水上駅



 目を覚ますと駅だった。その駅は文字どおり水に浮いていた。上り線と下り線のホーム、そして二本の線路だけが水面よりもだいぶ高い位置に設けられており、そのほかのすべては揺らめく水面の遥か下に沈んでいるように見える。沈んでいるものの形が判別出来たことからも分かるように、周囲を満たす水はわりあい澄んでおり、不思議なことに、水辺特有の水棲生物や微生物の匂いもしなかった。……さしずめ、水上駅と言ったところか。水の中に映る自分の姿と睨めっこをしながら、勝手に自分を納得させて頷いた。その駅の様子は、もともと知っているいくつか駅の特徴を少しずつ摘んでそれらをごちゃ混ぜにしたような妙な感じだった。  やがて電車の警笛の音がして、こちら側のホームに列車が入ってきた。特におかしなところの無い、通常通りの銀色に薄青色のラインが引かれた車体だった。目の前でちょうどドアが開いたので、中を覗き込んでみる。車内の様子も至って普通で、珍しい点といえば、乗客が誰もいないことだった。けれどそれは、もし終電などなら有り得なくもない範囲だ。……雲に覆われた空の薄明るさを見るに、それこそ白夜でもない限り、今は普通に日中にっちゅうである可能性が高いと思うけれど。  この電車の行き先は何処なのかという興味から、このまま乗車してみようかと一瞬考えて一歩踏み出したが、結局やめた。踏み出した足を戻すと同時に、空気の抜ける音がして扉が閉まった。あ、と口の中だけで呟いて、列車の行き先を見遣る。線路は水の中に沈むことなく暫く続いていたが、ある程度の地点から先は霧が濃くて先が見通せなくなっていた。それで、その電車が何処に続いているのかを知ることはついに叶わなかった。  僅か溜息をついて、視線を電車の後姿から目の前のホームのほうに移す。すると、対面のホームに誰かがいることに気付いた。さっきまでは確かに誰もいなかった。二つのホームじゅうを見渡して確認したから間違いない。そうすると、その人物はこちらのホームに電車が止まっていた間に何処からか現れたということになる。ちなみに、ホームに上がる階段やエレベーターは少なくとも見当たらない。それに、もし見えないところにエレベーターがあったとしたら、水の中から上がってきたということになるのだから全身濡れているはずだ。それなのに、対岸のホームに現れた人物の髪も衣服も全く濡れていなかった。  その人物は二十代の半ばくらいに見えるミディアムヘアの女性だった。瞬きもせず、表情も変えずにじっとこちらを見ていた。けれど、不思議と恐怖は感じなかった。彼女の表情が全くの真顔ではなく、わずかに微笑んでいるようにも見えたからかもしれない。  おーい、と呼びかけてみたが、向こうのホームにまで声が届いた気配は無かった。駅の規模のわりにはホーム同士の距離が離れているからだろうか。そのうちにもどかしくなって、あちらのホームに向かおうと出口を探した。すると、ホームの端に「乗り換え」と書かれた上り階段があることに気付いた。深い霧のために、階段の先がどこに繋がっているのかまでは見えないが、上り階段であれば、少なくとも足元に広がるこの水に溺れることは無いだろう。  今からそっちへ行くよ、と身振りで相手に伝えて、さっそく階段のほうへ靴先を向ける。と、一瞬見えた彼女の表情に違和感を覚えて思わず立ち止まった。改めて彼女のほうに目を向けると、彼女は何故か口をへの字に曲げ、怪訝な感じで目を眇めて、露骨に嫌そうな顔をしていた。そんなに嫌か。まあ、知り合いでもないしそりゃそうだよな……。戸惑って足を止めているうちに、今度は向こうのホームに電車が滑り込んできて、彼女の姿は完全に見えなくなった。車内を注視していると、やがて窓際に立ってこちらを見ている彼女と目が合った。彼女はこの電車に乗り込んだようだ。彼女はしばらくこちらを見つめたあと、友人にそうするようにこちらに掌を見せて左右に振った。そして、すぐにノラネコかネズミでも追い払うようにシッシッと指を揃えてこちら側に動かした。 「ええ……」  どっちだよ、と独りごちているうちに、彼女が乗り込んだ車両は、先ほど発車した電車とは逆方向にゆっくりと走り出した。その間際に、不自然に手を振っている彼女の仕草を不思議に思ったのか、彼女の近くに座っていた乗客がこちらを振り向いた。十代くらいに見える二人の女の子だった。彼女たちは髪型と目元の印象以外は互いによく似ていた。それを見たとき、ようやく思い出した。彼女は……こちらに手を振ったミディアムヘアのあの女性は、目元が父によく似ている。  彼女を引き止める声を出そうとしたとき、今度こそ本当に・・・・・・・目が覚めた。いつもと特段変わらない、平穏な朝だった。まだ回らない頭を無理やり起こし、顔を洗って身支度を進める。その片手間に、何となく母にメッセージアプリで夢の内容を話してみた。すると、心当たりがあったようで、母はすぐに返事を寄越した。今日が──正確には昨夜の遅い時間あたりが、第一子となるはずだった彼女の娘の命日にあたるそうだ。生まれてこられなかった娘は、もし生きていれば今年二十五になるという。母は重ねてこんなことを書いて寄越した。 『駅と水辺っていえば、あんた、小さい頃に駅の近くの川で溺れかけたことがあるんだけど、覚えてない? 後遺症も何も残らなかったから良かったものの、あのときはお母さん大変だったんだから……』  歯ブラシを動かす手が一瞬止まる。そして、そうか、と心の中で自分なりに納得した。初めて会った人のはずなのに、なんだか夢の中の彼女に話しかけてみたくなったことにも合点が行った。結局ひとことも言葉は交わせなかったので声は想像するしかないが、あのとき一瞬嫌そうな顔をした彼女の唇から「あんたは当分こっちに来るな」という意味の言葉が聞こえた気がした。  母には大学に着いてから返信することにして、一旦携帯電話のカバーを閉じる。そのとき、パチンという軽い音を契機としてふと頭に浮かんだことがあった。 「……そうだ」  聞いている人は誰もいないが、敢えて声に出してみる。 「あの件、受けてみようかな」  この世界と異世界との狭間に足を踏み入れてみるのも、そう悪いことではないのかもしれない。“あの件”の内容自体は昨日の夢とは全く関係ないことなのに、あの夢を経た今、自然にそう思えるようになっている自分が不思議だった。  数日後、大学からの帰りにわざと遠回りをして、夢で見た水上駅のモデルと思しき静かな片田舎の駅を訪れてみた。幼少期に住んでいた町の近くで川が流れている駅といえばここしかないから、すぐに分かった。その駅は細部がところどころ異なるものの、やはり夢で見た駅によく似ていた。ただ、当然ながら駅の周りが水没しているといったことはなく、当然のように人が生活していて車が走っていたのでほっとした。  駅の近くを流れる川のほうへと目を投じると、ちょうど風が吹いて水面に漣が立つのが見えた。それは細かい襞をつくりながらさらさらと微かな音を立て、夢の中であの列車が来た方角から走り去った方角に向かってただゆっくりと流れていった。
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