第一話「初陣」
一月二十六日、曇り。端末で視聴した天気予報によると、最高気温は四度、最低気温はマイナス二度。この時期らしい寒さの一日とのことだ。
「……いいですか、この部屋は手入れ部屋、そっちのお社は刀装を作成するときに使う離殿で、刀装の作成には……」
まだ冷たい廊下が、一人と一匹分の足音で規則的にきしむ。流暢に人語を話す管狐が屋敷のあちこちを指してせわしく説明するのを片耳で聞きながら、わたしは右手に見える広い中庭に目をやった。古びた石灯篭や、遊歩道の脇に敷き詰められた白灰色の砂利、枯木の向こうに見える小さな東屋。広々とした池には、臙脂色やら黄金色の鯉が悠然とおよいでいる。
「……説明は以上ですが、ご質問はございませんか? 審神者様」
管狐というには少々フォルムのまるいその妖怪は、わたしの足元でぴょんと跳ねて小首を傾げた。
「審神者、ね……」
未だ呼ばれ慣れないその肩書きを自分で口に出してみる。政府からの通知を受けてひと月余り。今日からわたしは――正確には「わたしたちは」、歴史修正主義者なる反社会勢力との戦に身を投じることになったらしい。民主主義国家が成立して約百五十年、この平成の世に何とも物騒な話である。
だが思ったほどの不安はない。ほかの多くの審神者が一人で屋敷を預かるのに対して、わたしは……。
「姉様」
廊下の曲がり角から上半身だけこっちに出して、妹がわたしを手招きした。事務方を示す紫紺色の巫女装束を身につけ、長い髪を耳の後ろで束ねた娘。わたしとは対照的なまるい瞳は母譲りだ。
「早く、早く。新しい刀ができたって。子どもの付喪神よ」
「まったく、もう少し落ち着いたらどうなんだい。音をたてて廊下を走ったりして、雅じゃない。だいいち、危ないだろう」
「同感ですね。ちょっと落ち着きなさい」
彼女に続いて姿をあらわしたのは、午前中に政府の会議室で貰い受けた最初の刀・歌仙兼定の付喪神である。どうやら、一寸もじっとしていられない性質の妹と、優雅を重んじるこの刀との相性は今ひとつらしい。
その後も、付喪神がどんなふうに顕現したかを興奮気味に延々と語る妹を、歌仙といっしょに窘めながら鍛刀場に入る。鍛冶場では末の妹が、彼女とそう変わらない身丈の少年と何かを話していた。緋色の袴を着けた彼女はすぐにわたしたちに気づき、少年の付喪神にわたしを紹介した。
「姉様たちが戻ってきたわ」
「おお、あんたがここの大将か?」
よろしく、と言って彼と握手を交わしたわたしに向けて、歌仙が解説を加えた。「薬研藤四郎だね。織田信長公の懐刀だ」
「おう。粟田口吉光の手による短刀だ」
薬研藤四郎が後を引き取って続ける。
「俺っちが初めての短刀のようだが、俺たち藤四郎は兄弟が多くてなぁ。兄弟ともども、よろしく頼むぜ」
俺たち藤四郎……ということは、○○藤四郎という仲間がたくさんいるということだろうか。後で、支給品の中にあった刀帳を確認しておかねばならない。
「ところで」
薬研藤四郎がわたしと妹たちをまじまじと見比べ、眉を下げて言った。
「大将は大将で良いんだが、二人の姫さんはどう呼び分けたら良いもんかね?」
*
一月二十六日、月曜日。雲の多いお天気。
あたしたちは数時間かけて広ーいお屋敷の中を探検し終え、ひとまず出陣は明日にして、ご飯を食べて寝ることにした。
「姫さん、そっちの紐、取ってくれねえか」
床の準備の途中、薬研に話しかけられて、妹と同じタイミングで「はい」って返事をしてしまった。目を丸くした薬研が、姉様と顔を見合わせて苦笑した。
実際、薬研の疑問はもっともで、あたしたちのように複数で審神者業を分担する……というか、二人以上の人間が一つの本陣に常時存在する、ということはやっぱり相当珍しいのだそうだ。ま、うちの場合、正式な審神者として登録されているのは姉様だけだけれど。
「ああ、虎くん、引っ張らないで……」
部屋の端っこでは、ふわふわした髪の男の子が、ペット(なのかな?)の虎の子の悪戯に手を焼いていた。先ほど顕現したばかりのこの子は、薬研の兄弟刀のひとりで、五虎退というらしい。名前に藤四郎が付くわけじゃないんだ、と思っていたら、正式な名前は五虎退藤四郎吉光っていうんだって。納得。
それにしても、最初から全然物怖じする様子がなかった薬研とは対照的に、五虎退は何だかいつも自信なさげにしている子だ。付喪神として人の形をとれるくらいの神力があるんだから、五虎退も相当な名品のはずなのに。もっと自信をもって、すごいでしょうって胸を張ってもいいのにな。
*
いち月、にじゅうろく日。
きょうは、何びゃく年かぶりに眠りからさめて、あたらしい主さまのおやしきに来させてもらうことになった。もちろん、虎くんたちもいっしょ。おやしきには先に薬研兄さんがいて、よお、久しぶりだなぁって話しかけてくれた。あとは、細川さまのおうちにいた歌仙兼定さんというお兄さんにもごあいさつをした。
主さまはきれいな女のひとだった。背がお高いから、さいしょにお目にかかったときは、ちょっとこわかったけれど。ぼくが自己紹介をしたら、白と薄青色をかさねた衣の袖をそっと押さえて、ほっそりした手をぼくの前に出して、よろしくね、って握手してくれた。
主さまにはふたりの妹君がいらっしゃる。紫色の袴を着けたあやめ様と、緋色の袴のみかせ様。おふたりとも、ぼくが目を覚ましたときから主さまのそばにいて、主さまのお仕事のお手伝いをしていた。鍛刀のための資源をそろえるだの、装備品を倉庫にしまいにいくだの、そんなようなことだ。みかせ様は、みんなで寝床をととのえるとき、こっそりぼくの近くに来て、虎くんがお布団を乱さないように抱っこするのを手伝ってくれた。とってもやさしいひとだ。
きょうはおやしきのなかをまわって、いくつか装備品をつくってみて、それでおしまい。本格的な出陣はあしたからにするって、薬研兄さんと主さまが話していた。あしたから、ぼくたちは自分で刀をもって戦うことになる。新しい主さまと出あえたのはうれしいけれど、戦は……まだちょっとこわいなぁ……。
そんなことを考えながらお布団にくるまってうとうとしていたら、虎くんが一匹ぼくの枕元に来て、ちいさく鳴いて、ぼくのほっぺたをぺろっとなめた。ぼくは、お返しに虎くんの額のあたりを撫でて、それからお布団のなかでぎゅっと丸まって眠りについた。
*
一月二十七日、火曜日。相変わらず、雲の多いお天気。でも、昨日に比べたらちょっとだけ寒さがゆるんだかな。
午前中の鍛刀では、新たに二振りの仲間が顕現した。ひとりは薬研や五虎退と同じ粟田口派の短刀、秋田藤四郎。同じようなふわふわ髪の五虎退と並ぶと、色違いの双子みたいで本当にかわいい。
もうひとりは、たしか初日に歌仙兼定をもらったときにも見た刀だ。打刀の山姥切国広。ブレザー風の洋装の上にぼろぼろの白布を引き被っていて、正直、風変わりな出で立ちの男の子だな、というのが第一印象だった。一応自己紹介をしてくれたんだけど、まったく目が合わないので、伏せられた顔を追いかけて、長い前髪の間から目を覗き込むようにしたら、「見るな」っておこられてしまった。
「どうして、きれいな顔してるのに」
思ったままの感想を口に出す。彼は一瞬言葉に詰まって、ぼろ布をいっそう深く被りなおした。聞こえるか聞こえないかくらいの声で、「……きれいとか、言うな」って呟いたのがあたしの耳に届いた。
今日三回目の鍛刀では、鍛冶の妖精さんから三十分という鍛刀時間を告げられた。短刀の二十分でも、打刀の一時間半でもない。一体どんな刀が現れるのかと、固唾をのんで炎を見つめていると、果たして現れたのは、薬研とちょうど同じくらいの年の頃に見える短髪の少年だった。桜の花びらとともに中空から現れた彼は、「よっ……と」とかけ声をかけて、軽やかに鍛冶場の床に着地した。
「オレは厚藤四郎。兄弟の中だと鎧通しに分類されるんだ」
あ、藤四郎ってことは、やっぱり……。
「お、厚じゃねぇか。ひっさしぶりだなぁ」
鍛錬場を覗きにきた薬研が、兄弟の姿を見つけて嬉しそうに片手を上げた。
「おー、薬研!」
厚のほうも兄弟に近づいていって、二人は軽いハイタッチを交わした。こうして並ぶと、薬研と厚もよく似ている。顔のつくりが近いわけではないんだけど、何だろう、雰囲気かな。一緒に悪だくみをする幼なじみの相棒って感じだ。
ともあれ、これで六振り揃った。姉様に報告して、一度顔合わせして落ち着いてから出陣かな。一人ひとりに渡す刀装も準備しておかなきゃね。
あ、そういえば、初陣の部隊長はどうなさるおつもりだろう。やっぱり、昨日演練を経験している歌仙か薬研のどっちかになるのかな。
*
いち月にじゅうなな日。
主さまに呼ばれて、おやしきのいちばん南にある執務室に向かった。失礼しますと言って障子をあけたら、室には先に薬研兄さんがいて、主さまとなにか話しているみたいだった。主さまはぼくに気づくと、向かい側にひとり分の空間をあけて、おいでってぼくを手招きした。虎くんは、きょうは別のおへやでお留守番だ。
主さまの向かい、薬研兄さんのとなりの座布団にすわる。ひと呼吸おいて、主さまが口をひらいた。
「五虎退、出陣の準備は済みましたか?」
「はい、主さま」
一刻後に出陣が迫っていることはきいていた。さっき、あやめ様から刀装をいただいたばかりだ。
主さまは、それはなによりです、と言って一度言葉を切った。そして、唇をゆっくりと動かして言った。
「此度の出陣ですが、あなたに隊長を任せようと思います。五虎退」
「え……」
思わず、ななめ前の薬研兄さんを見る。薬研兄さんは口の端でちょっと笑って頷いただけで、何も言わなかった。ぼくはもう一度、目の前の主さまに視線を戻した。主さまは、なかなか返事をしようとしないぼくを怒るでもなく、ただただ静かにぼくのことを見ていた。そして、もう一度念を押すように言った。
「引き受けていただけますか?」
「えと、ぼく……。虎は五匹連れてるんですけど……隊長、は……」
主さまは続きを促すようにぼくの目をじっと見つめている。薬研兄さんも同じだった。
「……なんでもない、です」
ぼくは、のどから出てきそうになった言葉を飲み込んでそう言った。
「そうですか。……わたしは、」
主さまがしずかに言った。
「あなたならできると思っていますよ。我々に、力を貸してくださいませんか?」
*
主さまの部屋を出てから、どうやって自分の部屋までもどってきたのかは覚えていない。もし、廊下でだれかがぼくに声をかけてくれたとしても、ぜんぜん耳に入っていなかったにちがいない。ぼくの指先にじゃれていた虎くんが、ごはんをねだってひと声鳴いたので、それで目が覚めたような気分になった。
「……五虎退?」
ぼくの頭の上に影ができて、鈴の音のような声がふってきた。みかせさまだ。お部屋の外に脱走しようとしたらしい虎くんを一匹抱えている。その虎くんの前足を器用に操りながら、「元気ないけどどうしたの?」と首を傾げた。
「もうすぐ出陣でしょう?」
「そう……です」
みかせさまはぼくの隣に座って、下を向いたぼくの顔をのぞきこんだ。ぼくが話しだすまで、主さまと同じように、じっとぼくを見て待っていてくれる。みかせさまの目は、主さまともあやめさまともちがう、眦の少しさがったやさしい目だ。
「あの……みかせさま。ぼく、どうして隊長になったのか、わからないんです。同じ部隊には、ぼくより勇気のある薬研兄さんや、厚兄さんだっているのに……」
そう言うと、みかせさまは目をまるくして、それから「うーん……?」と考えこんでしまった。
「私には姉様のお考えはわからないけれど、勇気がないから隊長にふさわしくない、なんてことはないと思うよ。もっと自信を持ってもいいんじゃないかしら」
「でも、六人そろってはじめて出陣する、だいじな戦なんでしょう?」
そのとき、虎くんがみかせさまの腕をすり抜け、縁側からお庭の方に駆け出してしまった。お庭に飛んできたスズメさんを追いかけに行ったんだ。
「虎くん、だめ!」
ぼくは虎くんを追いかけて夢中で縁側におりた。そうしたら、ちょうどお庭に厚兄さんと秋田がいたから、虎くんが逃げちゃって……と走りながら事情を説明する。
「よーし、あの虎の子つかまえればいいんだな!」
「厚兄さん、まってくださいー!」
厚兄さん、次に秋田が走り出して、虎くんとの三対一の追いかけっこがはじまった。お庭には主さまの結界が張ってあって、お屋敷の敷地の外には行けないようになっているけど、出陣前にどこかに隠れて見つからなくなっちゃったら大変だ。
結局、厚兄さんとぼくが同時に虎くんをつかまえて、おおごとにはならずに済んだ。靴がちょっと土で汚れてしまったけど、このくらいなら大丈夫。虎くんをしっかり抱えて、厚兄さん、秋田と一緒にみかせさまのところへ戻る。みかせさまは、目を離してごめんね、と言ってぼくの腕から虎くんを受け取った。
「やっぱり、厚兄さんと五虎退は足が速いなあ。僕、いっつも追いつけないんですもん」
「そうなの?」
「秋田、今のはべつに駆け比べしてたわけじゃないんだからな」
縁側で秋田と厚兄さんが話しているのを、みかせさまが楽しそうに聞いている。そうしているうちに、門の方から薬研兄さんの集合の声がかかった。
「そろそろ出陣だぞー」
「はーい。僕らも行かなくちゃ」
「おー、もうそんな時間か」
ぼくは虎くんたちを連れていかなきゃいけないので、すぐに追いかけるからね、と言って、ふたりに先に行っていてもらうことにした。みかせさまが虎くんを集めるのを手伝ってくれる。
「さっきはびっくりしちゃった。本当に足が速いね」
「えっと……」
「私、小さいころのケガが原因で、ちょっとだけ足が悪いの。普通に歩くぶんには問題ないけど、走ったり、早く歩いたりすることはできない。だから、私から見ると本当にすごいよ」
ぼくははっとしてみかせさまを見上げた。
「ほら、みんなが待ってるわ。気をつけて行ってらっしゃい」
みかせさまはぼくの腕にやさしくぽんぽんとふれて、門のほうに送り出してくれた。ぼくは途中で二度三度と縁側のほうをふりかえってみた。みかせさまが縁側の先に立って、長いこと手を振ってくれていた。
門のところに着くと、主さまと、いくさ支度を済ませた五人の仲間たちが待っていた。主さまが、隊長のしるしの記章を上着につけてくれる。
「頼みましたよ」
「は……はいっ」
さっきよりは元気な返事ができたと思う。薬研兄さんがぼくの肩をぽんとたたいた。
「じゃ、行くとしようか。隊長さん」
*
審神者である姉の部屋には、本陣に居ながら戦いの様子を確認できる大きな丸い鏡が設置されている。あたしたち三人は姉の部屋に集まり、互いに頭を寄せ合って鏡を覗き込んでいた。
戦況は今のところ自軍優勢。このまま順調に敵の本陣まで辿り着ければ、大きな怪我もなく無事に任務を達成できるだろう。とはいえ、六名揃っての初めての出陣、いつ想定外の事態に見舞われるかも知れない。あたしたち三人は――特に姉は、鏡から目を離すことなく、硬い表情で彼らの動向を見守っていた。あまり感情が顔に出ない姉だけれど、さすがに初陣だから、あの子たちが心配だったんだと思う。
鏡の中から気合入れの怒号が聞こえる。本陣手前の合戦場、薬研藤四郎が最後の敵を殲滅したようだ。
「次が最後のようだね」
「い、嫌な雰囲気ですね……」
冷静な歌仙兼定と、まだおっかなびっくりといった感じの五虎退の会話。
「……来るぞ」
山姥切国広の一声をきっかけに、敵陣から禍々しい気が一気に噴出し、ゆらゆらと体を揺らしながら敵の刀が現れた。みんな、あんなのと戦ってるんだなぁ……って思わず生唾を飲み込む。姉を挟んだ隣では、妹が不安そうに胸の前で両手の指を組んでいた。
おそらく初めて浴びるのであろう禍つ神の瘴気に、六人は少なからず戸惑ったように見えた。刀を構えて間合いを測るものの、最初の一歩がなかなか踏み出せない。事態が膠着状態に陥りかけたとき、ぱっと敵の短刀に斬りかかった刀があった。五虎退だ。きれいな軌跡を描いた刃が、竜骨のような妖怪に命中した。妖怪は真っ二つになり、黒い砂に姿を変えて辺りに霧散した。五虎退は消える刀に戸惑って怯えた様子だったけれど、ともあれ、これで攻撃の流れは出来た。次いで厚藤四郎、山姥切国広と、足のはやい刀が敵に切りつけていく。方々で血飛沫が上がり、彼らの衣や足もとを汚した。敵のものとも味方のものとも知れない怒号が飛び交い、土煙が舞い上がって、鏡の中の映像に薄い霞がかかった。あたしたちはその映像を食い入るように見つめていた。
残る敵は一振り。五虎退がえいっと叫んで、敵将の懐に飛び込んだ。かなりの深手を負わせたみたいだけど、黒い刀はまだ消えずにうごめいている。あたしは思わず鏡に向かって「頑張れ」って呼びかけた。五虎退は泣きそうな顔をしていた。多分すごく怖いんだろう。でも、今にも力を取り戻して暴れ出しそうな敵将を前にしても退く様子はなかった。
五虎退の背後に影ができた。歌仙兼定。彼は刀身を大きく薙ぎ払い、あっという間に敵将の息の根を止めた。さすがは打刀だ。でも今あなた、なんて言った? 「首を差し出せ」とか物騒な言葉が聞こえた気がするんだけど。ほら、五虎退がさっきとは違う意味で震えちゃってるじゃん。
ふっと息をつく気配を感じて、隣の姉の横顔を盗み見る。姉はずっと引き結んでいた口元を和らげ、鏡の中の様子をじっと見つめていた。普段通りの涼しげな目だが、目もとも少しゆるんで、勝利と彼らの無事を喜んでいることが伝わってくる。相変わらず分かりにくい感情表現だけど、男士たちも早く彼女の性格に慣れてくれるといいなと思う。五虎退とか、みかせには懐いてるけど、姉様のことはまだ怖がってるみたいだもんね。
鏡の中の彼らは、刀身の血液を拭いて鞘に収め、帰城の準備を始めた。五虎退が歌仙に小走りで寄っていって、一生懸命何か話しかけている。さっきのお礼を言っているんだろう。歌仙兼定は、つい数分前の殺意の高い一言が嘘みたいに、柔和な微笑みで短刀に応じていた。
*
一月二十七日、月曜日。
その日、みんなが屋敷に帰ってきたのは、冬の短い日が暮れかかる頃だった。私たち三人は、正門前で彼らを出迎えた。
「おー、大将」
「主さま、あやめ様、みかせ様ー」
厚藤四郎が右手を上げ、秋田藤四郎がこちらに手を振りながらぴょんぴょん跳ねるように駆けてきた。
「ご苦労様でした。みな、よくやってくれましたね」
「おかえり! みんな鏡で見てたよ、かっこよかった。大勝利だね」
二人の姉が皆の労をねぎらって、埃だらけになった頭や肩をぽんぽんと叩いていく。私も一人ひとりに「おかえりなさい」と声をかけ、そのようにした。彼らの手足や衣には砂埃だけでなく、赤黒く変色した返り血が付いていた。一番上の姉は彼ら一人ずつに、夕餉の前に湯殿で汚れを落としてくるように言った。刀剣たちは一人、また一人と湯殿に歩いていったが、五虎退藤四郎だけは、何か言いたそうにしてなかなかその場から動こうとしなかった。薬研藤四郎がそれに気づいたようで、少し離れたところで五虎退を待っていた。
「あ、あの……主さま」
姉の前に一歩踏み出した五虎退の胸元には、誉獲得を示すしるしがついている。
「……勇気ある振る舞いでしたね。言ったでしょう、あなたならできると」
姉は表情を和らげて、けれども彼らの主人たる審神者の威厳を感じさせる声音で言った。
「ありがとう、ございます」
五虎退はほんとうにうれしそうに目を細め、はにかみがちに微笑んだ。
「それと、みかせさまも。ありがとうございます」
「私?」
私は驚いて自分の鼻先を指差した。
「はい。ぼく、みかせさまのおっしゃっていたことを思い出して、勇気が出たんだと思います」
出陣前のやりとりを思い出す。本当に思ったことを言っただけだったんだけど、あの何気ないやりとりを戦の最中に思い出してくれたのだと思うと嬉しかった。
「こちらこそ、ありがとう。そう言ってくれてうれしいな。私も、あなたたちが戦うのをちゃんと見てたよ。とってもがんばったんだね」
私は地面に膝をつき、彼と目線を合わせて言った。五虎退の表情はみるみるうちに柔らかくゆるみ、目じりが下がって、まるでお花が咲いたみたいになった。
「……はいっ」
「ふふ、かーわいい!」
下の姉が五虎退に抱きつき、ふわふわの頭をこれでもかと撫で回した。五虎退はびっくりして戸惑いながらも、撫でられるのは嫌いではないようで、嬉しそうだ。私もほっぺたをつついたり髪を撫でたり、スキンシップに参加することにした。
不意に視線を上げると、離れた場所で事の次第を見守っていた薬研藤四郎と目が合った。彼はふっと満足そうに微笑んで踵を返し、伸びをしながらゆっくり湯殿のほうに歩いていった。
*
きょうは、はじめての出陣。いろいろと大変なこともあったけれど、隊長のおつとめを果たせたみたいでほんとによかった。
さいごの戦で体がすくんで動けなくなったとき、みかせさまとお話したことを思い出したら、足が勝手に前に出て自分でもおどろいた。
あのお部屋で隊長の任務を言いわたされたときは、正直にいうと、主さまのお考えがわからなくて、少しこわかった。きれいな切れ長の目に射すくめられたみたいだった。
だけど、主さまは本当は、そんなにこわいひとじゃないのかもしれない。だって、戦のあとにぼくをほめてくれたときは、それまでとは違って、とってもやさしい目をしていた。
あしたは、出陣があるかな。……隊長は、まだちょっとこわいけど、出陣がいやだという気持ちはいつの間にかどこかに行ってしまった。
だって、無事に敵をたおして帰ってこられたら、主さまがあんなにやさしいお顔をしてくださるんだから。
第二話「軍師」
一月二十九日。今日は朝の冷え込みが一段と厳しかったけど、昨日に引き続き雲ひとつない晴天で、お洗濯がかなりはかどった。洗ったシーツをみんなで協力して干し終え、よーし終わったー、と洗濯籠を持ち上げたら、隣にいた歌仙兼定の横顔が目に入った。風にはためく白いシーツをうっとり眺め、恍惚と溜息をついている。この本丸に来た最初の刀である彼は、雅な遊び事のみならず、炊事や洗濯にも独自の美意識を持っているらしいことが、ここ数日の間で分かってきた。あたしと彼とは真反対の性格で、反りが合わないと思うことも多いけど、厨に立つ時だけは別だ。彼の包丁の使い方や繊細な味付けの仕方は、隣で見ていてとっても勉強になる。
「おや。もうこんな時間か」
ようやく我に返ったらしい歌仙が、毎時零分の鐘の音を聞いてつぶやいた。
「そろそろ、お昼ご飯の支度しよっか」
「そうだな」
「少し早いですが、お小夜たちは昼過ぎから遠征ですから、丁度良いかもしれませんね」
山姥切国広、そして昨日顕現した宗三左文字も一緒に厨へ向かう。午後からは、同じく昨日顕現した小夜左文字ら短刀四振りで、江戸時代への短期遠征だ。
*
遠征組を見送った後は、妹と一緒に鍛刀部屋に入った。姉は政府からの書類の消化やら、夕方の出陣の戦略策定やら、別の仕事を自室で行っているようだ。
「こんにちは。今回はどれだけかかりますか?」
しゃがみ込んで鍛冶の妖精に尋ねると、もうまもなく出来上がるという返事があった。時間にして四十分。また初めての鍛刀時間だ。ちらちら揺れる炎を眺めながら待っていると、ほどなくして炉からひときわ強い光があふれ出し、あたしたちの目の前で新しい刀が顕現した。歌仙たちとそう変わらないくらいの背格好の青年だ。
「やあ。僕はにっかり青江。元は大太刀の脇差……」
長い前髪で片目を隠した細面の彼は、口上の途中でおや、と首を傾げた。
「ええと……どちらが僕の新しい主かな?」
あたしと妹は顔を見合わせた。そういえば、複数人で鍛刀の立ち合いをしたのはこれが初めてだ。同じような巫女装束を身に着けた者が目の前に二人並んでいては、混乱するのも無理はない。
「はじめまして。えっと、厳密に言うとあたしたちはどちらも審神者じゃなくて、姉の審神者業の手伝いを……」
あたしが彼に経緯を説明していると、鍛刀場の前を通り掛かったらしい宗三左文字が顔を出した。
「おや。脇差ですか」
「そうよ。大人の姿の刀も増えてきたね」
にっかり青江が、そうなのかい、という視線を向けてきたので、あたしは、現在この本丸にいる刀の中で大人の姿をしているのはあなたを入れて四振りだと彼に伝えた。彼はふうん、と言って、黒手袋の長い指を薄い唇の下に宛てた。
「それじゃあ、“オトナ同士の”話も出来るわけだね。……なぜそんな顔をするのかな。ただの世間話のことだよ?」
これ以上ないほど怪訝な顔をした宗三左文字に向かって、彼はにっこり……にっかり微笑んだ。
……ともかく、本丸運営四日目。短刀、打刀に続き、脇差が初めて仲間に加わった。
*
一月三十日、金曜日。今日はまた雲が多くて、気温も昨日より低いようだ。私が座っている鍛刀場の簡易椅子の上方では、窓枠が強風でカタカタと音を立てている。今日は、上の姉は執務室にいるけれど、下の姉は本丸には寄らないようだ。午前中に送り出した遠征部隊の帰還まではまだ間がある。一時的に手持ち無沙汰になった私は、鍛刀場で新しい刀の顕現を待つことにした。
強い風が吹いて、窓枠の隙間から冷気が入り込んできた。私は立ち上がって炉のほうに移動し、石造りの段差のところに腰かけて鍛刀の火に手をかざした。うん、やっぱりこの方があたたかい。名刀の付喪神を喚ぶ神聖な火をたき火代わりにするなんて、もしかして罰が当たるかしら……。そんなことを考えながら不規則に揺らめく炎を眺めていると、あたたかさもあいまってだんだん眠気が押し寄せてくる。ぱちぱちと時々薪がはぜる音と、窓に吹きつける乾いた風の音を聞きながら、私はついにうとうとと微睡み始めた。
それからどれくらいの時間が経ったろうか。私はまぶたの裏に強い光を感じて目を開いた。新しい刀が出来上がったのだ。あわてて立ち上がりかけたその時、半外套を着けた男の人が金色の光とともに地面へ降り立った。ちょうど慶兄さんと同じような年の頃に見える青年。そのひとは優しそうな瞳を一度またたかせて私に微笑みかけると、きちんとした臣下の礼をとって口を開いた。
「お初にお目にかかります。私は一期一振。刀工・粟田口吉光の手による唯一の太刀にございます」
太刀。私はそこで初めて、彼が炉から現れる時の光の色が打刀とは違っていたことに思い至った。そういえば、今回は鍛刀にわりあい長い時間がかかっていた気がする。つまり、このひとは私たちの本丸に初めて来てくれた太刀なのだ。
「一期一振さん、はじめまして。私はこの本丸の審神者の従妹で、立花みかせと申します。審神者は奥の執務室にいますから、後でご案内しますね」
「そうでしたか。では、みかせ様。宜しくお願い申し上げる」
彼はまた一礼すると、壁に架けられた短刀に気付いて言を継いだ。
「どうやら、弟たちがひと足先に此処で過ごさせていただいているようですな。粟田口吉光は短刀の名手でして、私には弟が多いんです」
「弟って……」
私が訊きかけた時、ちょうど姉の部屋に資材を運ぶところだったらしい薬研くんが鍛刀場を覗き、一期一振さんが居るのを認めると、嬉しそうに声を上げた。
「いち兄」
「“いち兄”?」
私は薬研くんの言葉を反芻し、隣の一期一振さんを見る。
「久しぶりだね、薬研。元気にしていたかな」
一期一振さんはいっそう表情を和らげ、私に言うよりもくだけた調子で薬研くんに話しかけた。
*
二月七日、晴れ。
本丸で暮らす刀剣男士もこの一週間で六振り増え、夕食の席がだいぶ賑やかになった。
「ねえねえ、あやめさん。今日の晩御飯なあに?」
さらっさらの髪を揺らしてあたしにまとわりつくのは、藤四郎兄弟のひとり、乱藤四郎だ。藤四郎『兄妹』の間違いなんじゃないかなって思わずにはいられない出で立ちだけど、歴とした男の子だそうで。ガラス玉のようにきらきらした目をして、かわいらしく小首を傾げている。
「カレーライスだよ。たぶん、乱ちゃん達はカレー初めてだよね」
「わあ、あやめ様、今日はからいらいすですか? 嬉しいなあ」
秋田藤四郎がやってきて、乱ちゃんの後ろでぴょんぴょん飛び跳ねた。何度教えても、からいらいすって発音してしまうのが可愛い。確かに辛いけども。
「からいらいす?」
「おいしい食べ物ですよ! この間、あやめ様が作ってくれたんです」
食事のメニューは大体あたしが考えているんだけど、和食の中にちょっとずつ現代の洋食も織り交ぜていくようにしている。刀剣男士たちは、知らない料理でも大体興味を持っておいしそうに食べてくれるので嬉しい。
「よし、そろそろ作ろうかな。みかせもお台所行くって言ってたよね」
「僕も手伝いますよ!」
「じゃあ、ボクは配膳係やろうかなぁ」
三人で厨へ向かいかけると、秋田があたしを振り返り、純粋そのものの瞳をして言った。
「そういえば、五鈴様は厨には立たれないんですか?」
あたしは、えーっとね……と迷った末、彼らを近くに呼び寄せて耳打ちした。
「姉様には、料理させちゃダメなのよ。昔からね。だからあたしが母様に付いていろいろ教わったの」
審神者の執務室がある方角から、くしゃみの音が聞こえた気がした。
*
二月九日、曇り。
先週の半ばに顕現した鶴丸国永以来、鍛刀ではこれといった成果が出ないでいたが、今日は久しぶりにいつもと違う鍛刀時間を告げられた。一期や鶴丸の時より少し短い三時間。姉に今回の鍛刀時間を伝えに行き、しばらく別の作業をしてからもう一度鍛刀場に顔を出すと、炉の中から光が漏れ出して、ちょうど人の形が浮かび上がるところだった。現れたのは、現代風の黒い衣装を身につけた背の高い人物だ。彼が燭台切光忠と名乗ったところで、外から下駄の音が近付いてきて、姉と妹、それと本日の近侍のにっかり青江が鍛刀場に到着した。
「初めまして。この本丸を預かる審神者です」
姉が挨拶すると、燭台切は意外に深く落ち着いた声で、よろしくね、と言って彼女と握手した。
「もしかして、三人とも姉妹なのかな。美人さん揃いだね」
あたしは惚れっぽいタイプではないと思うけど、こう正面切って美人なんて言われると、年頃の娘としては、さすがに胸をときめかせざるをえない。姉は完全にリップサービスだと受け取ったのか、涼しい表情を崩さなかったが、ちらっと隣の妹をうかがうと、少しうつむいて顔を赤くしていた。そしてにっかり青江はというと、そんなあたしたちの様子を見て、あたしにこっそり耳打ちしてきた。
「……ちょっと、君たちの反応、僕が顕現した時と全体的に違わないかい?」
*
「あっちが資材庫でね、あの渡り廊下の向こうが書庫になってて……」
新しく仲間になった刀剣の案内係は、その時どきの状況によって、あたしたち三人のうちの誰かか、またはその日の近侍刀剣が担当する。今回は、あたしが燭台切光忠に本丸案内を行うことになった。その途中、中庭を臨む長い廊下に差し掛かった時、ちょうど妹が向こう側の渡り廊下にいるのが見えた。一期一振と連れ立って、何やら楽しそうに談笑している。あの子は特に短刀たちとよく遊んでいるから、その延長で、兄の一期とも仲良くなったのかもしれない。彼は穏やかな性格の刀みたいだし、多分お互いに波長が合うんだろう。
あたしの視線を追って、燭台切も妹の姿を見とめた。
「さっき挨拶をした、みかせちゃんだね。そういえば、君たちにも決まった装束があるみたいだけど、君も彼女も巫女さんなのかい」
あたしたちの色違いの巫女装束を見てそう思ったのだろう。それは半分くらい正解で、半分くらいは間違いである。
「ううん、あの子はうちの神社で巫女をしてるけど、あたしは事務を手伝ってるだけ。あ、姉様も元は巫女だったのよ」
あたしは他の二人ほど霊力が高いわけではないから、欠格と見なされて巫女にはなれなかった。でも、まあ、自分にできることをやればいいよね。
あたしは回廊の対岸から、妹と一期が話している後ろ姿をしばらく眺める。それから思考を切り替え、あらためて燭台切光忠への本丸案内を再開した。
*
二月十七日、火曜日。昨日と今日は、このあいだの週末より気温は高いけれど、風が強くてときどき雪がちらついていた。この地方の春はまだまだ遠そうだ。
今日の午前の安土への出陣をもって、織豊時代への遡行は一旦終了となった。今後はさらに古い時代――戦国時代あたりに飛ぶことになるだろうと、上の姉とこんのすけちゃんが話していた。時代を遡るにつれて、敵の歴史修正主義者も手強くなってきている。審神者である姉は、出現する敵の特性を鑑みて様々な部隊編成を試しているけれど、ここ最近は、刀装が壊れる寸前のところまで追い詰められることが増えたと聞いた。直接戦の指揮をしない下の姉と私も、軽傷で帰ってきた短刀たちをたびたび手当てするようになった。
でも、こちらの陣営の戦力も日々増強されている。先週は、燭台切光忠さんを含めて四振りの男士が刀剣より励起され、刀剣男士の人数は二十あまりとなった。屋敷の中はいつも誰かの声が聞こえるほど賑やかになり、あんなにあった空き部屋もだんだん埋まってきた。この本丸最初の日の朝、屋敷の中に私たち三人と歌仙さんしかいなくて、北の方の離れも広大な中庭もしんと静まり返っていたのが嘘みたいだ。
そうそう、新しい仲間と言えば、午後の鍛刀では、また一振り藤四郎兄弟が顕現された。前田くんとそっくりな可愛い短刀で、平野藤四郎くんと言うそうだ。長兄の一期一振さんは、弟が顕現するたびに本当に嬉しそうな表情をする。私はその様子を隣で見ているのが好きだった。特に、細められた目がとても優しい色をしていて……。…………。いやいや、本丸でのみんなの様子を書き留めておこうと思ったのに、私は何を書いているんだろう。
……今日の日記は、ここでおしまいにしよう。明日も、穏やかな日になりますように。
*
二月二十三日。この時期にしてはかなり暖かい日だったみたいだ。ここ数日はお天気が良いから、洗濯物の乾きが良くて助かるね。それにしても、料理や洗濯で水に触れていると、顕現した日に水の冷たさに驚いたことを未だに思い出すよ。季節が変わればそれほど冷たく感じなくなるって、あやめちゃん達が言っていたけど。
今日は、午前中は通常の出陣、午後は他本丸との演練を行った。演練に参加したのは、最近この本丸に来た六振り。太刀の三日月宗近さんと、僕と前の主が同じだった伽羅ちゃんこと大倶利伽羅。粟田口の鳴狐くんと、鯰尾藤四郎くん。そして、短刀の愛染国俊くん。僕たち六振りが相手と刀――模擬戦闘だから木刀なんだけど――を交えている間、主は何か思案するように、ずっと僕たちの戦い方を観察していた。このところ、時間遡行軍が手強くなってきたと聞いたから、もしかしたらそれと関係があるのかもしれない。
本丸に帰ってから、廊下に掲示してある出陣予定表を確認した。新しい合戦場、三方ヶ原への出陣予定は、今日から数えて三日後だ。
*
二月二十六日。曇り。陽が殆ど出ていないこともあり、昨日よりも冷え込みが厳しいと、主と妹姫たちが仰っていた。あとは……。人間が記すような日記を書き付けるのは初めてなので、何を書けば良いか今ひとつ分からん。ともかく、俺は昨夜この本丸に喚ばれ、ひとまず主に挨拶をして睡眠を摂った後、今日の近侍である燭台切光忠から本丸の案内を受けていた。燭台切は、どうやら他者との取り留めもない会話を好む刀らしい。俺に本丸の案内をしながら、今の季節は畑では何を育てているだの、厨の設備が整っていて調理が楽しいだの、何かにつけて補足情報を寄越すのだった。
やがて、広い屋敷を丁度ぐるりと一周し終えた頃、主の妹御のあやめ様が燭台切を呼びに来た。午後の出陣に向けた軍議が行われるらしい。燭台切は、「あれ、僕は今回の部隊には入っていないと思ったけど、予定が変わったのかな」と不思議そうに呟き、俺の前を辞して主のお部屋の方に向かって行った。
午後。何かやるべき仕事は無いかと主に伺ったところ、では、鏡を通して午後の出陣の様子を一緒に見て行くと良い、とのお返事だった。俺が失礼しますと声を掛けて主のお部屋の襖を開けると、待っていたのは、俺と一日違いでこの本丸に顕現した獅子王という刀だった。
「よっ、長谷部か。お前もここに呼ばれたのか?」
「まあ、な」
俺は、主のために用意された中央の座布団を挟んで、獅子王の向かい側に腰を下ろした。
「俺も二日前にここに来たばっかりでまだ練度が低いからさ、今日はひとまず実際の出陣の様子を見ておけって。もちろん俺自身も出陣したいけど、仲間の戦い方をじっくり見るのも楽しそうだよなー」
こいつもよくよく他者との交流を好む刀であるようだ。彼の話に相槌を打っていると、静かに襖が開き、この室の主が滑るように現れた。主は俺たちの姿を見とめると、「すみません、待たせたようですね」と言って、円形の鏡の前に座られた。
「……今回の合戦場は、三方ヶ原。六日前の金曜以来、二度目の出陣です」
三方ヶ原。俺にとっては随分と懐かしい地名だが、それは今は置いておく。燭台切から聞いたところによると、先日の出陣では、敵の遠隔攻撃に部隊全体の守備力が保たず、主が大事を取って部隊を一旦帰還させたということだった。それから暫くは、様々な部隊編成で長篠や越前への出陣を繰り返し、皆に戦闘経験を積ませていたという話だ。流石は俺の主。難局を無理に押し切らず、一度撤退して冷静に作戦を練り直すことの重要さを解っておいでだ。
「主、今回はなんか秘策があったりするのか? 鶴丸のやつが、今日はもともと出陣部隊に入っていなかったが出陣することになったぜー、って言ってたけど」
「……うまく行く確証はありませんが。一度戦場に出てしまえば、こちらから介入できるのは陣形指示か帰城命令くらい。その時どきの戦況に沿った対応は、彼らに任せるしかありませんから」
主は指先で鏡の表面を擦り、陣形の指示を行われた。定石通り、相手の逆行陣に対して有利な雁行陣。それにしても、迷い無く逆行陣を選ぶということは、敵軍はよほど早期決着を所望していると見える。逆行陣は、守備力を代償に機動力を大きく底上げする陣形だ。
一瞬の静寂ののち、低い風切り音。敵の弓兵による遠隔攻撃から、第一の合戦場での戦いが開始された。此方の部隊は、隊長に三日月宗近、次いで鶴丸国永、大倶利伽羅、一期一振、大太刀の石切丸、殿には燭台切光忠。初めは練度差の大きい部隊だと感じたが、暫く戦いぶりを観察していると、主の隊員配置の意図が何となく読めてきた。最も練度の低い大倶利伽羅に二体以上の攻撃が来そうになれば、鶴丸か一期が一体を引き受ける。燭台切と石切丸は、戦局を見ながら隊長の補佐を行う。鶴丸が「ほらほら、こっちだぜ!」と敵を陽動している反対側では、石切丸が大太刀を薙いで敵脇差を蹴散らし、ついでにさりげなく敵の打刀が味方の間合いに入るのを防いでいた。つまり――
「……一振りに敵の攻撃が集中しないよう、出来る限り一対一の組み合いに持ち込もうとしている」
俺の呟きに、主は「さすがですね」と頷いた。
「以前、違う部隊編成でこの合戦場に出陣させた時、体の小さい短刀だけが明らかに集中攻撃を受けていました。同じ部隊に、練度の低い脇差や打刀も混ざっていたにも関わらず、です」
「ってことは、敵には……」
「そうです。弱い者……“弱そうに見える者”を集中して倒した方が効率が良い、と考えられる程度の知能はあると見ました」
「だから、見た目では力量の差が分からないように、背格好が似た太刀と大太刀だけを編成されたのですね」
主は僅かな時間だけ鏡から俺に視線を移し、また一つ頷かれた。
「今回、敵軍が短期決戦を選んだことは、わたしたちにとっても僥倖でした。どの刀の練度が低いかを敵に悟られる前に、ひと息で勝負をつけられますから」
鏡の向こうの戦場では、三日月宗近が極めて優雅な所作で最後の敵の首を刎ねたところだった。
結論から述べると、主の戦略は概ね狙い通りの効果を発揮した。六振りの刀身・刀装ともに大きな損傷もなく四つの合戦場を切り抜け、いよいよ次は敵の本陣である。しかし、それまでさほど考え込むことも無く指示を出していた主の手が、陣形決定の時に僅かに止まった。
「……魚鱗の陣?」
攻撃力と衝力が上昇する陣形である。俺も主と同じく、敵の行動に疑問符が浮かんだ。今までの行動原理から考えて、機動力が上がる陣形を選択しそうなものだが……。
「有利陣形は逆行陣だけど……この敵さんたち、何か考えがあるのかもな」
獅子王が半身を乗り出して鏡の中の敵軍を覗き込んだ。主はしばらく考え込まれ、やがて細い指で扇子を一つはじいて仰った。
「では……こちらは、横隊陣としましょう」
『なるほど。あい分かった』
鏡の中から三日月宗近の声が聞こえた。これは用途の限られた念話に近いもので、戦場に居る隊長にしか審神者の指示は聞こえないらしい。三日月は主のご指示通り、部隊の六振りに横隊陣を組ませた。横一列に並んだ彼らは、敵の銃兵の攻撃を合図代わりとして、ほぼ同時に刀を抜いた。
魚鱗の陣を選択した敵軍の攻撃は、成程なかなか重いようだった。だが、自軍も押されてはいない。一体、二体、三体と、着実に敵を切り伏せていく。
「石切丸。あと何体か分かるか」
鶴丸国永が、刀身に付着した血を払いながら石切丸を振り返った。
「二体だね。脇差が一体、薙刀が一体」
「ふむ。薙刀が厄介だな」
三日月宗近らも合流し、横隊の陣形を組み直して皆で辺りを見回す。彼らが視認できる範囲にはただ低い土煙が燻っているのみで、敵影は見当たらなかった。一旦何処かに身を隠し、一気に攻撃を仕掛ける機を図っているのだろう。俺は鏡越しに、合戦場の周囲を観察した。
「この辺りで隠れ場所になりそうなのは……」
彼らから見て右側の木戸の裏か、左方の物置蔵の陰。
「二択だな。どっちから来ると思う?」
獅子王が主に話しかけた。主は鏡から目を離すことなく、横一列に並んだ第一部隊の六名をじっとご覧になっていたが、ややあって、何かに気付かれたように「ああ」とつぶやいた。
「もし、わたしの予想が当たっているなら、そうですね……」
そして、白い扇子である一点を指し示された。――彼らから見て右手の、簡素なつくりの木戸。
何故そちらを、と俺が尋ねるのとほぼ同時に、鏡の中の合戦場から鋭い鳴き声が聞こえた。敵の脇差が襲い掛かってきて、三日月宗近と切り結んでいるところだった。脇差が飛び出して来たのは、物置蔵の陰。
「こっちは囮だ」
すぐさま、大倶利伽羅が燭台切たちに向かって叫んだ。
「オーケー!」
そう答えた時には、もう燭台切は木戸の裏から現れた薙刀を一太刀で両断していた。薙刀はたちまち黒く蠢く塵となり、溶けるように霧散した。
*
二月二十六日。このところ、一五七三年・三方ヶ原の合戦場で足踏みしていたが、今日の出陣でようやく突破口が開けた。さあ、第一部隊の帰還を出迎えてやらねばならないと自室の襖に手を掛けた時、わたしの後ろをついて来ていたへし切長谷部に声を掛けられた。
「主。先ほどは何故、本命の薙刀が隠れているのが右側の木戸の方だと思われたのですか?」
わたしたちはそのまま話しながら中庭に面した廊下に出て、一緒に正門の方へ向かう。
「敵の行動原理を思い出したからです。子どもの姿の短刀が集中攻撃されたことを話したでしょう。あれらは、見た目で弱点を判断してそこを突いてくるらしいと分かったので、あの時の第一部隊の並び方を見て、たぶん右手側を崩しに来ると思ったんです」
「並び方?」
へし切長谷部は、あの時の横隊陣の並び順を思い出しているようだ。一番左手側が三日月、その隣が鶴丸……。その調子で反対側の端まで順に思い出せれば、おのずと答えは出る。
「……ああ。なるほど。燭台切光忠の眼帯ですね」
「あの並びになったのは偶然ですが。敵はあの六人を見て、一番端の男の右側が死角になっていると思ったのでしょうね。ですが、敵の特性については昨日の軍議の際に第一部隊にも伝えてありましたから、わたしだけでなく六名とも敵の動きは読めていたと思いますよ。この状況なら本命は右から来ると。だからこそ、あれだけ落ち着いて対応できた」
「敵側が脇差を使って陽動を仕掛けて来たと思いきや、反対にこちら側が敵の行動を誘導していたという訳ですか。――流石は主。歴戦の軍師にも劣らぬ采配、お見事でした」
大仰な賛辞に、わたしは言葉ではなく軽い苦笑を返すに留めた。よりにもよって、本物の軍師である黒田様のお家にあったへし切長谷部にそう言われては、新しい主人に対するただの世辞だと分かっていても恐縮するというものだ。
へし切長谷部はわたしの考えを余所に、まだ話を続けていた。
「此度の合戦で改めて確信しましたが、この長谷部、素晴らしい主に巡り合うことができて幸せです。明日からも是非、戦でも雑用でも何でも俺にお申し付けください」
俺に、というところを強調して、彼はわたしに恭しく臣下の礼をとる。そして頭を上げると、真っ直ぐな目でわたしを見つめてきた。思わずこちらが目を背けたくなってしまうほどに。
「……ええ、これから宜しくお願いしますね」
頭半分ほどの身長差がある青年の顔を見上げ、わたしはゆっくりとひとつ頷きを返した。
第三話「結紐」
三月一日。布団から出て飾り障子を開けたら、中庭の至る所にこんもりと雪が積もっていた。道理で昨晩から寒いと思った。ちらつくくらいだったら先週もあったけど、こんなに積もるのは意外と今年初じゃないかしら。
朝ご飯が済んでしばらく経った頃、ふと中庭に目をやると、短刀や脇差らが皆で雪遊びをしているのが見えた。どうやら、人の身体を得て初めて雪に触れるのが楽しいらしい。
「あやめさまも、いっしょに“ゆきがっせん”しましょう! はやく、はやく」
今剣がうさぎみたいに飛び跳ねてあたしを手招きしている。立ち上がって中庭に面した廊下に出ると、最近顕現した大倶利伽羅がちょうどそこを通りかかった。
「騒々しいな……」
「良いじゃない、楽しそうだし。大倶利伽羅も混ざる?」
「……馴れ合うつもりはない」
彼はふいと横を向くと、そのまま廊下の向こうに歩いて行ってしまった。
……こんな素っ気ない返事をされたって、あたしは全然へこまない。彼が見た目の印象ほど怖い人じゃないことを、もう知っているからだ。五虎退がこっそり教えてくれたんだ。この間、虎くんの首のリボンを失くしちゃって、それを大倶利伽羅がずっと一緒に探してくれたって。
良いとこあるじゃない、お兄さん。あたしは歩き去る大倶利伽羅の背中に心の中で話しかけてから、今剣に手を振り返した。
「雪合戦ね、よーし、負けないよ~!」
*
三回戦余りを数えた雪合戦は、三条派を中心とした連合チームの勝利となった。と言っても、最後はチーム関係なくただただ雪玉をぶつけ合うだけの遊びと化していた気もするけど。
「あー、楽しかった。粟田口チームもいい線いってたよね? 平野と前田が連携プレーしたとことかすごかった」
「すばしっこさなら負けないつもりだったんですけどね~。今剣の空中攻撃がなぁ」
「あと、笑ったのは鶴丸の隠れ身の術。背景が白いから本当に見分け付かなかった」
あたしと鯰尾藤四郎は雪均し用のスコップを返却するために倉庫への道を歩いた。中庭から倉庫へ続く道には白い化粧を施された常緑樹が茂っていて、細い枝の間からきらきら太陽の光が見えた。それを見上げて歩いていたら、日光に解かされた雪が重く滑る音がして、次の瞬間にはあたしたちの顔は文字通り真っ白になっていた。
あたしたちは一瞬の沈黙ののち、顔に大量に積もった雪を払い、お互いの鼻の下に白い髭が出来たのを指差して思いきり笑い合った。
*
三月四日、曇り。このあいだは突然の大雪でびっくりしたけど、ここ数日は少し気温が上がって来たようで良かった。あ、雪と言えば、他のみんなから雪合戦の話を聞いて、二日前に顕現したばかりの堀川国広くんと和泉守兼定さんが残念がっていた。あと一日早かったら参加できたのになぁ、って。そうしたら下の姉が、この地方では雪は珍しくないからまた降るかもしれないねと言った。今度はみんなで雪遊びできたらいいよね。
それから、今日は第一部隊が京都の椿寺に出陣して、無事に任務達成。三方ヶ原を突破してから、かなり順調に進軍できていると上の姉が言っていた。今日の合戦場では、新しい刀剣男士・山伏国広さんも仲間に加わったようだ。山伏さんは、本丸に到着して堀川くんと山姥切くんの姿を見るなり、「おお、兄弟ではないか」と嬉しそうに言って彼らの肩を抱き、頭をわしゃわしゃ撫でていた。
午後、各種資材の在庫を計算していたら、加州くんが私の部屋に顔を出した。
「あ、みかせさん。鯰尾と堀川見た? これから一緒に出陣なんだけど」
「さっきこの部屋に寄っていったよ。今はどこにいるのかな? 確かあっちの廊下を曲がっていく足音がして……。とにかく、それほど遠くには行っていないんじゃないかしら」
「あっちね、分かった。ありがと」
彼は、も~どこ行ったんだよーとぼやきながら二人を探しに行った。……加州くんは、確か二月の初めくらいにここに来たんだったかな。よく隊長を務めてくれるし、周りの子のお世話も焼いてくれるし、もうすっかりお兄さんだなぁ。
そういえば、彼にも同じ主の許にいた時代の相棒がいるって聞いたことがある。確か、名前は……。
*
三月十一日、雪。この間は堀川国広と和泉守兼定があまりにも残念がるものだから、きっとまた雪が降るよなんて言ってしまったけど、本気でこんなに早く降るとは予想外だった。まあ、みんな雪合戦をしたり雪だるまを作ったりして楽しんでるみたいだし、結果オーライかな?
昨日の出陣で、またひとり仲間が増えた。江戸時代の打刀、大和守安定。帰還の出迎えをしたのが偶然にもあたしと加州清光だったので、大和守は本丸に来てすぐに相棒と再会することになった。待たせたみたいだねって話しかける大和守に、別にそんなに待ってないしーって清光は応えていたけど、やっぱり声と表情は嬉しそうだった。
「ねえ、鈍ってないか、久しぶりに勝負してよ」
「だれが鈍ってるって? 後悔しないでよね」
その言葉通り、彼らはさっそく朝から道場の予約をとって、妹が昼餉の用意ができたことを知らせに来るまで延々と手合わせをしていたそうだ。
さて、今日は雪の影響で午後の出陣はお休み。毎週水曜日は姉が審神者会議に出席するから元々出陣は無しになることが多いんだけど、今日はさすがにその会議も中止らしい。
手持ち無沙汰のあたしは、洗濯機と乾燥機にかけたみんなの手ぬぐいを空き部屋に持ってきてせっせと畳んでいた。あたしの横で、鯰尾藤四郎がああでもないこうでもないと独り言を言いながら刀装作りの練習をしている。今のところ、特上一割、上が二割、並が六割、失敗一割という感じ。ま、まあ、これからもっと上手になるよ、きっと。
やがて、あー疲れたーと言って鯰尾は自分の結い髪を解き、そのまま後ろに体を倒して寝転んだ。藺草色の畳の上に、長い黒髪がいくつもの束をつくって流れる。
あたしは何となしに彼の方へ手を伸ばし、その柔らかい髪を持ち上げた。握る力を少し緩めるだけで、それは重力に従って指の間からするすると零れていく。あたしはしばらくのあいだ、その感触を楽しんだ。
「あやめさん、楽しい? さわるの」
笑い含みの声に、あたしはようやく我に返った。
「ん? うん。さらっさらで綺麗だよねぇ」
「……ねえ。じゃあ俺も、触り返していいですよね」
言い終わるか終わらないかのうちに、鯰尾はあたしの脇腹にくすぐり攻撃を仕掛けてきた。なんで脇腹が一番弱いことを知ってるんだ。あたしはたまらず畳に倒れ込んで笑い転げた。その合間に何とか反撃しようと、鯰尾の脇やらお腹やらをくすぐってみる。そうやってひとしきりくすぐり合って、ようやくお互いの手が離れる頃にはふたりともすっかり笑い疲れていた。
鯰尾は何か思いついたように、寝転んだ姿勢のままあたしの耳元に顔を寄せ、笑いの余韻が残る声で囁いた。
「俺たち、こうしてるとさ、何ていうか……ばか、みたいじゃない?」
あたしたちはもう一度目を合わせ、今度はなるべく声を殺して密やかに笑い合った。
障子の向こうに透けて見えるのは灰色の世界。昨夜未明から降り続く雪が、屋敷の屋根に積もっていく音が聞こえる気がした。
*
三月十六日、晴れ。今日の出陣でまたひとり仲間が増えた。打刀の蜂須賀虎徹。初日に政府で見せてもらった五振りのうちのひとりだ。あたしは二番隊隊長の愛染国俊とふたりで、本丸内を軽く案内していくことにした。その道すがら蜂須賀の話を聞くに、彼には同じく虎徹の名を持つ兄弟がたくさんいるそうだ。ただ、ある弟のことに言及した時はかなり溺愛していそうな口ぶりだったのに、お兄さんの話になると途端に眉間に皺が寄ったのは気のせいだろうか……。
ともかく、あたしと愛染は最後に姉様の執務室まで蜂須賀を送り届け、元来た道を戻ることにした。
「兄弟かー……。そういえば、来派にも兄弟がいるんだっけ」
「ああ。オレみたいに付喪神になってる奴だと、蛍丸とか。ホラ、この間演練で会っただろ」
「あ、あのかわいい大太刀の子? そうなんだ」
早く会えたらいいよね、とあたしが言うと、愛染は鼻の下を掻いて口を尖らせた。
「ま、寂しいってほどじゃねぇけどさ。……そうだな。早く会えたらいいな」
*
三月十七日、晴れ。昨日・今日は本当に暖かくてまるで春みたいだけど、来週にかけてまた天気が悪くなるって言われているから油断できない。ともかく、天気が良いうちにということで、今日も第二部隊・第三部隊が朝から連続で出陣することになっていた。
「秋田、秋田。準備できた? 一緒に行こっか」
ばたばたと出陣準備をしていた鯰尾藤四郎は、秋田藤四郎を振り返って手招きしたかと思うと、急に秋田の装束の白い紐を指差した。
「あ、待った、ここの結び目ほどけかけてる。ちょっと動かないで」
鯰尾が器用に肩の結び紐を直してやると、秋田はお礼を言って隣の短刀部屋へ小夜左文字を呼びに行った。その一部始終を感心して見ていたら、鯰尾が視線に気付いてあたしを振り返った。
「ん、何?」
「鯰尾もお兄ちゃんなんだなぁと思って」
「俺たちは兄弟が多いからな~。今は脇差の相方もいないし、俺といち兄でまとめないとね」
「骨喰藤四郎くんだっけ」
姉様の部屋の刀帳に書いてあったのを見たことがある。
「うん。骨喰が来たら、色々教えてやりたいな。ほら、ここに来てからひと月以上経つから、だいぶ練度も上がったじゃないですか?」
鯰尾は話しながら髪結い用のいつもの赤い紐を探していたが、なかなか見つからないようだった。
「あ、あれって昨日の出陣で切れちゃったんじゃなかった?」
「そうでした。みかせさんが直してくれてるけど……それまではどうしよっかな」
「あたしの使う? そんなに女性っぽい細工でもないし、わりと丈夫な素材だし」
「いいの?」
あたしは髪結い紐を解き、返すのはいつでもいいからね、と鯰尾に渡した。
「ありがとうございます。よしっ……と、こんな感じかな」
鯰尾の耳の下辺りで、小さい飾り玉の付いた青い結紐が揺れていた。
時と場合によって若干の違いはあるが、うちでは姉様・あたし・妹の三人のうち誰かが出陣部隊長に霊符を手渡しすることになっている。あたしは霊符の数と効能を入念に確認しながら第二部隊の隊長を探していた。
「清光、いたいた。今日隊長だよね。鯰尾と秋田、転送機のところに先に行ってるって」
「りょーかい。俺もすぐ行くよ」
「あと、姉様から預かったこれ、みんなの分。それと、いつも通りの言伝。無理はしないことと、その目安として、もし刀装が壊れそうになったら――」
「すぐに全員帰還させること、でしょ。分かったよ」
清光は彼独特の困ったような微笑を浮かべ、六名分の御守りを受け取った。
「ね、あやめさんってさ、お姉さんのこと好きだよね。なんか顔が嬉しそう」
「そうね。姉様のこういう方針好きよ」
他の本丸の運営事情を聞く機会は多くはないが、戦績をより早く伸ばすことを重視して、男士が中傷になっても進軍させる審神者もいるという。他の本丸のやり方に口を出すつもりはないけれど、あたしはあくまで刀剣男士の傷を最小限に抑えようとする姉の方針が気に入っていた。
*
三月二十日、曇り。
――二日前の審神者会議で、検非違使なる敵の存在が周知された。いや、歴史用語で「検非違使」と言えば現代の警察官に連なるものだから、本来我々の敵にはなりえないのだけれど、ともかく、時間遡行軍とは明らかに異なる特性を持っている新しい敵のことをそう名付けたらしい。検非違使なるものがどのような能力を持っているかは未だ調査段階だが、差し当たっては、十分注意して進軍するようにとのことだった。
この事態を受けて、当分の間は出陣を見送るという審神者もいるというが、全ての本丸で活動が停滞すれば、歴史修正主義者らに益々良いように振る舞われるばかりだ。陸奥国第零地区二十四番、わたしの本丸では、元弘の乱の渦中の鎌倉への出陣は一旦見合わせ、様子見も兼ねて、もう何度も訪れている織豊時代の関ケ原や本能寺で皆の練度を上げる方針とした。
今日の部隊は、隊長に一期一振、太刀の和泉守兼定と鶴丸国永、打刀の鳴狐、脇差の鯰尾藤四郎、短刀の愛染国俊。いつも通り、無理な進軍はしないようにとよく言い含め、霊符を持たせて送り出した。
妹たちと共に指令用の室に籠り、戦況を映し出す鏡を三人で覗き込む。一戦目は、拍子抜けするくらいに普段と何も変わりなかった。警戒しつつ細道を進み、なだらかな山の中腹に敵を追い込んでの二戦目。見たところ、残った敵は大太刀と打刀が一体ずつ、残りは短刀のようだ。よかった、この程度なら何も問題ないはずだ。鶴丸が宙返りしながら大太刀を屠り、鳴狐は俊敏に辺りを飛び回る竜骨型の短刀を二体立て続けに斬った。更に残った一体を和泉守が仕留めようとしたところで――予想していなかったことが起こった。敵の打刀は得物を振りかぶったまま突然静止し、地獄の底から響くような低い呻き声を漏らしたかと思うと、黒い砂となって崩れ落ちたのだ。
何者かが、和泉守より先にこの打刀に刃を突き立てたとしか思えなかった。だが、人ならざる怪である歴史修正主義者に対してそれが出来る者が刀剣男士以外に何処にいる? 戦場にいる一期らもわたしと同じように考えたらしく、六振りは一層警戒した様子で辺りを見回した。
果たして、霧散した打刀の向こうに「それ」は姿を現した。見た目は鎧に身を固めた武者のようだったが、明らかにヒトではない――さりとて、時間遡行軍と全く同じとも言えない――異質な邪気を放っていた。武者は落ち窪んだ眼を爛爛と光らせ、獲物との距離をはかるように刀剣男士らを睨み据えた。
和泉守と鶴丸が、刀を正面に構えたまま小声で何事かを言い交わした。あれは何だ、自分達の敵を排除してみせたが味方という雰囲気ではない、という意味の話をしているようだった。隊長の一期一振が一歩前に出て、部隊の皆に注意するよう呼び掛けていた。それを聞きながら、わたしは数日前の審神者会議の記憶を手繰り寄せた。時間遡行軍とは別種の、新しい敵性存在――。検非違使、という名称を思い出し、鏡の向こうの部隊に指示をしようと口を開きかけた時、管狐が呼び鈴も鳴らさずに文字通り室へ飛び込んできた。
「審神者さま。政府より至急の入電です」
わたしは彼が携えていた巻物を受け取り、内容に目を通した。そして、すぐに鏡の縁を両手で掴んで隊長に話しかけた。
「一期。聞こえますか」
「はい、主」
一期一振はすぐに応答した。わたしは自分の心音が増大していることが鏡の向こうに伝わらぬように努めながら、出来る限り明瞭な発音で告げた。
「今すぐ、全員帰城させなさい。その敵は危険です」
*
――姉の指示は簡潔で明確だった。何があったのかと隣で彼女の様子をずっと窺っていたあたしは、ふと膝の上の巻物に気付いて急いでそれを開いた。姉が読み終わってすぐにあたしに寄越したものだ。その中には、検非違使なるものの生態報告が記されていた。あたしは紙面に目を走らせ、傍線が引かれている文節を見つけてそれを読み上げた。
「『検非違使の特徴、その四。最も練度の高い刀剣の技量を鏡のように映す』……。――これって、まさか」
あたしが姉の方を振り仰いだ時、ちょうど鏡の中から「え……」と虚を衝かれたような一期一振の声が返ってきた。仕方ないことだけれど、鏡を介しての通信には少し時差が発生する。遡る時代が現在から遠ければ遠いほど、この時差は大きくなる。
姉がもう一度鏡の中に話しかけようとした時、合戦場の左手――愛染くんがいる方から、聞き慣れない声が割って入ってきた。子どもの声だ。あたしもその子におかしな気配は何も感じないし、姉も同じ意見のようだったので、たまたま戦いに紛れ込んでしまった現地の子どもだと思う。
次いで、愛染国俊がその子どもの肩を押して茂みの方に誘導している画像が映し出された。
「わ、おまえ、どっから……。危ないって。今はここに隠れてろよ、いい子だから」
子どもに言い聞かせるその一瞬、検非違使に背を向ける形になった。愛染くんが再度振り向いた時、検非違使がすぐ手の届く距離で彼に刃を向けていた。
「愛染くん、危ない」
この一言があちらに届くのは何秒後か分からないのに、あたしは夢中で叫んだ。短刀の俊敏さをもってしても、避けきれるかどうか――。
あたしが言い終わるか終わらないかのうちに、刀を刀ではじく高い音が響いた。一瞬遅れて、愛染くんのものではない呻き声。鯰尾だ。
「鯰尾! 悪い。大丈夫か」
「平気。……でも、斬撃がめっちゃくちゃ重かった。何なんだこいつら、強い」
鯰尾は自分よりも遙かに丈の高い小山のような検非違使に対峙し、もう一度刀を構え直した。愛染くんにも鯰尾にも大きな傷はついていないことを確認して、あたしは一旦胸を撫でおろした。
「主からの指示だ。総員退却!」
検非違使からの攻撃をいなしながら一期一振が隊員に通告する。他のみんなも、それぞれ検非違使と斬り交わしながらも撤退準備に入っていた。
「くッ……そ、こいつら、退路を塞いできやがる。おまけにこっちからの攻撃が通らないんじゃあ……」
「鳴狐、それ以上は、それ以上はいけませんよう! もう一度刃がこぼれたら、今度こそ折れてしまいます!」
検非違使は執拗に男士たちを追ってきて、退却させまいとしているようだった。悔しいけど、あたしが見ても分かるほど力の差は歴然で、見る見るうちに刀装が砕け、みんなの顔や躰に深い傷が増えて、衣が赤く染まっていった。姉の両手はまだ鏡の縁を掴んでいる。あまり強く握るものだから、彼女の指先からはどんどん肌の色が失われていた。
「――鯰尾」
一期の切迫した声を追う。ひときわ大きな体躯の検非違使が、鯰尾に斬りかかろうとするところだった。鯰尾の反応は一瞬遅れる。右手を動かした時に顔を歪めていたから、最初に検非違使の攻撃を受けた時の傷が思ったよりも深かったのかもしれない。その一瞬の隙を突いて、巨大な検非違使が二太刀目を鯰尾に振り下ろした。
その一太刀は刀剣男士の肌と肉を正確に断った。……鯰尾の、ではなく、咄嗟に検非違使と鯰尾との間に割って入った一期一振の。
「一期さん!」
悲鳴にも近い声で妹が叫んだ。時を同じくして、鶴丸国永が一期のところに駆けつけ、何とか検非違使の息の根を止めた。その鶴丸も、衣の白い部分のほうが少ないほどの酷い怪我だ。
鯰尾は初めて見る顔で、自分を庇った兄の躰が赤い液体で染まっていくのを見ていた。彼自身も傷が深いのに、自分の傷の痛みなんて全く気にしていないみたいに。
戦いのなかで斬られたのか、鯰尾の髪に絡まっていた青い結紐がついに血溜まりの中に落ちて、飾り玉が小さな音を立てた。
*
……くそ、だめだ、全然歯が立たねぇ。一期さんも和泉守も酷い傷だし、鯰尾も……。鯰尾、ごめん、最初にオレを助けた時の傷がなけりゃ、もっと戦えたかもしれねぇのに。オレも、もう……。あと一太刀浴びちまったら、おしまいだってのに、体がうまく動かねぇときた。
「愛染、後ろ」
「お気をつけてくださいませ! ああ、間に合わない……!」
遠くから鳴狐とお供の狐の声が聞こえる。ああ、確かに、その距離からこっちまで来てもらうのは無理だ。変テコでやたら強い敵は、もうオレの目の前まで来てる。ここは自慢の俊敏さを活かして華麗に……っと行きたいとこだけど、これは、さすがに……。そっか、オレ、ここで折れるのかな。あんまり主さんの役にも立てずに、主さんの世界の祭りにも行けずに、きょうだいにも……会えずに……。
ある意味覚悟を決めていたオレの目に入ってきたのは、奴の鈍い色の大太刀……じゃなくて、空中に浮かぶいくつもの小さい光の粒みたいなやつだった。その中から、オレと同じくらいの背丈のヒトの形がちょっとずつ浮かび上がる。周りで淡い色に光ってんのは……蛍……?
オレの前に現れた奴の姿は、逆光になっててよく見えない。でも、なんでか、オレを助けてくれたそいつのことを、オレはよく知ってる気がした。ちょっとむくれたような声で、そいつは言った。
「……まったく、気をつけてよね、国俊。俺たち、これからまだまだ一緒に戦うんでしょ?」
第四話「霊符」
――三月二十一日。
重傷二名、中傷三名、軽傷一名。刀装はほぼ全滅。これが、データベースに登録された昨日の出陣の戦績だった。あたしは手入れ部屋の前に立って、手入れ残り時間を示す数字が一秒ずつ減っていくのを長い間ただただ見つめていた。
「よ、あやめ。あいつらの様子はどうだ」
いつの間にか、鶴丸国永があたしの隣に立っていた。
「一期は、姉様がみてるわ。特に傷が深かったから……」
「ということは、鯰尾の方はみかせ姫か」
頷いて鶴丸の方を見ると、左腕の包帯がとれかけているのが目に入った。彼の腕と、手入れ部屋の隣の空き部屋を交互に指差す。
「来て。そこの部屋で巻き直すわ」
刀剣男子の怪我は、手入れ部屋で然るべき処置を行えばほぼ確実に直るようになっているが、その代わり、人間のように時間の経過によって自然に傷口が塞がることはない。だからあたしたち三人は、すぐ手入れできない者に対しては絆創膏や包帯で応急処置をして、手入れの順番を待たせることにしていた。そうすれば待っているあいだ、傷口から血液が流れ出たり雑菌が付いたりするのを防ぐことができる。
「……ごめんね。手入れの順番待ち、結局後ろの方になっちゃって」
「なに、あいつらの方が傷が深かったからな。俺なら、少々朱が入って鶴らしくなっただけのことさ」
鶴丸の場合は汚れの大部分が返り血だったので、結果的にはギリギリ軽傷の部類だった。でも怪我は怪我なのだから痛くないはずはないのに、彼が努めて普段通りに振る舞ってくれているのが有難くもあり、申し訳なくもあった。あたしは包帯を巻き終わると、俯いて彼の手を取った。最近鶴丸が隊長に任じられて出陣した時、あたしが姉の代理でこの手に霊符を握らせたのを思い出した。
「あたしは……こうなることをちゃんと想像して、その重みを感じて、霊符をあなたたちに託せていたのかな」
独り言のつもりだったが、自分で自分の言葉を聞いて、どうしてか指先が震えてきた。鶴丸はそれに気付いて、子どもをあやすようにあたしの手を包んでくれた。
「俺たちは戦の中で生きてきた刀だが、君らはそうじゃないだろう。初めて触れる世界を理解して自分の中で消化するには、そりゃあ時間がかかるものさ」
あたしは返事ができなくて、俯いたままやっと頷いた。彼の言葉が綿雪みたいに心の底に染みていく。鶴丸はあたしの頭を軽く撫でながら、ちょっとおどけたように付け足した。
「俺も、君らが当たり前に使う面妖な機械の操作方法なんかは未だにさっぱりだ」
*
東の空が淡い紫色に染まるのを見とめて、もうじき夜が明けることに気付いた。手のひらひとつ分だけ静かに障子が開いたかと思うと、小さな管狐がわたしのもとまで歩いてきて、眠っている怪我人を気にしながら口を開いた。
「審神者様、大丈夫ですか? 確かに主や霊力の強い方が傍にいらっしゃれば刀剣男士の傷の治りは早くなりますが、その代わり、主様の霊力を普段よりずっと多く消費することになります」
わたしは頷いて、「おすわり」の姿勢でわたしを見上げている管狐の毛並みを撫でた。そこで初めて、自分の全ての動作が緩慢になっていることに気付いた。流石に霊力不足で身体が思うように動かない。
「……わたしは大丈夫です。それよりも……わたしが練度差の少ない部隊を送り出していれば、おそらくこうはならなかったでしょうに」
弱っているためか、自責の言が口をついて出た。――あの巻物に書かれていた検非違使の特徴は、「最も練度の高い刀剣の技量を鏡のように映す」。今回は隊長の一期一振が最も練度が高く、他の五振については、戦闘経験を多く積ませるために練度がまちまちな者同士を敢えて編成していた。その結果、一期一振と同程度の練度の「検非違使」に部隊をほぼ壊滅させられた――。事の顛末はこうだった。
管狐は小さく首を振った。
「いえいえ、敵の特徴が解析できて主様に通達があったのが戦の最中だったのですから、審神者様のせいではございません。時の政府のほうでもですね、今回のことを重く受け止め、手入れ資材を特別に九割補助すると……」
そこで一期一振が目を覚ましそうになったので、管狐は「お話は後ほど」と一つ礼をして室を出ていった。
わたしは霊力がより効率的に渡るように彼の手を握った。一期は目を覚ましそうというよりは、意識が混濁して何かに魘されているようだった。
「……一期」
小声で呼んでみると、彼は譫言のような単語を間欠的に口にした。わたしはその中から意味を成す言葉を聞き取ろうと試みた。
「炎――炎が」
それが聞き取れた時、わたしは一期一振という刀の来歴を思い出し、彼がどのような夢を見て魘されているのかを理解してしまった。思わず繋いだ手に力を込めた。そして、少しでも悪い夢を見ずに眠れるようにと、反対側の手を傷口の上にかざして霊力を送り続けた。
*
鯰尾藤四郎はまだ目を覚まさない。さっきより寝息は安定してきたから、苦しくはなさそうだけれど……。と思っていたら、ゆっくりと彼の目が開き、二秒ほど置いて急に布団から飛び起きてしまった。
「いち兄、無事――あ、いっってぇ……」
「だめだよ、まだ横になっていないと」
あわてて布団に逆戻りさせ、痛そうなところをさすって落ち着かせる。そうしていると、鯰尾くんは俯いて一言だけぽつりと零した。
「俺のせいで……。俺のことを庇ったんだ、兄弟」
その場面は私も姉たちと一緒に見ていた――見てしまった。鏡越しでもあんなに恐ろしかったのだから、目の前でそれを見てしまった彼の心理的負荷は想像するに余りある。私は鯰尾くんの髪を梳きながら、努めてゆっくりと話しかけた。
「一期さんは、姉様がみてくださっているから絶対大丈夫。……それに、お兄さんも、『自分のせいだ』なんて考えてほしいと思ってないよ。きっとね」
*
――何の夢を見ていたのだったか、もう思い出せない。ただ、全てを燃やしてしまうあの炎が鎮まって……代わりに心地が良くてあたたかい何かが――。
目を覚ますと、灯りの消えた薄暗い部屋だった。いや、違う。私が眠りやすいように灯りを消してくださっていたのだ。
いつもよりやや苦労して身体を起こす。人の体というものは、弱るとこのようになるものなのか――。自分の身体を検分して感心していると、部屋の隅、半蔀に凭れ掛かって五鈴様が眠っていらっしゃるのが目に入った。ということは、自分が怪我の重さの割には回復が早かったらしいことと考え合わせると、ひと晩中彼女が霊力を供給してくれていたのだ。私は彼女の休息を妨げぬように注意しつつ、少しでも寝苦しくなさそうな体勢をつくってそっと毛布をかけ、一旦室を出ることにした。
室を出ると、朝日の眩しさが少し目にしみる――と思う間もなく、襖の前に弟が駆け寄ってきた。
「いち兄。傷は?」
「鯰尾か。もうすっかり良いよ。主のお蔭だ」
鯰尾の方はどうだい、と訊くと、みかせ様の霊力を分けていただいたので早めに回復して手入れ部屋を出られたという。また、鳴狐はあやめ様に手当てをしていただいたとも。主たちには、兄弟親戚ともども大変なお世話をかけていることについて改めて御礼に伺わねばならないな。
鯰尾はもう一度私に呼びかけると、珍しく話しづらそうにして顔を伏せた。
「あのさ……ごめん。俺が……」
私はあの場で起こったことを思い出し、鯰尾の頭に軽く掌を載せた。
「いや、私の方こそ済まなかった。隊長として、みなを無事に帰還させるのが役目だったのにな」
本当に何も気にすることはないとひとしきり鯰尾に伝え、私は弟を先に湯殿のほうに遣って、もう一度手入れ部屋に戻った。
努めて音を立てぬように襖を閉める。五鈴様はまだ眠られていたが、毛布が肩から落ちかかっていた。それを掛け直そうとしたところで、ちょうど主は目を覚まされた。おや、と少し驚いて手が止まる。先に口を開かれたのは五鈴様の方だった。
「一期。傷は……癒えたようですね。よかった」
傷が深かったらしい胸部を真っ先に確認され、安堵の嘆息。ありがとうございます、と御礼をお伝えするも、彼女の目から憂慮の色は消えず、今度は私の顔色を確認するようにじっと見つめられた。
「その……あまり良くない夢を見ていたようですが」
一瞬、息が詰まったような気がした。私が返答に迷っている数拍の間に、彼女は寝汗で額に張り付いていた私の前髪を一筋すくって整えてくださった。私は結局、平静を装って答えることにした。
「……問題ありません。お心遣い、痛み入る」
*
わたしは寝崩れた衣服を軽く整えて立ち上がり、今日は非番にする旨と、本調子に戻るまでゆっくり過ごすように、という内容を一期に伝えて襖を閉めた。
廊下には長谷部が控えていた。彼も深夜に短期遠征から戻ったばかりのはずなので、顔を合わせるのは一昼夜振りだ。
「主。ご無事ですか」
「ええ。……長谷部、急ですみませんが、これから検非違使対策の軍議を。歌仙と、燭台切と、加州を執務室に呼んでもらえますか」
「は……。しかし、霊力を一晩中お使いになっていたのであれば、先に休養をとっていただかなければ」
狼狽えた長谷部の声が、一歩先を歩いていたわたしの後を追いかけてきた。わたしは彼を振り返り、何とか苦笑をつくって首を振った。
「このままでは、眠れそうにないので。良ければ付き合ってください」
*
――今日は弥生の二十一日目だって。ってことは、もうそろそろ春なんだね。何十年かぶりに現世に呼ばれたけど、ここは阿蘇よりだいぶ寒い気がするな。励起されたばっかりだからか、ぼんやりとしか思い出せないけどさ。確か春分の頃には、もう神社の前の桜が咲き始めて……。
それにしてもこのお屋敷、なかなか広いな。主さんの執務室を出て廊下を歩いているうちに、たくさん部屋がある一角に着いちゃった。どこかの部屋にお邪魔してみようかな? と思っていたら、ちょうど国俊が廊下を曲がってこっちに歩いてきた。
「蛍。挨拶、終わったのか」
「うん。国俊、怪我はもういいの?」
「ああ、元通りに直してもらったぜ」
国俊は歩きながらぐるぐる腕を回した。ちょ、ちょっと、こっちにも当たる、危ないってば。
「でもほんと、びっくりだよな。戦場で蛍に助けられて、そのまま気を失ってさ。目が覚めたら本丸で、そこにも蛍がいたんだもん」
「俺だってびっくりしたんだからね。喚ばれたと思ったら辺りは真っ暗、お屋敷の中は異様な空気だし、国俊は手入れ中だっていうし」
それで、主さんに挨拶できたのがたった今。僕は最初、昨日の夜に鍛刀部屋に迎えにきてくれた女の人が審神者なのかなと思ってたけど、あの人は主さんの妹なんだって。
「ね、結局、戦場で会った俺って何だったのさ。他の本丸の俺だとして、他軍に助太刀するのってあんまり良くないんでしょ」
「あー……」
国俊はばつの悪そうな顔をして、昨日あったことを話してくれた。戦場に迷い込んだ子どもを茂みに隠したんだけど、別の敵に挟み撃ちにされちゃって、子どもを守りながら戦ってたらいつの間にか体が動かなくなってたって。
「……そっか。うん、そういう事情があって、それをそこでたまたま見てたら、俺も助けに入っちゃうかも。良いことしたじゃん、国俊」
「いやー、あの子どもはうまく逃がせたみたいで良かったけどな」
国俊はへへっと笑って、それからすぐに表情を変えた。
「でもやっぱ悔しいぜ。あの『検非違使』とかいう――体のでっかい敵に、オレが速さで勝てなかったなんてさ」
検非違使。最近新しく出現した危険な敵って、主さんからも軽く聞いたけど……。
「大丈夫だよ。だってほら、俺も来たんだから。俺たちが協力して戦えば無敵でしょ? 国俊が先制で切り込んで、あとは俺が一薙ぎでぜーんぶやっつけられるから。ちょっと一緒に訓練すれば、すぐ勝てるようになるって」
「……そうだな」
ちょっと足を止めて俺の話を聞いてた国俊は、急に俺の背中を叩いて、反対側の拳を掲げた。
「さっすが蛍だぜ! よーし、鍛錬したくなってきた。道場、この時間だったらまだ開いてるよな?」
今にも道場まで駆け出しそうな国俊を、ちょっと待ってよと諫めながら、俺はふと渡り廊下の向こうに目を向けた。主さんとへし切長谷部が、また二人でなにかの書物と睨めっこしながら、ああでもないこうでもないと話し合っているのが見える。
――うん。多分、この本丸は大丈夫。確証なんてないけど、俺とこの本丸のみんなで力を合わせたら、次は検非違使ってやつと会ってもきっと上手くやれるよ。
*
三月二十六日。今日は数日ぶりの穏やかな快晴だ。
あたしたちの本丸では、しばらく鍛錬及び部隊再編成期間と称して出陣を見合わせていたけれど、それが今日から再開される。出陣の前に霊力を込めた霊符を刀剣男士に渡す仕事は、今回もあたしが担当することになった。
今日の第一部隊は、隊長鯰尾藤四郎、今剣、平野藤四郎、三日月宗近、獅子王、加州清光。第二部隊は、隊長愛染国俊、大和守安定、堀川国広、山伏国広、陸奥守吉行、蛍丸。いずれも練度差の少ない部隊だ。霊符の数を確認しながら玄関のほうに向かっていると、後ろからあやめさん、とあたしを呼び止める声があった。
「ん? あ、鯰尾。ちょうどよかった……」
あたしが部隊の人数分の霊符を差し出す前に、鯰尾は両手を合わせて頭を下げた。
「あやめさん、この間は本当にすみません。髪結わえるやつ、せっかく借りたのに切っちゃって……」
彼の頭には、いつもの赤い結紐が揺れている。妹の修繕が済んだのだろう。
「ううん、全然気にしないで。命のやり取りをしてるんだもの、仕方ないよ。結紐は代えがきくから」
あたしは首を振って、それから霊符を麻袋からひとつ取って鯰尾の前にかざして見せた。
「ね、それよりこれ見て。いつも渡してる霊符だけど、中に何が入ってるか知ってる?」
「主さんたちの霊力がこもったお札、ですよね。それで、万一の時に俺たちを守ってくれるって」
「うん。つまりね、審神者は時を遡って一緒に戦場に行くことはできないんだけど、これに霊力を込めて、身代わりとして連れて行ってもらっているわけ。
それで、あたし考えたの。これって審神者と刀剣男士っていう関係以外でも、ずっと前から行われてきたことなんだろうな、って。戦地に赴く人に、『せめてこれを私だと思って』って、自分の手巾を持たせるとかね。だから……ほら」
あたしは霊符を指差した。叶結びの紐と、その先に付いた小さな飾り玉。
「これって……」
あんな大変な時だったのに、本丸に帰還した血塗れの鯰尾は、青い結紐の切れ端と飾り玉を大事に握りしめていてくれていた。だからあたしは、残った部分を繋げ直して、霊符に結びつける紐にしようと考えたのだった。
「もちろん、あたしたち三人分の霊力もいつも以上にしっかり込めてあるから。隊長さん、みんなにも渡してね」
鯰尾は青い紐の付いた霊符をあたしから受け取り、朝陽にかざすように目の前に掲げる。しばらくそうしているうちに、彼の口許が綻んだ。あ、鯰尾の笑った顔、久しぶりに見た気がするな。
「……了解です。ありがとうございます、あやめさん」
鯰尾はまた頭を下げると、霊符を部隊の皆にも渡してくると言って、ぱたぱたと廊下を駆けていった。あたしは、結わえた髪が足音に合わせて彼の背で踊るのを、いつもよりも長い時間をかけて見送った。
――本日の戦績。出陣が二回、そのうち全勝が二回。検非違使との交戦、一回。負傷者は無し、刀装は消失が一、罅入りが三。
そして、この本丸への新しい刀剣の登録が一振り。名は――粟田口吉光作の薙刀直しの脇差、骨喰藤四郎。
第五話「春光」
四月三日、雨。古い言葉で遠野とも呼ばれるこの地域では、最近やっと雪ではなく雨が降るようになってきた。
お天気が悪い日は出陣もお休み。私は刀装の整理を終えてから、みんなの室をまわって少し様子をみたりお話をしたりすることにした。みんなは刀だからか、雨が降るとあんまり調子がよくないと言っている子が多かった。やっぱり、「錆び」に関係あるのかしら……。
さて、大体全員の顔を見れた気がするけれど、あとは……。そういえば、一番最近仲間になった骨喰藤四郎くんはお部屋にいなかったな……と思いながら廊下を歩いていたら、縁側のところでちょうど彼が外を眺めているのを見つけた。今日は硝子窓が閉められているけれど、屋敷の中から外の様子が一番よく見える場所がここだ。
「骨喰くん、ここにいたのね」
私は彼に話しかけ、ひとこと断りを入れて彼の隣に座った。
「本丸での生活にはもう慣れた?」
「ああ。生活というものにも、もちろん戦闘にも支障はない」
骨喰くんは静かに頷いた。
「兄弟が既に大勢来ていたことには驚いたが。俺が最後だったんだな」
確かに、いま刀帳に登録されている粟田口派の刀が全員揃って、一期お兄さんを筆頭に、兄弟のみんなはとっても喜んでいた。鯰尾くんも、片割れに再会できるのをずっと楽しみにしていたみたいだものね。
「……そういえば、俺は記憶がほとんど抜け落ちているから、断片的にしか思い出せないが……」
骨喰くんはそう前置きしてから、不思議そうに首を傾げる。
「脇差の兄弟は、何だか少し印象が変わったような気がする。昔から世話焼きな性質ではあったが……」
「脇差……鯰尾くんのことね。変わったって、どんな風に?」
私が尋ねると、彼はより適切な言葉を頭の中から検索するみたいに、指の関節を軽く顎に宛てた。
「何というか……芯が通った、と言うんだろうか」
それを聞いて、私はあの日の手入れ部屋での鯰尾くんや、鍛錬期間を経て隊長として出陣していった日の鯰尾くんの様子を思い出した。……さすが、経緯を知らなくても、長年一緒にいた兄弟には分かるものなのね。
「……うん。そうだね」
雨を見るのをやめて私の表情を窺った骨喰くんが、「なぜ嬉しそうな顔をしているんだ?」と少しだけ目を丸くした。ううん、何でもない、と首を振る私に、そうか、とひとつ頷いて、彼はまた窓の外を眺め始めた。私も同じようにすることにした。私は激しく降る雨の音を恐ろしいと思うけれど、こんなふうに静かに降る春雨の音を聴くのは好きだ。もしかしたら、骨喰くんも同じようなことを思って、わざわざ縁側に出てきたのかもしれない。
しばらくふたりでそうしていると、骨喰くんは突然思い出したようにぽつりと言った。
「……芯、といえば、昨日の夕餉の白菜は美味かった」
私は、え、と聞き返そうとしたが、一秒後に意味を飲み込むことができて、それから思わず笑ってしまった。昨夜の食卓に上っていた、春白菜の芯を軟らかく煮込んだおかずのことね。
それならまた作るね、と私が言うと、骨喰くんは表情を変えず、素直にひとつ頷いた。
*
四月十日。昨日、桜の開花宣言が出て、今年はこの地方にしては暖かくなるのが早いのかと思ったら、今日はまた午後から雨が降るらしい。わたしは皆の出陣予定を調整し、手伝いを申し出てくれた歌仙兼定とへし切長谷部と共に、室内で新年度の書類を片付けることにした。
しばらくの間は三名とも黙々と書類仕事を進めていたが、四半刻が経った頃、歌仙兼定がふと何かに気付いたように、おや、と言って、わたしが手元の書類に捺した判子の印影を指差した。
「主の紋は五つ鈴なのだね。なるほど、『五鈴』の名から取ったのか。雅で結構なことだ」
判子と言っても、現世で一般的に使われるような小型のものではなく、片手にやっと収まる大きさの決裁用印章だ。刀剣男士と同じように……いや、同じ意味を持つのかどうかまでは解らないが……審神者にも固有の紋が与えられており、正式な書類には必ずこの判を捺す決まりになっている。当然ながら、この紋を彫った印章は審神者本人が扱うことでのみ効力を発揮する。わたしの印章には、桜の花のように外側に開く形で五つの鈴の図案が彫られていた。
「歌仙、口より手を動かせ。終わらんぞ」
「多少の雑談を挟んだとしても、作業の手を止めるような僕ではないよ。それに、根を詰めすぎるのも良くないだろう」
そう言いながら、歌仙は慣れた手つきで半紙に筆を走らせ、長谷部はわたしと向かい合ってふたりで算盤を弾いている。
「あの、そもそも、ふたりとも手伝わせてすみません。神社の方も見なくてはならないので、手が足りなくて」
「いやいや、このくらい何でもないさ」
「主のお役に立てるのであれば当然のことです」
歌仙と長谷部が声を発したのは同時だった。怪訝そうに顔を見合わせるふたりをよそに、わたしは声を抑えて笑った。
「ありがとう。頼りにしています」
そう言うわたしを見て、歌仙は何かに気付いたような顔になり、一旦筆を置いて目を細めた。
「そういえば、主は以前より少し表情が柔らかくなったんじゃないかい? 今なんて、こんな風に笑う人だったろうかと思ったよ」
その言及に対しては、そうでしょうか、と曖昧に苦笑して、わたしは今日何十枚目かの書類に決裁の判を捺した。
二階の執務室の窓からは、ちょうど中庭の様子がよく見える。窓の外では、妹たちと堀川国広らが談笑しながら、雨に備えて物干し竿を取り込んでいた。
*
四月十三日。昨日よりはまだ少し肌寒いかな。でも、陽があるというだけでだいぶ暖かく感じられた。
今日は承久の乱があった頃の墨俣に第一部隊が出陣し、敵の本陣を見事に制圧して歴史改変を阻止することができた。まだ同じ場所に残党は居るだろうけれど、今回の勝利を足掛かりに、さらに古い時代に遡って時間遡行軍を追うことができそうだ。
敵は時代を遡るごとに強くなっている。あちらもあたしたち審神者側の動きを関知していないわけでもないだろうし、何らかの対策を講じてくるというわけだ。そうすると……部隊のみんなも着実に強くなっているのだけれど、付喪神としての神格が高いものがもう少し多く加わってくれれば有難い、と姉が言っていた。例えば、特に鍛刀しづらいと言われる四振りの太刀。一期一振、鶯丸、江雪左文字、それに鶴丸国永。あたしたちの本丸には、一期と鶴丸はたまたま早い段階で来てくれたけれども、鶯丸と江雪については全く顕れてくれる気配がない。鶯丸……はまだどんな刀かよく分からないけど、江雪のほうは宗三や小夜ちゃんがずっと待っているし、とにかく二振りとも早く仲間になってくれると嬉しいなぁ。あ、あとは、さらに顕れづらい刀としては三日月宗近と小狐丸が挙げられるらしいけど、幸い、うちの場合は二月中旬時点で三日月さんが仲間になっている。そう考えると、戦力強化の面ではあたしたちの本丸は比較的順調なほうなのかもしれない。
……さあ、そろそろ寝ないとね。明日からは厚樫山への出陣。敵は手強いかもしれないけど、明日もみんな無事でありますように。
*
四月二十五日、晴れ。このところすっかり春めいてきて、今日もいいお天気。
一週間前、ちょうど桜が満開になるかならないかの頃に、この本丸に新しい仲間が顕現した。大太刀の次郎太刀さんが来てくれて以来、ほぼ二週間ぶりだ。新しい仲間の名前は、太刀・鶯丸さん。縁側でのんびりお花見なんかをしながらお茶を飲むのが好きだそうで、実際に私も一度ご一緒させてもらった。時々彼のお話にのぼるオオカネヒラさんが誰のことだかはよく分からなかったけれど、ともかく、ゆっくり流れる時間を楽しむのが好きということなので、仲良くなれそうな気がした。
そして、二日前についに江雪左文字さんも仲間になって、比較的顕現させにくいと言われる太刀四振りが揃ったことになる。江雪さんは昨日・今日と、宗三さんや小夜ちゃんとお部屋で一緒に過ごしていて嬉しそう。一方、審神者である姉のほうも、強大化していく敵に対抗しうる戦力が揃ってきたことに安堵しているようだった。
厚樫山の本陣もやっと制圧できた今、週末のお休みを挟んで来週からは、新しい戦場にみんなを送り込むことになるのかしら……。掃き掃除の手を止めてそう考えていると、後ろから誰かに呼びかけられた。
「みかせ殿。お手伝いしましょう」
空っぽの麻袋を持った一期一振さんだ。聞けば、そこの倉庫で資材整理をしてきた帰りだという。私は、こちらのお掃除ももう終わるからと言って、彼の申し出を気持ちだけ受け取ることにした。
「一期さんも、お疲れ様でした。最近遠征が多いから、資材整理も大変だったでしょう」
「いえ、資材や兵糧の管理が前々から少し気になっておりましたので。貴方こそ、今日は一日非番となっていたようですが」
「ああ……ええと、私もちょっと汚れが気になってしまって。汚れや塵に気付いたら、なるべくすぐにお掃除するようにしているんです」
塵を片付け、連れ立って手洗い場に向かう道すがら、私は彼にぽつりぽつりと昔の話をした。
「私は、周りの人みたいに走ったりできなくて……学校でもそれで軋轢を生んでしまうことがあったし、巫女の修行でも、私だけ神楽を舞うことができないから、周りから色々と言われることがあって。でも、そういう時にいつも姉様たちが助けてくれた。一緒に育ったとはいえ、私は彼女たちの妹ではなくて従妹なんですけど、それでも、本当の妹のように守ってくれて……。だから、姉様たちのために私にできることがあるなら、少しでも進んでやりたいんです」
「なるほど……。御身内である主をたすけるため、ですか。御立派な心掛けですな」
一期さんは箒を片付けながら、こちらを振り返って優しく頷いた。私が倉庫の前の石段につまづいたりしないように、腕を取って導いてくれる。
その時、もうほとんど葉桜になっていた桜の木から薄紅色の花弁が一枚降ってきて、私たちの間を横切った。私たちは同時にあ、と言って、春風に吹かれる桜の花弁を見送ってから、お互いに目を見合わせて微笑んだ。
*
午後は、弟たちの面倒を見ながら防具などの手入れをして過ごすことにした。弟たちは鍛錬をするなり、書物を読むなり、何かしらの当番がある者以外はめいめい好きなように過ごしている。
「あ、ねえねえ、いち兄、さっきみかせさんと歩いてたよね。よく一緒にいるみたいだけど、実際、どうなの? 好きなの?」
同じ部屋で現世の雑誌なるものを読んでいた乱に話しかけられて、私は危うく防具の拭き掃除用の手巾を取り落としかけた。それを悟られる前に軽い咳払いで誤魔化し、あくまで兄として弟をたしなめる。
「こら、乱。私はともかく、他の方にはそんなことを不躾に訊くものではないよ」
「はーい。でも、そうとしか見えなかったんだもん」
私は防具を拭くのを中断して、苦笑混じりで首を振った。
「よりによって主の妹御に懸想するなど、恐れ多いことだ。それに……」
その先は、乱も、隣で書物を読みながら黙って話を聞いていた薬研も分かっていることだった。薬研はいつからか書物を読むのをやめ、何も言わずに私の方をじっと見ていた。
「……私たちの生きる『時』は、決定的に違う」
我々は人の手によって作られたものではあるが、ヒトとはまた違う生を持っている。……いや、審神者によって「与えられた」と言うべきか。我々の役目は、人に寄り添い、見守り、そして持ち主のために働くことだ。モノである以上、そのほかの何かを望むことは許されまい。たとえ、人と同じような肉体を得、こうして人と同じように生活をしていたとしても。――手を握った時に肌を介して伝わる掌のあたたかさを、そして、その温度が胸の裡にまで届くことを知ってしまったとしても。
私は硝子窓から中庭に目を遣った。あの方は午後からお出かけになると仰っていたので、そこにいらっしゃる筈はないのに、桜の花弁が舞うなかで長い髪を春風に遊ばせている彼女の後ろ姿が見える気がした。
第六話「更衣」
皐月の十一の日。天気は……晴れ。よしよし、良いことだ。さて、この爺も日記というものを書いてみるぞ。
今は戦のさなかとはいえ、新しい仲間を迎え入れるというのは、幾たび経験しても心が躍るものだ。今日新しく顕現したのは……ふむ、太郎太刀か。現世では、尾張の熱田の社に在るという大太刀だな。
「おや、三日月殿」
回廊を曲がって声を掛けてきたのは、石切丸だ。
「聞いたかい。新しい刀が顕現したそうだね」
ああ、と答えて、このあとの予定を思い出す。今日は良い茶菓子が手に入ったので、半刻ほど後に石切丸と茶会の約束をしていたのだったな。それならば……。
「どうだ、石切丸よ。新しく顕現した太郎太刀を我らの茶会に招いてみるというのは」
「ああ、もちろん構わないよ。夜は次郎太刀との酒宴があると聞いているけれど、主への挨拶と本丸案内の後は、夕方まで少し時間が空くだろうしね」
それに、今日の茶菓子のかすてらは本当に美味しいからね、ぜひ皆で頂こう。石切丸はそう言って頷いた。うむうむ、俺も同意見だ。よきかな、よきかな。では、さっそく厨の棚から茶葉とかすてらを取ってきて、石切丸の部屋に集合するとしよう。
襖の向こうから、石切丸ともう一振りの話し声。石切丸が太郎太刀を連れてきたようだ。
「歓迎するよ、太郎太刀。これでこの本丸には、いま刀剣男士として登録されている四振りの大太刀が揃ったことになるね」
石切丸の案内で、太郎太刀が室に入ってきた。少し天井が低そうに見えるな。鴨居をくぐる時、頭を打たぬように気をつけるのだぞ。
「石切丸殿と、三日月宗近殿、ですね。このように迎えていただき、感謝します」
「うむ、仲間が増えるのはよいことだ。これから宜しく頼むぞ、太郎太刀よ」
ここに座るとよい、と座布団を示すと、太郎太刀は礼儀正しく一礼して、勧められた座布団に腰を下ろした。
「まずは、よかったらお茶をどうかな」
「そうだな。茶菓子も美味いぞ」
「では……。頂きましょう」
太郎太刀は俺たちの勧めるまま、茶と菓子を口にしてみた。恐らく人の身を得てから初めて茶や食べ物を味わったのであろう。食物を摂るという初めての感覚が興味深い、といった面持ちをしている。口に合っていたら良いのだが。
ひとしきり茶と菓子を楽しんだ後、太郎太刀はゆっくりと室内を見回して口を開いた。
「……ここは、なかなか良い『気』が満ちているようですね。身を置いているだけで、心地の良い霊力を感じます」
「お主もそう感じるか」
相槌を打つと、石切丸も笑って頷いた。
「そうだろう。だけど、我らの主はなかなか謙虚でね。自分の霊力など量も質もたいしたことはない、妹たちの霊力も足しているから成り立っているんだと言って譲らないんだよ」
太郎太刀は石切丸の話を聞いて首肯し、少し考える風に言った。
「ああ、確かに、主の妹御たちも巫女服を身に着けていましたね。なるほど、三人で審神者の任を遂行しているというわけですか。しかし、仮に霊力の量を三人分として、質だけ見てもかなり良い部類かと思いますが」
うむ、うむ。主の霊力の質の良さを褒められるのは、この本丸に黎明期から在る俺としても嬉しいものだな。隣で頷く石切丸も満足気な顔だ。
元々は軽い茶会のつもりだったのだが、こういった調子で結局なにかと話が弾み、あっという間に夕刻になってしまった。そして、次郎太刀主催の盛大な歓迎会を経て、今これを書いているというわけだ。
……ふむ、日記というものも、書いてみると存外難しいものだな。いや、うまく書けたかどうかはともかく、この本丸におけるひとつの記念として、これを記しておこう。
*
五月二十三日、晴れ。今日は今年初の夏日を記録したらしい。道理で暑かったわけだ。しかも体を動かしていたから、体感温度は実際の気温以上だったかもしれない。
今日の昼間は、非番の子たちと一緒に、あれは何て言うんだろう……手合わせなんて言えるほどのものでもないし。チャンバラごっこかな。ともかく、木刀で打ち合いをして遊ぶことになった。それで、一応剣道部だったあたしも一緒に交ざったんだけど、三戦目くらいに力の入れ方を間違ってしまって、足をひねって後ろに転びそうになって。どうやって受け身を取ろう、って考えていたら、途中で誰かがあたしの肩を支えて、倒れないようにしてくれた。
「わ……っと」
あたしが首だけで振り向くと、山姥切国広とまともに目が合った。ちょうど後ろにいた彼が助けてくれたのだ。
「わー、ごめんね! ありがとう、山姥切」
「ああ、いや……」
彼はそれだけ言って、あたしに怪我がないか確認し、体勢を整え直すのを手伝ってくれた。
それで、どうしてこの出来事が印象に残っているかというと、多分、あんなに至近距離で山姥切の顔を見たのが久しぶりだったからだ。顔というか、目かな。やっぱり目を見たら言葉以外のことが伝わったりもするから、皆が今何を考えているのかを知るために、あたしはなるべく目を見れたらいいなと思っていて。でも、山姥切の場合はいつも布で目元に影が出来てしまっているから、たまにしか目を見ることができないことが気になっていた。
彼とも、いつかはもう少し距離を縮めることができるかな。例えば、被っている布をあたしたちの前で外してくれることとかもあるのかしら。……そうだったらいいな。
「…………」
こうやって今日の出来事を思い返していたら、山姥切の顔が思ったより近くにあったことを改めて意識してしまって、何だか今更恥ずかしくなってきた。彼からすれば、ただ咄嗟に助けてくれたっていうだけなのにね。あたしはふるふると首を振って雑念を追い払い、手の甲で頬の温度を確かめた。……やっぱり、そろそろ夏用の衣への衣替えが必要かもしれない。
*
五月二十七日。曇りのち雨。このところは汗ばむほどの陽気の日が多かったので、強い陽射しが一旦落ち着いてある意味ほっとしたとも言える。
今日は昼過ぎから審神者会議なので、午前中に準備を済ませねばならない。ああ、そろそろ六月になるから、次の休日辺りには袷を仕舞って単衣を箪笥から出しておいた方が良いだろうか……。ぼんやりとそう考えながら外出用の着物に着替えていると、いつの間にか伊達締めの片端が背中の辺りで行方不明になっていることに気付いた。どうしようか、もう一度全部ほどいて着直しても構わないと言えば構わないが……。誰か通りかからないものかと思って障子の外に目を遣ってみたところ、ちょうど廊下から長谷部の声が聞こえた。わたしは彼を呼び止め、室に入って着付けを手伝ってもらうことにした。
長谷部の着付けの手際は見事だった。彼が人の体を得てから、わたしや妹たちもそう頻繁に着付けを手伝わせていた訳でもないので、きっと彼自身の観察力の高さと器用さが成せる業なのだろう。
「……これで宜しいですね。流石は俺の主、今日もよくお似合いです」
長谷部は最後に襟元と帯を整え、わたしを全身鏡に向かわせた。わたしは御礼を伝えた後、鏡に映った衣の色に既視感を覚え、無地の着物の袖を指差した。
「そういえば、これ、あなたの衣装と揃いの色ですね」
そう言うと、彼は「えっ……」と一言発したきり、何故か急に口ごもって言葉を失くした。一時停止してしまった長谷部を余所に、わたしは鏡に映るふたりをもう一度しげしげと眺めた。――客観的に見ると、頭半分ほど身丈の違う二人の人間がただ並んでいる図。だが、事実としては、一方は人間で、もう一方は刀の付喪神だ。そして、このふたりは、他の多くの付喪神らと一緒に食事をとり、同じ屋敷で眠り、共に戦略を練り、手を携えて戦っている……。わたしはその事実を再認識して、何となしに片手を伸ばし、鏡の中の自分の掌と合わせてみた。
「……わたしは」
鏡に映っている長谷部にともなく、自分にともなく、ただただ思いつくまま呟く。
「半年前は、全く想像していませんでした。これほど多くの仲間が出来て、共に生活し、共に戦って……こんなに楽しく日々を過ごしている、なんて」
まあ、戦時中ですから、表現としては不謹慎かもしれませんが。そう言って言葉を切ると、鏡の中のわたしを見て話を聞いていた長谷部は、目元を少し緩ませて首肯した。
「俺も同じですよ」
そう言いながら、外出用の風呂敷包みをわたしに手渡す。
「主のお傍で過ごせることも、俺を戦場で振るって頂けることも幸せです」
長谷部はよくわたしにこう言ってくれる。でも、初めの頃に言っていたのと最近では、同じ言葉でも少し違って聞こえるのは気のせいだろうか。それとも、出会った頃と心境が変わったのはわたしの方か……。
「……さあ、そろそろ時間です。行きましょうか。長谷部、今日も近侍をお願いしますね」
はい、と彼が頷くのと同時に、遠くから正午を告げる鐘の音が聞こえた。
*
皐月の晦……いや、晦は明日か。では、改めて……。皐月の三十の日。
今日はかなり暑くなったから、多くの者が夏用の着物で過ごしていた。みかせさんは中庭に打ち水をしていたし、非番の者たちは、支給されたさぼん玉を吹いて遊んだりして……。こうして季節の移り変わりを身をもって感じられるのも、人と同じような身体を得たからこそかもしれないね。
さて、念入りに明日の遠征の準備をしていたら、少し遅くなってしまったようだ。私もそろそろ明日に備えて寝むとしよう。
離れから渡り廊下を通って、南東の高い位置に浮かんだ月を眺めながら寝室へ向かう。時間が時間だから、もうほとんどの室や施設の明りは消えていたが、そのなかにひとつ、ぼんやりと光が漏れている部屋があった。室内で提燈か何かの明りが点けられているのだろう。こんな時間に、誰が何をしているのだろうか。その部屋に近付いてみると、障子がわずかに開いていることに気付いた。
「失礼。入ってもいいかな?」
私は念のために声をかけ、なるべく大きい音を立てないように慎重に障子を開く。部屋の奥にいたのは、主の妹御のあやめさんだった。彼女は、わっと言って一瞬肩を跳ねさせ、それからこちらを振り向いて安心したように息をついた。
「石切丸。誰かと思ったわ」
「ああ。すまない、驚かせてしまったかな」
私は「ううん、大丈夫」と応える彼女の手元に目を落とした。小さな提燈の明りの下に、いくつかの書物が少々蕪雑に広げられている。そのなかには、“刀剣の歴史”、“審神者の心得”、“本丸をよりよく運営するには”……そういった文字が見えた。私は部屋の奥まで歩を進め、その書物の中のひとつを手に取ってみた。
「こんな時間まで勉強していたのかい」
そう訊くと、彼女は決まりの悪さをごまかすように少し笑って頷き、書物を一冊ずつ片付け始めた。
「なんだか、一旦読み始めたら思ったより没頭しちゃって」
以前、あやめさんが自身の霊力の低さを気にしていると言っていたことを思い出す。彼女なりに、姉君の助けになりたいと考えての行動だろうか。そう思うと、自然と口元に笑みがこぼれた。
私はもう遅いからと言って、あやめさんを室まで送り届け、その帰り道、初夏の薫風が髪先を揺らすのを感じながら、明日からの戦いに思いを馳せた。――時間遡行軍が現れたという新しい戦場は、江戸時代末期の市街地。しかも夜戦だと聞いたから、私たちは資材調達や昼間の戦場への出陣などの後方支援が多くなりそうだけれど、戦力も充実し、皆の練度も着実に上がっているこの本丸ならば、こんな風に戦況が変化したとしても、苦境に陥ることがあったとしても、何とか活路を見出していけるのではないだろうか。
室に入る前、何となしに、いま通ってきた廊下を振り返ってみた。もちろん、そこにあるのは何も語らない闇、草の匂いの混じった風、わずかな家鳴りの音、それで全部だ。私はどこにともなく「おやすみ」とつぶやいて、襖をできるだけ静かに閉じた。
第七話「驟雨」
六月五日。このところ、深夜の手入れ部屋は連日満員だ。今夜も秋田くんと安定くんが中傷で帰ってきた。清光と一緒に安定くんに肩を貸して手入れ部屋へ向かう。血が染み込んで重くなった浅葱の羽織を掴んだ瞬間、さっき鏡を通して見てきた光景が脳内で勝手に再生された。あたしは網膜の裏に映る残像を振り払うように、もう少しで手入れ部屋に着くよ、と安定くんに話しかけた。
時間遡行軍が新しく現れたのは江戸時代末期の京都。市街地での夜戦ということで、小回りの利く短刀・脇差・打刀を中心に新しく部隊を編成して出陣を繰り返しているのだけれど、物陰から敵の不意打ちを受けたり、防御を固めて臨んでも敵の槍に刀身を傷つけられたりで、どうしても敵の本陣まで辿り着く前に撤退を余儀なくされてしまう。帰還した刀剣男士たちの傷を早く治すために、姉もいつもより多く霊力を消費しているから、最近はかなり疲労しているようだ。あたしは、彼女が毎回状況に合った戦略を考えて慎重に進軍させていることを知っているからこそ、この状況が歯痒くて仕方なかった。
多分、夜の市街地という新しい戦場で勝つためには、今までとは違う何かがあとひとつ必要なのだと思う。……それが何なのかは、あたしにはまだ見えないけれど。
それほど長くはないはずの一直線の廊下の先がやけに遠い。血液の雫が足元に一滴落ちて、夜更けの廊下に小さな赤黒い染みをつくった。
*
六月九日、雨。
相変わらず江戸末期への出陣の成果は芳しくない。日に日に焦燥は募るものの、立場上、執務室に籠もって戦略だけを練っているわけにもいかなかった。今日は週に一度の審神者会議だ。出掛ける準備を済ませ、長谷部と共に本丸正門へ向かっていると、ちょうど買い出し帰りの加州清光とすれ違った。
「五鈴さん、これから会議? 行ってらっしゃい」
「ええ。加州も、お疲れ様」
行ってきます、と返すと、加州はわたしの服装と持ち物が普段と少し違うのを見て、傘を持っていない方の手を打った。
「あ、そっか、今日は全体会議って言ってたっけ」
全体会議とは、数ヵ月に一度、近隣地区の審神者と合同で行われる会議のことだ。普段は地区ごとの会議だが、全体会議の日は、日課の演練でも出会わないような遠方の審神者とも交流することになる。
「さあ、主、行きましょう。加州、留守を頼んだぞ」
長谷部がわたしの背中に軽く腕を回して、転送機の前へ導く。「了解」という加州の声を背に聞きながら、わたしは転送機に会議場の空間座標を入力した。
全体会議はひとまず滞りなく進み、審神者間の交流・歓談の時間となった。会議場に飲み物や菓子、軽食等が運び込まれる。立食形式の小宴の様相だ。方々で人の集まりが形成され、時折さざなみのように笑い声が起こっていた。わたしは会場全体を見回し、近侍の長谷部を伴って、初めて会う審神者やなかなか顔を合わせない審神者を中心に挨拶回りをすることにした。
会場の最奥で談笑している一団の前を通った時、半懐紙で顔を覆った年嵩の審神者の一人が、こちらに聞こえる声量で言った。
「おや、これはこれは。陸奥国における早期試運用本丸のひとつに抜擢された、政府お墨付きの大変優秀な審神者様ではありませんか」
その一団の中の別の審神者が、ほう、と言ってわたしの方を見る気配がした。そちらを振り返らなくとも、その審神者がわたしの頭から足先までを観察していることが分かった。
「この小娘……いや、失礼、このようなお若い女性がですか? とても信じられませんなあ」
「見たところ、霊力の量も質もさほど突出しているわけではないようですが。すると、この栄誉ある肩書きをどのように手に入れたのか、気になりますな。非常に」
また別の審神者がこう相槌を打った。ご丁寧にも、「どのように」の箇所にたっぷりと含みを持たせて。
わたしはそれらの言が耳に入っていない振りをして、供された緑茶を口に運んでいたが、長谷部の方は敵意を隠そうともせず、審神者の一団の方に鋭い目を向けた。わたしは「無視せよ。他の本丸の審神者を敵に回すな」の意を込め、隣に立つ長谷部の腕に軽く触れて牽制した。
「ですが、主……」
意図を汲んだらしい長谷部が、わたしに小声で抗議する。わたしはただ無言で首を振った。
この陸奥国で“審神者”と“本丸”という機構が本格的に運用開始されたのは、今年の四月下旬のこと。他の地方では一月中旬から正式に開始された例もあると聞くが、陸奥国では一月時点でまず「早期試運用本丸」と称して数名の審神者候補者に本丸運用を開始させ、四月からの本格運用のためのサンプルとして各種データを提出させることにしたそうだ。その審神者候補者の選抜は、適性の高さと霊力の質および強度を根拠として行われたと言われているが、その選抜基準でなぜわたしに声が掛かったのかは、正直、わたし自身もよく分かっていない。だから、何やら“大変な栄誉”であるらしいこの肩書きをこのような小娘が得ることについて疑念の声が生まれるのは、ある意味当然のことなのだろうと認識している。
「いやあ、羨ましいですなあ! この地方で早期試運用対象本丸の審神者と言えば、戦績は常に上位、一月から鍛錬を始められたぶん刀剣男士の平均練度も高い……精鋭中の精鋭である証だと専らの噂ですぞ。いやはや、是非とも一度手合わせ願いたいものだ!」
「しかし、我らとは別地区ゆえに、演練でも相見えることが出来ぬとは。実に残念無念!」
顔を覆った審神者が声を張り上げ、一団のなかに笑いが起こったところで、長谷部がついにわたしの手を振り解いて刀の柄に手を掛けた。
「貴様ら、言わせておけば――」
「長谷部、なりません。やめなさい」
わたしは彼にだけ聞こえる音量の声で命じた。長谷部は「しかし……」と尚も食い下がったが、わたしは意見を変えなかった。審神者の一団に対し、礼を失さない程度の軽い会釈をして、他の審神者への挨拶回りを再開する。……どのみち、歓談の時間ももうじき終わりだ。
「主、何故です。主に対するあのような妄言、俺は許すことができません」
小宴が終わり、会議場の片付けも兼ねた休憩時間に入ると、長谷部がわたしを会場外の廊下に連れてきて、苦々しい表情で言った。
「……あなたがそう思ってくれるのは、有難いことですが」
わたしは長谷部を見上げて首を振った。
「良いのです。わたしが早期試運用本丸の審神者に抜擢されるほどの実力を持ち合わせていないというところは、残念ながら本当の事ですから」
すると、長谷部はわたしと目を合わせるように少しかがんだ姿勢になり、両手でわたしの両方の二の腕を掴んだ。
「俺が、許せないのです。どこの馬の骨とも知れぬ、何も知らないような輩に、俺の主を愚弄されるなど」
わたしは長谷部の目を真正面からまともに見つめる形となる。涼しげな眼窩の奥の、激情を湛えた瞳。意思の強さをあらわす真っ直ぐな眼差しだ。彼は瞬きもせずにわたしと目を合わせ続け、身の裡に燻る怒りを切に訴えているようだった。それと、彼の両手にはおそらく本人が思う以上に力が入っていて、二の腕の辺りが少し痛かった。わたしが何も言えずにいると、しばしの沈黙ののち、長谷部は我に返ったように急にわたしの体から手を離して咳払いをした。
「……失礼しました」
「いえ……」
わたしは一旦気持ちを整えるために小さく息をつき、彼の足を会議場の方へと促して、再び審神者会議に戻った。
それから会議が終わって本丸に帰還するまでの間、わたしは如何してか、一度も近侍と目を合わせることができなかった。日没とともに一層強まった雨の音だけがいつまでも無遠慮に響き、わたしたちの間に横たわる沈黙という名の空白を埋め合わせているようだった。
*
六月十二日、深夜。
屋敷の二階、西側の突き当たりに位置する審神者用の執務室を目指し、螺旋型の階段を一息に駆け上がる。一階で手入れ部屋の用意をしていたあやめ様から、弟が重傷で危険な状態だという報せを受けた。姉君は二階の執務室で治癒の準備している、とも。それを聞いた時、――自分でも理由は説明できないが――私はともかくすぐに五鈴様のもとへ向かわねばならない気がした。幾つかの部屋の前を通り過ぎ、来訪を知らせる呼び鈴を鳴らすことも忘れて、少し軋む木製扉を引いた。こちらに背を向けていた五鈴様は、扉の開く音に気付いて振り返る。
「一期」
真夜中だというのに、室内には小さな蝋燭一本しか灯されておらず、辛うじて表情が判別できる程度の薄闇だけが私と彼女との間に漂っていた。審神者が言うところの「治癒」とは、つまり霊力を注ぎ込むことで刀剣男士の傷の修復を早めることであり、それにはできるだけ音と光の少ない場所で霊力の純度を高めておくことが必要だと聞いている。その作業を、五鈴様はここで行われていたのだろう。
「申し訳ありません。来訪を告げもせず」
私は息を整えながら、やっと一言彼女に話しかけた。
「いえ、構いません」
薄闇の中、彼女の衣擦れの音がして、札や水盆や玉串などの道具を片付けていることが窺えた。
「わたしも、そろそろ一階に下りなければと思っていたところです。第二部隊も間もなく帰還するでしょう」
彼女は袴の上衣の袖を翻し、暗がりの中とは思えないほどの足運びで室の入口の方に向かって来られた。互いの距離が数歩分ほどのところまで来ると、彼女は一度立ち止まり、改めて私に声を掛ける。
「きょうだいのことが心配でしょうが、わたしも出来る限りの処置をします」
平時よりも張り詰めた声ではあるものの、彼女らしい落ち着いた話し方だ。彼女は私の横を通って扉の取っ手に手を掛けられたが、そのまま一度立ち止まって俯いた。何かを口に出すかどうかを迷っているように見えた。
「……一期」
はい、と応えて言葉の先を促す。その時、何かが細かく屋根を叩く音が屋敷中に響き始めた。ついに雨が降り出したらしい。五鈴様は雨音を気にかける様子もなく、目を伏せたまま話し続けた。
「もし、この先……あなたのきょうだいに万一の事があったら。その時は、あなたが」
五鈴様が息を吸った瞬間、まるで見計らったように窓の外に光の柱が立ち、次いで鋭い雷鳴が響いた。雷光のもとに、一瞬彼女の表情があらわになる。温度の無い頬を目にして、私は息を呑んだ。
「わたしを、呪い殺してくださいますか」
低い雷鳴がやっと収まった頃、彼女はそう言った。私が「え……」と呟くと、五鈴様ははっと我に返ったように首を振る。
「……いえ。すみません、忘れてください」
彼女は今度こそ扉の取っ手を押して、手が空いている者たちを全員集めるように私に指示すると、足早に階下の手入れ部屋へと歩き始めた。
私は、螺旋階段を下っていく彼女の姿をしばらくの間見送っていた。稲光に照らされた彼女の横顔が、伏せられた目が、何かを物語っているように思えてならなかった。
雨は時に強まったり弱まったりを繰り返しながらも、それから一晩中降り続けた。
*
六月十四日、曇り。中庭に面した縁側に向かう途中、俺は来週の出陣予定表が廊下に張り出されているのに気付いて足を止めた。来週の総出陣数は、当初の予定よりも若干少なく設定されている。
「ん、俺の出陣予定は明日と明々後日で、明日は第二部隊の隊長ね。りょーかい」
厚藤四郎が重傷で帰還してから一日半。主たちの手当てのお蔭で厚は何とか折れずに持ちこたえたけれど、その後の軍議の結果、当面は出陣数を減らして敵の出方を見ることになった。俺たち刀剣男士としては、なかなか敵の本陣まで辿り着けなくて悔しい気持ちももどかしい気持ちも勿論ある。でも、現実問題として手入れ数が増えると主の負荷も増えるし、手入れ資材だって無限じゃないんだから、現時点での対応としてはこれが妥当だと思う。俺たちはせめて、どうやったら被害を最小限にしつつ敵の本陣まで乗り込めるかを今のうちに考えておかないとね。
掲示板の前を通り過ぎ、頭の隅で次の作戦の構想を練りながら縁側まで出て、中庭が見渡せる場所に腰掛ける。すると、中庭の向こうから飛んだり跳ねたりする何かがこちらに向かってきた。
「かしゅうきよみつじゃないですか。なにをしてるんですか?」
このところ毎夜一緒に出陣している今剣だ。出陣先で協力して敵を倒したり作戦を練ったりしているうちに、何となく以前より仲良くなった気がする。今剣はさも当然みたいな顔をして俺の隣に座り、足を持て余すように空中で遊ばせた。子どもの姿をしているから、縁側に座ると敷石に足先が届かないらしい。
「今剣、ちょうど良かった。さっき出陣表見てきたんだ。ま、改めて主からも通達はあるだろうけど……。俺たち、明日また一緒の部隊だって。宜しく」
「そうなんですか? よろしくおねがいしますね」
俺が今剣に近い方の片手を上げて掌を見せると、今剣も同じようにして、小さな掌で俺の掌を軽く打った。
「んで、いま明日の作戦考えてるからさ、よかったら今剣も手伝ってよ。これまでの手応え的には、まず敵がこっちからこう来ることが多いだろ。それで……」
人差し指と中指を二振りの敵に見立てて、俺は今剣に作戦内容を説明した。今剣は相槌を打ちながら俺の話を聞いていたけれど、話が一旦途切れた時、ふと表情を変えて何かを考え込んでしまった。どーしたの、と俺が訊くと、今剣は「ねえ」と俺の顔を正面から覗き込んだ。
「かしゅうきよみつ。もうなんども、もとのあるじがいるじだいにしゅつじんしていますよね」
「ん? うん。そーね」
確かに、それほど偏った編成はされていないにしても、戦場が夜の市街地に移ってからは、俺か安定が部隊に入っていることが多い。あとは和泉守と堀川か。でも、そこは当然地の利がある刀を送り込んだ方が効率がいいに決まってるから、まあ、半ば必然の刃選ではあると思う。
「そのことに、なにかおもうところはないんですか? もとのあるじとであってしまうかもしれないなんて、ぼくなら……」
今剣は語尾をすぼませ、結い髪で表情を隠すようにして顔を伏せた。今剣はまだ元の主にゆかりのある厚樫山の戦場に出陣した経験がない。それは単に戦略的な都合によるものなのか、主が敢えてそうしたのかは分からないけれど。
「そっか……。うーん、俺は……」
今剣の頭をぽんぽんと二度撫でて、今度は俺が今剣の顔を覗き込んだ。
「元の主のことも、もちろん大切に思ってるよ。加州清光に、新選組の刀っていう物語を与えてくれた人なわけだしね。でも、今の加州清光は、あの人の……五鈴さんの刀だから。信じてるんだよね、『今の主』のこと」
やっと顔を上げ、丸い目をして俺の話を聞いていた今剣は、はっとしたように「いまの、あるじさま……」とつぶやいた。
「……ぼくも、いすずさまのことはすきです。あやめさまも、みかせさまも。よくいっしょにあそんでくれますから。あ、いすずさまはいそがしいひがおおいですけど、おはなしするときは、いつもやさしいめをしてくれます」
「あ、分かる? あの人、表情がなかなか顔に出ないって言ってたけど、よく見てるとむしろ分かりやすいよね」
五鈴さんが俺たち刀剣男士と接する時にたびたび向けてくれる、静かながらも優しさがこもった目を思い出す。それと、手入れ中に俺の頭や本体の鞘を撫でてくれる掌のあったかさも。
「愛されてるって、あの人なりに大事にしてくれてるって伝わってくるからさ。だから、多少骨が折れる任務でも、頑張っちゃおっかなーって思わされるんだよね」
あ、畑当番とかは、いくら主のお願いでも未だにちょっと苦手だけど。俺は今剣に内緒話をするように、こっそりそう付け足した。今剣は俺の方に顔を寄せて悪戯っ子みたいに笑う。
「わかりました! つぎのしゅつじんでは、はやくてきをやっつけて、あるじさまたちにいっぱい“ほまれ”をもらいましょう。そうしたら、あるじさまたち、ぼくともっとたくさんあそんでくれますよね?」
今剣は自分の言葉に自分で納得がいったようで、うんうんと頷いたのち、縁側から身軽に飛び下りて、また中庭の向こうに駆けていってしまった。ま、何にせよ、前向きになれたようで何より。
「“誉れ”、ね……。よーし、俺も頑張ろ」
さっき道場に和泉守がいたから、夕餉時まで手合せの相手になってもらおうかな。俺は気合い入れも兼ねて、ひとつ大きく伸びをした。
*
六月二十日。今日は午前中は晴れ間があったものの、午後からは厚い雲が空を覆い、夕方にはついに雨が降り始めた。今夜は元から出陣をさせる予定ではなかったが、二日前に丁度浦島虎徹がこの本丸に仲間入りしたので、この機会にとささやかな歓迎会を開くことにした。皆で料理を拵えて――但し、わたし自身の料理のセンスについては訊かないでほしい――普段は冷蔵庫の奥で眠っている酒瓶も開けて、ひとりひとりと普段よりも深く話ができて……。戦いの最中ではあるが、良い時間を過ごすことができた。特に、弟刀をやっと迎えることができた蜂須賀虎徹が終始上機嫌だったのが印象的だった。彼のきょうだい思いな一面を知ることができたのも、今宵の新たな収穫のひとつだ。
歓迎会も一旦お開きとなり、会場の片付けを済ませた後、わたしは寝る前に少し外の空気を吸おうと大広間を出た。雨粒が一つ二つと屋根の端から零れ落ちるのを眺めながら、東側の回廊を曲がって離れへ向かう。その途中、北東の突き当たりの板敷に座している一つの人影を見つけた。そちらに一歩、二歩と近寄って行くと、薄闇に紛れていた人影の輪郭が明確になる。
「途中から何処に行ったのかと思ったら、ここにいたのですね。三日月」
声をかけると、こちらに気付いた三日月宗近は「おお、主か」と言って杯を掲げ、わたしを自身の隣に座らせた。
「どうだ、一杯」
「それでは、少しだけ」
酒を注いでもらった杯を顔の前に持ってくると、柑橘の爽やかな香りがかすかに薫る。わたしがそれを飲み干すまでの間、三日月は何やら楽しそうにこちらを眺めていた。
「……飲みやすいですね。美味しい」
わたしが正直な感想を口にすると、彼は満足そうに優美な笑みを浮かべる。
「うむ。蜂須賀が選んだという酒を、先ほど大広間から一本貰ってきてな。雨音を肴に、休み休み飲むには丁度良い」
三日月の視線に導かれて、雨のそぼ降る壺庭のほうに目を移す。なるほど、今宵の雨は強くも弱くもなく、心地良いと感じられる程度の音量で、こうして静かに飲みながら心を落ち着かせるのに適しているようだった。
「して、五鈴よ。第二・第三部隊は、ここのところ苦戦しているようだが……」
三日月は手元の杯に目を落として、我らは夜目が利かぬゆえ、力になれなくてすまないな、と付け足した。わたしは彼の杯に新しい酒を注ぎながら、それは適材適所というものです、と首を振る。
「夜の市街地戦については……わたしが、彼らをもっと上手く指揮できれば良いのですが。毎回、計算外の不確定要素が多く、どうしたものかと」
「ふむ……」
俺に言えることは、そうだな……。三日月はそう言ってしばし考え込み、それからわたしの方に向き直って柔らかく目を細めた。
「主よ、あまり何もかもを一人で抱え込もうとするでないぞ。俺たちは本性としてモノではあるが、だからと言って、戦以外におぬしの助けになれることが無いというわけではないのだからな」
人の身を得た今では、馬の世話も畑の世話もできるし、こうして話し相手になることだってできるぞ。そう言って穏やかな笑い声を響かせる三日月に、わたしはありがとう、と答えた。三日月はうむうむと頷き、教え諭すような優しい口調で続ける。
「つまりな、戦術に関わる用件にせよ他の用件にせよ、もう少し周りの者に色々と相談しても良い、と言っているのだ。俺はいつでも待っているぞ。そうだな、例えば――」
三日月の言葉が途切れた時、俄かに雨音が強くなった。彼の美しい唇から、続く言葉が歌うように流れ出る。
「おぬしの“隠し事”の話を、いつかおぬし自身の方から打ち明ける気になってくれるのを、な」
わたしは改めて三日月宗近と目を合わせた。彼はただ頷いて目元の笑みを深めるだけ。瞳に浮かぶ三日月型の打ち除けが、薄闇のなかでことのほか鋭い輝きを放っていた。
わたしは結局、微笑をその問いかけへの答えに代え、そろそろ床に就く準備をするからと言って、その場を辞することにした。立ち上がって袴の表面を軽く払い、手洗い場に繋がる背後の室の障子を開ける。
「よく寝るのだぞ」
三日月はわたしの背にそう一言だけ声をかけた。わたしは肩越しに三日月を振り返り、打ち除けが浮かぶ瞳をもう一度見て小さく頷く。
「おやすみなさい」
障子を静かに閉じると、世界から一切の音が消えたような気がした。わたしは長い息を吐いて、それからしばらく室の明りを点けもせず、ただただ暗闇の中に立ち尽くしていた。
第八話「花火」
七月九日、晴れ。
あたしと妹は、昼餉の準備をしようと厨に向かう道中、脇差と打刀の何振りかが中庭で何やら見慣れない訓練をしているのを見かけた。厳重に防備を固めた藁人形のようなものを敵に見立てているようだけれど……。
あたしは訓練の邪魔にならないように、合間を見計らって鯰尾藤四郎に手を振った。
「あ、あやめさんにみかせさん」
鯰尾は訓練用の木刀を桜の木の側面に立てかけて、手を振り返しながらこちらへ駆けてくる。
「皆で何してたの? 道場じゃなくて屋外で訓練なんて、珍しいね」
「実はですね……」
彼は一旦水分補給をした後、人差し指を立てて説明してくれた。
「この間の軍議で、京都市街の敵の行動についての分析が出てたじゃないですか。わざと俺たちをばらばらに引き離して、ひとりになったところを集中攻撃してくる、っていう」
「そーそー。さすが主の分析だよね」
いつの間にかあたしたちに気付いて傍に来ていた加州清光が相槌を打つ。そういえば、確かに軍議中にその意見を出したのは姉だったような気がする。それで、対策として常に二振りずつで行動し、敵を深追いするよりも互いに引き離されないことを優先する、という方針でまとまったんだったっけ。
「だから、俺たち考えたんです。常にふたりで行動するなら、脇差と打刀の特性を生かして、なんか連携技が出来ないかなって。せっかくならこう、これが必殺技だ! みたいな、かっこいいやつ」
「鯰尾、やっぱあと一歩分くらい後ろに下がっておいて、そこから助走つけた方がいいかもね。その方が、脇差と打刀の間合いの差を考えるとさ……」
清光と鯰尾は、中庭の向こうの方で練習を続けている蜂須賀虎徹と浦島虎徹の動きも参考にしながら、連携技完成に向けた改善点を話し合っている。
「うーん、もうちょっとなんだけどな。あと一・二回で、何となく勘所を掴める気がする」
鯰尾はそう言って頭を掻き、もう片方の掌を上に向けて何かを掴む仕草をした。
また別のところでは安定くんとにっかり青江が連携技を練習していたが、それが一段落して小休憩に入ったらしい。青江は、同じく休憩に入った蜂須賀虎徹を次の練習相手に誘っていた。
「さ、今度は僕と組もうか。連携技のことだよ?」
「にっかり青江、微妙に語弊がある物言いはやめてくれないか」
蜂須賀は呆れ顔をしながらも青江の手を取って立ち上がり、すぐに連携の段取り確認を始める。
皆の練習風景をしばらく見ていたあたしと妹は、顔を見合わせて微笑んだ。
“新しい戦場で勝つために、あとひとつ必要な何か”――。見つけられずにいたその問いへの答えが、目の前にあるような気がした。
*
七月二十三日。江戸時代末期、京都市街地への出陣。モニター用の鏡は、今日の隊長である加州清光と、ふたり組の相方である鯰尾藤四郎を追っている。ふたりは大通りの真ん中を歩いているけれど、今のところ、敵が出てくる気配はない……。と、小さな交差点に差し掛かったところで、ふたりは同時に足を止めて顔を見合わせた。
「行くよ」
隊長の号令で、一歩下がったところから鯰尾が助走をつける。曲がり角の陰から敵の槍が飛び出してくるのと、鯰尾がそいつの刀装に狙いをつけて飛び上がるのは同時だった。脇差の刃が的確に敵の刀装を引き剥がす。
「今だ!」
鯰尾が振り向いて叫ぶと、次いで清光の掛け声、そこから更に一拍遅れて敵の断末魔が響いた。清光の突きが敵の槍の身体を貫いたのだ。清光が刀を横に薙ぐと、敵の槍は黒い砂に変じてその場に崩れ落ち、あとは水が蒸発するように黒い粒子が霧散した。
敵が完全に消滅したのを確認して、清光は駆けてきた鯰尾と互いの掌を軽く打った。
「よっし。連携技・『二刀開眼』、成功!」
あたしたち姉妹も、鏡のこちら側でお互いに手を取り合って喜んでいたことは言うまでもない。今夜の誉は、清光と鯰尾のふたりで決まりだね。
*
八月七日。
今日あった嬉しいこと、一つ目。ついに、第二部隊が京都の市街地戦で敵軍の本陣に辿り着き、時間遡行軍の動きを阻むことができた。いや、こんのすけ経由で政府から姉に通達された情報によると、敵の別部隊が三条大橋の方に向かったようだから、まだ安心はできないのだけれど。
二つ目。槍の御手杵さんが新しくあたしたちの仲間に加わってくれた。五月下旬に仲間になってくれていた蜻蛉切も、やっと槍同士ならではの連携技が出来るかもしれない、と嬉しそうだ。
そして、三つ目。これは昨日初めて気付いたんだけど、妹が鏡の中の戦況を見守っている時、怖がって目を逸らしてしまうことがかなり減った。相変わらず皆が無事かどうか心配そうだし、異形の敵を直視するのは苦手そうだけど、あの子なりに、仲間の戦いをちゃんと見届ける努力をしようとしてるのかも。
天気予報は明日も引き続き晴天。陽射しが強く、暑い一日になりそうだ。
*
八月十六日、晴れ。先週・先々週はこの地方にしてはとっても暑かったので、暑気払いをしたいのと、お盆期間のお勤めが一段落ついた慰労も兼ねて、今夜は大きな西瓜とかき氷でちょっとしたパーティをすることになった。家庭用の花火セットもいくつかあるから、食事の後は中庭で花火大会にしよう。
この本丸もだいぶ大所帯になったから、こんなささやかな催しでも、まるでお祭りみたいに賑やかになる。花火大会の中盤、厨におつまみを取りに行って戻ってきたら、いつの間にか鶴丸と陸奥守、鯰尾たちが手持ち花火の光で空中に文字を書いて遊んでいた。何あれ楽しそう。後であたしも交ぜてもらおうかな。
妹は一期と一緒に縁側に座って花火を眺めている。時々粟田口派の短刀たちがふたりに話しかけに行く様子が微笑ましかった。その傍では、歌仙兼定が今宵の花火を題材にした和歌をああでもないこうでもないと考えていた。
姉はさっきまで団扇を片手に加州や三日月や蜂須賀らと代わる代わる雑談をしていたみたいだけど、いま改めて傍を通ったら、いつの間にか真剣な顔をして、長谷部と一緒に次の出陣の戦術について意見を交わしていた。このふたりが話していると、結局最終的にはそういう話題に帰結するのね。なんて真面目な……。
おつまみのお盆を置き、もう一度中庭をぐるりと見渡してみる。すると、皆と離れた縁側の隅っこに山姥切国広が座っているのを見つけた。ひとりで線香花火を見つめているようだ。席を外さずに一応花火を楽しんでいるところを見るに、この場に居ること自体が嫌というわけではないようだけれど……。
あたしは線香花火を一本手に取り、彼のところに近付いていって勝手に隣に腰掛けた。
「よかったら、火、ちょうだい」
山姥切は布越しにちらりとあたしを見ると、無言でこちらに線香花火を差し出した。あたしはありがとう、と自分の花火の先端を近付ける。控えめな花弁を散らす白金色の光が二つになった。しばらく彼と一緒に黙ってそれを眺めてみる。周囲の歓談の声と、小さい火花が不規則に弾ける音だけがふたりの間に漂っていた。話をしなくても、不思議とその状態が心地良かった。
光忠がちょうど飲み物のグラスを持ってきてくれたのをきっかけとして、あたしは山姥切に話しかける。
「みんなとお喋りするのはあまり好きじゃない?」
彼は、顔がより深く隠れるよう、花火を持っていない方の手で白い布を引っ張りながらつぶやいた。
「いや……。ただ、俺は写しだからな。あんたも、写しの俺になんか構わない方がいい」
写し。山姥切がよく口にする言葉だ。山姥を斬ったという伝説が残る刀、の写しとして鍛えられた名刀……だっけ。
「『写し』って、偽物ではないんでしょう?」
「そうだ。写しは偽物とは違う……が」
山姥切は線香花火を見つめながら、独り言のような調子で続けた。
「時々、俺は何者なのか、ということを考える」
「…………」
あたしが口を開こうとしたところで、花火の種がふたつ同時に消え落ちてしまった。あたしは水を張った容器の中に線香花火を二本まとめて片付け、さっきの続きを山姥切に話し始めた。
「あたしも、そういうことを考えることあるかも。自分が分からなくなって、何をしたいのかが見えなくなって、いつの間にか足が竦んでいて」
すると、山姥切は珍しく驚いたように目を少し見開いて、隣のあたしに体ごと向き直った。あ、今日初めて彼と視線が合った気がするな。やっぱり綺麗な目。あたしは山姥切の目を見て一瞬微笑み、花火セットに入っていた簡易の打ち上げ花火が細い光の筋を引きながら夜空にのぼっていくのを見上げた。
「でも、良いんじゃないかな。分からなくたって」
「分からなくても、良い……?」
どういうことだ、と問いたそうな山姥切の呟きにあたしは頷きを返し、何となく手の甲側を表にして片手を空に掲げてみる。
「あたしがここでやるべきことは、妹と一緒に、審神者である姉様を支えること。どう進んだら良いか分からなくなった時はね、その目標を前に進むための道しるべにしているの」
仰いだ夜空には、小さな花火が局所的な光の雨を降らせている。山姥切は話を聞きながらしばらくの間あたしを見つめていたが、ややあって「……そうか」とひとつ頷くと、あたしと同じように打ち上げ花火を眺め始めた。
布の向こうの彼の横顔をこっそり盗み見る。もし気のせいじゃなければだけど、彼の口の端には、どこか安心したような笑みが宿っているように見えた。
第九話「客人」
長月の十九の日、晴れ。もうじき秋分とあって、だいぶ陽が沈むのが早くなってきたようだ。このところは、暑さと湿気が苦手な私たち刀にとっては過ごしやすい気候が続いているが、あやめ様たちの間では、朝晩肌寒くなってきたという話が時折聞かれるようになった。主たちにも、そろそろもう一枚あたたかい上着を羽織られるようにと進言した方が良いかもしれない。
今日はこの屋敷に客人があるそうだ。みかせ様と共に厨に立って茶と茶請けの用意をしていると、お邪魔します、と聞き慣れない声がして、どなたかが厨の暖簾をくぐってこられた。私と同程度の背格好に見える年若い男性だ。勿論彼と私は初対面のはずだが、私は彼の目元のみに謎の既視感をおぼえた。何だか、彼とよく似た目をお持ちの方を知っているような気が……。
「慶兄さん」
みかせ様が嬉しそうにその男性に近寄って行かれた。彼も目元を和らげて、「おお、久しぶりだな」と挨拶を返される。その時、私は先ほどの既視感の正体に突然気が付き、思わず「あ」と小さく呟いた。彼はあやめ様と目元がよく似ておられるのだ。ということは……。
みかせ様が私の方を振り返られ、私に彼を紹介してくださった。
「慶兄さんは、姉様たちの大椙のお家の長男で……私にも弟がいるんですけど、小さい頃は慶兄さんに連れられて五人でよく遊んだんです」
私は、それはそれは……という思いを込めて彼に深く一礼した。彼も丁寧に私に礼を返してくださり、それからみかせ様に話しかけられた。
「不思議なもんだな。彼らと直接話すことはできないが、確かにそこに居る、か。いや、俺のほうも、普段からそういう方にお仕えしているようなものではあるけどな」
先ほど五鈴様から伺った。今日の客人は一定の霊力を有しているから、おそらく刀剣男士の姿を見ることはできると思うが、声までは聞こえない確率が高い、と。出陣先であればいざ知らず、この「本丸」という場所にはまた別の論理で「時の政府」と審神者の霊力による二重の迷彩が施されているため、本丸内に足を踏み入れた者の霊力の波長によっては、迷彩機能との調整が上手く行かず、このような現象が起こることがあるとのことだ。因みに、全く霊力の無い一般の人間は、例え審神者本人が招待したとしても、本丸の敷地に足を踏み入れるどころか、本丸の場所を探し当てることさえも叶わないという。
みかせ様が私に向けて、兄君が五鈴様と同じく神職であられることを教えてくださった。成程、それであれば、この屋敷を訪うことができるだけの霊力をお持ちであることも頷ける。
「兄様、もう姉様とお話はできた?」
「ああ、今話してきた。ひとまず元気にやってるみたいで安心したよ」
彼は笑みを深めてみかせ様に頷かれ、それからどなたかを探されるように辺りを見回された。
「あ、そういえばあいつは? 今日はいない?」
“あいつ”というのは、末の妹御であられるあやめ様のことだろう。
「姉様なら、今日はここには寄らないって」
「そっか。顔を見られなくて残念だけど、まあ突然だったしな」
兄君は眉を下げると、そろそろお暇するかな、と仰って帰る準備を始められた。厨を出て行かれる前に、もう一度みかせ様を振り返られて、彼女の目を正面から覗き込む。
「それじゃ、また」
その時の兄君の目は、この世で最も愛おしい者を見る目であるように私には感じられた。いや、血筋としては従兄妹にあたるとはいえ、本当のごきょうだいのように共に育ってこられたのだから、妹御のうちのおひとりを愛しく思われるのは当然のことだろう。だが、今の目は、まるで――。
彼が厨から出て行かれてからも、私は先ほどの一幕が頭から離れず、しばらくそこから動くことができなかった。やっと意識が現実に立ち戻ったのは、みかせ様が思い出したように「あっ……お茶とお菓子、せっかく準備したのに」と呟かれた時だった。
*
九月二十日。私は偶然食堂付近で会った堀川くん、前田くん、蛍ちゃん、乱ちゃんと一緒に、食堂の六名掛けの席で一緒に昼食を摂ることにした。
「それでさ、俺、この間の出陣で山姥切国広と久しぶりに一緒になったでしょ」
蛍ちゃんがライ麦パンのサンドイッチを頬張りながら私たちを見回す。
「その時、太刀筋がちょっと変わったなと思って。何て言うんだろう、迷いが無くなった、みたいな感じ。何かあったのかな?」
「それは、よいことですね。蛍くんも、厚樫山への出陣お疲れ様でした」
みんなで雑談に花を咲かせていると、食堂の入口近くをたまたま一期さんが通ったらしく、乱ちゃんが席から立って一期さんに手を振った。
「いち兄。お昼ご飯まだだったら、一緒に食べよー」
一期さんは乱ちゃんの声でこちらに気付いたけれど、私と目が合った時、さりげなく目を逸らされた、ような気がした。気のせいかしら……と私が思っていると、一期さんはいつもと何も変わらない様子で、少し困ったように笑った。
「すまない、私はまだ午前中の用事が終わっていなくてね。後で頂くよ」
そして、私たちに軽く会釈をすると、資料室の方に歩いて行ってしまった。
「一期さん、時間が合わなくて残念でしたね」
そう言う堀川くんに私も相槌を返したものの、この日はそれ以降、ずっと胸につかえているものがある気がして、上の空のまま過ごしたのだった。
*
九月二十四日。
あれから、やっぱり一期さんに少し避けられている……まではいかないけれど、今までよりも距離を置かれているような気がする。廊下ですれ違っても、出陣のための刀装や霊符を渡す時も、もちろん礼儀正しいひとだから普通に接してくれるけれど、雑談の頻度や笑顔を見せてくれることが少なくなってしまったような……。でも、これが私の気のせいではないとして、どうして急にそうなってしまったんだろう。私が知らないうちに何かしてしまったのかしら。そうだとしたら、一期さんなら相手と距離を置こうとするというよりは、普段弟さんたちを窘めているように、やんわり指摘してくれる気もするけれど……。もうそうする気にもならないくらい、私に愛想が尽きてしまったとか?
そんなことをぐるぐると考えていると、共用の休憩室の障子が不意に開いた。
「おっと、姫さんがいたか、すまない」
障子の方を仰ぐと、書類挟みを肩に担いだ薬研くんが室に入ってくるところだった。彼が「ここにもいないか」というように部屋の右を見たり左を見たり、廊下に目を遣ったりしているので、誰を探しているのかと訊いたら、一期さんに用事がある、と返ってきた。
「戦績の書類について、一昨日隊長を務めたいち兄に訊きたいところがあってな」
「一期さんとは、今日は一度もすれ違ったりしていないかも。畑当番や厨当番でもなかったと思うし……。もし見かけたら、薬研くんが探してたって伝えておくね」
私もこの繕いものが一段落したらどのみち洗濯物を取り込みに庭に出る予定だし、そうこうしているうちに屋敷のどこかでばったり会うかもしれない。薬研くんにそう説明すると、彼は「そうか。悪いな」と申し訳なさそうに言って、白衣のポケットに入っていたセロハンテープを備品棚に返却した。その足で部屋の出口に向かい、振り返ってふと私の顔を眺めたかと思うと、「気のせいかとも思ったが」と人差し指で自身の頬の横を軽く掻いた。
「やっぱり浮かない顔してんな。何かあったか?」
次いで、もしかして脚が痛むのか、と真剣に訊かれて、私は急いで否定した。
「ううん、何ともないよ」
ただ、戦闘や健康に関わる深刻な事ではないけれど、ちょっと気になってることがあって。歯切れ悪くそう続けると、「気になることか」と返ってくる。私は「うん」と頷いたきり、詳しい話を切り出せなかった。薬研くんは私が話し出すのを待っていてくれたけれど、私が黙ってしまったので何かを察したのか、優しく笑って嘆息した。
「姫さんは人一倍我慢強いからな。そうだな……的外れだったら悪いが、偶には思ってることを相手にぶつけてみるのもいいと思うぜ。こう、ずえりゃぁ、っとな」
彼は短刀を持つ真似をして、掛け声と一緒に空中を一突きする。私は目を丸くして、それから衣の袖口を口許に当てた。顔が綻ぶ時によく出る癖だ。
薬研くんは、やっと笑ったな、と目を細めて、兄弟捜しに戻っていった。
*
夕暮れ時、廊下の曲がり角で偶然一期さんと行き合った。反射的に、兄弟を探す薬研くんの姿が頭に浮かぶ。私は極力余計な事を考えないようにしながら、一息に話しかけた。
「一期さん。さっき薬研くんが、一期さんを探していました。戦績データのことで質問があるって」
「ああ。有難うございます。では、夕餉の時にでも薬研に声を掛けておきます」
彼はそのまま会釈とともに私と擦れ違おうとしたけれど、私はさっきの薬研くんの言葉を思い出し、勇気を出して「あの」と一期さんを呼び止めてみた。
一期さんはその場で立ち止まって、私の話が聞けるように近付いてきてくれた。私はというと、まず話しかけたは良いものの、続く言葉がなかなか出てこない。最近私たちの間に何だか距離がある気がして……なんて言い出しづらいし、そもそも、本当は彼が私と関わりたくないと思っているとしたら……。私が目の前の一期さんを見つめたまま何も言えずにいると、彼はやがて睫毛を伏せ、次いで私に頭を下げた。
「申し訳ありません。私は……貴方にそのような顔をさせるつもりではなかったのですが」
私はいま自分がどんな顔をしているかが一瞬心配になったが、それよりも、やっと彼ときちんと話ができた安心感の方が大きかった。ほっと息をついて、何か気にかかることでも、と彼に尋ねてみたら、彼は少し言いづらそうに指の甲を口許に宛てた。
「その……兄君のことで」
「この間会った、慶兄さんですか? どうして?」
全く予想していなかった人物の名前が出てきたことに、私は目を丸くした。しかし、本当に予想外の内容はここからだった。
「現世では、親戚との婚姻は成らないが、従兄妹の関係性であれば問題無いと聞きましたので。それで、兄君が貴方のことを……」
そこまで聞いて、私は失礼かと思いながらも、ついに声を抑えながら笑ってしまった。
「ごめんなさい、笑ってしまって。でも、まさかそんなことを心配していたなんて思わなくて」
それから私は、兄様とは本当にそんな関係ではないこと、貴方と一緒にいる時間が減ってしまって寂しかったということを、少し時間をかけて彼に伝えた。話をしている間、だんだん一期さんの瞳が優しくなっていったことを、私は彼と別れて夕餉の準備に向かう間も、ずっと忘れることができなかった。
天気は曇りのち晴れ。厨の窓から覗いた夕映えの空には、一番星が控えめな輝きを放っている。
第十話「墨流し」
九月末日。本丸に新しい刀剣が仲間入りした。太刀、小狐丸。新しい仲間が増えるのはいつだって嬉しいものだけれど、特に顕現させづらいといわれる一振りだけに、本丸の中には一層祝福ムードが漂っていた。三日月や石切丸も、同じ三条派の仲間が増えて嬉しそうだ。それに、夏の間に岩融や長曽祢虎徹、明石国行も仲間になったから、これで、現時点で刀帳に登録されている刀剣男士が全員揃った……ことになるのかな。ここのところ、江戸末期の京都・三条大橋への進軍も順調のようだし、本当に良かった。
けれど、自分は日を追うごとに、名前をつけられない不安が大きくなっていくのを感じていた。そう、言うなれば……『夢から醒めてしまう』ことを、自分は恐れているのだろう。
*
十月一日、晴れ。私は同田貫さんと並んで広間の南の縁側に座り、新米の籾摺り作業をしていた。本丸の南東の端の小さい田圃で初めて収穫できたお米だ。脱穀をした後の籾を摺り鉢に入れ、小さい毬を押し付けて籾殻を分離させていく。力が無さすぎてもいけないし、力を入れすぎても駄目になる。やってみると予想以上に神経を使う作業だった。
「だーッ、終わりが、見えねえ。あとどんだけあるんだよ、コレ」
隣で同田貫さんが頭を抱えて呻いた。
「本当、少しずつしか進まないね……」
細かい作業が好きな私にはそこまで苦にはならないとはいえ、確かに時間と手間のかかる作業だ。今度はぜひ脱穀機や精米機を導入してもらえるように、姉様に相談してみよう。
「俺たちは武器だろうが。少なくとも俺は、こういうことには向いてねーんだって」
うなだれて溜息をつく彼に、私は「ごめんね、今ちょっと本丸中の全員を動員しても手が足りなくて」と苦笑した。上の姉が神社の方の仕事で忙しくしているうえ、長めの遠征で出払っている部隊も多い。
「……そうだったな。しゃーねえ、これも仕事のうちだ」
同田貫さんは思い直したように腕捲りをして、また黙々と摺り鉢に向き合い始めた。回廊の向こうの方からは、精米班の和泉守兼定さんと御手杵さんが「玄米、白くなってきたのかどうなのかよく分っかんねえんだけど、コレで合ってるのか?」「俺は刺すことなら負けねえぞ! 玄米搗きなら任せろー!」と騒いでいる声が聞こえる。
私は一旦手を止めて、摺り鉢の中の籾と格闘している同田貫さんの横顔を何となく見つめた。
「ん、何だよ」
彼は私の視線に気付いてこちらを振り向き、指の甲で鼻の頭を拭った。
「同田貫さん、一昨日の出陣で怪我したでしょう。それなのに、今日にはもう元気で動けているのが、何回見てもやっぱり不思議で」
あの怪我だったら、人間なら少なくとも一週間は安静にしている必要があるけれど、刀剣男士は霊力で手入れすればすっかり元通りになる。何なら同田貫さんの場合は、寝ていると身体が鈍ると言って、午前中に道場に寄って鍛錬までしてきたそうだ。その名残として、彼の首にはまだ鍛錬用の手拭いが掛かったままになっている。
私は毬を籾に押し付けながら、改めて彼にこう問いかけてみた。
「あの、同田貫さん。何度も戦場に出て、何度も怪我をして、その次の出陣で怖いと思うことはない?」
「ああ? むしろ、次は一太刀浴びて動きが鈍る前に全員ぶっ倒してやるって闘志が湧いて、すぐにでも出陣したいくらいだ。いくさに出られなきゃ意味がねえからな」
「そう……。またすぐにでもなんて、すごいなぁ。私は全然弱虫で。想像するだけでも足が竦んでしまいそう」
「そーか?」
同田貫さんは籾摺りが終わった分を摺り鉢からざるに移して、籾殻を振り落としていく。
「いいんじゃねーの。俺はこうってだけで、刀にも人にも色んな奴がいるもんだろ」
「うん……?」
私が訊き返した時、ちょうど最後の籾摺り作業が完了した。同田貫さんは玄米が入った器を持って立ち上がり、空いている方の手で首元の手拭いを指差した。
「例えば、コレとか、助かったって話だよ。俺はこんなチマチマしたこと、あんたみたいに上手く出来ねーからな」
ああ、いつだったか、その手拭いの縁がほつれてきてしまっていたのを縫い直したことがあったっけ。ついでに、彼の手拭いは無地だから他のひとのと間違えそうになるっていう話を聞いて、区別のために簡単なワンポイント刺繍を施してみたのだった。ちょうど彼が指差した辺りの部分に、薄めの灰茶色の糸で縫い取られた草木模様が踊っている。
私が何と答えたらいいか考えているうちに、同田貫さんは「じゃ、お疲れさん」と言って、精米班のほうに声を掛けに行ってしまった。
*
十月十八日。
あたしは前が見えなくなるほどの山盛りの巻物を抱え、若干おぼつかない足取りで屋敷北側の廊下を歩いていた。危ないんだろうけど、だって、執務室との間を何回も往復するよりこの方が早く済むから……。
目的の書道室に辿り着き、何とか薬指と小指を引手にひっかけて襖を開ける。すると、予想に反して部屋の主の姿は見えなかった。歌仙がこの部屋にいるって聞いたんだけど、ちょうど席を外してるのかな。
その時、抱えた巻物のうちの一つがついに腕の中からこぼれ、虚しい音を立てて畳に転がった。それを拾おうとして、偶然、文机の上に置かれた器が目に入る。水を張った広口の器だ。歌仙が筆の穂先を洗うために用意したものらしく、透明な水の表面には、蛇行するような墨の模様が描かれていた。墨は水と完全には混ざり合わず、その色を保ったままで水の中に横たわっている。なんて言うんだったかな、こういうの。墨流し、だっけ。
巻物を拾って立ち上がった後も、あたしは何となく、水面の墨模様がゆっくりと表情を変えていくのをしばらく眺めていた。それこそ、誰かに背後から声をかけられるまで、ずっと。
「あやちゃん? どうしたの」
声と呼び方で、誰がそこにいるのかはすぐに分かった。光忠だ。あたしが振り返ると、彼はあたしの腕の中の巻物に気付いて、早速その山に手を伸ばしてくれた。
「手伝うよ。ほら、貸して。これ、どこに持っていくんだい」
「ありがとう。ここの隣の部屋に置いておきたいんだって」
光忠が巻物を半分抱えてくれたおかげで自由になった片手で、左側の襖の奥の部屋を指差す。この巻物は政府からの支給品で、執務室より書道室で使うことになる可能性が高いから、書道室の隣で保管してほしいとの指示だった。
隣室の棚にふたりで巻物を収納している時、光忠はあたしにこう話しかけた。
「お姉さんの手伝いかな」
「うん。姉様、忙しそうだから」
「そうか、今は神社での仕事が多いって言っていたね……」
神社勤めの姉にとって、月遅れの神嘗祭と新嘗祭の準備が重なる今の時期はいわゆる繁忙期にあたる。そのため、彼女は普段よりも本丸にいられる日が減り、帰ってきても執務室に籠もりきりで、仕事を済ませたら後は湯を使って眠るだけという毎日が続いていた。いつだったか、長谷部が出陣数をもっと減らしてはと進言していたが、政府側に提出する戦績に関わるからこれ以上は減らせないそうだ。
「あやちゃんも、最近ちょっと元気がないように見えるけれど、大丈夫かい? 疲れが出てるのかな」
光忠の不意の問いかけに、声が裏返りそうになる。
「あたしは大丈夫よ。出来るだけ姉様の負担を減らせるように頑張らないと」
あたしが肩の高さで拳をつくると、光忠は目を細めて軽く頷き、最後の巻物を棚に収納し終えて立ち上がった。
「よし、僕も何か手伝うことがないか鈴さんに聞いてくるよ。それで、一段落ついたら、冷蔵庫にある南瓜のチーズケーキを持って行くから、みんなでおやつ休憩にしよう。休息も大事だからね」
昨日の厨当番だった光忠が、食後のデザートにって作っておいてくれたやつだ。あたしは目を輝かせて、おやつタイムのためにももうひと仕事頑張ろう、と決意を新たにしたのだった。
*
十月二十五日。今日は予想最高気温が十度。今年度一番の寒さになるとのことだ。そろそろ上掛け布団をもう一枚追加した方がいいかしら。
「よし……と」
屋敷北西の書物庫。いや、書物庫なんて言っても、ただ普通の部屋に本丸中の書物をまとめて所蔵しているというだけのことなのだけど。ともかく、あたしは両腕一杯の書物をやっと書棚に返却し終えて軽く手を払った。今日は書物庫に寄る用事はこれだけだからと、面倒がって明りも点けずに作業していたら、意外と時間がかかってすっかり夕方になってしまった。秋の日暮れは早い。北向きのこの部屋は、多分もう少しすると、書物の背表紙の文字が判読できない程度には薄暗くなってしまうと思う。
あたしが室の出口に向かおうとした時、隣の部屋に繋がる襖の向こうから不意に人の話し声が聞こえた。襖を隔てているから声自体が少しくぐもっていて、ところどころ聞こえづらい部分もあるけれど、あたしがその声の主を間違えるはずはない。姉の声だ。相槌の打ち方から察するに、隣室で誰かと電話をしているらしい。そういえば、あまり使う人がいないから気にしたことはなかったけど、隣の部屋には固定電話が設置されていたっけ。
姉が電話で誰かと話している、ただそれだけだったら、あたしはさほど気に留めずにさっさとこの室を出て行っていただろう。ところが、断片的に聞こえてくる単語から、彼女が通話相手と何について話しているのかが分かってしまった瞬間、あたしはそこから一歩も動けなくなった。人の電話を盗み聞きするつもりなんてないのに、襖の向こうの話し声は否応なく耳に流れ込んでくる。水を張った器に墨の雫を落とした時みたいに、その音はあたしの心に馴染まないまま、静かに胃の底に沈殿していった。
「ええ、だから……」
襖越しの姉の声は、いつも通り落ち着いている気もするし、いつもより張り詰めているような気もする。あたしはなるべく衣擦れの音を立てないように襖に近付き、足で三角を作って、襖が背になるように座り込んだ。両腕で自分の膝を抱いてそこに顔を埋めると、少しだけ心が落ち着いた。あたしはその姿勢のまま、長いこと襖の向こうの話を聞いていた。
姉の声が途切れ、電話を置く音がしたのに合わせてやっと顔を上げると、室内はもうすっかり薄暗くなっていた。ああ、早くここを動かないと。今にも姉が人の気配に気付いて、この襖を開けてしまうかもしれない。そう焦れば焦るほど、あたしの手足は畳に縫い付けられでもしたように動かなくなった。
あたしが途方に暮れて溜息をついた時、半開きにしてあった入口の障子が急に大きく開かれた。思わず口から漏れそうになった叫び声を慌てて飲み込む。
「……何をしているんだ」
もう少しで床に着きそうな長い布きれが廊下の明りに照らされているのが目に入った。山姥切国広だ。
「え……っと。山姥切はなんでここに?」
「さっき、そこで主と擦れ違って、もうすぐ夕餉だから皆を集めてくるようにと言われてな」
「そっか、姉様と……」
安堵が半分混ざった複雑な気持ちで小さく呟く。それっきり、ふたりの間に何秒かの沈黙が流れた。その間、山姥切はじっと入口付近に立っていたが、やがて迷うように行ったり来たりを何度か繰り返したのち、肚を決めたとばかりに室に入ってきて、あたしの真横に同じ姿勢で座り込んだ。
どうしたの、と目だけで彼に問いかける。それに気付いたのかどうか、山姥切は視線を畳に落として、少し口ごもりながら言った。
「いや……。何があったかは知らんが、写しの俺でも、こうすることくらいはできる……と思っただけだ」
彼が被っている布の端っこが肩口に当たった時、なぜか自然と笑みがこぼれた。
結局彼は、辺りがすっかり暗くなるまであたしの隣にいて、あたしが夕餉を食べに行くために立ち上がる気になるのを待っていてくれた。
*
かんな月、二十九の日。
大将が詰めている執務室は屋敷西側の端。半螺旋の階段を上がり、俺は扉の傍の鈴を鳴らして主に来訪を知らせた。室内からの応答の声を待ってから、少し軋む木戸を肘で開く。
「使いを頼んですみません、薬研」
机に向かって書類仕事をしていた大将が、俺が室に入ってきたのを見とめて目で礼をした。
「いいや、ちょうど畑当番も早く終わったんでな。これくらいはお安い御用だ」
配達物を受け取ろうと差し出された手に、決裁待ちの書類を載せる。主は書類を掴もうとしたが、薄い紙は指の間を通り抜けて床に落ちてしまった。俺はそれを拾い直し、今度こそ主の手にしっかり握らせる。
「ありがとう」
俺を見上げる大将の目は僅かに赤い。
「……大将、寝れてるか? 長谷部にも毎日何かしら言われてるだろ」
長谷部の小言に心当たりがあるのか、主はそうですね……と少々目を泳がせて言い淀み、書類仕事を続けながら答える。
「大丈夫です。皆が色々と手伝ってくれているお蔭で、何とか」
それならいいんだが、と返して、体を冷やさないようにと伝えると、退出を告げてゆっくり木戸を閉じた。
しばらくは、注意して見ておく必要がありそうだな。疲労緩和の漢方薬の材料はまだ残っていたか……。俺は半螺旋の階段を下りながら、薬の調合の割合について考え始めた。
*
霜月の二の日。霜月の名の通り、今日はとりわけ底冷えのする日になりそうだ。午後からは雨も降り出し、昨日のような昼日中の暖かさは望めないという。
吐く息の白さを感じながら、倉庫に資材を運ぶために中庭を端から端まで往復していると、何回目かの復路で、中庭から見える主の自室の障子が開け放されているのに気付いた。室内では、五鈴様と長谷部殿が立ち話をしている。棚を指差しておられるところを見ると、棚の中に今必要なものがあり、それについて長谷部殿と何事かを相談しているようだ。長谷部殿は肩越しに主へ声を掛けながら、部屋から一旦退出される。それを横目に、私も残りの資材を取りに戻った。
資材を両腕に抱えて、次に中庭を横切ろうとした時だった。何か多くの物が崩れ落ちるような尋常ではない音が響き、私は反射的に音のしたほうを振り返った。先ほど遠目に確認した主の自室の方角だ。私は運ぼうとしていた資材を一旦下に置き、改めてそちらに目を遣ったが、室内にはどなたの姿も見られなかった。
嫌な予感がして、すぐに縁側に駆け寄る。下駄を脱いで廊下に上がると、植え込みで死角になっていた光景が露わとなった。開け放された室の畳には、中身が零れた大きな壺、脚が一本折れて横向きに転がる香炉、散らばった書物と小物類、粉々に割れている手鏡。そしてそのなかに、瞼を固く閉じ、唇の色を失くしたこの部屋の主が横たわっていた。黒髪が重力に従い、一筋二筋と白い頬へ流れる。
「――五鈴様」
私の声に驚いたのか、中庭で群れていた黒い野鳥たちが、初冬の空へ一斉に飛び立つ羽音が聞こえた。
第十一話「逢魔」
十一月三日。
部屋の中にある音と言えば、時計の針が立てる音と、時々聞こえるあるじさんの寝息だけ。ボクは五鈴さんの床の傍で、彼女が目を覚ますのをずっと待っていた。
五鈴さんが自分のお部屋で倒れてるのをいち兄が見つけて、長谷部さんもその時二階にいたっていうのにすごい速さで駆けつけてきて……ちょうど訓練場帰りに通りかかったボクと平野が介抱を手伝って、「時の政府」の連絡先一覧に載っていたお医者様を呼んで、一晩明けてやっと落ち着いたのが今。あるじさんはもう丸一日眠り続けているから心配ではあるけど、唇や頬にはだんだん血色が戻ってきた。回復している証拠、って思っていいよね。ボクは彼女の顔の横に掛かっている髪の一束をすくって、背中側に払ってあげた。
その時、五鈴さんが薄く目を開いてボクの方を見た、気がした。え、見間違いじゃないよね? やっと目を覚ました! ボクが話しかけるより早く、五鈴さんは布団の中から何かをつかむように片手をこっちへ差し出して、唇をゆっくり開いた。
「みか――」
*
霜月の三の日。
隣室で大将の看病をしていた乱が前触れなく襖を開け、病人の邪魔にならない音量で俺たちに囁いた。
「ねえ、五鈴さん、目を覚ましたよ」
「本当かい? よかった」
看病を交代する準備をしていた燭台切の旦那も、俺と同時に安堵の溜息をつく。
「大将はどんな様子だ?」
「もう眩暈も無くて、起き上がっても大丈夫みたい。顔色も昨日より良くなってたよ」
薬師の見立てでは過労と風邪が重なったって話だったから、よく眠れて体力がある程度回復したってことだろう。それにしても、倒れるほどの状態だったのを俺が見抜けなかったってのも不甲斐ない話だが。大将は我慢強すぎるのに加えて、体調がかなり顔に出にくい性質らしい。今後はもっと注意してよく見ておいて、早い段階で止めにゃならんな。俺は煎じた薬を冷ましながら、一人で今回の件について反省した。
「おお、主は目を覚ましたか。大事なかったようで何よりだ」
控えの間に顔を出した三日月に、燭台切が頷きを返した。
「ああ、ひとまず安心したよ。鈴さんには、しばらくゆっくり静養してもらわないといけないね。それにしても、倒れた時に大きな怪我がなくて本当によかった。すごい音がして、手鏡なんかも割れてたって聞いたから」
「うん、廊下まで聞こえてきてびっくりしちゃった。いち兄が、鏡の破片がないところに五鈴さんを運んでくれててね」
乱は看病の邪魔にならないように後ろで一つに束ねておいた髪が解けかけているのに気付き、結い紐を口にくわえて髪を結い直しながら、昨日の様子について話していた。それから、思い出したように「そういえば」と続ける。
「ボクね、さっきみかせさんに間違えられちゃった」
「みかちゃんに?」
燭台切が訊くと、乱は、目を覚ましたばかりの大将が最初に口にした言葉について説明した。
「落ち着いてから改めて五鈴さんに訊いてみたらね、『昔から体調を崩した時はよくあの子が看病してくれたから、つい見間違えた』って。一瞬、三日月さんを呼んだのかとも思ったんだけど」
乱が三日月に話を振ると、三日月は「そうか、そうか。俺のことではなかったのが少し残念だな」と楽しそうに冗談を言って頷いた。
*
十一月五日。
意識を失ってから一昼夜休むと、体はだいぶ楽になった。ただ、どこも痛まなくなったといっても、それと体力が戻っているかどうかは別問題だ。わたしは長谷部や薬研たちの勧めに従い、出陣数を更に削って暫く静養することにした。そして、今日は実に一週間ぶり、十一月に入って初めての出陣だ。わたしは念のため、三日月、一期、燭台切、鶴丸、次郎太刀、江雪という高練度の太刀・大太刀を選抜し、もう何度も出陣経験のある元弘の乱の時代に現れた敵を征伐しに行かせることにした。そのほか、資源補充のために長谷部たちの隊と歌仙たちの隊を短期遠征に出している。長谷部が不在のため、今日は太郎太刀に近侍を任せる予定だ。
――最初に違和感に気付いたのは、午後三時頃。三日月の隊の出陣を見送ってしばらく経ち、指令室の鏡を確認しようとした時だ。もう向こうに到着していてもおかしくない時間なのに、鏡はただ覗き込む者の姿を忠実に映すだけ。三日月の隊の時空移動が上手く行かず、途中で何処かに迷い込んでしまったのではないか。若しくは、出陣先で何かあったのか……。最初はそれらの可能性を疑ったが、どうやらそうではないということに気付いたのは、堀川が息せき切って室に飛び込んで来た時だった。
「五鈴さん。庭の向こうの森の辺りが変なんです。磁場がおかしくなっている感じで……」
そう言われた瞬間、わたしにもこの本丸を守る迷彩機能の乱れが僅かに知覚できた。成程、異常があるのは送り出した部隊の方ではなく、本丸のほうというわけか。わたしは一旦庭に出て現状を確認しようと立ち上がったが、室の出口の襖のところまで来たところで、ちょうど白い衣を掛けた片腕にそれを阻まれた。
「青江……」
「君は出ない方がいいと思うよ。もう、『沸きはじめている』。どこから這入ってきたのかは知らないけれどね」
にっかり青江の報告に、堀川が息を呑んで呟いた。
「そんな……。早すぎる」
わたしは黙って二秒思考したのち、青江に向かって「分かりました」と頷いた。
「中庭の方は、今居る者だけで食い止められそうな敵数ですか?」
青江は、今のところは、と肯定の返事をかえす。
「僕、屋敷を回って、今本丸にいる皆に知らせてきます」
堀川はわたしが首肯するのを待って、脇差ならではの機動力で廊下を駆けていった。
わたしの方は、太郎太刀を伴って屋敷中央の制御室に籠もることにした。ここには神棚と刀を一時的に置くための刀掛けだけがあり、石切丸らがよく祈祷に使っているので祈祷室とも呼ばれている。わたしたち審神者は普段、この神棚と霊力を共鳴させて屋敷内郭に迷彩を生じさせている。本丸の「核」とでも呼ぶべき場所だ。よって、ここが落ちれば、本丸という機構は実質崩壊する可能性が高い。
わたしは太郎太刀に玉串を持たせ、室の出入口の方に向かって手をかざした。
「力を貸してもらえますか。簡易的な結界を張ります」
「ええ、勿論です」
太郎太刀もそれに応じて霊力を室の外縁に張り巡らせ、結界の生成を補佐してくれる。
――これでどれだけ持ち堪えられるか。此処に籠もる時に、大和守に伝書鳩と早馬の手配は頼んだものの、出陣中の部隊と短期遠征中の部隊が無事に本丸に帰ってこられるかどうかすらも分からない。加えて、この部屋の外で、屋敷中で交戦してくれていると思われる皆の様子を知ることができない。戦況モニター用の鏡の重要さが痛いほど身に染みる。
「主、身体の負担は大丈夫ですか」
太郎太刀に問われ、一拍遅れて頷いた。まだ体力が戻りきっていないことは否定できないが、さりとて、霊力を出し惜しんでいて良い状況でもない。
「……ともかく、出来る限りのことをします」
わたしは掌に霊力を集めて室の出入口に軽く触れ、部屋中に透明な結界を張り巡らせた。
*
「くっそ、何だよ、こいつら」
斬っても斬っても沸いてくる。個体の練度としてはそこまででもないけど、頭数が多いのが問題だ。守りが綻んでるっていう庭の向こうのところを塞がないとキリがない。そっちには鳴狐と厚たちが向かってくれたけど、敵の数に対してこっちの戦力的には足りてるのか? ああくそ、そっちに向かおうにも、まずこの廊下の敵を片付けないと――。
敵を手当たり次第斬って無力化させながら、長い廊下を走り抜ける。突き当たりの階段のところで、紫紺の袴の裾が視界を掠めた。
「あやめさん、こっち」
俺は彼女と合流して、自分の背に隠れるように促した。さっき、敵はそこまで強くないって言ったけど、もちろん俺たち刀剣男士でない普通の人間が狙われたら無事でいられるとは思えない。
「あ――」
こんな状況だから当たり前だけど、あやめさんはうまく声が出ないみたいで、俺の二の腕辺りを軽く叩きながら改めて言い直した。
「姉様は」
「主は中央の制御室。今日の近侍の太郎太刀が一緒にいて、石切丸も補佐のためにそっちに向かったって」
話しながら、あやめさんを背にして敵を二体同時に刺した。とにかく、敵を誘い込まないように制御室周辺は避けつつ、屋敷の奥側に向かおう。その途中で誰かと行き合うかもしれないし、裏口さえまだ抑えられてなければ、完全な袋小路にはならない、はず。
敵の短刀の背骨を砕き、脇差を二つに割って黒い臓腑を飛び散らせ……ああ、またこっち側からすばしっこい短刀だ。防御が間に合わないと判断した俺は、壁を蹴ってそいつのところまで飛び上がり、天井の角に刀を突き刺してそいつを磔にした。俺が刀を引き抜いて着地すると同時に、そいつは甲高い断末魔を上げて黒い砂に姿を変え、その砂も天井から落ちてくる間に細かい粒子になって消滅していた。
俺は走り通しのあやめさんと一緒に一旦息を整え、進行方向である廊下の先を見――ようとしたところ、面を隠した水干姿の異形がちょうど目の前に立ちはだかった。
――薙刀!
天井の電灯に頭が触れるほどの大型なそいつは、まさにいま得物を大きく振りかぶっている。とりあえずあやめさんは背後に隠したものの、この一薙ぎ、耐えられるか。
俺はある意味覚悟を決めて防具を前にかざしたけど、しばらく待っても予想した衝撃は来ない。不思議に思って前を確認すると、薙刀の背後で刀を引き抜く音。その次に、黒い煙を立てて薙刀が消失し始めた。そいつが消えると、敵を挟んで廊下の向こう側にいた者の正体が明らかになる。
「山姥切」
白い布が返り血でかなり汚れてるけど、山姥切も酷い怪我はしてないみたいだ。助かった、とお礼を言って、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、背後から敵短刀らの第二陣がやって来た。
「やば……」
咄嗟にあやめさんの腕を掴み、山姥切がいる方へ誘導する。
「山姥切、あやめさん頼んだ!」
振り返らないまま山姥切に伝えると、引き受けた、という簡潔な返答。
「鯰尾も気を付けて。折れないでね、絶対」
あやめさんが必死に叫ぶ声を背中に受けながら、俺は刃を正面に向けて、あの敵の群れの中でどいつから倒していったらいいかを観察し始めた。
*
十五時四十分過ぎ。
肌で知覚する敵の数が四半刻前よりも増えてきている。今のところは結界が有効に働いているし、皆が善戦してくれているのも感じ取れるが、こちら側の応援がいつ到着するのか、そもそも到着できるのかも分からず、防衛戦の格好となってしまっているのが辛いところだ。皆の戦闘力にもわたしの霊力にも限界はある。あと何時間も同じように戦い続けるのは現実的に難しいだろう。
不意に、結界の一部に異常を感じた。ある一点だけが集中的に攻撃されている。顔を上げてその部分に目を遣ると、竜骨型の短刀が障子越しに結界を破ろうと体当たりをしてきているようだった。わたしと太郎太刀の緊張感が否応なく一段階引き上げられる。いま、攻撃を受けている箇所の結界を一時的に厚くしてあの短刀を退けることもできるだろう。でも、結界を保つための霊力も無尽蔵ではない。一箇所の守りを強化した代償として止むを得ず他の箇所の守りが薄くなり、その一瞬の隙を他の敵に突かれたらどうする? この制御室に敵が入ってきてしまったら、人間であるわたしにはほぼ防衛手段が無い。太郎太刀もだいぶ霊力を消費しているうえに、いくら大太刀と言えど、単純に敵の数が多すぎれば打ち漏らしも出る。やはりどう模擬演算をしても、この結界を破られた時が終わりだ。
太郎太刀とふたりで障子の向こうの敵を注視しながら、いま取るべき方策について考えを巡らせる。やがて、わたしが肚を決めて、その一点に一時的に霊力を集めようとした時だった。障子の向こうに一つの影が現れ、振り下ろした刀で敵の竜骨の頭を的確に砕いた。その影は刀を軽く振って穢れを払い落とす。その仕草と影の形で、障子の向こうに誰がいるかを推察することができた。わたしはひとまず息をつき、障子の外の人影に話しかけた。
「助かりました。石切丸、ですね」
西側の離れから渡り廊下を抜けて此処まで駆けつけてくれたらしい石切丸は、室の明りの下で改めて見ると、端的に言って傷ついていないところがほぼ無いという状態だった。此処に辿り着くまでに、どれだけの敵と切り結んできたかがしのばれる。
「石切丸、助力に感謝します。ですが、その怪我では……。できるだけ奥に下がっていてください。これ以上霊力を使いすぎないように」
そう命じると、石切丸は珍しく厳しい口調で「それは出来ない」と眉根を寄せる。
「君を守らなければ、私がここまで来た意味がないからね。たとえ折れようとも、主には最後まで仕えるつもりだよ」
“刀の付喪神とはそういうものだ”――石切丸はそう呟き、わたしと同じように掌を空中にかざして、部屋の周りに張り巡らされた結界に霊力を注ぎ込み始めた。
屋敷の中に溜まる瘴気は濃くなる一方だ。わたしは悪い予感を振り払うように、空中にかざした手の袖口にもう片方の掌を添え、霊力の出力を上昇させた。
*
私は指の節が白くなるくらいの力で両手の指を組み合わせ、配膳台の陰に隠れて厨の出入口の方を窺っていた。心臓の音が鳴り止まない。厨の外では、ここに近寄ってきた敵を清光くんが退けてくれている。鏡越しじゃなくて、初めて直接聞く本当の剣戟の音、同じ空間に存在するだけであてられそうな妖たちの濃い瘴気と、地の底から響くような低い咆哮、竜骨型の短刀たちの甲高い鳴き声――。本当は、もちろん見るのも聞くのもつらい。でも、目を離すわけにはいかなかった。
庭の向こうのところから妖が本丸の中に這入ってきた気配を感じて、私はひとまず誰かと合流しようと屋敷の奥に向かっていたけれど、偶然行き合った清光くんが「どこから敵が来るか分かんないから、あんまり動くと危ない」と言って、まだ敵の手に落ちていなかったこの厨の物陰に私を隠してくれたのだった。
しばらくすると、不意に厨の外が静かになった。一旦、敵の攻撃の波が落ち着いたらしい。清光くんは少しのあいだ周囲の警戒を続けていたけれど、ある程度の安全が確保できたと判断したらしく、私の様子を見に厨へ戻ってきてくれた。少し弾んだ息を整えながら、私と一緒に配膳台の陰にしゃがみ込む。
「清光くん、大丈夫?」
「平気。みかせさんも何ともなかったよね?」
どこに潜んでいるか分からない敵の偵察隊を意識した、囁き声の会話。清光くんの問いに、私は声を出さずに頷いた。清光くんは、余裕がある、ように見える笑みをつくって、私の肩口を軽く撫でてくれた。
「あ、怪我……」
私は彼の頬に切り傷を見つけ、そこに手を伸ばして指先に霊力を集めた。そのまま頬をそっとなぞると、傷はちゃんときれいに消えてくれた。清光くんが自分の頬に手をやって、「すごい」と驚いたようにつぶやく。
「ええと……ここは手入れ部屋ほど治癒に向いた『気』が溜まっているわけではないから、軽傷くらいしか直せないけれど」
「ううん、十分。ありがと。でも、霊力使うとしんどくなるんじゃないの? 大丈夫?」
霊力を使うと……という情報は、こんのすけちゃんから聞いたみたい。心配そうな清光くんの声に、私は迷わず頷いた。
「大丈夫よ。私も、少しでもできることをやらないと」
私の目を見て、清光くんも優しく頷いてくれる。
「一緒に守り切ろう。三日月や長谷部、歌仙の隊も、報せを受けてきっと駆けつけてくれるから」
出陣・遠征中の部隊には、さっき安定くんが鳩と早馬で報せを出してくれたそうだ。彼らが戻るまであと少し、あと少し耐えきれば、きっと……。私は握った手を胸のところにあてて、心臓を落ち着けようとした。
その時、清光くんが私の足元の辺りを見て軽く目を見開いた。何があったのかと私が彼の視線を追うと、私の背後にある食器棚の一番下の開き戸だけがわずかに音を立てて揺れていた。思わず清光くんの服の肘のところを軽く掴んでしまう。そのまま数秒間息を詰めて見つめていると、開き戸の中から体を滑らせるようにして出てきたのは、小さな黒い猫だった。
「猫か……。どうやってそんなとこに……」
刀の柄に手を掛けていた清光くんは、息をついて脱力した。私は何となくその猫に向かって手を伸ばしてみる。猫は立ち止まってこっちを軽く一瞥しただけで、鳴きもせずにそのまま勝手口の隙間から厨を出て行ってしまった。
「あ……」
猫が出て行った方を眺めていると、清光くんが私とちょうど反対方向を見て鋭い声で呟いた。
「……来た」
敵の第二波が近付いてきたようだ。彼は私に「またここで待ってて」と言い残すと、赤と黒の衣の裾を翻して厨の外へ駆けていった。
*
さすがに息が切れてきた。短距離走は同級生の中では速いほうだったけど、持久戦ではどれだけもつか。
あたしと山姥切は屋敷の中を逃げ回り、刀装作成用のお社などがある離れの家屋まで辿り着いた。その間にも敵は次から次へと沸いてくる。あたしも一応木刀を振り回して応戦しているけれど、当然その程度では近寄ってきた奴を追い払うのが精一杯で、刀剣男士のように敵にダメージを負わせることはできない。敵の総数が分からない以上、実質、こっちの体力が切れてしまったらそこまでということになる。
離れの空き部屋にふたりで身を隠した時、あたしは意を決して山姥切に伝えた。
「山姥切、あたしがいると戦いづらいでしょ。置いていってもいいよ。他のみんなを守ってあげて」
部屋の外の様子を窺っていた山姥切は、苦々しい顔であたしを振り返った。
「何を言っているんだ」
そんなことは出来るわけがない、という明確な拒絶。あたしは、いいから、と念押ししたけれど、山姥切も頑としてあたしの意見を聞き入れる気が無いようだった。
「…………」
あたしは再度反論しようと口を開きかけたものの、その先の言葉が出てこない。そうこうしているうちに、もう次の敵の足音が迫ってきて、結局この話は一旦打ち切りとなった。
お願い、みんな無事でいて。あたしは姉が詰めているという制御室の方向に一瞬だけ目を向けると、すぐに部屋の外に出て山姥切と背中合わせになり、あちこち傷ついてささくれが出来た赤黒い木刀を構え直した。
*
――もう、目が霞んで、今が何時なのかも確認できない。日が沈んでいないということだけは障子の外の明るさから把握できるが、最後に時間を確認してから何刻も過ぎたようにも、逆に、まだ四半刻も経っていないようにも感じられた。結界部分を直接攻撃してくる敵の数と、屋敷内に溜まる瘴気の総量が増えるに連れて、わたしたち三名の身体にかかる負担も増加してゆく。わたしは両肩を覆うように纏わりつく瘴気の重みに耐えきれなくなり、ついにその場に膝をついた。かろうじて片手は空中にかざし、結界への霊力供給が途切れないように努める。
「主――」
太郎太刀の声は疲弊し切って掠れている。御神刀であるふたりも、瘴気による浸食の影響を強く受けてしまっているのだろう。
頭を垂れて膝をついたわたしに、石切丸がほとんど叫ぶように言った。
「いけない。これ以上霊力を使うのを止めるんだ」
わたしは視界の端で若草色の狩衣をとらえた。彼の衣装はあちこちが切り裂かれ、血に濡れ、重傷に近い状態で霊力を無理に酷使したことにより、彼自身ももう立っているのがやっとの状態に見える。わたしは残った力を振り絞って「いいえ」と首を振り、石切丸を守るように室の奥に下がらせた。
「お願いです、あなたも、折れないで……」
やっと絞り出したその声が届いたのかどうかは分からないが、石切丸はただ口惜しそうな様子で、障子の外で蠢く無数の妖たちに目を遣った。一層強くなった西日を受けて、障子にそれらの影が色濃く映っている。――これでは、あれらに力負けして結界を破られるのもいよいよ時間の問題だ。
わたしはほぼ精神力のみを拠り所にしてもう一度顔を上げ、空中にかざした自分の手の甲に、そこに集めたなけなしの霊力に神経を集中させる。爪の間や指の節からは絶えず血液が流れ出ており、休み無く霊力を放出し続けるという行為に人間の身体が耐えきれなくなってきていることを示していた。
ああ――やはりわたしの手では、何ひとつ守り切ることはできないのか。両手一杯に掬った光の粒が、指の間から次々と零れてゆく幻覚を見た。
少しずつ気道を塞がれていくような息苦しさ。視界はますます霞み、もはや膝をついた姿勢を保つことも難しい。敵の瘴気と圧力は、我々を圧し潰して喰い尽くしてやろうとしているようだった。あと一度でも、敵が結界に体当たりをしてくることがあれば、それで呆気なく結界は崩れるだろう。意識が、途切れる。ふたりの刀身にも、いよいよ罅が入る音が――。
その時、身体に纏わりついていたものがふと軽くなり、障子の外の瘴気の圧が薄らいだような気がした。わたしは顔を上げ、何が起きているのかを把握しようとした。霞がかった視界に映るのは、障子越しの燃えるような夕日の色、それを背後に受けて並ぶ六つの黒い影。狩衣姿、着崩した和服、それに、外套を羽織った袴姿――。わたしが意識を手放す前に聞いた最後のものは、最後の敵を斬り終えたらしいそれらの影が、わたしたちに話しかけるあたたかい声だった。
「ご無事ですか、五鈴様」
「もう心配は要らないよ。きみを苦しめるものは、一匹残らず首を落としておいたからね」
「この数は流石に、ちと骨が折れたな。だが、防御壁の綻びの修繕には成功したようだ。――遅くなってすまないな、主よ」
第十二話「告白」
霜月の七の日、曇り。
本丸中が、先日の一件の後処理に慌しく追われている。屋敷の修繕を手伝う者、傷を負った刀剣男士の手入れを手伝う者、主の事務手続きの補佐をする者……。結局、迷彩機能に綻びが出たのは、『時の政府』側が張っている防御壁の一部が突破されてしまったことが主な原因だったそうだ。この地方における審神者と本丸の数を急に増やしたところ、防御壁と迷彩機能の管理が追い付かなくなってしまったためだという。何にせよ、修繕費がほぼ全て政府持ちになったことは、この件に関する数少ない朗報の一つだ――と、博多藤四郎が帳簿を捲りながら話していた。
浴場の修繕と掃除に戻ろうと、回廊を西に抜ける途中で、ちょうど主と擦れ違った。
「五鈴。その後、具合はどうだい。くれぐれも無理はしないでおくれよ」
「ええ、大丈夫です。ありがとう」
彼女は目を覚ましてから一昼夜だけ休んで体力を回復させたのち、毎日制御室に籠もって霊力を高め、迷彩機能の強化をはかっている。夕刻からは、また執務室での決済業務に戻るとのことだ。
僕と擦れ違ったすぐ後に、彼女は「ああ」と思い出したように振り返って付け足した。
「歌仙。わたしの寝室を含むいくつかの室を、空気の入れ替えのために一時的に開け放ってありますから、障子や襖が開いていても気にしないでください」
僕は分かったよと応えて、歩き去る彼女を見送った。
その後、彼女の寝室の前を通りかかった時、僕は室内の衣装棚に目を止めて立ち止まった。抽斗の三段目だけが中途半端に開いている。あの日は屋敷中が戦場になってしまっていたから、交戦中に敵か味方が偶然取っ手に触れて、このようにズレてしまったのだろう。僕は棚の前に膝だけで座り込み、その抽斗をきちんと閉じ直そうと取っ手に手を掛ける。その時、ふと、抽斗の奥にあるものが僕の目を引いた。どうしてこれが此処にある? 確か、他の室に保管されているのを見たことがあるが……。僕は拳大ほどのその箱を抽斗から取り出し、蓋を開けて被せ布をそっとめくってみた。
「これは……」
被せ布の下にあったものを見つめ、僕はひとり眉根を寄せた。
この地方の落葉は早い。中庭のブナの樹から色付いた最後の一枚が離れて地に落ちる乾いた音だけが、言葉を失った僕の耳に虚しく届いた。
*
十一月十九日。少し寒いけれど、気持ちのいい秋晴れ。
あれから二週間あまりが経って、私たちの本丸は少しずつ普段通りの日常に戻ってきた。進軍も資材集めも順調、施設の修繕も済んだし、今やこの本丸も大所帯になったけれど皆仲良く暮らせているし、何も心配することはないはずだ。それなのに、私はこのところ、思考に薄い靄がかかったようになって、ぼんやりと過ごすことが増えた。それ以外は、特に変わったところは無いのだけれど。私は今日も縁側に座って、高い空に細い雲が時折流れていくのをただただ眺めていた。
「……みかせ様? どうかなさいましたか」
いつの間にか近くに来ていた前田くんが、心配そうに私の顔を覗き込む。
「ううん、ごめんね。なんでもないの」
私が慌てて答えると、前田くんは「本当ですか」と念押しした後、私が頷いたのを確認して、こんなことを言った。
「先ほど兄弟たちと話していたのですが、もしご予定が無ければ、皆でお散歩に出てみませんか? ほら、お屋敷の西側のあの丘まで」
前田くんは、縁側からも見渡せる小高い丘を指差した。
「嬉しいなあ。こういうの、“はいきんぐ”と言うんだって聞きました」
「なんね、小粋な響きたい」
先頭でお話しているのは、秋田くんと博多くん。その後に平野くんと前田くん、鳴狐さんと薬研くん、最後に一期さんと五虎退と虎くんたちと、私。なんだか少し家族旅行にお邪魔しているみたいな気分になりながら、私は隣の一期さんに話しかけた。
「粟田口派のみんな、ちょうど今日が非番だったんですね」
「ええ。全員でないのが残念ではありますが、私たちは兄弟が多いので、みな一斉にというのも中々難しいでしょう」
一期さんが苦笑すると、私を挟んで反対側で五虎退が控えめに頷いた。
「ほんとうはみんないっしょが一番ですけど、でも、僕、今日はとってもうれしいです。兄さんたちとお散歩に来れて、みかせさまもいっしょで」
「本当? 私も嬉しいな」
五虎退の安心した顔を見ると、私も何だかほっとする。みんなでこうして話していたら、私の漠然とした不安なんかはどこかに飛んでいきそうだ。
もう十一月とは言っても、低い丘の上の開けたところにはまだ青い草原が広がっていて、陽光もじゅうぶん降り注いでいた。私たちは一緒に竹とんぼを飛ばしたり、珍しい木の実を集めたりして昼下がりの時間を過ごした。向こうの方で、毬遊びをしている子たちもいる。
その途中で、私の視界の端に偶然入ってきたものがあった。風に乗ってどこからか飛んできたらしい、一片の……薄紅色の桜の花弁。桜は新しい仲間が顕現した時や皆の調子が良い時にも舞うことがあるけれど、それらはわずかに神力を帯びているから、普通の桜とははっきり区別できる。いま飛んできた花弁からは、神力は感じられなかった。それなら、どうしてこんな季節に?
私は花弁が飛んできたと思われる方向を振り返った。丈の高い常緑樹が密集して、小さな森をつくっている一角。その暗がりの先に何かがあるような気がして、私はそちらに目を向けたままゆっくりと立ち上がる。そして、まるで意思ある何者かに導かれるように、その森の先へと歩き始めた。
今思えば、どうしてこの時、誰かに声をかけるという選択肢が思いつかなかったのかが不思議だった。なぜか、私はそこに一人きりで行かなければいけない、そんな予感がしていた。
一歩ずつ慎重に草を踏み、時に樹木の幹を手すりの代わりにして、私はやっと、小さな森の先に光が射しているのを見つけた。その森を抜けた先は、更に少し傾斜がついた丘のようになっている。そして、その中心には、ゆうに一抱えはありそうな大きな主幹をもつ、満開に花を咲かせた桜の樹。
いつの間にか太陽は西に傾き、辺りが橙色に染まり始めていた。夕陽に照り映える桜の花を仰ぎ見たその瞬間、私は短く息を呑んだ。
たくさんの写像が、声が、絶え間なく頭の中へ流れ込んでくる。その負荷の大きさに、目を閉じて耳を塞いで、すべての情報を遮断してしまいたくなる。それなのに、私は風に細枝を揺らす桜の樹から一秒も目を離すことができなかった。きっと、どれだけ苦しくても、これは私が受け止めなければならないものなのだと思った。
――ああ、どうして、私はこんなに大切なことを今まで忘れてしまっていたんだろう。
*
もうそろそろ日暮れも近い。みなに声をかけて後片付けをしようかと腰を上げた時、薬研が辺りを見回してつぶやいた。
「みかせ姫は、こっちの方に座っていなかったか」
「先ほどまで、確かにここにいらっしゃったのですが……」
前田が心配の滲む声で薬研に応える。私も広場中を見渡してみたが、やはりみかせ様のお姿だけが見当たらなかった。彼女に限って、私たちに何も告げずにそこまで遠くに歩いて行かれたということは考え難いが……。
「私はあちらを捜してこよう。この広場の周辺はおまえたちに頼めるかい」
私は簡単に捜索の役割分担を行い、常緑樹が生い茂って小さな森のようになっている箇所に足を踏み入れた。
短い森を抜けると、夕陽に照らされた小さな広場が現れた。薄暗い森を進んできたため、射し込む陽が少し眩しく感じられる。私は目を眇め、手を翳して覆いをつくりながら眼前の光景を眺めた。
狂い咲きなのか、淡い薄紅の花弁を雨のように散らしている桜の樹。そして、その前には捜し人たる少女が私に背を向けて立っていた。みかせ様は私が声をかける前に気配に気付いたらしく、風にさらわれる髪を片手で押さえながら振り返る。その絵画のような美しさに言葉を失う――暇もなく、私は動揺を隠すように彼女のもとへ駆け寄った。私の姿を捉えた彼女の瞳が、涙を一杯に溜めていたからだ。
桜の樹の裏に拵えられていた簡易椅子に彼女を座らせ、落ち着くようにとその背に軽く触れると、彼女はついに瞳から涙を零れさせた。声をかけながら背を撫で続けても、涙は後から後から溢れ出し、なかなか止まらないようだ。
「いかがなされたのです。どこか痛むところでも……」
そう問うと、すぐに緩やかに首を振って「いいえ、大丈夫」との返答。私はひとまず胸を撫で下ろす。
「ごめんなさい、困らせて。本当に……何でもありませんから」
彼女は気丈にそう言うと、緋色の袴の上に置いた手を強く握った。袴の表面に等間隔の襞を絞ったような皺が出来た。
「……何か事情がおありなのですね」
みかせ様は私の言を受けてゆっくりと首肯する。私はそれ以上深く尋ねるのをやめ、弟たちを宥める時にするように彼女の肩を抱き寄せた。
「ひとまず、落ち着くまでここにいましょう。何も急ぐ必要はないのですからな」
小さな肩はまだ少し震えていたが、彼女はようやくほっと息をついて、安心したように頷いた。
その時、森の方からふたり分の足音がして、この広場に辿り着いたところで立ち止まる気配がした。
「いち兄、いらっしゃいますか?」
「みかせ様、こちらにはいらっしゃらないようでした。いち兄のほうはいかがですか」
前田と平野の声。私が戻ってこないので追いかけてきてくれたのだろう。私は樹の幹の陰から顔を出して、彼女が見つかった旨を報告した。
「少し疲れてしまわれたようだから、しばらく休んでから一緒にそちらに戻るよ。おまえたちは先に本丸へ帰っていなさい」
ふたりはとりあえずみかせ様の無事を知って安堵した様子で、分かりました、と返事をすると、元来た道を帰り始める。途中で前田が一度足を止めてこちらを心配そうに振り返ったが、もう一度平野と顔を見合わせて頷き合うと、ふたり分の足音は次第に森の向こうへ遠ざかっていった。
私たちふたりが屋敷に帰ってきたのは、いよいよ陽が沈みきろうとする時分だった。みかせ様は、埃のついた衣服を夕餉前に一度着替えて来ると仰ったので、私と一旦内門付近で別れることになった。みかせ様の後姿を見送っていると、入れ替わりに、風呂敷包みを抱えた主に呼び止められた。五鈴様もちょうど今お戻りだったようだ。彼女はみかせ様が去って行かれた方を目で示し、「何かありましたか」とそっと私に尋ねた。
「え……」
何故です、と目で主に問いかけると、「あの子が泣いているところは、もう何年も見ていなかったので」という答えが返ってきた。先ほど偶然私たちを見つけて、遠目でみかせ様の目が赤いのが分かったので心配になったとのことだ。
「左様でしたか……」
私は少し考えたが、五鈴様にはお伝えしておいた方が良いと判断し、今日あったことを報告した。五鈴様は私の話を聞き終わると、しばし思いに沈むような表情を見せられた後、わかりました、と静かに頷かれ、私に労いの言葉をかけて自室に向かわれてしまった。
ふと足元を見ると、私が連れて来たのか、みかせ様が連れて来られたのか、季節外れの薄紅色の花弁が一片、前庭の砂の上に落ちていた。
*
十一月二十一日。
昼下がり、執務室で書類仕事を進めていると、扉の外から「入ってもいいかい」という声と共に呼び鈴が鳴らされた。――少々硬い声音。彼は時々執務室まで茶と茶菓子を運んできてくれることがあるが、今日はそういった用事ではなさそうだ。わたしが入室を許可すると、歌仙兼定は神妙な顔で室に入ってきて、わたしの向かいに腰掛けた。
一旦仕事の手を止めて、どうしましたか、と彼に話を促す。彼は少し迷うような素振りを見せた後、意を決したという風にひとつ息をつき、何かを懐かしむような目でわたしを見つめてこんなことを言った。
「……五鈴。きみは以前言っていたね。審神者になる前は、あまり刀剣に詳しくなかったと」
そう言われて、十一カ月前のことが昨日のことのように脳裏に蘇る。確かにそうだった。霊力をもってモノの魂を励起するという技そのものについては、職業柄それほど戸惑わずに受け入れられたが、名だたる刀剣の付喪神たちの主になって共に戦うという説明を聞いた時は随分と驚いたものだ。
「ええ。本格的に勉強を始めたのは、審神者就任が決まってからです」
「それなのに、きみは戦局判断も早く、我々ひとりひとりに信頼をもって接し、こまめな手入れも怠らない。僕たち刀剣にとって、本当に良い主だと思っているよ」
突然どうしたのです、とわたしは目を丸くしたが、歌仙はそれには答えず、一瞬視線を外して言い淀んだのち、真剣な目をこちらに向けて続けた。
「だから、そんなきみを……本当は疑いたくはない」
わたしは「疑う?」と訊き返したが、歌仙はどう説明したものか考えあぐねているようだ。わたしは少し待ってからもう一度訊き直した。
「……何か、心に掛かることがあるようですね」
その一言を契機として、歌仙は「ああ」と頷き、懐から何かを取り出して机の上に置いた。箱の蓋を取り、被せ布をめくると、顕れたのは審神者用の決済印章。彫られている文様は、五つの鈴……ではなく、菖蒲の花が描かれた図案だ。つまり、この図案が示すものは――。
歌仙は印章に目を落としたまま話し始めた。
「この間の件の後片付けをしている時に、偶然箪笥の奥から見つけてね。最初は何かの間違いかと思ったんだが……」
『時の政府』のデータベースに登録できるのは、ひとつの本丸につき審神者一名のみ。当然、審神者と紐付く決裁用印章も一つしか登録できないため、一つの本丸に二つ以上の印章があるという状況が起こるはずはなかった。その辺りのことは、この本丸の一番刀たる歌仙には当然伝えてある。だからこそ、彼はこれを見つけてしまった時に不審に思ったのだろう。
「五鈴、如何いうことなのか説明してもらえるかい。元々、この本丸の本当の審神者だったのは、もしかしたら、きみではなく――」
わたしは緩やかに首を振ってそれを否定する。
「……歌仙。あなたは先ほど、わたしを良い主だと言いましたが、わたしは実際は、そのような評価を受けられるような善い人間ではないのです。本当に」
「主……?」
歌仙は、意図を掴みかねるといった表情でわたしを見た。
ついに来るべき時が来たのだと思った。二日前の一件以来、近いうちに打ち明けねばならないだろうと、頭の隅でずっと考えていた。たまたま、その時がいま訪れた。それだけのことだ。
わたしは目を閉じてひとつ息をつき、相変わらず困惑の混じった目でわたしを見つめている歌仙に話しかけた。
「……この続きは、広間で話すことにしましょう。歌仙、手数をかけますが、半刻後を目途に、今から挙げる者たちを集めてもらえますか。伝えなければならないことがあります」
執務室の窓の外を、遠い鳴き声とともに渡り鳥の群れが横切っていく。
第十三話「あわい」
一月十八日、晴れ。
この時期らしく、外の世界は刺すような冷たい空気に覆われているが、この空間は外からある程度隔絶されているようで、幾分寒さが緩んでいる。わたしは付き添いの兄と一緒に、広い寝殿造風の屋敷の廊下を奥へ奥へと歩いていった。
「時の政府」なる組織から審神者選定通知が届いたのは昨年の暮れのこと。一度本丸御殿の下見を、と勧められ、ひとまず言われるがままにここにやって来たというわけだ。役人の話によると、もう少しで「時の政府」から派遣された案内役が到着するらしい。まずはそれまで自由に本丸内の施設を見学しておくように、とのことだった。
隣を歩いていた兄が、わたしの服装を首から足先まで眺めて、意外そうに言った。
「お前が巫女装束以外を着てるの、久しぶりに見た気がする」
「そういえば……。普段は仕事着でしか会いませんからね」
わたしたち兄妹は同じ家で生活しているといえばしているが、生活圏はほぼ別と言っていい。ましてや、こうして休日に二人で外出するのは本当に久しぶりのことだった。
兄が軽く頭を掻き、頭上の欄間の繊細な彫刻を眺めながらぼやく。
「しかしなぁ、親父の出した条件ってのも何だかな。気持ちは分からないでもないけどさ」
「まあ、そもそも、わたしもまだこの件を引き受けると決めたわけでは……」
話しているうちに廊下の分かれ道に差し掛かる。屋敷が思ったよりも広かったので、残り時間も考慮し、ここからはそれぞれ別々に探索してみることにした。兄は渡り廊下の先の離れの方へ、わたしは南西の廊下を通り、庭に面した南側の回廊へ出てみる。
廊下の角を曲がると、誰かが縁側に腰掛けているのが目に入った。紫紺色の袴に、一つに結った髪、まるい瞳。
「姉様」
妹はわたしに気付き、縁側から廊下に上がって、わたしに向かって両手を振った。
しばらくすると、兄が離れのほうから戻ってきて縁側付近でわたしたちと合流した。
「姉様たち、ここにいたの。途中で慶兄さんと会ったのよ」
兄もまた、わたしたちの従妹にあたる緋色の袴の少女を連れていた。兄は感情が読み取りづらい複雑な表情をしてわたしと目を合わせた。
「これからここで生活するの? 本丸、だっけ。立派なところね」
妹が改めて辺りを見回し、視認できる部屋数の多さや庭の広大さに驚いていた。確かに、離れの家屋や訓練場を合わせると、全貌はとても把握しきれなさそうだ。
「ええ……」
わたしは彼女につられて辺りを見回しながら、曖昧に相槌を打った。
その時、視界の端で何かが光を反射して一瞬だけ煌めいた。その光の出所を探ると、どうやら開け放した室に置かれている大きな全身鏡のようだ。わたしは吸い寄せられるようにその前に立ってみる。
この時ばかりは、感情が外に出づらい自分の性格に感謝した。自分で口許を覆ってしまえば、喉まで出かかった叫び声を押し殺すことができる。
全身鏡に映し出されているのは、黒いワンピースを身に着けたわたしの姿と、ちょうどわたしに背を向けて二人で立ち話をしている妹たちの姿。そして――彼女たちの足首から下だけが、透き通ったように不自然に消失していた。
*
広間に集まったのは、一番刀の歌仙や近侍の長谷部の他、普段隊長を任されることが多い奴を中心とした面子だった。上段の間に座って淡々と言葉を紡ぐ五鈴さんを、俺たち刀剣男士はただ静かに見つめている。戸惑ってる奴もいたし、薄々そうじゃないかと思っていた、という顔をしてるのもいた。
「……青江は、おそらく初めから気付いていたでしょうね」
主はにっかり青江に向かって、今まで何も触れずにいてくれてありがとう、と声をかけた。
「もし悪霊の類だったら、主の安全のためにすぐに斬ってしまおうかとも思ったけれど。そういう感じでもなかったからね」
青江の言を受けて、石切丸が頷く。
「私も、初めからではないけれど、ここで共に暮らすようになってから何となくね。青江さんとも相談して、ひとまずは動向を見守ろうということになったんだ」
そこのふたりは流石だな……。俺は、正直、五鈴さんに言おうかどうか迷っていた。あの本丸襲撃の日、みかせさんの足が透明になって消えかかっていたこと。今思えばあれも、本丸を守る霊力が一時的に薄らいでいたことによる作用なのかもしれない。
俺がそう思案している横で太郎太刀が控えめに挙手し、何かを考えるように手を軽く顎に宛てた。
「しかし、そうなると、本丸運営のための霊力とは別に、この本丸内における彼女らの存在を保ち続けるための霊力が必要だったのではないですか」
確かにそうだ。この本丸内限定とはいえ、人間二人分の存在を保ち続けようと思ったら、とんでもない霊力量が必要だと思うんだけど、その分はどこから……? そう呟こうとした時、俺の隣で長谷部が「まさか……」と息を呑んだ。
*
主は、小休憩を挟んでまた話を始めることを俺たち刀剣男士に伝えられ、一旦広間を出て行かれた。小休憩の間廊下に出ていた俺は、ちょうど広間の方に戻って来られた主と行き合った。
「長谷部……」
彼女は少々緊張した面持ちだ。俺は、主が口を開いて何かを仰ろうとするのを敢えて見なかったことにして、急ぐように話し始めた。
「主。俺は今のお話を聞いて、分かったことが一つあるんです。覚えていらっしゃいますか、水無月の頃の雨の日、近隣区域との合同会議で……」
そこまでお話しすると、主は意外そうに目を丸くされた。
「あの時奴らは、五鈴様が早期試運用本丸の審神者に相応しい実力や霊力の持ち主とは思えないと宣った。しかしやはり、政府は貴方の実力を正しく把握して、早期試運用本丸の運営を命じたのですね」
先ほどの太郎太刀の話を聞いて、全ての事に合点が行った。あの合同会議の下衆らの目線から見えていた『表向きの霊力』と、政府側が見抜いた五鈴様の本当の霊力の間に乖離があったのだ。そして、なぜ表向きの霊力が少なく見えていたかというと……。
「妹姫様方の存在をこの本丸内で保ち続けるため、御自身の霊力の一部を割いておられたのでしょう。恐らく、審神者ご着任時から、ずっと」
主はその言葉に反応する形で歩みを止められ、わずかに俯かれた。それが答えだった。彼女は数を三つ数える間だけ口を閉ざされ、それから改めて俺の方を振り向かれた。
「長谷部。あの会議の日は……。いえ、後でまたゆっくりと話をしましょうか。貴方の好きなお茶を用意して」
そう仰ると、五鈴様は少し目許を緩めて俺と目を合わせてくださった。
休憩を終え、五鈴様は再び上段の間に掛けられた。一体いつ切り替えられたのか、彼女の表情や雰囲気は既に審神者としてのそれに戻っている。
「さて、お待たせしました。次は、この本丸に審神者の決裁用印章が二つある理由を話さねばなりませんね。それを説明するには、もう少しだけ時を遡る必要があります……」
*
二〇十四年、十二月十日。郵便受けを開けると、珍しくわたし個人宛てに封書と小包が届いていた。差出人は――何だろう、見慣れない組織名。わたしは封書をその場で開いて、藁半紙に印字されている内容を小声で読み上げた。
「この陸奥国第零地区において、貴殿が二十四番目の“早期試運用本丸”の審神者に選定されたことを通知いたします。つきましては、説明会がございますので、年明けのご都合の良い日に標記の場所までお越しください。その際、同梱の審神者用印章をご持参いただきたく……」
審神者……? ああ、従妹のところにも約一年前に届いたという通知と同じものだろうか。となると、この小包に入っているのは……。
わたしは小包を開き、片手にやっと収まる大きさの印章を目の高さまで持ち上げてみた。あ、思ったよりは軽い。そう感じさせるような素材で作られているのかもしれない。
印章に彫られている精緻な図案は、わたしの名に因んだ“菖蒲”の花だ。
*
年明け、一月九日。県庁の裏手の細い路地の一角。
わたしは地図を頼りに、年季の入ったビルに辿り着いた。ここに、『時の政府』なるものの支部が本当に入っているのだろうか。正直、疑いの気持ちは払拭しがたいが、ともかく踏み出してみなければ始まらない。わたしはビル入口の扉を押し、地下に続く階段を下りていった。
対応してくれたのは、わたしとそう変わらない年の頃に見える若い職員だった。
「いやー、ご足労いただきすみません。我が陸奥国の本丸群もいよいよ試運用の開始が近いものですから、どうしても対面で処理しないといけない書類なんかも残ってて」
人好きのする話し方に、少しだけ警戒心を解かれる。わたしは事務机に座らされ、「審神者」についての簡単な説明を受けた後、書類の空欄を埋めるよう指示された。
「今日行っていただくのは仮登録で、最後に決裁用印章で判を捺さなければ契約は成立しませんので、重く考えられなくても大丈夫ですよ」
そういうものかと一応納得し、わたしは紙面に筆を走らせる。書類への書き込みはしばらく順調に進んでいたが、ある一箇所でわたしの筆が止まった。その欄には、「審神者登録名」と印字されていた。
「あの、審神者登録名というのは本名とは別でしょうか?」
「あー、そうなんですよ」
職員はわたしが指で示している文字に目をやって、申し訳なさそうな顔をした。
「それがですね、元々本名でのご登録をお願いしていたんですが、やっぱり敵陣営に審神者の本名を知られたら、とか色々問題もあって。最近、本名以外も登録できるように制度が変更されたんです」
職員は続いて、わたしが持参した菖蒲の花の紋の印章を指差した。
「それで、この印章もせっかく持ってきていただいたんですが、本名前提でもう二十四名分作ってしまったものですから……」
彼は、この印章の効力は名前と紋が一致しないと発揮されないということをわたしに説明した。そして、その「名前」というのは本名ではなく、審神者登録名のほうを指すそうだ。確かに、今後『本丸』なる場所では基本的に審神者名を名乗るということなので、そちらの方が自然だろう。
「もし大椙さんが本名以外の審神者名を別途登録されるなら、今回は急な制度変更だったので、費用は政府持ちでもう一度印章を作り直しますよ。ちょっと、時間的にはお待たせしてしまうかもしれませんが」
あ、でも、作り直しの費用が勿体ないからそのまま本名で登録しろって言っているわけじゃないので、ご安心くださいね。職員は印章についての説明の最後にそう付け足した。
わたしは、そもそも審神者になるという要請を受けるかどうかまだ迷っていることを正直に説明した。そして、受けるとしたら、おそらく本名以外の名を審神者名として登録することになることも。
職員はわたしの話を聞き終わると、椅子から立ち上がって、地図が書かれた資料をわたしに手渡した。
「分かりました。じゃあ、とりあえずは今日はここまでで。あとは、近いうちに本丸の下見にでも行ってみてください。実際に過ごす場所をイメージしたり、その場の霊力を感じ取ったりすることで、また気持ちが変わったりするかもしれないので」
職員から受け取った資料に目を通す。そこには、「ここの角を曲がって二歩分左」とか、「三本目の電柱から太陽の見える方に向かって真っすぐ」とか、極めて抽象的な言葉しか書かれていない。これで、本当に“本丸”とやらに辿り着けるようになっているのだろうか。わたしは一抹の不安を感じながらも、とりあえずは職員に対して「わかりました」と頭を下げた。
*
一月十一日。
わたしが喫茶店の窓際の席に座って珈琲を飲んでいると、待ち人は予想よりも早く現れた。
「ごめんね、遅くなって」
待ち合わせの相手は、わたしの父の妹、叔母に当たる人だ。わたしはそれほど待っていないと彼女に伝え、椅子に座るように勧めた。
昨日の大雪の話に、互いの近況、彼女の息子の史弦の話。珈琲を飲みながらの雑談に一段落がつくと、彼女はそうだ、と言って、片手でやっと持てるくらいの大きさの箱を取り出した。
「これね、あなたに持っていてほしいの。あなたのところにも来たんでしょう、審神者採用通知とか、そういうの」
わたしが箱の中の被せ布をめくると、そこに入っていたのは鈍色の印章だった。印面に彫られているのは、花のように外側に開いた五つの鈴の図案。
わたしは驚いて一旦箱を閉じ、叔母に尋ねた。
「いいんですか。これ、形見の品なのに」
叔母はさみしそうな、でも優しい顔で、箱の上に添えたわたしの両手に自身の両手を重ねた。
「あの子、あなたにも本当にたくさんお世話になったから。形見分けと思ってちょうだい。一周忌の前に、あなたに渡しておきたかったのよ」
叔母はそう言うと、あ、と言って、少し難しい顔になった。
「でも、兄さんは審神者業とかいうのに反対なんだったかしら」
彼女の言う『兄さん』とは、わたしの父のことだ。
「そうなんです、未来の政府とやらが信用できないらしくて。それでもどうしても受けるなら、本名だけは明かすなと」
「まあ、慎重に対応したいっていう兄さんの気持ちも分かるわ。あんなことがあった後だものね」
あんなこと……。わたしは珈琲から立ち上る湯気を見つめて無言で頷いた。『得体の知れない組織に加担させることで、万に一つも、おまえたちのうちの誰かを“また”失うわけにはいかないのだ』――。父の声が脳裏に蘇る。
「わたしの方も、現状、それを押し退けるほど審神者就任を強く希望しているわけでもないですし……。正直なところ、要請を受けるかどうか、まだ迷っています」
叔母はわたしの話を肯定も否定もせずにただ頷き、懐かしそうな声で話した。
「あの子のほうは、結構楽しみにしていたみたいよ。この判も、抽斗に大事に仕舞っていたし」
「そう……。それなら、わたしも一層大切にしないといけないですね、これ」
わたしは印章が入った薄鼠色の箱を両手で大事に包み込み、従妹とよく似た優しい目をしている叔母に向かって微笑んだ。
*
――約一年前、妹と、妹同然の存在だった従妹が同時に亡くなった。わたしはそれから幾月も心ここに在らずの状態で、兄や両親を随分と心配させた。そうして一年が経ち、先週末の妹の一周忌に続いて、今日は従妹の一周忌を迎えた。わたしたち兄妹は法要と会食に出席してから、その足でこの“本丸”なる場所を訪れたのだった。
審神者の選定通知が届いた時は、正直、未知の仕事への好奇心よりも純粋な戸惑いの方が勝った。兄だけは、新しい事を始めることで気分転換になるなら悪くないのでは、と背中を押してくれようとしたものの、上司でもある父は『時の政府』なるものへの不信感を理由に難色を示していたし、わたしのほうも、それを押し切るだけの動機と気力を持たなかった。
しかし、何の巡り合わせか、今日ここへ下見に来たことで、わたしは審神者業を始める明確な動機を見つけてしまった。隣に腰掛けている妹と従妹の様子をそっと窺う。彼女らは、案内役だという狐の妖から「お近付きの印に」と供された素朴な焼き菓子を分け合って、少しずつ口に運んでいた。幽霊は物を持ったり食べたりすることができないと言われるが、もしかしたら、この本丸という空間においては、そういった秩序が少しだけ緩められるのかもしれない。
見たところ、二人とも、自分がもう亡くなっているということを認識しているようには見えなかった。彼女たちの様子があまりにも生前と変わらないので、わたしの脳裏に、彼女らがもう居ないということの方が悪い夢なのではないかという考えが浮かんだが、俯いた時に視界に入る黒いワンピースが即座にそれを否定した。
わたしは両手の指を膝の上で組み合わせながら考える。今のこの状況は、おそらくわたしの霊力と彼女たちの霊力が共鳴して偶然生まれた事象なのだろう。それならば……。
その時、わたしが何かを考えている様子を感じ取ったのか、妹がわたしを見上げて念を押した。
「姉様、結局審神者の要請は受けることにしたのよね?」
「……ええ」
出来る限り自然な返答ができたと思う。わたしの斜め後ろで、人語を喋る狐が耳を立てて飛び上がった。
「ご決断くださったのですね! こんのすけは嬉しいです! ええと、審神者としてご登録をされるのはそちらの方で、妹様方は本丸運営への協力という形で宜しいですか? 先に帰られた男性の方は、確か、付き添いのお兄様でしたよね」
何やら、事実上三人で審神者業を分担しながら本丸の運営をしていくという話になっているらしい。管狐は前足で器用に端末を操作し、電子化された書類の中に空欄を見つけて顔を上げた。
「この欄だけ、まだご記入いただいていないようですね。登録名はどうなさいますか?」
「登録名?」
そう言って、妹は狐の隣で一緒に端末を覗き込んだ。
「本名とは別の名を登録できるのですって」
わたしは本丸内で本名を明かさないようにと父から言われたことを妹たちに説明した。父がその条件を出した理由については敢えて省いた。
「新しく通り名をつけるの? 三人分も覚えられるかしら」
従妹がそう言って首を傾げた時、ちょうどわたしの手の甲が自分の荷物に触れた。巾着袋の中の、五つの鈴を象った印章。叔母から譲り受けて以来、何となく御守り代わりに身に着けているものだ。
わたしは印章を巾着袋の上から改めて軽く握り直し、管狐に向かって問うた。
「あの。――顔写真と名前が紐付かなければ、本名扱いにはなりませんよね?」
そして、わたしたちは“互いの名を取り換えた”。
本丸から出た後、わたしはすぐに、先日の『時の政府』の職員の電話番号を押した。
「今日、本丸の下見をしてきて、決めました。審神者業、やってみます」
『ほんとですか。助かります。この地区、元々適格者が少なかったんですよねぇ』
成程、だから先ほどの管狐もあんなに喜んでいたのか、と納得しつつ、わたしはその場で審神者登録名を職員に伝えた。それと、事情があって、その名に対応する印章を既に持っているため、印章の新規発注は不要ということも。
「確か、先日の説明では、審神者名と紋が一致していれば、印章の効力は損なわれないということでしたよね」
『ええ、それはおそらく大丈夫ですけど。もう印章を持っていらっしゃるっていうのは、どういう……』
電話の向こうでせわしく書類をめくる音がする。
『……そうか。亡くなったっていう一番目の候補者さんって、大椙さんの』
職員はそこで言葉を切ると、三秒か四秒ののち、優しさがひと匙混ざった声で『わかりました』とだけ答えた。
こうして、わたしは大椙五鈴という名の審神者になった。
幽霊でも幻でも構わない。この「本丸」にいる間だけは、もうこの世にいないはずの妹たちとまた一緒にいられる――。たったそれだけの理由で。
最終話「月夜」
長い長い昔話を語り終えて、一旦解散の指示をしてからしばらくののち。晩秋の風が吹き抜ける大広間には、わたしと一番刀の歌仙兼定だけが残っていた。歌仙は菖蒲の紋の印章を膝の上に載せて両手で包み、指先でその紋をそっと撫でた。
「すまなかったね。一時とはいえ、自分の主を疑うなど……」
「いえ、あの状況であれば無理もないことです。それより、こちらこそすみません。ずっと黙っていて」
彼はいいや、と苦笑し、目を伏せているわたしの横顔を眺めた。わたしが顔を上げてその意味を目で問うと、彼は微笑んでこう言った。
「五鈴。僕はきみに、以前より表情が柔らかくなったと言ったことがあるが、今日の話を聞いて分かったよ。実際は、きみは元々そういうひとだったのだね。きっと、妹姫たちとこの本丸で過ごすうちに、少しずつ本来の自分を取り戻していったんだ」
中庭のほうで、群れからはぐれた渡り鳥が一声鳴いて、夕暮れが迫る薄緋色の空を横切った。
――わたしには、「本来の自分」がどんな風だったかをもう明確に思い出すことはできない。そのくらい、約二年前のあの出来事は“わたし”というものを根本的に変えてしまった。
それでも、歌仙の今の言葉を聞いて気付いたことがある。審神者に就任してからこの本丸で過ごすうちにわたしを変えてくれたのは、なにも妹たちの存在ばかりではないのだろう。過去にとらわれて死んでいるも同然だったわたしの心は、付喪神である彼らと共に現在と未来を守るために戦い、また、互いを思い合うなかで、きっと少しずつ癒されて、息を吹き返したのだ。
*
主の話をうかがった後、粟田口派の会議を経て、私は何となしに広間に近い東側の廊下に出てみた。少し外の空気を吸いたい気分だった。
その時、ちょうど広間から歌仙殿が出て来られるのが遠目で確認できた。室内におられるどなたかと一言二言ことばを交わされたところを見ると、まだ主が残っておられるということだろうか。私は歌仙殿と入れ替わるように、大広間の入口に提げられている呼び鈴を鳴らした。
「夕焼けをご覧になっておられたのですか」
私が話しかけると、彼女はこちらに気付き、目元を和らげて頷かれた。
「ええ、少し休憩を。あれだけ長く話したのは久しぶりだったので」
私は空になった湯呑と水差しを下げようと、彼女の側に手を伸ばした。その時、彼女は中庭の方を眺めたまま、「一期」と私に呼びかけた。
「これはわたしの独言ですから、聞き流して欲しいのですが」
「……はい」
湯呑を盆に載せてから、主の方に身体を向けて座り直す。彼女は水差しの先から水滴が落ちるのと同じ静けさで、ゆっくりと一言呟かれた。
「こんな見事な夕焼けを見るたびに、思い出すんです。あの日のことを」
彼女が何のことを仰っているのか、私はその一言で理解した。主の瞳には、紅く燃える夕陽の色が映っている。
二年前までは生きておられた妹姫達が、突然同時に亡くなられた。その理由は、おそらく御病気ではなく……。
喉の奥に言葉が詰まり、漸く私の口から出てきたのは、ありきたりな慰めの言葉でしかなかった。
「そう、でしたか。……お辛かったでしょうな」
主は私の方に目線を移され、返答の代わりにわずかに微笑まれた。寂しく、美しい微笑だった。それから、彼女は穏やかな声で仰った。
「一期。勝手な願いですが、もう少しの間、彼女たちのことを宜しくお願いしますね」
上段の間の仕切り部分に掛けられている白い紗と、広間の入口に提げられた小さな鈴が、秋風に吹かれてかすかな音を立てる。それを契機に、私たちはまた中庭の方を振り返った。そして、甘く溶けるような夕陽が西の果ての山の向こうに沈みゆくのをふたりで眺めた。やがて空を紅く燃やしていた炎が収まり、薄花色の帳が下り始めるまで、いつまでもいつまでも眺めていた。
*
晩秋の風が私の耳の側で音を立てて吹き抜けていく。普段なら肩を竦めてすぐ屋敷の中に戻るところだけれど、どういうわけか、今夜ばかりは冷たい風が心地良かった。正門から庭を通って北側の離れに向かっていた私は、立ち止まってひとつ息をつき、夕焼けの名残が残る空を仰いだ。
風に攫われそうになった羽織の紐を抑えようと横を向くと、ちょうど向こうの方から歩いてくる人影が目に入った。
「一期さん」
私は進行方向を変え、彼に近付いて話しかけた。
「あの、この間はお世話をかけてごめんなさい」
彼とこうしてお話をするのは、二日前のあの時以来だった。一期さんは、とんでもない、と首を振り、それから私にこう確認した。
「貴方は……あの時、思い出されたのですね」
尋ねる声が少しだけ揺れていた。私は彼が何のことを言っているかを悟り、ゆっくり頷いた。
「……そうです。でも、あの時涙が出たのはね、自分がもうこの世のものではなかったということが悲しかったからじゃないんです」
あのとき私が思い出したのは、私たちが命を落とす間際の光景だった。熱気と煙が充満する建物のなか、足の遅い私の手を引いて走る従姉の姿。そのうち私が走れなくなって、一歩も動けなくなって。自分を置いていってほしいと何度も訴えたけれど、彼女は一度も首を縦に振らなかった。そして、そのまま二人とも……。
「私はともかく、姉様は私を置いて行ったら助かったかもしれないのに、って」
私はその事実に耐えられなくて、たぶん、幽霊になる時、記憶に蓋をすることを無意識に選んでしまった。そして、あの桜の木を見た時にその記憶が一気に蘇って、受け止めきれなかった分が涙になって溢れ出したのだった。
「私、昔からそうだったんです。悪意ある言葉が自分に向けられた時も、ただ、その場の雰囲気をそれ以上悪くしないように、いつも曖昧に笑ってた。心配をかけてはいけない、波風を立ててはいけない、って自分に言い聞かせながら。……そうするうちに、自分の気持ちに蓋をする癖がついていたのかもしれないですね」
でもね、と私は隣の一期さんの方に向き直った。
「あの不思議な桜の木を見たことは、きっと単なるきっかけでしかなくて。この十一カ月の間に、私の中に本当のことと向き合う勇気が生まれていたからこそ、記憶を取り戻せたんじゃないかと思っているんです」
「勇気、ですか」
続きを促すように問う一期さんに、私はひとつ頷きを返した。
「それで、どうしてその勇気が生まれたのかって考えたら、戦場に出る貴方たちの顔が頭に浮かんできて。私は貴方たちから、知らず知らずのうちに教わっていたんだと思います。何て言うのかな。困難と向き合う強さ、みたいなものを」
空の色はいつの間にか朱鷺色から浅い藤色を経て、藍の色に変わろうとしている。
私の話を聞き終えた一期さんは、私が今まで見たなかでいちばん優しい微笑みを浮かべて首肯した。
*
東の空にのぼった月が、今夜はやけに大きく見える。あたしは誰もいない縁側に腰掛けて、何をするでもなくただただそれを眺めていた。空気が澄んでいるからか、月光がいつもより眩しく感じられた。なんとなしに、月に向けて手の甲をかざしてみる。いつかの夏の夜と同じように。そうしたら、自分の手の向こうに、ぽっかりと浮かぶ月の形が文字通り“透けて”見えた。
そこに、鴬張りの廊下を踏む細い音と、布を引き被ったひとつの人影。次いで、空にかざしたあたしの手に彼の視線が移って、短く息を飲む音がした。
あたしは自然に彼が座る分の場所を空け、自分の隣に手招きした。山姥切は素直にそれに従い、あたしの横に腰を下ろす。あたしはおや、と思ったけれど、本当に驚くのはここからだった。彼はひととき躊躇うような仕草を見せたあと、頭を覆っていた布を静かに取り払ったのだ。
被り物の陰になっていた髪の毛と美しい目があらわになる。あたしが目を見開いたまま何も言えずにいると、山姥切は苦々しい表情であたしにこう問いかけた。
「……あんたは、知っていたのか」
目的語の無い問いかけだったけれど、あたしは彼の表情から、何について尋ねられているかを理解した。二秒の逡巡ののち、「うん、何となく」と首肯する。
「どうして分かったの」
「本丸が襲撃された時、何か言いかけて、結局言わなかっただろう。そのことが何となく頭の片隅に引っかかっていた。それで、今日の主の話を聞いたことで、不思議と腑に落ちた、というのか……色々な事が繋がった、というところだ」
「そっか……」
あたしはひとつ息をついて、半月を眺めながら話し始めた。
「あの日――本丸下見の日にね。最初は夢か何かかとも思ったんだけど、本丸っていう空間を見て回っているうちに、自分の身に何があったのか、どうしてここにいるかをだんだん思い出していったの。それで、巫女装束を着けたあの子と会って……。あの子と話しているうちに、あの子は自分が生きた人間じゃないっていう記憶を失くしてしまったか、無意識に封じ込めてしまったかのどちらかなんだなって気付いた。で、きっと何か理由があってそうなったんだろうから、いま本当のことを無理やり思い出させてしまったら、あの子の精神にどれだけ負荷がかかるか分からないなと思ったの。……多分、あの時、姉様も同じことを考えたんだと思う」
山姥切は半身をこちらに向けて、隣に座るあたしを見つめ、あたしの話を静かに聞いてくれていた。晩秋のつめたい夜風が、彼の髪先と首に掛かった布を音もなく揺らす。
「最初はね、姉様にだけは本当のことを話しておこうとも思ったんだけど。姉様があたしたちと普通に接してくれるのを見てたら、何だかどんどん言い出せなくなっちゃって……。姉様だって、あたしたちが本当に生き返ったわけではないって、頭のどこかで分かってるはずなの。それなのに、あたしたちが二人とも記憶を失くしてると思ってわざわざ話を合わせてくれているんだなって。じゃあ、あの子が自分で記憶を取り戻すまでは、あたしもそれに付き合おうかな、なんて」
そう決めたは良いものの、先月だったかな、本当のことをいつ明かすべきかを姉と兄が相談しているらしき電話を聞いてしまった時は、自分たちの存在が姉と兄にとって悩みの種になってしまっている気がしてかなり落ち込んだ。あの時、何も聞かずに傍にいてくれた山姥切、心配かけてごめんね。
でも、彼にいま真っ先に伝えるべきことは、多分「ごめんね」じゃない気がした。あたしは夜空から山姥切に視線を移し、努めて明るく話しかけた。
「でもね。五虎退が初陣で勝った時とか、あなたたちを送り出す覚悟を自分が持っているのかどうか悩んだ時とか、新しい必殺技が成功してみんなで手を取り合って喜んだ時とか……。みんなと一緒に必死になって本丸運営してる時は、あたし、自分がもうこの世のものではないっていうことを本当に忘れてた。思い出してる暇がなかった、って言うのかな」
当時本丸に顕現していたみんなで雪合戦をしたのとか、しゃぼん玉で遊んだのも楽しかったなぁ。みんなに交じって担当していた厨当番も、馬のお世話も、だいぶ手加減してもらったお遊びの手合せも……。
きっと、あたしたちはあの時、この本丸のなかで確かに「生きていた」のだ。
「この十一カ月間、一緒に歩んできてくれて、本当にありがとう」
でも、今まで黙っててごめんね。そう言って、あたしは一旦話を切った。
山姥切は、言葉を探すようにひと時俯く。乾いた風が枯れた草木を揺らす音だけが、波音のように辺りに響いていた。その音を聴きながら、あたしは再び口を開いた。
「姉様もね、一年ぶりに会えた時に、生気が減ってるっていうか……前よりも痩せてしまってて、顔色も良くないように見えて、心配してたの。でも、今はそんなことないでしょう? 姉様がまた笑ってくれるようになったのは、きっと、みんなのおかげだと思う」
山姥切は、「……そうか」とやっと一言つぶやくと、あたしにつられたのか、夜空に浮かぶ月に目をやった。そして、何かを考えるそぶりをしたかと思うと、思い出したように言った。
「これは、同田貫から聞いた話なんだが」
なんで急に同田貫の話を? 首を傾げるあたしをよそに、山姥切は淡々と話し続ける。
「みかせが……三の姫が、同田貫の手拭いのほつれを直すついでに、刺繍をしてやったそうだ」
「あ、それ知ってる。あの子は本当に器用よね。上手に縫ってあったわ」
「今、急にそれを思い出した。同田貫の奴も、この先ずっとあの刺繍を見るたびに、三の姫のことを思い出すんだろう、とな」
「…………」
あたしは改めて、夜風に髪を遊ばせる山姥切の横顔を見た。彼は見られているということに少しだけ居心地の悪さを感じたのか、あたしを一瞬だけ横目で見て軽く咳払いをした。
「つまり、だな……何が言いたいかというと」
庭の草木のかすかなさざめき、雲ひとつない夜空を彩る星々と月の光。それらの中で、心地いい音域の声があたしの耳に届く。
「あんた達の一つひとつの選択が、正しかったかどうかは俺には分からない。だが……俺もきっとこの先、戦場から帰るたびにあんた達の出迎えの顔が思い浮かぶし、花火を見るたびにあの夜のことを思い出す。何十年、何百年でも。あんた達二人がこの本丸で過ごしてきた“証”や“意味”は、そうやってずっと残り続けるんだろう。俺は、そう思う」
彼の目は、あたしの目をまっすぐ見ていた。記憶にある限り、たぶん初めてのことだ。その目があたしに伝えたいことを、あたしは微笑みをもって受け取った。
その時、西側の廊下の方から足音がして、廊下を曲がってきた鯰尾があたしたちに手を振った。あたしの隣で、山姥切が布を被り直す気配がした。
「あやめさん、山姥切も。今日の厨当番が、夕餉ができたから皆を呼んできてって。一緒に食堂行きません?」
鯰尾はあたしが縁側から立つのを手伝うために、こっちに片手を伸ばしてくれた。彼を見上げると、制服の胸ポケットに何かが入っているのが目に入る。――青い紐のついた霊符だ。
思わず目を細めたあたしを見て、鯰尾は「どうしたの」と不思議そうに首を傾げた。
きっと、そう遠くないうちに、あたしたちはここから影も形も残らず消えて、遠いところに行かなくてはならないのだろう。あたしにはその予感があった。だけど、今は二年前の冬とは違う。今度こそ、笑顔でお別れを言えそうだ。大好きなみんなと、大切なこの場所に。
あたしは「ううん、何でもないよ」と答えて、こちらに差し伸べられた付喪神の手をとった。
《終》
END CREDIT
■制作記録
- 2015年~2016年初頭:
プロット完成、各話タイトル決定 - 2016年2月頃:第一話執筆、公開
- 2018年:第二話執筆、公開
- 2020年4月~6月頃:
第三話~第五話公開、第六話~最終話初稿執筆 - 2021年2月:全体調整、第六話~最終話公開
■原作ゲーム以外の参考資料
■オリジナルキャラクターイメージ、裏話など
ブログのこちらの記事で解説しています。
* 本作はフィクションであり、実在の人物・団体等とは関係ありません。
但し、物語の舞台イメージとして一部実在の地名をお借りしております。
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