ここ、管弦楽団の部室だぞ。……ああ、もしかしてルロイ・アンダーソンのタイプライターを演奏するためだけにどこかから借りてきたのか? いや、俺の知る限りでは、うちの楽団で近々『タイプライター』を演奏する予定は特に無いはず……。俺の脳裏に一瞬にして様々な疑問が浮かび、そしてすぐに泡のように消えていった。
机の上のタイプライターと無言で向かい合うこと数分。背後で急に大きくなったオーケストラの音楽に、俺ははっと我に返った。ソロが終わって全員演奏に移り、全体の音量が急に上がったのだ。俺は慌てて振り返り、CDコンポの一時停止ボタンを押した。
部屋の中はやにわに静まり返る。窓は閉まっていて外の音は聞こえないから、俺が何か音を立てない限りは基本的に無音の状態が続く……はずだ。ところが、部屋が静まり返ってからどのくらい経った頃だったろうか。俺の耳はふと微かな機械音を捉えた。
──どこからだ?
机に手をつき、首を巡らして音の出所を探す。やはり、部屋の中で何かが動いている気配は無い。ただの気のせいか……? 探すのを諦めて手元に視線を落としたそのときだった。俺は一秒ほどその場で停止し、それから反射的に自分の手を机から引っ込めた。なぜなら──タイプライターの上部からひとりでに紙らしきものが吐き出されていたからだ。それは見慣れた真っ白なコピー用紙ではなく、少しくすんだ色がついた藁半紙や洋皮紙のようなものに見えた。
「え……」
戸惑っているうちに、いつの間にか紙が吐き出されるのが終わって、辺りに再び静寂が訪れた。俺は恐るおそるその紙を確認してみた。──何か印字されている。よく見てみると、そこには英語でこう書いてあった。
『ああ、せっかく良い音だったのに。シュトラウスかい?』
国際学部在学中の俺にとってはまあ全然ついていけるレベルの英文だったので、とりあえずそういう意味ではほっとした。なぜ英語なのかの答えは明白だ。このタイプライターが日本語入力ではなく英文モデルで、アルファベットしか入力できないからだろう。俺はもう一度辺りを見回し、自分以外に人間の姿が見えないことを確認しながら英語で呟いた。
「なんだよ……。誰かいるのか? 俺に見えてないだけ?」
返事は無い。……あ、もしかして、こっちからも文字でコミュニケーションとったほうが良いとか? そう考えてタイプライターに手を伸ばしかけたそのとき──俺は自分で触れる前にYのキーがひとりでに押下されたのを確かに見た。次がE、その次がA。ひとつキーが押されるごとに、機械の中央で半円形を描くハンマーがピアノのようにリズミカルに一本ずつ持ち上がり、紙に一文字ずつアルファベットを印字していく。藁半紙の紙が数行ぶん余分に出力され、また青っぽい黒インクで書かれた英文が現れた。
『ああ、ここにいる。おそらく姿は見えないだろうし、触れられもしないだろうがね』
それを見て、無意識にタイプライターの目の前の空間に指を伸ばしてみる。だが、やはり予想通り、俺の指は虚しく空を掻いただけだった。
「…………」
俺は一旦押し黙り、情報の整理を試みた。見えないし質量も無いけれど、確かにここに誰かが居る。その“誰か”はどうやらこのタイプライターを介してのみ俺と意思疎通ができるようだ。俺以外とでも同じことが出来るのかは分からないが、差し当たり、こんな非現実的なことを人に話す勇気は俺には無いと結論づけた。頭がおかしいと思われて敬遠されるか、良くて心配されるのが関の山だ。
次に、俺の目の前でタイプライターを打っている(らしい)人物について考えた。当然ながら、この機械を使い慣れている人物。タイピングの澱みなさからもそれは窺い知れる。年齢や性別は──せめて手書き文字のように筆跡が分かれば、ある程度類推もできるのに。そこまで考えたところで、俺はかすかな引っ掛かりを覚えた。先ほどはタイプライターがひとりでに動いて印字しているという現実を受け入れるのに精一杯で気付いていなかったが、紙に出力された単語の選び方が少し古めかしいように思えた。ある程度年齢を重ねた人物なのか、或いは──。そこまで考えたところで、またタイプライターのキーが自動的に押下されて、新しい文章が紙に出力された。
『ところで、ここは何処かね? ニューカッスルではないようだが』
ニューカッスル……イギリスか。実在する地名が出てきたことに俺は内心胸を撫で下ろした。
「……そこがあんたの故郷なのか?」
まだ若干様子を窺いながらも、話しやすいようにパイプ椅子に斜めに腰掛ける。相手はほとんど躊躇わず『ああ』と答えた。
「だとしたら、だいぶ遠いな。ここは日本だ。カンサイチホウの大学の課外活動の部屋」
俺が答えるやいなや、すぐさまタイプライターのキーが動き始める。その打鍵音はやけにリズミカルで、何だか本当に演奏をしているみたいだと思った。
『そうか、日本か! 有難いよ。生前はついぞ辿り着けなかったものでね。一度訪問してみたかった。ああ、日本の景色がどんなふうかを直接見られないことは残念だが』
行間から高揚が伝わる文章だった。生前は、ということは、目の前にいるらしい人物は、やはり既にこの世には居ない存在なのだ。そして、もうひとつ分かったことは、彼または彼女はタイプライターを操作することはできるけれども、周りの様子を視覚的に把握することはできないということだ。目の前にタイプライターだけがある真っ暗な部屋で文章を打っている感覚だろうか。
「……このタイプライターは?」
『私のものだ。これを使って旅行本を書くことを生業としていた。目覚めるまでの記憶は無いが、おそらく私の死後、妻か子孫の誰かが売りにでも出したのだろうな』
なるほど……と口の中で呟く。今で言うトラベルライターみたいな感じか。彼が西暦何年代の人なのかは分からないが、このタイプライターは元の持ち主であった彼の家族を介して誰かの手に渡り、紆余曲折を経てこの日本の地方都市の大学の管弦楽団に辿り着いたというわけだ。俺がその辺にあったペンをくるくる回しながらそう考えを巡らせていると、また新しい文章が出力された。
『私は生涯を通して様々な国や地域をたびした。地中海、アフリカ、中東、南米……。次は日本にと思っていたのだが、その前に寿命が来てしまった。それを心残りに思っていたのだよ。日本は古い友人の出身国でね』
俺はへえ、と相槌を打つ。少々面食らったことは態度にも声色にも出さず、相手にもう少し話を促してみることにした。
「旅にはどんな思い出が?」
『そうだな……』
彼は本格的に話し出す前に、『申し遅れたが』と前置きしてアーノルドと名乗った。俺も名乗ろうとしたが、俺が口を開く前に次の文章が出力されたので、俺は一旦口を閉じて文章を読むのに集中することにした。ペンを回していた指はいつの間にか止まっていた。
「旅にはどんな思い出が?」
『そうだな……』
彼は本格的に話し出す前に、『申し遅れたが』と前置きしてアーノルドと名乗った。俺も名乗ろうとしたが、俺が口を開く前に次の文章が出力されたので、俺は一旦口を閉じて文章を読むのに集中することにした。ペンを回していた指はいつの間にか止まっていた。
『五十歳頃に訪れた中東のA国では、×××という料理が格別でね』
「へえ、聞いたことない。食べてみたいな。日本にもそれに似てる料理あるのかな」
『F国では、私が友人の形見の品を落としてしまって困っていたところを助けてくれた夫婦がいてね。最後は泣いて別れを惜しむほど親しくナった』
「良い出会いだ。旅の醍醐味だね」
『X国では、ちょうどある街で祭りの最中だっ んだ。その熱狂といったらなかったよ』
「あ、それ、俺でも知ってるかも。わりと伝統ある有名な祭りだ。えーと……ヨーロッパのどこかの美術館に、その祭りをモチーフにした絵画が飾られていなかったっけ」
彼の話はどれも興味深いものだった。相手はタイプライターでの筆談でこちらだけ音声という少し妙なキャッチボールなのに、アーノルドの話術の巧みさも相俟って、いつの間にか時間を忘れるほど話し込んでいた。既に話し始めてから三十分近くも経っていたようだ。
時計を見るために体勢を変えたとき、ちらりと背後のCDコンポが目に入った。それで俺はそもそもアーノルドの最初の質問に答えていなかったことを思い出し、「あ、そうだ」とタイプライターのほうに改めて向き直った。
「そういえば、シュトラウスを?」
よく知っているか、という意図でそう水を向けてみると、すぐに返答があった。
『ああ。ドン・キホーテだろう。祖父が趣味でチェロを弾いていてね。私は演奏はサっぱりだが、祖父の演奏やレコードでよく聴いていたものだ』
彼はそう書いたあと、『先ほどのレコードはキミのものかね』と続けた。俺は相手に伝わらないと知りながらも、いつもの癖で首を横に振った。
「いや、大学の備品だよ。ここは管弦楽団の部室なんだ。さっき聴いてたのは楽曲研究のため。今度の春夏期の演奏会で、俺がヴィオラのソロを弾くから」
アーノルドは、『ほう、ヴィオラか』と感心したように相槌を打った。いや、感心したようにというのは、選択された単語や雰囲気からの勝手な推測に過ぎないが。
そう、うちの楽団の次の定期演奏会の目玉となるのは、“交響詩 ドン・キホーテ”。この楽曲はチェロとヴィオラのソリストが重要な位置を占めており、それぞれチェロが主人公のドン・キホーテ、ヴィオラが従者のサンチョ・パンサ役を演じる。チェロのソリストは、チェロパートの中でも飛び抜けて実力の高い一学年上の女性の先輩だ。そして彼女と並び立つヴィオラのソリストは、この春からヴィオラパートの首席奏者を務める俺が担当することになった。
そこまでを掻い摘んで説明し終わると、自分でも知らないうちにわりと重苦しい溜息が漏れた。それを聞き逃さなかったらしいアーノルドは、タイプライターのキーをまたカタカタと忙しく動かし始める。
『何をそれほど倦むことがあるのかね、若者よ。私は楽団の事情に明るくはないが、想像するに、ソロポジションを任されるというのは一般的には名誉なことなのではないのかね。キミはさぞ才能のある弾き手なのだろうと見受けるが』
ちなみに何故俺を若者と判断したのかというと、大学生という情報に加えて、明らかに声が若かったからだそうだ。俺は彼との会話の中でときどき「この人ちょっと面倒だな」と感じつつも、話を聞いてくれようとする気持ち自体は有難いと思ったので、先ほどの溜息の理由を順を追って説明していくことにした。
うちの管弦楽団のヴィオラパートには、俺と同学年で俺と同じくらいの実力を持つ弾き手がいる。……いや、正確には“いた”。過去形だ。彼は現在もヴィオラパートに所属しているが、三年生に上がった途端、中途退団した学生指揮者の穴を埋める形で指揮者に転向することになったのだ。これまで俺と争っていたヴィオラ首席奏者の座をあっさり捨てて。
『……成程。その彼はキミにとって良きライバルであったわけだ。実力で首席奏者の座を勝ち取りたかったのに、相手が急に勝負から降りたのでしゃくぜんとしない思いでいる、と』
彼の要約は悔しいほど的を射ていた。……きっと、俺は実力で正々堂々あいつを負かしたかったのだと思う。あいつも俺と同じくらいの熱量でヴィオラに向き合っているものだとずっと思っていたのに、これじゃあ、俺だけがバカみたいじゃないか。しかも、周りからもニコイチだとか呼ばれるほど頻繁に連んでいたにも関わらず、事前に相談すらされなかった。
「でも、薄々分かってたんだ。本当に才能があるのはあいつのほうだよ。俺なんて、練習量で底上げしてやっと追いついてる程度。それに比べて、あいつは天才だ」
今日だって、練習日じゃないのに誰もいない練習室にずっと篭っていて、流石に腕と指がもたなくなってきたから休憩がてら部室で音源研究でもしようと思ってここに来たのだ。
「俺なんて、ヴィオラ以外なんも無い人生なのにな。そのヴィオラすら中途半端とか、笑える」
半ば独り言のように吐き捨てた。自嘲の笑みを漏らす横で、またタイプライターが文字を刻む。
『待ちたまえよ。キミにヴィオラ以外何も無い、だって?』
アーノルドの単語の選択の仕方は、今までの彼の口調から考えると意外なほど簡潔で、彼が真剣な表情で話しているのであろうことが読み取れた。
『キミの演奏を一度も聴いたことがない私でも、流石にそれは嘘だと分かる。断言できるとも』
「…………」
俺はアーノルドのその反応を訝しんで話の続きを待った。俺の沈黙から困惑を読み取ったのか、彼は次にこんな文章を書いて寄越した。
『何故かって? キミは先ほどから、私と問題なく話ができているじゃないか』
俺はタイプライターを見つめて何度か目を瞬いた。この人は今更何を言っているのだろう。
「話ができている? 英語のことか? いや、俺と同じ国際学専攻なら、このくらい英語が出来る奴はいくらでも……」
俺が言い終わらないうちに、タイプライターの打鍵音が忙しく辺りに響いた。明らかに今までよりも書く速度が早い。早口で喋っているということだろうか。
『キミ、もしかして気付いていないのかね。自分がこの一時間足らずのうちにどれほどのことをやってのけたのかということに』
俺が何も言わないでいると、アーノルドはまた俺の返事を待たずに次の文章を打ち始めた。タイプライターから出力され続けている紙の長さは、いつの間にか机から垂れ下がって床まで届くほどになっていた。
『私は、最初こそ英語でキミに話しかけたが──それは私の母語が英語で、このタイプライターも英文モデルだからだ──途中から英語の他に、フランス語、ドイツ語、イタリア語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語……アルファベットで自然に記述可能なあらゆる言語を混ぜて話していた。ポーランド語も少し混ぜたかな。だが、キミは私の話を全て難なく理解して、常に私が投げかけた言語で正確に返答してみせた。正直、驚いたよ。いつ英語に戻してくれと言われてもおかしくないと思っていたからね』
──そう、俺がアーノルドと話していて少々面食らったり、ときどきちょっと面倒だなと感じていたのは、別に彼の話の内容自体に戸惑いや不満を覚えていたからではない。ついさっきまで英語で話していたかと思ったら次のセンテンスではいきなりドイツ語に変えてきたり、オランダで体験した出来事の話をしているのに脈絡なくスペイン語を使ってきたり、そんなふうに言語の面でずっと翻弄され続けていたからだ。ちなみに、彼の手元のタイプライターでは例えばフランス語にしか無い音声記号など特殊な文字は再現できないらしく、英語以外の言語を使ったときは、ところどころに欠けや脱字など少々不自然に見える箇所がやむを得ず発生していた。
『つまり、少年よ。私が何を言いたいかというとだね』
アーノルドは改めて俺に話しかけた。少年と言われて、俺は名乗るタイミングを逃していたことを思い出した。
「あ、はい。一応、俺、ルイって言います……」
『ほう。フランスふうの名前だな』
……おそらく、Louisと勘違いされている。俺は説明を億劫がって、敢えて訂正しないことにした。
『ルイ。キミは自分を過小評価している。私はそれについて否定したかったのだよ。キミの言う通り、確かにヴィオラの腕前がキミを上回る者もいるだろう。キミが今日やってのけたように、多くの言語を操ることができる者も世界のどこかにはいるだろう。ちょうど私のようにね。だが、それをキミと同等以上のレベルで両方できる若者はどれくらいいる?』
「…………」
俺は答えられなかった。そんなこと考えたこともなかった。アーノルドの話についていけたのも、たまたま話の内容が俺が対応可能な範囲の日常会話だったというだけのことだし……。そう口の中で言い訳をする俺を余所に、アーノルドは尚もタイプライターを忙しく動かし続ける。
『きっと、誰しも同じなんだ。私も含めてね。私よりも語学に長けた者も、私より巧みな文章を書く者も、私よりも冒険心を持って世界中を旅した者もいくらでもいた。ただ、語学と文学と冒険に強い興味を持ち、無茶なことをやり遂げるだけの向こう見ずな行動力を持ち合わせ、そして、たまたまそれを実行する資金力にも恵まれた――それらが全て嚙み合ったのは、どうやら私だけだったらしい』
だから私は、この分野で一定の名を残すことができた──アーノルドはそう続けた。タイプライターの向こうの何も無い空間に、茶目っ気たっぷりに笑う老紳士の姿が見えるようだった。
アーノルドはそれ以上何も言わなかった。俺が納得するのを待ってくれているように見えた。俺はしばらく俯いて黙り込んでから、彼に「うん。ありがとう」と答えようとして──直前で口を閉じた。この部室兼楽器庫に向かって誰かの足音が近づいてくる気配を感じたからだ。もはやこの奇妙な状況に順応しすぎてほぼ忘れかけていたが、今の俺を傍から見たら、ずっと虚空に向かって独り言を呟き続けている怪しい奴に見えるに違いない。
予想どおり、俺が口を閉じてから三秒ほど経った頃に、正面の扉がゆっくりと開かれた。俺はその三秒の間に、いかにも「自分、ただここで資料用の音源を聴こうとしていただけですけど」というような雰囲気を醸し出し、なるべく入口から見て死角になりそうな位置にさりげなくタイプライターを移動させておいた。
「あれ、累。まだ残ってたんだ?」
顔を出したのは、ちょうど俺がさっきまで言及していた──アーノルドが言うところの“俺の良きライバル”だった。
「いや、そろそろ帰るよ」
「そっか。ここの戸締まり頼んでいい?」
「オッケ」
片手を緩く挙げて掌を見せると、その意を汲んだ相手はほいと鍵をこちらに投げて寄越す。鍵は軽い音を立てて俺の掌の中に収まった。
「奥田はなんでここに? 今日、練習日じゃないだろ」
「先輩に指揮を教えてもらっててさ。それで、気付いたらこんな時間に」
彼の声にちょうどかぶるように、「やっひー、もうこっちの部屋もカギ締めていいよね?」という声が廊下から聞こえた。ああ、そういえば、一つ上の学年の指揮者の先輩は就活組ではなくそのままこの大学の修士課程に進む予定だから、この春休みは他の新四年生よりは時間があるほうだって言っていたっけ。
「あ、お願いしまーす」
奥田が首を巡らせてその声のほうに返事をする。彼は下の名前に因んで、一部の上級生から“やっひー”という少しヘンなあだ名で呼ばれている。……あ、いや、違う。全国のやっひーさんをディスる意図は無い。少しヘンと言ったのは、ただ、雅で格調高い響きを持つ彼の本名とゆるカワな感じのあだ名の間のギャップに対して俺が勝手に妙な可笑しみを感じ取っているというだけのことだ。
「じゃ、また明日の全体練習で」
「うん」
奥田は俺と軽い挨拶を交わし合い、扉を閉めて部室を出て行った。やがて足音が完全に聞こえなくなったのをよく確認してから、俺はまたタイプライターに話しかけようとそちらに向き直る。
「アーノルド、今の奴が……」
そのとき、異変に気付いた。ほんの数分前まで確かにタイプライターから出力されていた少しくすんだ色の紙が、跡形も無く消え去っている。風は吹いていないから、どこかに飛ばされたというわけでもないだろう。念のため机の下やタイプライターの周辺も確認してみたが、やはりアーノルドが打った文章が印字されたあの紙はこの部屋のどこにも無かった。
俺は、もういくらタイプライターに話しかけても彼が返事を寄越すことは無いのだろうと予感した。そして、実際にそのとおりだった。俺は古びたタイプライターをしばらくじっと見つめて、ひとつ溜息をつき、冷たいその機械を淡々と元あった場所に戻した。
思ったほどの落胆は無かった。もともと何の説明も無く、よく分からない不思議な力で突然始まったやりとりだったのだ。いつ急に終わってもおかしくないとは思っていた。
そもそも、アーノルドなんていう人間がこの世に実在していたという確証すらどこにも無い。もしかしたら、俺がわだかまりを吐き出したいがために無意識に作り出してしまった想像上の存在なのかもしれない。俺は今日のところは一旦そうやって自分を納得させることにして、夕暮れが迫る狭い部室を後にした。
*
翌日、俺はアルバイトを終えて練習に向かう前に、ふと思い立って大学の図書館に立ち寄った。昨日の話を聞いていて気になったことを確かめておきたかった。
春休み中の図書館は閑散としている。俺は迷わず旅行記コーナーの書棚の前に立ち、整然と並んだ書籍の背表紙を人差し指でなぞっていった。やがて、ある一冊の本の上で指が止まる。俺は極力音を立てずにその本を書棚から抜き取り、頁をパラパラめくった後、奥付の著者紹介欄に目を留めた。著者の名前と肩書は──“アーノルド・スペンサー(言語学者・旅行作家)”。
「……なるほどなぁ」
道理で、語学に強い興味が、とか何とか言っていたわけだ。俺が一人で頷いていると、不意に背後から聞き慣れた声がした。
「何が“なるほど”?」
振り返ると、昨日も部室で会った奥田が目を丸くして俺を見つめていた。俺は手に持っている本の書名と著者名を咄嗟に指で隠した。よく考えたら、奥田にアーノルドの名前だけを見られたところで、昨日のタイプライターの一件との関連性さえバレなければ特に問題無いはずなのに。ともかく、幸いにして、奥田は俺の不自然な行動には気付かなかったようだった。
「累がここらへんのコーナーにいるの、珍しくない? 旅行でもするの」
「ああ、まあ、ちょっと考えてるだけ」
適当に話を合わせて、お前は? と訊き返す。奥田は、この旅行記コーナーの奥にある音楽関係の資料コーナーを見に行く途中で通りかかったんだと話した。
俺はこれ以上ボロが出ないうちにと二言三言程度で早々に奥田との会話を切り上げ、「じゃ、先に練習室に行って自主練するから」と片手を上げた。図書館を後にするとき、奥田が俺を見て不思議そうに首を傾げているのを背中越しに感じたが、俺は敢えて振り返らずに、一直線に部室のある棟へと向かった。
足取りは昨日よりも軽い。早くヴィオラを手に取って、思う存分練習がしたい気分だった。俺は柄にも無く階段を二段飛ばしで軽快に駆け上がり、昨日と同じように、少し軋む楽器庫の古い扉を開けた。